6.離散と遭遇
転輪羅針儀がくるくると回る。コランタンの手の中にある球状のそれは、周囲の輪が回りながらも、中心の矢印は常に一定の方向を指し続けている。
「順調だな。臆病者のオディロンには追い付けまい」
火の傍らに座るコランタンはふんと鼻を鳴らして言った。隣に座るリュシエールが少し眉をひそめてコランタンを見る。
「オディロンを甘く見ない事ね。ロザリーはともかく、彼の実力は本物だわ」
「なんだ、奴の肩を持つのか、リュシー?」
「勘違いしてもらっては困るわね、コランタン。わたしたちは利害が一致しただけ。ほんのひと時の協力関係なのだから、ねんごろになる必要など感じないわ」
コランタンはくくっと笑った。
「虫のいい事を言うものではない。この上、エルヴェシウス家と良好な関係が築けるとでも思っているのか? あの灰猫女公が落ち目のグラニエ家を歯牙にかける筈がない。素直にファルギエール家と縁を結ぶ方が利口だぞ? 私は美しい女は大事にする男だ」
リュシエールは不快そうにコランタンを睨みつけた。
「よく言いますわ。あなたこそ、わたしを利用したいだけでしょう? おべっかなんか言ったって無駄。相手をよく選ぶ事ね」
「ははは、男と女が互いに利用し合う事は珍しくないではないか。権力闘争の渦中にいて、少女の様に純粋な愛を信じているとでも言うのかね? 君が第一聖女になればオディロンが君の方に来てくれるとでも? やれやれ、楽天家だな。これではジェニオの言う通りの馬鹿者ではないか」
「あなたにとやかく言われる筋合いはありませんわ。第一、あなたとわたしが釣り合うとでも思っているのかしら? うぬぼれるのもいい加減にして欲しいものだわ」
「無論、傲慢なだけが取り柄の女と私が釣り合うなど思っていないさ。どちらの立場が上なのか、そのおめでたい頭でよく考えてみたらどうだね?」
リュシエールは黙って立ち上がり、すたすたと簡易の天幕の方に歩いて行った。コランタンは肩をすくめた。
コランタンはオディロンに、リュシエールはロザリーに対抗しているから成り立っている協力関係だが、あくまで政略的なものであると互いに理解しているから、二人の仲は険悪である。
リュシエールはコランタンを下賤な男だと思っているし、コランタンの方もリュシエールを傲慢で自惚れやの女と蔑んでいる。それでも聖都での立場を上げる為に、この様な不本意な協力関係も吞み込んでいる。
そんな風に先導者二人が険悪な空気であるにもかかわらず、ここまでの行軍は順調であった。
その要因のひとつにはコランタンの持っているジャイロコンパスの存在があった。瘴気やマナ、磁力などの影響を受けずに、常に正しい方角を指し示す魔道具である。
内部に仕込まれた星の欠片から供給されるマナによって、半永久的に稼働しており、内蔵された地図で目的地を定めるとその方向を示し続ける為、探索には非常に便利な代物だ。
加えて、五番隊の騎士たちがやはり屈強である事が上げられる。
平地に慣れて森には不慣れである彼らだが、それでもやはり普段の訓練は体を丈夫にし、緊張を強いられる森の中でも安定した動きをさせる事ができていた。
ここまで、特に問題らしい問題もなく、彼らは進んで来た。
森の動物に遭遇しても、三十人以上いる騎士たちにとっては大した障害にはならない。強固な陣形と苛烈な攻撃で、小型の捕食生物やなり立ての骸獣を幾度も撃退した。
コランタンはオディロンの警戒した様子を馬鹿にし、自分たちは勇敢で、彼らは臆病であると言い、大いに士気を高揚させた。騎士にとって勇者よりも勇敢であるというのは、中々心地よいものらしい。
少し具材や量の減った食事が運ばれて来た。
「コランタン様、食事です」
「うむ……少し量が減ったか? 残りはどれくらいだ?」
「動物が見当たらぬせいで補給がままなりませんで、節約して残り三日分というところでしょうか……」
「十分だ。見張塔で結界を修復できれば、転移装置で戻れる。片道分あればよい」
「しかし少々ぎりぎりの様で……勇者殿の言われる様に、少し余裕を持っておいた方がよかったのでは?」
「オディロンの臆病風に吹かれたか? 我らは身軽さゆえにここまで順調に進んで来たのだ。荷を増やしてぐずぐずしている連中とは違うのだよ」
「し、失礼いたしました」
と年配の騎士が恐縮した様に頭を下げた。向こうの天幕の下では、毒草の茂みに踏み込んで顔や腕に水膨れを作った騎士たちが数人、薬を塗っている。
人数の多さに対して、持ち込んだ物資は確かに少なかった。
騎士たちは剣術と兵法には通じているが、食べられる植物の知識や、森の地理、水場の探し方などには疎く、物資は減る一方である。
動物を狩る事くらいは出来るが、隠密のすべを知らない騎士たちは被食動物の警戒心を解く事が出来ず、彼らの周囲から狩りの対象は逃げ出してしまっていた。
しかし、見張塔まで行きつければ転移装置がある事もわかっているので、片道分の物資があればよい、とコランタンは身軽さを取った。確かに、荷をトリウマに預けている騎士たちの歩みは速く、行軍は順調であったと言える。現状を鑑みるに、コランタンの判断は間違っていない様に思われた。
しかし、彼らは知らなかったが、彼らの現在地辺りからは、より森の緑が深くなり、生き物たちの大きさ、強さも増して来るのである。すなわち、それまでは狩る側に立てていた人間が、狩られる側に回るという事だ。順調さに騙されて深入りし過ぎてしまっている事に、彼らは気づいていなかった。
やや寂しい食事を騎士たちがもそもそと頬張っている中、リュシエールはコップのお茶をすすっていた。
暗澹とした気分だった。森の中は落ち着かない。寝床が悪いせいもあって夜もあまり寝が深くなく、浅い眠りは幾度も覚めて疲れが抜けきらないのだ。そのせいで食も細くなっていく。緊張感が胃を締め付けるのである。
リュシエールの生家であるグラニエ家は聖都でも古くからある名家のひとつだが、現当主クロヴィスの代になってからパッとしていない。ゆえにリュシエールが聖女となった事は喜ばしい事であり、また位階を落としている事は叱責の対象であった。
(今回の任務をやり遂げられれば、お父さまも褒めてくださるかしら……)
偉大な先代と比較されがちな父クロヴィスの顔を思い出し、リュシエールはため息をついた。家運が傾きがちなのを気にしていて、とにかくリュシエールにも厳しく当たる。位階が落ち始めてからというもの、クロヴィスからの叱責はより強くなっていた。
尤も、儀礼や任務を取るのは後ろ盾の発言権の強さにもよる所がある。
落ち目のグラニエ家は発言権が落ちており、中々位階を上げる為の評価につながる儀礼や任務が取れていなかったのだ。
今回はロザリーに与するオディロンのエルヴェシウス家と対立するファルギエール家の後ろ盾を得たからこうなったが、それはリュシエールの本意ではなかった。
こんな時、傍にいるのがコランタンではなくオディロンだったらよかったのに、と思い、ハッとしてリュシエールは頭を振った。自分に言い聞かせる様に呟く。
「彼はロザリーの味方……わたしの敵なのよ、リュシー」
お付きの騎士、犬人のニコレットが心配そうに声をかける。
「リュシエール様、お加減でも悪いのですか?」
「いえ……ただ食欲がないだけよ」
「あの、ご無礼を承知で申し上げますが、無理をしてでもお召し上がりになった方が……」
「ふん、余計な口出しを……まあ、いいわ。パンを一つ取って頂戴」
硬いパンは口の中の水分を一気に奪って行った。リュシエールはお茶を飲み、嘆息にも似た息をついた。
自分が情けなかった。森に入ってからは、まるで自分が変わってしまったかの様に力が出ない。
今自分が怯えているのは、周囲から押して来る、むせ返る様な命の気配そのものなのかも知れない。四六時中、見られている様な緊張感が抜けず、左右は勿論、上や下からも何かが出来てそうな気配が常に漂っている。残った二頭のトリウマも、森に入ってからはずっと怯えた様子だ。
悪意ではない。捕食者は被食者に悪意を抱きはしない。しかし決して容赦はしない。他者の生存行為というのは恐ろしいものらしい。
その時、トリウマたちが急に騒ぎ出した。繋がれた手綱を全力で引っ張り、逃げ出そうと大暴れする。騎士たちが慌ててなだめようとするが埒が明かない。
騒ぎのさなか、斥候に出ていた騎士が大慌てで戻って来た。
「コランタン隊長!」
「なんだ、騒々しい」
「へっ、蛇です! 巨大な蛇に……! カシアスが……」
シューシューと変な音がした。向こうの方から、顎の大きな蛇の頭がずるりと這い出して来た。シュミグナハルだ。その大きな口から、細い舌がちろちろと出入りしている。
縦に長い蛇の瞳に見据えられ、騎士団は一瞬硬直した。
その隙を突いて、シュミグナハルが大口を開けて飛びかかって来た。手近な騎士が一人、頭からかぶりつかれる。
「うわぁあぁぁぁ……」
「ヴィンス! この、化け物めえッ!」
「チッ! 散開しろ! 取り囲むんだ! 正面に立つな、食われるぞ!」
コランタンは剣を引き抜いて躍り出た。ひるんでいた騎士たちも、ハッとした様に銘々に武器を手にシュミグナハルを取り囲む。
騎士を一人飲んだシュミグナハルは、舌なめずりする様に細い舌を口に出したり入れたりした。
「構えッ! かかれッ!」
コランタンの号令と共に、騎士たちは一斉に剣で突きかかる。聖都騎士団は伝統的な剣技による一斉攻撃を得意とする。五番隊の強固な防御陣形から一気に繰り出される刺突は、荒野のウルクたちを何度も敗走せしめた。
しかしシュミグナハルの体躯は大木の様に太く、長い。その表面は艶のある鱗で覆われている。騎士たちの鋭い突きも滑る様に逸らされて、決定打を与えられない。
「下がりなさい!」
杖を掲げたリュシエールが前に出た。先端を彩る宝石にマナが込められて光り輝いた。
「消し炭になりなさいっ!」
杖の先端から猛火が迸った。強い熱波に周囲の木々の葉がざわざわと揺らめく。騎士たちは慌てて後ろに下がった。前髪がちりちりと焦げる様な心持だ。
コランタンが不愉快そうに怒鳴る。
「森で火の呪文を使うやつがあるかッ! 延焼が起きるぞ!」
「黙りなさい! みすみす食べられていた方がよかったとでも言うのッ!? わたしの使う魔法の中で一番威力があるのがこれなのよっ!」
リュシエールも怒鳴り返す。
すわ、勝負がついたかと思われた時、シュミグナハルは炎から飛び出して来た。のたうつ様に身をくねらせると、取り巻いていた火もくすぶる様に勢いをなくした。多少の火傷はしているが、却って怒りに火を点けてしまったらしく、騎士たちを見る視線がより威圧感を増していた。
「なっ……!」
「リュシエール様! お下がりください!」
ニコレットがかばう様に剣を構えて前に出る。
シュミグナハルは沢山の獲物に興奮しているらしく、野営地の中で縦横に暴れ回った。研ぎ澄まされた騎士たちの剣も、中々有効打を与えられず、一人、また一人と食らいつかれて飲み込まれたり、あるいはのたうつ尾に跳ね飛ばされたりした。
態勢を整える暇もなく混戦状態になってしまい、暴れるシュミグナハルに対し、騎士たちは普段得意としている一斉攻撃をしかける事ができない。
「ええい、どいつもこいつも訓練が足らん! 退却! リュシー! リュシーはどこだ!」
コランタンは飛びかかって来たシュミグナハルをかわしながら怒鳴った。野営地は大混乱である。整然とした退却なぞできる筈もなく、銘々に逃げ出しているから、誰がどこにいるのかまったくわからない。ここまではそれなりに順調だったのに、風向きが完全に変わった。
リュシエールは歯を食いしばっていた。全力を注いだ魔法のせいでマナが減って、次の魔法の準備が整わない。
それでも杖を構えて必死にマナを練り上げる。少ないマナを酷使するせいで頭の奥がずきんと痛む。
シュミグナハルの体は、まるで大きな木が暴れているかの様だ。食われずとも、押し潰されれば只では済むまい。
騒ぎに引き寄せられたのか、何やら別の生き物の気配も満ちて来た。狩られる側が狩る側から向けられる視線。そんなものを周囲から感じ、リュシエールは身震いした。
(こんな所で……! 負けるもんですか!)
何とか魔法の準備が整い、再び炎を撃ち出す。しかしマナ不足のせいでその威力は先ほどのものとは雲泥の差で、シュミグナハルの鱗をわずかに焦がすだけにとどまった。
むしろ、それでシュミグナハルの目がリュシエールに向く。縦に長い蛇の瞳に見据えられ、リュシエールは凍り付いた。逃げようと思うのに足が動かない。
「リュシエール様!」
その腕をニコレットが引っ張った。
「走って! 逃げるんです!」
無理やりに動かされると、それで足が動き出した。本能の様なものだった。考える前に足が動いていた。後ろを振り向く事も忘れて茂みを掻き分け、凹凸に足を取られながらも必死に走る。
夢中になっているうちに、騒ぎからはかなり離れた。周囲が木々のざわめきばかりになると、自然と足が止まる。
「ここは……」
足を止めたリュシエールは焦った様に周囲を見回した。どこに目を向けても緑色だ。悲鳴も騒ぎも何も聞こえない。
「リュシエール様、ご無事ですか?」
荒い息を整えながら、後ろをついて来ていたらしいニコレットが言った。
リュシエールは頷くと同時に足元がおぼつかなくなるのを感じた。
(マナが……)
めまいがする。気づくと地面に仰向けに倒れて、頭上の木々が見えた。
ニコレットが必死の形相で何か言っている。しかし音がひどく遠い。瞼が重くなって来た。
日が暮れかけている。
〇
一夜明けるとレグロの姿はなかった。野伏は朝ゆっくり眠る事はほとんどない。明るくなると同時に目を覚まし、そうして素早く行動を開始する。蛇や害虫よけの香が焚かれたままなのは、彼のささやかな気遣いなのだろう。
アトレイはくすぶっている焚火に薪を入れて起こすと、簡単に朝食をこしらえた。山菜と香草、干し肉と乾燥豆を煮込んだものだ。それに削ったチーズをかけ、焼きしめたパンを添えてある。
においが辺りに漂ったせいか、ユウがむくりと起き出した。もう朝? と言った。
「おう、お早う。お前、よく寝たなあ」
ニンジャは何かしに行っているのか姿が見えない。大方、兵糧丸とやらの材料を集めに行っているんだろう、と放っておくことにした。
ユウはたっぷり寝たせいかたちまち覚醒して、元気いっぱいに煮豆を頬張った。何を食べるにもうまそうである。あんまり口に詰め込んで頬袋みたいになっているのが面白く、アトレイが手を伸ばしてつっつくと、口をもがもがさせながら、ひゃめてと言った。
食事を終えてお茶をすすっているとニンジャが戻って来た。何やら様々な素材を持っている。
「お早うでゴザル」
「おう。やっぱり素材集めか」
「そうでゴザル。これでしばらく兵糧丸の蓄えには困らぬでゴザル」
集めて来た材料は強壮、増血などの効果があるものが多かった。成る程、確かに理にかなっているとアトレイは感心した。それにしたって、それだけで食わずに平気というのはやや理解の範疇の外にあるのだが。
ニンジャは素材を全部すり潰してから混ぜて練って団子にしながら、言った。
「そういえば、朝方に野伏と少し話をしたでゴザルぞ。幸運を祈ると言っていたでゴザル」
「そうか。お前昨日はさっさと寝たもんなあ」
「休める時に休む。これ兵法の基本でゴザルによって。して、今日も先へ急ぐのでござろう?」
「うん。今日中に裏道に入る。そうだ、どうもレグロが言うには見張塔には骸獣の上位種がいる可能性があるみたいだぜ。ちょっとワクワクして来るだろ」
「ちょっともワクワクしねえでゴザル」
「そうか。そうかもな」
まあ、いいか、とアトレイは自分の荷物をまとめ、炉で燃えていた炎をカンテラに移し、炉の火は綺麗に消して灰をかぶせた。そうしてミールィとじゃれ合っているユウに声をかけた。
「降りるぞ。明るいうちになるべく先に行くからね」
森はまだ朝露でしっとりと湿っている様に思われた。踏んで行く足の下は、長い年月で降り積もった落ち葉の層でふかふかしている。
日に日に緑が増して行く様だった。枝先に萌え出していたばかりだった筈の若葉が、もう手の平くらいに大きくなり、色も濃くなっている様だ。常緑樹の先端にも新しい葉がいつの間にか生い茂って、冬の間に色の褪せた古い葉と対照的な明るい色彩をたたえている。
しばらく行くと、苔むした石像がいくつも並んでいる所に来た。
古い時代の王か、あるいは聖人か、もはや語る者や文献すら残っていない時代の物言わぬ石の像は、緑の苔や太い木の根に覆われて静かに佇んでいた。それに交じって大型の機械人形の残骸なども転がっていた。
「一雨来るかもな」
アトレイは目を細めて空を見上げて呟いた。空は真珠色にどんよりと曇っていた。
それほど分厚い雲がかぶっているわけではないが、流れが速い。風に雨のにおいがする。雨雲が流れて来る気配である。
アトレイたちは、かしいで横の石像に寄り掛かる様になった石像の陰に入り込んだ。苔や蔦が像に絡んで、いい具合に雨除けになってくれそうである。
果たしてしばらくしてから雨が降り出した。雨粒が新緑の葉一枚一枚を叩く度にざあざあと音がして、急に辺りが賑やかになった様に感じた。
「通り雨でゴザルかねえ」
「さてね……そうだといいんだけど」
けれども、そう都合よくはなさそうだな、とアトレイは眉をひそめた。辺りは薄暗い。分厚い雲がかかってしまった様だ。まだしばらくは降るだろう。
「やきもきしてても仕方がない。小休止だな」
アトレイは手近な小枝を集めて手早く火を起こし、湯を沸かし出した。ユウへの薬湯も兼ねたお茶を淹れる算段だ。飲むと疲れが取れる薬草を入れるつもりである。
「ユウ、お前今は眠くない?」
ユウはこくこくと頷いた。眠気は急にやって来るらしい。
やはり何かの病気だろうか、とアトレイは荷物からそういったものに合った薬草を出して、香草と一緒に薬缶に入れた。
「ここからその裏道とやらまでどれくらいかかるのでゴザル?」
「順調に行きゃあと半日くらいかな。まあ、春先の森は道が変わってたりするからなあ……植物が元気な事元気な事」
湯気の立つあついお茶をすすっていると、不意にぴしゃぴしゃと地面を踏む音が聞こえた。近づいて来る。
煙が見えちまったか、とアトレイはさっと六尺棒に手をやる。
黙ったまま様子を窺っていると、声がした。
「だ、誰か……誰かいるのか……?」
女の声だった。骸獣ではないらしい。アトレイはひょいと物陰から顔を出した。
犬人の少女が立っていた。憔悴した様子で剣を構えている。服も顔も汚れていて、頬には枝か何かで打ったのか血が滲んでいて、髪の毛は濡れて額に張り付いていた。
「……大丈夫?」
「に、人間……?」
「まあ、骸獣とかではないのは確かかな。ついでに言えば盗賊でもないぜ」
アトレイが言うと、犬人の少女は呆けた様に肩を落とし、それからぎゅうと目を閉じた。顔を流れる雨水に涙が混じった。
「ううっ、ふぐっ……うえぇ……」
「泣くな泣くな。まあこっちに来て火にでも当たれば」
「わたっ、わたしの事はいい! りゅ、リュシエール様を助けて……お願い……」
「? 何だか知らんが他に誰かいるんだな? お前ら、ちょっと待ってろ。行って来る」
アトレイは荷物を担ぐと、犬人の少女に続いて雨の中に出た。
少し行った所に広々と広がった枝が屋根の様になっている所があって、そこに少女が一人、ぐったりと横たわっていた。梔子色の髪の毛は雨に濡れて、ドレスを模した様なローブもすっかり汚れて、元は綺麗だったのであろう痕跡をわずかに残すばかりだ。顔色は悪く、息をしているのかも怪しい。
「リュシエール様? しっかりしてください!」
駆け寄った犬人の少女が悲愴な声を出す。
アトレイは少女――リュシエールの傍らに屈みこみ、口元に手の平を当て、それから脈を取った。
「生きてる、が……こりゃマナの急枯渇か? なんでこんな事に」
「た、頼む、助けてくれ……わたしにはどうしていいのか……」
「まあちょっと待て。応急処置っと……」
アトレイは荷物を漁り、手の平サイズの小瓶を取り出した。マナを増幅させる少し強めの薬である。それを注意深くリュシエールの口元に注ぐ。わずかに開いた唇の間に、濃い緑色の液体が滑り込んで行くと、ふっとリュシエールの顔色がよくなった様に思われた。それから今度は体力を作る薬をまたひとたらし。
「ひとまずよし。でもこれじゃ風邪引くぞ。俺らんトコに連れてくけどいいか?」
「あ、ああ」
それでアトレイはリュシエールを抱きかかえて、焚火の傍らに戻って来た。ニンジャが目を丸くする。
「何事でゴザル?」
「病人だ。そこ空けて。ユウ、リュックの上に毛布丸めてあるから取って」
アトレイはそう言いながら、さっさとリュシエールの服に手をかける。
犬人の少女が仰天して剣を構えた。
「ろっ、狼藉者! 何をする気だ!」
「え? いや、濡れた服着てると風邪引くから……」
「そ、そういう事か……わたしがやるから! あっちを向いていてくれ!」
そういやそうか、とアトレイは素直に引き下がって後ろを向いた。薬師モードの時はこういう事に鈍感になるからいかんなあ、と頭を掻いた。
犬人の少女は手早くリュシエールの服と下着とを脱がすと、毛布でくるんで焚火の傍に寝かせた。もうリュシエールの呼吸もはっきりして、表情も和らいだ様に見えた。
服を乾かす為に焚火の上にぶら下げて、犬人の少女はホッとした様に息をつくと、急に溢れて来た涙に自分でも困惑する様な顔をした。しかし感情に逆らえないらしく、そのまま俯いてはらはらと涙をこぼす。
アトレイもニンジャも、あえて何も言わずに黙っていた。ユウは少女の背中をさすってやっている。
少女はしばらく泣いていたが、やがて鼻をすんすんとすすりながら目をこすった。
「……うう、見苦しい所を」
「気にするな。ホッとして緊張が解けりゃそうなるさ」
「ささ、まずは顔を拭うでゴザル。それからお茶でもどうでゴザルか?」
「ありがとう……おかげで助かった。この礼は必ずいつか」
「いいからいいから、とりあえず休んどきな」
姿勢を正しかけていた少女はアトレイに促されて手ぬぐいで顔の汚れを拭き、お茶をすすった。表情が少し和らいだ。
ニンジャが枯れ枝を焚火に放り込んだ。ぱちぱちと音を立てて舞い上がる火の粉が、焚火の上にかけられたリュシエールの服と下着を揺らした。
「こんな森の奥に女の子が二人きりでいるのは妙でゴザルな。何があったのでゴザルか?」
「……わたしはニコレット・フォルタン。グラニエ家に仕える騎士だ。この方はわたしの主人リュシエール・グラニエ様で、聖都の第さ――第六聖女だ。わたしたちは見張塔の結界を修復する為に聖都からやって来たのだが……」
アトレイはおやおやと思った。そう言われると、確かにリュシエールは質のよい服を着ていた様に思われた。ただ草や泥で汚れているせいで、一目見てそうだという風には見えない。風聞する聖女は綺麗なドレスに身を包んだイメージである。
ニンジャがふむと頷いた。
「成る程、そういう事でござったか。しかし、これでは結界の修復は遅れそうでゴザルな」
「……そう、だな」
ニコレットは俯いた。アトレイは乾パンや干し肉を取り出す。
「ひとまず話は後だ。あんたもくたびれてるだろう? 色々喋る前に腹ごしらえしときな」
「あ、ありがとう」
食べ始めると空腹だったらしく、ニコレットは夢中になって干し肉をかじった。
それでしばらく黙って食事をしていると、不意にリュシエールが目を開いた。がばっと上体を起こして、困惑した顔で辺りを見回す。毛布がはだけ、白く形のいい乳房があらわになり、アトレイとニンジャは気まずそうに顔を逸らした。
「こ、ここは……? あなたたちはいったい……ひっ! なっ、なんで裸!? いやっ! み、見ないでっ!」
リュシエールは体を抱く様にして裸体を隠す。
ニコレットが食べかけの干し肉を放り出して、リュシエールに抱き付いた。
「リュシエール様! 気が付かれたのですね! ご無事でよかった!」
「に、ニコレット……な、何があったの? コランタンたちは……」
リュシエールは理解が追い付かないという顔のまま、ニコレットの背に手を回してさすった。
ここまでに起きた事をニコレットから聞いたリュシエールは、膝を抱える様にして毛布にくるまって俯いた。
「そう……それじゃあ、皆はぐれてしまったのね」
「はい。あの大きな蛇も倒せたかどうか……おそらくは無理だったかと」
「シュミグナハルの大型だな。腕が立つっつっても生半可な腕前じゃ太刀打ちできる相手じゃないぞ。そのサイズじゃ鱗も硬いだろうし」
「あんなに大きな蛇は見た事がなかった……聖都周辺の森には、あんなのはいないから」
と、ニコレットはうなだれた。
聖都も森に面してはいるが、ここいらの森とは違って聖樹ガオケレナの影響を多分に受けている。こちらの森の様に冥王の暗い影は落ちておらず、ほぼ全域に人の出入りがあり、豊かな恵みを聖都の人々にもたらすばかりの森で、シュミグナハルも大木の様に成長する様な事はない。
アトレイは長い薪を手で折った。
「今は冬眠明けの上繁殖期前で食欲旺盛なんだよ。食われなくてよかったな」
アトレイが言うと、リュシエールはキッとアトレイを睨んだ。
「そんな、軽く言う様な事じゃありませんわ!」
「そうかな? そうかもな。ごめん」
「……大勢食べられてしまったのよ。頭から呑まれて……」
リュシエールは抱えた膝に顔をうずめた。肩が小さく震えている。アトレイとニンジャは何も言えずに顔を見合わせた。しかしユウだけは物おじせずに背中をさすってやっていた。
リュシエールは涙ぐみながら焚火を見つめた。
「……聖樹の加護があれば危険はないと聞いていたのに」
「あんたが本当に聖女なら、確かに動くハオマの木みたいなもんだから、骸獣とか瘴気に対してはいくらか忌避効果はあるだろうさ。闘争心を鎮める効果もあるけど……でも食欲旺盛な時期の森の動物には通用しないぜ」
「そう……なんて無様な」
とリュシエールは俯いた。ニンジャがやれやれと頭を振った。
「アトレイ、おぬしはデリカシーがないでゴザルな」
「えっ、そう?」
「そうでゴザル。落ち込んでいる女子には優しくするもんでゴザルよ。さ、お嬢さん、元気を出すでゴザル。ニンジャ特製兵☆糧☆丸でも如何でゴザルか? 出来立てほやほや、舌に広がるえぐみがなんとも癖になるでゴザルよ」
「け、結構ですわ……」
お前も大概じゃねえか、とアトレイは呆れた。
薬草入りのお茶を飲んで少し落ち着いたらしいリュシエールは、手を火にかざしながらアトレイたちを見た。
「あなたたちはどうしてこんな所に?」
「ちょっと用事があってね。ずっと森の奥まで行くのさ」
「森の奥まで……道がわかるの?」
リュシエールが言った。アトレイは茶をすする。
「わかるよ。何回か行った事もあるし」
「では、もしかして見張塔までの道筋も?」
「わからなくはないけれど、今んとこ行く予定はないよ」
リュシエールは身を乗り出した。
「ねえ、あなたたちを雇いますわ。仲間を捜す手伝いをして頂戴」
「えー、無理。こっちにも用事があるし」
「なんですって! 馬鹿な事言わないで頂戴! 結界の修復につながる重要な案件なのよ!? あなたたちの用事が何だか知りませんが、こちらの方が優先されて然るべきでしょう!」
まくし立てるリュシエールに、アトレイは呆れた様に眉をひそめた。
「んな身勝手な言い分が通るかいな」
「身勝手ですって!? 大勢の人間に関係のある事と、そっちの個人的な事と、天秤にかけるまでもないでしょう!」
リュシエールは激して来たのか思わず立ち上がった。毛布がはらりと落ちる。アトレイとニンジャはさっと目をそらした。
ニコレットが大慌てで毛布を拾い上げる。
「リュシエール様! 丸見えです!」
「えっ? きゃーッ!」
リュシエールは体を抱く様にしてしゃがみ込んだ。それで頭が一気に冷えたらしく、顔を真っ赤にしたままむくれている。
アトレイは呆れた様に嘆息した。
「騒がしい子だなあ……そもそも、あんたたちどっちから来たのか覚えてんの? 雨も降ってるから痕跡は消えちゃうし、熟練の野伏でもいるならともかく、迷いに行く様なもんだぜ」
「だからって……」
「まあ、ここに放り出して行くわけにもいかないし、一緒に来たいなら別にいいけどさ。あんたの仲間の事はわからんけど、こっちの用事が終われば見張塔まで送って行くくらいはしてやってもいいし」
リュシエールはジッとアトレイを見据えた。
「本当ですわね? 二言はありませんね?」
「ないよ。ただし、一緒にいる時は俺の言う事聞いてね?」
「む……」
「リュシエール様、森に関しては彼の方が詳しいと思われますので……」
不満そうなリュシエールをニコレットがとりなし、何とか話がまとまった。アトレイはやれやれと肩を回す。
「アトレイ・ベネシュだ。よろしく、えーと……ルシールだっけ?」
「リュシエール。リュシエール・グラニエですわ」
「拙者はニンジャでゴザル」
ユウです、とミールィを抱いたユウが言った。
「よ、よろしく……あなたたちは探索師なの?」
傍らに座ってジーっと見て来るユウに困惑しつつ、リュシエールが問う。アトレイは頬を掻いた。
「そういうわけでもないけど、まあ似た様なもんかな」
大荷物を担いだ男に黒ずくめの変な奴。それに子どもとファルウだ。確かによくわからない一行である。ニンジャがうむうむと頷いた。
「しかしまあ、聖女がここにいるのでは、結界の修復はまだ先になるという事でゴザルな」
「いや、実は他にも聖女の一隊が見張塔を目指しているんだ。できれば、わたしたちが先に着きたかったのだが……」
とニコレットが言った。リュシエールはむすっとしている。アトレイは茶道具を片付け始めた。
「何だよ、競い合ってんの? まあ、どっちが先でもいいけどさ、見張塔に行けば骸獣の上位種とかち合う可能性があるんだぜ? 別の聖女様とやらも大丈夫かねえ」
「そういやそうでゴザルな。何がいるのでござろうか?」
「さあね。ま、結界破るくらいだから中々強そうではあるけど」
「骸獣の上位種? 何の話をしているの?」
とリュシエールが言った。アトレイは薬缶の中の茶殻を隅の方に捨てた。
「昨夜野伏と話したんだけど、見張塔が骸獣の上位種に占拠されている可能性があるんだとさ。瘴気の広がり方が急らしいからな。結界の崩壊だけじゃなくて、瘴気を発する何かが近くにいるんじゃないかって言ってた」
「まさかそんな……で、では、結界はその上位種が破壊したという事か?」
とニコレットがうろたえる。アトレイは肩をすくめた。
「そこまではわからんね。あくまで推測でしかないし、別の要因かも知れないし。ま、もし見張塔に行くなら戦う心構えはしといた方がいいだろうな」
リュシエールは俯いてぶつぶつと呟いた。
「……オディロンなら、勝つでしょうね。コランタンでは勝てなかったかも……けれど、ロザリー……あなたの実力ではないのよ」
(ロザリーってどっかで聞いた様な気がするなあ……あの盲目の子、森に行くって言ってたし、もしかして聖女だったのかな?)
まあいいか、アトレイはカップの中の水滴を振り捨てた。
雨雲が通り過ぎた。木々が受け止めた雨水が枝葉からぼたぼた垂れているが、雨自体は上がったようである。しかしまだ空には雲がかぶっていて、雲行き次第では再び雨になりそうにも見えた。
ある程度乾いた服をまとい、リュシエールは杖を握った。
アトレイはさっさと焚火を片付け、立ち上がった。
「よっし、行くぞ。雨上がりは滑りやすくなってるから気をつけてな」
少し生ぬるい風が吹いている。風で葉が揺れる度に、大粒の水滴が頭上から降って来た。
アトレイは遠近に目をやりながら、なるべく歩きやすい道を選んで進んだ。ユウは身軽で歩くのも苦ではなさそうだし、騎士であるニコレットも足取りはしっかりしている。見るからに令嬢といった容姿のリュシエールも、見た目に反して体力はある様だ。さっきまでは憔悴した様子だったが、薬草入りのお茶がよかったのか、アトレイたちと出会って安心したのか、足取りは平気そうである。
しかし森に慣れていないのか、それともシュミグナハルに襲われて警戒心が増しているのか、大きな羽虫などが不意に飛び出して来た時など、リュシエールは悲鳴を上げて大仰に杖を構えた。
「なっ、なっ、てっ、敵っ!?」
アトレイは笑いをこらえながら首を横に振った。
「違う違う、ただの虫だよ。そんなに怖がる様なもんじゃない」
「で、でも、すごい羽音が……」
「耳元を飛んで行ったからだろ。ほら、行くよ。そんなに騒ぐと本当に危ないのが来るぞ」
リュシエールは口を尖らしながら、杖を握り直して歩き出した。魔法は扱えても実戦経験に乏しいタイプだな、とアトレイは思った。
殿を歩いていたニンジャが言った。
「しかし、大変な目に遭ったのに、それでも結界の修復を考えるとは、おぬしは随分気丈な娘さんでゴザルな」
「……当然ですわ。わたしはグラニエ家のリュシエール。こんな所で立ち止まっている事はできないもの」
「何があっても任務をやり遂げようという心構えはあっぱれでゴザル。おぬしはニンジャの素質があるやも知れぬでゴザルな」
「は?」
困惑しているリュシエールの手をユウがきゅっと握った。じっとリュシエールを見上げて、元気出して、と言った。
リュシエールは面食らった様にユウを見た。
「べ、別にあなたみたいな子どもに慰められる筋合いはありませんわ」
無理しないで、とユウが言った。
リュシエールはドキッとした様に口をもぐもぐさせた。
ユウの肩に乗っていたミールィが、つないだ手を伝ってリュシエールの肩によじ登る。首筋を撫でるふかふかした体毛に、リュシエールは思わず身じろぎした。
「こ、この動物は……?」
「ファルウだよ。聖都じゃ見ないか?」
名前はミールィだよ、とユウが言った。ミールィは鼻をひくひくさせて、リュシエールのにおいを嗅いでいた。汚れていても、微かに香水か何かのにおいがするらしい。
リュシエールの表情がほころんだ。張り詰めていたものが少し緩んだ様な感じだった。指先でミールィを撫でたりしてふふっと笑っている。それを見てニコレットもホッとした様な顔をしている。
アトレイはやれやれと頭を振って、再び先を目指して歩き出した。
頭上にはまた分厚い雲がかかり始め、ぱらぱらと霧雨が舞い始めていた。