8.思いがけぬ合流
そぼ降る雨の中、ドロシーは汗ばんだ姉の手の平を握りながら、そろそろと歩いていた。ロザリーはもう片方の手に持った杖で足場を確認しながら、ドロシーの後について来る。前にはオディロンの背中が見えた。
予定していた道が崩れており、大きく迂回したせいで、行程がやや遅れていた。
また迂回路はお世辞にも歩きやすい道とは言えず、上に下にと細かく変わる斜面に悪戦苦闘し、またこの雨で足元は悪くなり、滑らない様に気を張らねばならない。
特にロザリーの手を握っているドロシーは、自分が転べば姉を巻き込むという心配があるから、特に気を遣っていた。また、同時にロザリーが転ばない様にもしなければいけない。
(想像以上に大変だ……)
姉の手を引いて行く事そのものには慣れがある。子どもの頃からずっとやっている事だからだ。けれど、足場の悪さは如何ともしがたい。
ロザリーは確実に疲労が溜まっていて、弱音は吐かないけれど、明らかに足取りが悪くなっていた。
雨に濡れる事も、体力を奪う事に拍車をかける。動いている間はまだいいけれど休む時に体温を奪うのだ。
「その石、気を付けろ。苔がある分滑るぞ。ジェニオ、もたもたするな。魔法使いである事は言い訳にはならんぞ」
後ろからロベルタの声がした。この雨で誰もが疲労を溜める中、鯱人である彼女は濡れる事をまったく苦にしていない。むしろ逆に調子がよさそうで、ロザリーの荷物をまで引き受けて、力強い足取りで後ろから皆を叱咤した。
ジェニオがうんざりした顔で、オディロンに言った。
「ロベルタめ、一人だけ元気だからって図に乗ってるじゃないか。うるさくて仕方がないよ。ディ、何とか言ってやったらどうだね?」
「はは、一人でも元気な者がいた方が士気が下がらなくていいさ。もう少し行ってから休憩にしよう。ロザリー、大丈夫かい?」
とオディロンは振り向いた。俯きがちに歩いていたロザリーは顔を上げて弱弱しく微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ、ディ。でも休めるなら嬉しいわ」
「うん、あと少しだ。挫いた所が痛んだりはしていないね?」
「それは平気。アトレイ様の湿布がとってもよく効いたから」
確かに、ここ数日の間、ドロシーは挫いたというロザリーの足首の事を心配して来たが、もうすっかり腫れも引いて、右足に体重をかけても痛みはないらしい。
しばらく行くと、大きな木が立っていた。枝葉を悠々と広げていて、それらが雨粒をしっかりと受け止めているらしく、根元はほとんど濡れていない。
一行はここに腰を下ろし、トリウマに積んでいた簡易の天幕を広げて雨除けとし、手早く火を起こした。
「お姉ちゃん、足見せて」
「え? でも足首はもう」
「いいから。早く」
「うん……」
焚火の傍らで、ロザリーは靴を脱いで、足をドロシーの方に差し出した。豆が出来ていて、それが今にも潰れそうになっている。ドロシーは胸がぎゅっとした。
「やっぱり……痛いんでしょ? 早く言わなきゃ」
「ごめんなさい……でもただでさえわたしのせいで遅れているから……」
「馬鹿者、隠し事なんかしていたら、逆に迷惑だぞ。お前が外慣れしていない事は全員が承知の上だ。むしろここまで来れているだけで大した事なんだから、もっと胸を張れ。そしてわたしたちを頼れ」
ロベルタがそう言ってロザリーをよしよしと撫でた。ロザリーはくすぐったそうに身じろぎした。
「でもみんながあんまり何でもないみたいに進むから、つい焦ってしまうの」
「何でもないわけがない、私はすっかり疲れているよ。そこの体力バカがおかしいのさ」
とジェニオが言うと、ロベルタは眉を吊り上げた。
「あとどれだけ疲れればお前の減らず口は収まるんだ?」
「ははは、たとえ体が動かなくなっても口だけは動くさ。それが魔法使いというものだ。さて、ロザリー。おみ足を拝見しようか。愛しのアトレイ君の様にはいかんかも知れんが、治療させてもらう事にしよう」
「もう、ジェニオったら!」
とロザリーは頬を膨らました。ジェニオはくすくす笑いながら傷薬らしいのと包帯とを荷物から取り出した。
「そういえばディはどうした?」
とロベルタが言った。近くに立っていた騎士が「薪を集めて来ると仰っていました」と言った。ロベルタは呆れた様な肩をすくめた。
「あいつも凄い体力だな……ディがいてもこれだけ大変ならば、コランタンなんぞとっくにくたばっているんじゃないか」
「そうかもねえ。ディのおかげでここまで戦いらしい戦いもなく来れているからねえ。おかげで私も魔力を無駄遣いせずに済んでいるよ」
オディロンは安全を第一にしているらしく、捕食生物と遭遇しない様に、また危険な植物などに行き当たらない様に、慎重に一行を導いた。ジェニオが索敵の魔法を使っているとはいえ、いざという時の判断はオディロン任せである。その判断は、今のところすべて正しかったと言えた。
ロザリーが悲し気に嘆息する。
「リュシー……」
「心配かね、あのお馬鹿さんが」
「ジェニオ、そんな風に言わないで。彼女は生真面目過ぎるだけだわ」
「そういう君はお人よし過ぎるのだよ。ちくりとするよ」
ジェニオは細い針で水膨れをつついて水を抜いた。それから薬を塗り、包帯をきっちりと巻く。
「これでよし。少し休みたまえ。聖樹の加護で少しでも治りが早ければいいのだがね」
「ありがとう、ジェニオ」
その時、薪をかかえたオディロンが戻って来た。探し方が上手いのか、どれも乾いていてすぐに燃えそうだ。雨の中を歩いて来た筈なのに、白い体毛はちっともへたれていない。
「ロザリー、大丈夫かい? 少し無理をさせ過ぎたかも知れないな。すまない」
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。気にしないで」
「そうか……私にできる事はあるかい? なんなりと言ってくれ」
「……あのね、ディ」
「うん」
「耳を触らせてくれない?」
オディロンは面食らった様に金色の瞳を丸くした。
「私の耳かい? そんな事でよければいくらでも」
と、オディロンはかがんでロザリーの手を取ると、自分の頭にぽんと乗せた。ロザリーはオディロンのふかふかした体毛を撫でて、ぴんとした耳を指先でつまんだりして、うっとりした表情で息をついた。
「あなたの手触りは本当に素敵ね」
「そうかな。まあ、好きなだけ触ればいいよ」
「あ、あの、わたしもいいですか?」
「ドロシーも? 構わないが……ちょっとくすぐったいんだよなぁ」
傍でうずうずしていたドロシーも手を伸ばす。それを皮切りに、四番隊の女騎士たちも集まって来た。
「ゆ、勇者様、わたしもいいでしょうか?」
「わたしも! 前々から気になっていて……」
そんな風に銘々に手を伸ばしてふかふかの勇者を撫でくり回した。オディロンは苦笑いを浮かべながらもされるがままになっている。ジェニオがにやにやしている。
「我らが勇者様はモテモテだねえ。ロベルタ、君はいいのかね?」
「生憎と、もふもふしたものに心を奪われる様な軟弱さは持ち合わせていない」
とロベルタはつんとそっぽを向いた。しかし何となく我慢している様な様子が見て取れた。
疲労の蓄積ゆえにやや緊張気味だった一行も、これにすっかり雰囲気が和らいだ。
オディロンの体毛の手触りに癒されて力が抜けたのか、ロザリーは膝を抱く様にして丸くなった。足の痛みが和らいだのもあって、眠気が出て来たらしい。
ドロシーはそっとその横に寄り添って、雨音に耳を澄ました。ぱたぱたと葉を叩く音が切れ切れに聞こえているが、ずっと聞いていると一定の律動を伴っている様に思えるから不思議だ。それをずっと聞いていると自分まで眠くなって来る様に思われ、ドロシーはハッとして頭を振った。
ロベルタがくすりと笑う。
「なんだ、眠いのか? 寝ればいいじゃないか」
「いえ……あの、少し眠気覚ましに歩いてきます。お姉ちゃんの事、お願いします」
それでドロシーはマントについたフードをかぶって木の下から出た。雨はそれほど強くはない。それでも木々に当たって細かくなったものが霧の様に舞い、体中がじっとりと湿る様な心持だ。
雨に濡れた新緑は美しい。ドロシーは葉先からしたたる雫を見、落ち葉を掻き分ける様に伸び始めている草の芽を見た。こんな風景をロザリーに説明するには、どんな言葉を選べばいいだろう? と無意識のうちに考えている自分に気づいて、ドロシーは苦笑した。
ロザリーの足がボロボロなのに、ドロシーは胸が締め付けられた。あの白くて綺麗な足があんな風になるのを見るのは辛かった。優しい姉につらい思いなどして欲しくない。
(しょうがない、けど……)
聖女としての役割と言ってしまえばそれまでかも知れない。しかし、ドロシーにとってロザリーはどこまでいっても大切な姉であり、傷ついて欲しくない相手なのだ。
そぼ降る雨にけぶる風景を、見るともなく眺めていると、オディロンがやって来るのが見えた。
「やあ、ドロシー」
「あ、ディさん……どうしましたか?」
「皆には少し休んでもらって、周囲の様子を見て来ようと思ってね。よければ君も来るかい?」
ドロシーは一瞬迷ったが、すぐに首肯した。オディロンはにっこり笑って、雨の中を歩き出す。ドロシーはその後をついて行った。
オディロンの足取りに疲れはまったく見られなかった。皆と同じだけ歩いて、しかも休憩の度に率先して索敵に出ているし、夜になれば不寝番もいつも長々としているのに、顔色一つ変えていない。
(勇者って凄いなあ……)
オディロンを見ていると、彼が勇者の称号を持つ事がよくわかる。個人的にもとても尊敬している存在なのだが、さっきの手触りを思い出すと、目の前で揺れている尻尾につい視線が行って、何となく体がむずむずする様に思われた。
「君は疲れていないかい?」
「ひゃい!」
出し抜けに言われて、つい素っ頓狂な返事が出た。ドロシーは頬を染めてごまかす様に咳払いした。オディロンはくすくす笑っている。
「森は大変だろう? 緊張感が抜けないからね。休める時には休んだ方がいいけれど」
「後でゆっくり休ませてもらいますよ。昼間に寝るのは慣れてないんです」
「うん、それならいい……おや」
オディロンは足を止めて屈みこんだ。
「どうしたんですか?」
「……森犬だな。群れの様だ」
一見、ドロシーにはちっともわからなかったが、よく見てみれば、濡れた落ち葉の上を、沢山の足跡が伸びているのに気づいた。
森犬は森に住む野生の犬で、犬とはいえ狼と同等の力と凶暴さを持っている。森の奥では大型化した個体も多く、群れで狩りを行う為、危険な捕食生物とされている。
「近いですか?」
「足跡は比較的新しい。足取りは駆け足だな。逃走にしては、追走者の跡が見受けられない。獲物を追って行ったのか……雨でにおいが混ざるのがやりづらいな」
オディロンは身をかがめて足跡の向いた先を見、それからドロシーの方を見た。
「我々は足跡と同じ方向を目指さねばならないのだが……森犬と戦う元気はあるかい?」
「あります。お姉ちゃんを守る為ならどんな敵とも戦いますよ、わたしは」
オディロンはくすっと笑った。
「まったく、姉思いだな君は。でも無理しちゃいけないよ。君に何かあればロザリーは本当に悲しむからね」
「お姉ちゃんを置いて死んだりしません。絶対に」
とドロシーはむんと胸を張った。
オディロンは口端を緩め、それから立ち上がった。
「戻ろう。皆がある程度休んだら先を目指す。ジェニオに索敵してもらって、奇襲を避けないとね」
それで二人は連れ立って戻った。火が赤々と燃えていて、一行は身を寄せ合う様にして雨を眺めていた。剣の手入れをしていたロベルタが顔を上げる。
「どうだ、様子は」
「森犬の群れが行先にいるかも知れない。運が悪ければ出くわす可能性がある。ジェニオ、索敵の魔法で探知してもらえるかい?」
「ふむ? ああ、やってみよう。しかし、二日ほど前から生命の気配がうんと濃厚になっているからね。犬だけを選り分けて探知できるかは保証できないよ」
「なんだ、魔法局副局長が弱音を吐くとは情けないな」
とロベルタが挑発気味に言った。ジェニオはふんと鼻を鳴らす。
「自分の実力を過信しないのが私だよ。どこぞの四番隊隊長殿の様に猪突猛進ではないものでね」
「なぁにぃ?」
「ほらほら、一々つつき合わないでくれ。ロベルタ、皆が動ける様になったらすぐに動く。今夜は安全な所を見つけたいからね。私の見通しでは明日には見張塔付近に行ける筈だ。結界を修復できれば転移装置でダオテフに戻れるんだから」
オディロンは苦笑しながら二人の間に入った。
ドロシーはそそくさとロザリーの隣に寄り添う。ロザリーはまどろんでいるらしかった。長いまつげが時折動く。わずかに開いた口元から、小さな呼吸の音がする。
このまま起こさずに寝かせておいてあげたいと思うけれど、オディロンは先を急ぎたい様だ。煮え切らない気持ちで、ドロシーはそっとロザリーの肩を抱いた。
「ドロシー?」
「あ……起こしちゃった?」
「いいえ、ちょっとうとうとしていただけだから……」
「寝てていいんだよ?」
「ううん、まだ……」
「……うん?」
その時、索敵の魔法を使っていたらしいジェニオが、怪訝な表情で目を開けた。
「どうした?」
「確かに、犬らしい群れがこの先にいくつかある。別の集団を取り囲んでいる様だが……」
「別の集団? 森犬の群れ同士の抗争か?」
とロベルタが言った。
「いや、気配の波長が違う。人間が襲われている様だよ」
「人間が? こんな森の奥地で?」
「そうらしい。探索団か……コランタンたちか? まさかな。瘴気の気配もある。リュシエールがいるならば、瘴気や骸獣は近づかない筈だ」
オディロンがさっと立ち上がった。
「ディ、どうするつもりだ?」
「助けに行く。動ける者は手助けを頼む」
そう言って、返事を待たずに雨の中に飛び出して行く。ドロシーが思わず立ちかけると、その袖を掴まれた。ロザリーが閉じた目を向けていた。
「わたしも行きます」
「お姉ちゃん、だけど……」
「骸獣がいるのでしょう? わたしの力も役立たせて頂戴」
有無を言わさぬ口調である。こうなったロザリーを説得する事は難しい。ロベルタが呵々と笑った。
「よし、わかった。わたしとドロシーでしっかり守ろう。雨に濡れない様、フードをきちんとかぶるんだぞ、ロザリー」
「ええ、わかってるわ、ロベルタ」
ロザリーはすっと立ち上がる。ドロシーは慌てて傍らに立ち、その腕を取った。
「お願いね、ドロシー」
「うん」
胸がどきどきする。姉を危険な場所に連れて行くという引け目はあるのに、危険を共有するという事実に対する不思議な快感が、ドロシーの心臓を高鳴らせた。
〇
木々の生い茂った緩やかな斜面の底に、小さな盆地があった。岩が重なる様になっていて、それを苔が覆っている。見る者が見れば、それは古い時代の建造物の崩れたものだとわかっただろう。周囲には崩れかけて蔦や苔に覆われた石像らしきものが佇んでいる。
その陰で、騎士団の制服を着た一隊が固まる様にしていた。誰もが汚れて、怪我をしている者も多い。三十人以上いた筈の騎士たちは、既に半分を切っていた。
空は曇り、雨がはらはらと舞っている。
騎士たちは火を焚きながら、その火が消えない様に必死になっていた。雨除けになる様なものはなく、皆マントを頭からかぶっている。シュミグナハルの襲撃のごたごたでトリウマたちもすべて逃げ出してしまっており、荷のほとんどを馬に積んでいたせいで、物資が著しく減ってしまっていた。
黒い制服を着たコランタン・ファルギエールがいらだたし気に苔をむしり取って地面に放り投げた。
「くそっ、リュシーめ、見当違いの方に逃げるとは……大きな口を叩いておいて、使えない女だ。あの世間知らずがたった一人で生き延びられるとは思えん。早く見つけ出さねばならんが……」
と言いながら、コランタンは苦々し気に斜面の上の方を見た。
四足の獣らしい影が、向こうの木立の間を行ったり来たりしていた。森犬の群れである。聖都周辺の森犬よりも体が大きく獰猛で、練達の騎士であっても苦戦は免れない。
犠牲を出しつつもシュミグナハルの襲撃から辛くも逃げ出したコランタン達五番隊は、はぐれたリュシエールを捜している最中に骸獣や野生生物と幾度も遭遇した。聖女であるリュシエールの不在により、今まではあちらからはほとんど近づいて来なかった骸獣が、明確な敵意を以て近づいて来る様になったのである。
幾度かの戦闘を経て場所を変え、そうしてこの森犬の群れに遭遇した。犬たちは周囲を取り巻く様にして彼らの後をつけ、散発的に隙を突いて襲い掛かって来る。怪我人も出てしまい、この盆地に追い込まれた状況である。
早く動きたいのだが、下手に動くと森犬たちの攻撃に遭うだろう。防御陣形を組めば易々とやられはしないが、そうなると前進が困難になる。要するに、現在はこの盆地で守りを固めていて、二進も三進もいかない膠着状態になってしまっているのだった。
もう昼を過ぎている。このままではここで夜を迎える羽目になるだろう。宵闇は獣の味方だ。暗くなれば森犬たちは勢いづいて襲い掛かって来るに違いない。
見通しが甘かったか、とコランタンは舌を打った。
聖都周辺において、聖都騎士団の優位性は絶対である。平地の戦いでは右に出る者はなく、荒野から来る凶暴なウルク相手でも、騎士団は常に勝利を収めて来た。コランタン自身、五番隊を率いて勝利に貢献した事も二度や三度ではない。
その勝利が、却って目を曇らせた。
森の生き物たちも似た様なものだろうと高をくくっていたのは間違いだった。彼らはウルクとは別物である。
移動に関しても、平地と違って楽ではない。足腰は丈夫な騎士たちであるが、斜面が続けば平地以上に疲弊する。トリウマの健脚は頼もしくはあったが、平原では馴染みのない巨大生物に泡を食って、混乱し、その健脚を以てたちまち姿をくらましてしまった。
確かに、オディロンに指摘された事は間違ってはいなかった。
その事は十分に承知しているのだが、それでもコランタンは自身の間違いを中々認め切れなかった。
(オディロンめ……)
もしオディロンからの忠告がなければ、却ってコランタンは間違いを素直に認めただろうし、そもそもむやみやたらと先を目指す様な行軍もしなかっただろう。
しかしオディロンへの対抗心から、むしろ彼の言う事の逆をする事が彼への勝利になるという、根拠のない思い込みに支配されてしまったのだ。そして今は間違いを認める事が敗北につながる様に思われ、それがコランタンの判断力を鈍らせていた。
(スピカ……すまない)
コランタンは首から下げたペンダントを握った。
近習の騎士がおずおずと口を開く。
「コランタン様、そろそろ動きませんと……」
「そんな事はわかっている! 今考えているのだ、黙っていろ!」
騎士は口を結んで押し黙った。
状況は悪かった。いっそ打って出て、犬どもを正面から粉砕する事も考えたが、怪我人の多いこの状況ではそれは難しい。
かといってここで傷が癒えるまでなどと悠長な事は言っていられない。物資もほとんど尽きているし、水も少ない。雨が降っているが、悠長に雨水を集めている場合ではない。
不意に近くで森犬の声がした。こっそり回り込んで近づいていた森犬を、騎士たちが追い払ったらしい。こうやって少しずつ襲撃して来るせいで疲れがちっとも抜けない。気が張り詰めたままになってしまう。
「日が暮れてはどのみち動けん……となれば今のうちか? しかし我々だけで見張塔を目指しても、結界は修復できん……ええい、リュシーの馬鹿め。足ばかり引っ張る……」
コランタンはぶつぶつ呟きながら、手の中のジャイロコンパスに目を落とした。針は変わらず同じ方向を指している。進むか、否か。
その時、騎士が一人焦った様子でやって来た。
「コ、コランタン隊長」
「なんだ騒々しい」
「犬の他に、妙な影が……」
森犬たちが騒いでいる。コランタンは剣を抜いて目を細めた。斜面の上の方で、何か騒ぎが起こっているらしい。
「助けが来たのでしょうか?」
「こんな森の奥でか? 楽観が過ぎるぞ……」
笑い声が聞こえた。ゾッとする様な冷たい笑い声だ。助けが来たかと希望を抱いていた騎士たちがたちまち青ざめる。コランタンは眉根のしわを深くし、剣をかざして前に出た。
斜面の上で、森犬の屍をぶら下げた影が見下ろしていた。二足で立ち、隆々と膨れた筋骨は死者のそれの如く青白い。大きな手には事切れた森犬の死骸がある。身にまとうボロボロの服は、探索師が着るものと同じだった。
大鬼と呼ばれる骸獣である。吸血鬼ほどの知性を得る事はないが、肉体の強靭さは吸血鬼を凌駕すると言われる危険な人型の骸獣だ。
「が、骸獣……」
「チッ、森で死んだ無能が骸獣化したか……総員防御陣形! 怪我人を背にして囲め!」
騎士たちはうろたえながらも剣を構えて陣形を整える。大鬼はげらげらと笑って犬の死骸を放り投げると、そのまま斜面を駆け下りて来た。下り坂のせいで勢いが増している。
このまま突っ込んで来られては受けきれない。
そう判断したコランタンは咄嗟に前に跳び出し、目立つ様な大きな動きで別の方向へ向かった。石を拾い上げて大鬼に投げつける。
「こっちに来い化け物!」
果たして大鬼はこの簡単な挑発に乗り、コランタンの方へと向きを変えた。
コランタンは騎士たちに怒鳴った。
「怪我人を連れて離れろ!」
丸太の様な腕が頭をかすめる。コランタンは冷や汗をかきながら剣を構え、振り抜いた大鬼の腕に斬りつけた。表皮にわずかに傷をつけたものの、有効打とは言い難い。
大鬼は笑い声を上げて、上から拳を振り下ろした。
「ぐうっ!」
剣の腹で斜めに受けた。幾分か衝撃は受け流されたが、それでも全身が震えるほどの威力である。コランタンは歯を食いしばり、何とか体を横に滑らす。大鬼の拳が地面を打ち、ずんと地響きがする様だった。
わっと向こうで声が上がる。見ると、大鬼の後から別の骸獣たちが姿を現していた。鹿や猪、森犬などが餓鬼と化したものが、騎士たちに牙を向けている。既に瘴気による肉体の再構築が始まっていて、動きは生前のそれと遜色ない。
本調子ではない騎士たちは、少しつらそうに骸獣と向き合っている。
「ええい、聖女がいれば貴様らなど……くっ」
大鬼の手が向かって来る。コランタンは後ろに跳ぶのと同時に、指を落としてやろうと横なぎに剣を振るった。しかし手の平に当たったそれは、そのまま大鬼の掴む所となった。ぐいと引っ張られて、コランタンは咄嗟に手を放す。
剣を奪い取った大鬼は、興味なさげに剣を放り投げた。
「くそ、剣を……」
じりじりと大鬼は近づいて来る。
万事休すと思われた時、不意に大鬼が怪訝そうに顔を上げて辺りを見回した。不快そうに両腕を顔の周りで動かす。羽虫を追い払う様な仕草だ。餓鬼たちの動きも鈍っている。
コランタンは目を丸くした。
「聖樹の力だと……?」
同時に、圧縮されたマナの弾丸が飛んで来た。正確な狙いで骸獣たちの頭を撃ち抜いて行く。騎士たちが驚いた様な顔をしている。
コランタンは弾丸の飛んでくる方に目をやった。ジェニオが面倒そうな顔をして次々に弾丸を放っている。その脇で静かに胸の前で手を組んで立っているロザリーの姿があった。全身が淡い光に包まれている。
白い影が滑る様に近づいて来るのが見えた。
「オディロン……!」
オディロンはたちまち大鬼に肉薄すると、愛用の細剣を脇腹に突き立てた。まるで柔らかなバターでも切る様に、刃は易々と大鬼の肉体を貫く。
大鬼が怒った様に声を上げて滅茶苦茶に腕を振り回した。コランタンは慌てて距離を取る。
オディロンは身を低くしてするりと間合いから抜けるのと同時に、下段からすいと斬り上げた。
大鬼の右腕が宙を舞った。
大鬼は腕がなくなったのにしばらく気づかず、落ちて来た自分の腕が頭に当たったので困惑している。
「コランタン、全力で心臓を狙え! 仕留めるぞ!」
いったん距離を取ったオディロンは、大鬼の捨てた剣を拾い上げてコランタンに放った。そのまま跳躍して、脳髄に剣先を向ける。
剣を受け止めたコランタンは苦々し気な表情で剣を構えた。
オディロンの剣が大鬼の頭を貫いた。数瞬遅れてコランタンの剣が大鬼の胸に突き立つ。大鬼は叫び声を上げて、そのまま仰向けに倒れた。肉体が崩壊を始める。
コランタンは渋面のまま、先端がやや欠けた剣を鞘に収める。
向こうではドロシーが素早い動きで双剣を操り、骸獣どもを次々に屠っているところだった。ロベルタ率いる四番隊の女騎士たちも動きの鈍った骸獣を倒している。形勢は完全に逆転した様だ。聖樹の力が周辺に広がり、骸獣の動きは著しく鈍っていた。
「余計な事を……」
コランタンは忌々し気に吐き捨てた。素直に礼を言う事は、彼のプライドが許さなかった。オディロンはやって来るとコランタンの肩を掴んだ。金色の瞳が深刻な光を宿してコランタンを見る。
「リュシーはどうした?」
「……貴様には関係あるまい」
「ふざけるな。まさか死んだのではないだろうな?」
コランタンは黙ったまま視線を逸らす。オディロンは歯噛みして無理やりにコランタンを自分の方に向けた。
「今は意地を張っている場合じゃないだろう! 死んだのか? はぐれたのか? どうなんだ!」
「……はぐれた。シュミグナハルの大型と戦ったのだ。その時に見失ったままだ」
「なんて事だ……」
オディロンは額に手をやって俯いた。
コランタンは心の奥からどす黒いものが浮き上がって来るのを感じた。奇妙な笑みが顔に浮かぶ。
「満足か」
「なんだと?」
「貴様の言った通りになって。我らを見下すのはさぞ快感だろう」
ばちん、と音を立てて衝撃が走った。オディロンは驚いた様な顔をしている。頬を張ったのはオディロンではなかった。ドロシーが鋭い目でコランタンを睨みつけていた。
「最ッ低! あなた、どこまで性根が腐ってるわけ!? ディさんが、そんなくだらない事考えるって本気で思ってるの!?」
「ドロシー」
オディロンがそっとドロシーの肩に手を置く。ドロシーは目に涙を浮かべながら、何か言いたげに後ろに下がった。
コランタンは張られた頬に手もやらずに黙っている。
「コランタン。ひとまず怪我人の治療をさせてもらう。いいね?」
「……勝手にしろ」
コランタンはそう言って、麾下の騎士たちの方へ足を向けた。
雨は霧の様になって、まだ辺りを濡らしている。