杉下右京の正義は間違っている
最近の杉下右京はおかしい。娘を強姦された男を詰り、ドメスティックバイオレンスを受けていた女を糾弾する。ひとえに彼らが人を殺したからだが、かれらにはかれらの止むにやまれぬ動機があり、殺される方は殺されるべき人だった。それを、殺したことで何かが間違っているとするのは間違っている。中には自首してきたものもおり、それなら粛々と検挙すればいいのだ。怒鳴りつける必要はない。
そもそも人を殺してはいけないということが間違っている。なぜ人を殺してはいけないのかと言う質問が取り沙汰されたことがあったけれど、質問自体が間違っている。人を殺してはいけないと思っている人はいるだろうが、それは一般論ではなく個人の考えだ。中には法律に殺してはいけないと書いてあると言った人もいたけれど、法律にそんなことは書いていない。書いてあるのは、人を殺したら刑罰を受けるということだ。刑罰を受ける覚悟があるのなら人を殺してもいいということだ。自分が死ぬ覚悟があるのなら、どうしても殺したい人を何人か殺してもいいと法律には書いてあるのだ。
デスノートというマンガの主人公が間違っていたのは、悪人を個人で処刑したことではなく、その基準を勝手に作ってしまったことにある。では、正しい基準とは何か。私は、それはどうしても殺したいかどうかと言うことだと考える。正しいとは限らない、個人の考えかも知れない。しかし、どうしても殺したい人がいて、そのせいで自分が死んでもいいと思うなら殺してもいいと思うのだ。
私には殺したいほど憎んでいる人がいた。それなのにどうして殺さなかったのか。そんな暇はなかったというのが本当のところだろう。自分自身が生きるのが精一杯で、わざわざ殺しに行くようなことはしなかったのだろう。このごろは、忙しいときもあるけれど、たいへん暇なときもあるので、もしかしたら殺人計画を立てたかもしれない。
でも、私が殺す前に死んでしまったので殺すことはできなかった。そのとき私は、自分の手で殺せなかったので悔しく感じた。あれから数十年が経って、殺したいと思うほどの憎しみは今でもあるけれど、先に死なれたことへの悔しさは薄れてしまった。どのみち死んでしまったのだ。
では、私は殺されたくないのかと言うと殺されたくない。しかし、私が人に殺されても仕方のないことをしたのだとしたら仕方ないと思う。その理由くらいは説明してほしいけれど。今のところ殺されていないから、誰かにそれほど憎まれるようなことはしていないのだろう。