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5.樹上台


 小休止しながら、ユウはじゃれついて来るミールィを撫でていた。ファルウという生き物はどうしてこんなにふかふかなのだろうと思った。いつまでも触っていたいくらいだ。


 アトレイは太陽の位置で方角を見ていた。概ね北北東に向かっているらしい。

 森には旧文明の遺跡や、野伏たちが迷わない様にそれとなく残している印などがある。わからない者が見てもわからないが、わかる者が見れば森は単に緑一色の迷宮ではない。

 ニンジャが言った。


「道なき道を、でゴザルな。しかしアトレイ、そんな大荷物を担いで歩きにくくないでゴザルか」

「歩きにくいよ。慣れてるけどね」

「健脚でゴザルなあ。野伏の様でゴザル」


 アトレイは水筒の水を一口飲んだ。


「野伏と旅してた事もあるからね。おかげで足腰は丈夫だし、荷物も持ち慣れてる」

「色々経験してるでゴザルか。拙者、野伏には親近感を覚えるでゴザル。奴らは皆ニンジャの才能豊かな者ばかり……しかし、しばらく会ってないでゴザル」

「俺も最近会わんなあ。あいつらあんまし人前に出て来ないし、基本単独行動ばっかだもんね……さーて、ぼつぼつ行きますか」


 頭上には新芽の萌え出した分厚い枝がかぶさっているものの、その向こうに広がる空は青く、抜ける様に天気がいい。地面にまだらに落ちる日の光がのどかさを助長する様だ。

 周囲が木々で囲われている分だけ風を感じる事はないが、空気が重いというわけでもなく、穏やかな雰囲気である。


 ユウはふわわと欠伸をした。眠くなって来た。目がとろんとしてしまう。

 太陽は高い。もう昼を回る頃である。


「次の休憩で軽く昼飯だな」


 と大きな倒木を跨ぎながらアトレイが言った。

 ふと、妙な音が聞こえて来て、アトレイが足を止める。


「どうしたでゴザル?」

「しっ」


 身をかがめて様子を窺い、ユウは思わず体を強張らせた。

 日陰の所で、体の崩れかけた鹿がふらつきながら立っていた。体のあちこちに傷があり、その傷口から燐光の様な奇妙な光を放っている。死骸が骸獣化し始めている様だ。

 アトレイは周囲を窺うと、荷物を降ろして、六尺棒を片手に滑る様に鹿へと近づいた。そうして向こうが反応する前に上段からの一撃で頭蓋を叩き割る。どしゃっと音を立てて体が倒れ、そうして小さく痙攣しながら崩壊していく。


「やれやれ……こんななり立てが出始めてるってわけか。ここらじゃ骸獣見る事なんかほとんどなかったんだがなあ」

「捕食動物にやられた死骸ではないでゴザルな。骸獣にやられて、それがまた骸獣化している様に見受けられるでゴザル」


 捕食生物に襲われた被食生物が骸獣化する事はほとんどない。骸獣化する筈の肉体が食われて残っていないからである。

 しかし骸獣は生物を殺すとそのまま別に行くので、死骸はそのまま残される。しかも骸獣から瘴気が死骸に入り込むせいで、他の生き物に死骸が食われる事もなく骸獣化も早い。


「骸獣が増え始めるとこういう悪循環が起こるから嫌なんだよなあ」


 骸獣はすべての生物に敵対しているから、大型の生物に返り討ちに遭う事も多い。

 それで自然と増えすぎない様になっているのだが、瘴気の濃度が高まれば、増える速度の方が勝ってしまう。そして増えると先述の様な事が起こり、さらに数が増すというわけだ。古都に近づくほどに骸獣は数も質も増して行く。

 初めてまともに見た骸獣に、ユウは少しばかり恐怖を覚えた。


 アトレイはともかく少し足を速める事にしたらしい。

 捕食生物はそうそうなり立ての骸獣にやられたりはしないが、被食生物は連鎖的に骸獣化する可能性がある。もたもたしていると面倒であるそうだ。


 その日はなり立ての骸獣を六体ほど倒して進んだ。そうこうしているうちに日が暮れて、辺りはすっかり暗くなった。アトレイは明るいうちに足を止めて薪を集めた。火を起こし、夕食の小鍋を火にかけて立ち上がる。


「どこかへ行くのでゴザルか?」

「星の欠片を探して来る。裏道通るのに必要だからな」


 また裏道だ、とユウは思った。何だか気になる。森に表道も裏道もなさそうなものだ。しかも通るのに星の欠片とやらが必要ならば、普通の道ではなさそうである。

 ユウがじーっとアトレイを見ていると、アトレイは頬を掻いた。


「なんだ。気になるなら一緒に来るか?」


 いいの? とユウはびっくりした。危ないから待っていろと言われるだろうと思っていたのだ。

 アトレイは焚火の火をカンテラに移しながら頷いた。


「俺から離れなけりゃ大丈夫だ。夜の森は危ないけど、結構綺麗な所もあるんだぜ。ニンジャ、火の番頼んでいいか」

「任されたでゴザル」


 それでユウとアトレイは二人で夜の森へと踏み込んだ。

 まだ空は残光で明るかったが、地上は既に宵闇が包んでいる。歩く足元に影ができない。わずかに見通す事はできるが、木々の深い所はもう何も見えなかった。


 ミールィは地面に降りて、ユウの少し前をちょこちょこ歩いている。アトレイの下げるカンテラだけが光源だが、歩くうちに次第に目が慣れて来る様に思われた。

 それでもやっぱり足元を見ていないと不安である。ユウは転ばない様に気を付けながら、アトレイの後をついて行った。


 空気がひんやりしている。指先がつんと冷たく、吐く息がわずかに白く漂った。

 ふと、地面に何かちかちか光るものがある。それは指先くらいの小さな丸い玉で、星の様に光を瞬かせていた。ガラス玉の様にも見えるけれど、自ら放つ輝きで玉の中は七色のプリズムがゆらゆらと揺れている。

 ユウはそれを拾い上げてアトレイを呼び止めた。

 これ、なんだろう? と言うと、アトレイは面食らった様な顔をして、それからけらけらと笑った。


「よく見つけたな、これが星の欠片だ。あっさり見つけるとはやるなあ」


 そう言って頭をぽんぽんと撫でられた。何となく気恥ずかしく、ユウは星の欠片を握り締めてもじもじした。


「んじゃ、この中に入れてくれ」


 アトレイの差し出した小さな袋の中に星の欠片をしまい込む。袋には不思議な模様が刺繍されていた。


「これでよし。あといくつか欲しいな。見つけたら教えてくれ」


 ユウは頷いた。何だか宝探しみたいで楽しい。まだ少し怖かった森の中が、急に魅力的な場所になった様に思われた。


 目がすっかり慣れて来ると、夜の森は意外な色彩に満ちている事がわかった。時折燐光の様なものがふらりと飛んで消えたり、茂みの向こうで動物の目がきらりと光ったりした。

 ユウが目線を上げたり下げたりしていると、太い木の幹から、光るものが突き出しているのが見えた。アトレイに声をかけて指さすと、アトレイは目を細めた。


「ああ……これは星の欠片じゃないな。リンレイジュの樹液だ。こういう風に結晶化して幹から突き出すんだ。こんな風にぼんやり光って、それで虫を集めるんだよ」


 なるほど、目を凝らして見ると、まるで幹に水晶が突き刺さった様に見える。星の欠片とは形状が違う様だ。光も淡い紫色という風である。その光に惹かれて来たのか、大小の羽虫が群がっていた。

 アトレイはナイフを出して、樹液を根元から切り取った。本当に鉱物の様な質感だが、中はまだ柔らかいのか、強く握ると少し形が変わった。

 それも取るの? とユウは言った。


「ああ、これ結構うまいんだよ。煮込みに入れると味が引き締まる。かなり日持ちもするし、持ってて損はない。どうせならうまい飯食いたいだろ?」


 何だか凄く色々なものがあるんだな、とユウは感じ入った。夜の探検がこんなに楽しいとは思わなかった。アトレイが一緒だから安心できる。


 二人は小一時間ほど探索し、星の欠片を五つばかり集めた。これでひとまずは十分だ、とアトレイは言っていた。


「そういや、おとぎ話じゃ、この星の欠片に紛れて、星の悪魔つーのが一緒に降って来る事があるらしいぜ」


 星の悪魔? なにそれ? とユウは首を傾げた。


「色々願いを叶えてくれるけど、代償を要求するんだと。一生使えきれない黄金を手に入れたけど、寿命を取られたとか、古今東西の知識を得たけどマナを全部取られたとか。ま、眉唾物の話だけどな」


 そうなんだ、とユウは腕組みした。何か教訓的なものを含んだおとぎ話なのかな、と思った。欲に駆られて手痛いしっぺ返しが来る話は珍しくない。

 珍しくない?

 自分には記憶がない筈なのに、どうしてそういうものがあると知っているのだ?


 ユウが眉根を寄せていると、アトレイが首を傾げた。


「どうした」


 ユウはううんと首を振った。考えてもわからない。記憶の混濁だろう。

 そんな風にして二日ばかり経った。アトレイとニンジャはどちらも健脚だが、ユウは歳相応の体力しかないので、時にはどちらかがユウをおぶって歩いたりもした。


 次第に森の奥地にまで入り込んで、辺りはより鬱蒼とし、人間以外の生物の気配が濃密になっている。

 骸獣も捕食生物に返り討ちにされているのか、浅部よりも却って数が減った様にも思われた。単にアトレイたちが出くわしていないだけかも知れないが。


 だが、アトレイはむしろ安心よりも警戒の度合いを強めている様だった。

 どうして? とユウが尋ねると、この辺りでやられずに残る様な骸獣は、なり立てと違って肉体がしっかりし始めている筈だから、却って危ないのが多いもんだ、とアトレイは言った。


 しばらく進むと小川があった。流れが速く、透明な水が流れている。岩から垂れた苔が水に浸かって、その細かな毛一本一本に小さな水滴がきらきらと光っていた。この周辺は探索者たちの休憩所になっているらしく、焚火や野営の跡が微かに残っていた。

 太陽はすっかり高く、分厚い頭上の枝葉を通してまだら模様を地面に作っている。アトレイは荷物を降ろした。


「ここで昼飯だな。その後は今日の目的地まで一気に行くぞ。明日には裏道に乗る」

「今日はどこまで行くのでゴザル?」

「野伏の利用する樹上台(フレト)があるんだ。ハオマの木の上にあるから今夜は久しぶりにゆっくり眠れるぞ。ニンジャ、枯れ枝集めて来てくれ」


 集められた枯れ枝の上に、カンテラの火が嬉しそうに飛び乗った。たちまち火が燃え上がり、ぱちぱちと木のはぜる音がする。

 アトレイは小鍋に湯を沸かし、道中で集めた山菜と、持って来た乾燥豆と干し肉とを煮込んだ。そしてリンレイジュの樹液を削って入れる。甘い様な不思議なにおいが漂った。

 料理が出来る間、ユウはミールィを連れて小川のほとりを歩いた。水はさらさらと流れていたが、やや蛇行していて流れの緩やかな所もあった。そういう場所は鏡の様に頭上の木々を映し込んでいる様に思われた。

 小川のほとりにしゃがんで、ユウは川を覗き込んだ。自分の顔の向こうで、小さな魚がひらひらと泳ぐのが見えた。捕まえられるかな、と手を伸ばして見ても、指先が水に触れた瞬間に魚は感づいて泳ぎ去ってしまう。


 ユウは息をついて、自分が立てた波紋がゆっくりと治まるのを眺めていた。

 やがて波が治まるとそこには水に映った自分の姿があった。しかし目だけが赤く光っている様に見えた。何だかまったく知らない顔に見えた。

 顔が笑った様に見えた。不気味で、親愛の情などない様な笑みだ。ユウは思わずぞっとして立ち上がった。

 川は静かに流れている。風の音や梢の葉のこすれる音など、さっきとちっとも変っていない様に思われた。

 ユウは恐る恐る小川を覗き込んだが、水には元通りの自分の姿しかなかった。ミールィが足にすりすりと体を寄せて来る。さくさくと草を踏む音がして、見るとニンジャが立っていた。


「飯ができたそうでゴザルよ。何を見ていたでゴザル?」


 ユウは水の中の自分が勝手に笑った、と言った。ニンジャは不思議そうな顔をして川を覗き込む。


「ふぅむ……気のせいではござらぬか? 水が揺れてそう見えたのでござろう」


 ユウはもじもじした。そう言われてしまうと、それを押し通すだけの気概も根拠もありはしない。むしろ本当に気のせいだった様にも思われる。

 焚火の傍らまで戻ると、アトレイが硬パンを切り分けてスープに沈めた所だった。


「おう、できたぞ。食ったらすぐ動くからな」


 そう言って椀を差し出した。



  〇



 手早く昼食を済ましてから、一行は足早に進んだ。まだ日が高いから骸獣の姿は少ないが、日が落ちると数が多くなって来るだろう。アトレイは大型の捕食生物や毒草の群生地などを避けつつ淡々と先を急いだ。

 やがて日が傾き出す頃にはユウがすっかり寝込んでしまった。起こしても起きないので諦めて、ニンジャが背負った。こんな事が旅に出てから今までの間に何回かあった。


「寝る子は育つというでゴザルからな」

「いや、そういう寝方じゃねえぞ、これ。ナルコレプシーとかじゃねえだろうな……」

「ナルトが何でゴザルって?」

「ナルトじゃねえよ、ナルコレプシー。居眠り病。制御できない眠気に襲われるんよ」

「へえ、詳しいでゴザルな」

「モグリだけど医術かじってるからな。後で薬草でも煎じてやるかね」


 やがて空の残光が薄らいで来て、辺りに暗闇が満ち始めた。木や茂みの陰が濃くなり、獣や、そうでないものの気配がより強く感ぜられる。

 そろそろ見通しが利かなくなって来るか、と思われる頃にアトレイは足を止めた。大きなハオマの木が立っていて、その白い幹に奇妙な印が彫り込まれていた。


 ハオマの木はマナを吐き出す不思議な樹木で、骸獣が忌避する。人々はこれを努めて増やそうとしているが、育成が難しく、中々安定的な植樹には至っていない。しかし、森の中には、時折こんな風に大きく育ったものがあるのだ。その周囲は骸獣が寄り付かない為、探索師たちには重宝されている。


「立派なハオマの木でゴザルなあ。これなら確かに骸獣も寄り付かなさそうでゴザル」

「ああ……」


 木の周りをぐるりと回って、それから樹上を見上げて眉をひそめているアトレイを見て、ニンジャが首を傾げた。


「どうしたでゴザル? ここが目的地なんでござろう?」

「うん。でも先客がいる。ええと……」


 アトレイは荷物をごそごそと漁り、小さな笛を取り出した。そうして一定の間隔とリズムで吹き鳴らした。

 するとしばらくして、上から同じ様な笛の音がした。

 アトレイがホッとした様な顔でまた別のリズムで笛を吹くと、上から縄梯子がするすると下りて来た。


「よかった、先客は野伏だ。上がるぞ」

「ははあ、成る程。こういう事でござったか」


 二人が縄梯子を上がると、上には黒い服を着た男がうずくまる様に身をかがめていた。警戒を解いていない、というのをわざと示す様に鋭い目でアトレイたちを見る。


「東森のレグロだ」


 と男が両手の平を見せる様にしながら言った。アトレイも同じ様に両手の平を見せる様にする。


「アトレイ・ベネシュ。野伏じゃないが、黒蟻のユッカの知り合いだ。こっちは連れのニンジャとユウ」

「ユッカの知り合いか。安心した。まあ火にでも当たれ」


 樹上台はかなり広く、十人は軽く乗れるくらいだ。木製の台を傷つけない様に石と土とで作られた炉があり、そこでレグロが熾したらしい火が赤々と燃えていた。その上には小鍋がかけられてくつくつと音を立てており、焚火の傍らには、レグロが集めて整理していたらしい種々の素材が並んでいる。蛇や毒虫などを避ける香のにおいがした。

 レグロは素材の整理を再開した。目をそちらにやりながらも口を開く。


「ユッカは元気にしているか?」

「最後に会ったのは随分前だけど、その時は元気だったよ」

「そうか。お前たちはどこへ行く」

「ヤヤヨノ様の所」

「ほう、何をしに」

「ちょっとした相談事があってね」


 アトレイは毛布を広げてユウの寝床を作ってやった。ユウはずっと眠ったままだ。

 レグロは柔らかな新芽を大事そうに油紙に包んで鞄に仕舞い込んだ。アトレイは荷物から乾パンを取り出してかじった。ニンジャは食べないしユウも寝ているし、食料は節約するつもりだ。ミールィにもいくつかくれてやると、ユウの傍らでちょこちょことかじっている。


「あんたはどこから来たの」

「魔都付近から南へ下って来た。ここから東に行こうと思っている」

「いつもより骸獣が多いだろ」

「ああ。春節あたりから森が騒がしい。春の騒がしさとは別の喧騒だ。星誕祭までは星のマナが高まっていたから瘴気も抑えられていたが、それが済んでからは瘴気の勢いが増している」

「見張塔の結界が消えたせいだ。俺らも迷惑してるよ」

「それも一因だが、結界が消えただけでこれほど瘴気が一気に来たりはしない。何かしら、高濃度の瘴気を発する存在が近くに来ていると見るのが妥当だ」


 アトレイは眉をひそめた。


「すると……まさか見張塔が骸獣の上位種に占拠されたとか、そういう話か?」

「俺も確かめたわけではないが、その可能性はある。冥王の指示か、あるいは単なる酔狂な骸獣か……いずれにせよ見張塔は危険だろうよ」

「なるほど。でもそれならむしろ解決できそうだな」

「なに?」

「骸獣相手なら倒せる。瘴気を出してる奴がいるなら、それを潰せば状況はよくなるって事だろ」


 レグロがぶふっと噴き出した。ずっと渋面のままだった顔が初めてほころんだ。


「変な奴だな、お前は。何がいるかはわからんが上位種は手ごわいぞ」

「知ってる。だが倒せない相手じゃないさ。結界は直せないけど」

「あの結界は聖樹の力を利用している。修復には聖女の力が必要だ」


 レグロは素材をすべてしまい込むと、マントを羽織り直して火の方を向いた。木べらで小鍋をかき混ぜる。麦粥らしい。


「尤も、聖都の連中も結界の消滅には気づいただろう。そろそろ誰かしら送り込まれてもおかしくない」

「聖女様とその御一行ってわけね」

「そうだ。戦闘技術はある者が護衛につくだろうが、森での立ち振る舞いに不安はあるだろう。聖都の森は聖樹のおかげで明るい。大森林も同じだと思っていては危ない」


 大森林に食い込む様な立地の魔都や、森の中の山麓に広がる様になっている月都と違い、聖都は南大洋に流れ込む大河流域の平野部にある。聖都付近の森は聖樹の影響で骸獣がおらず、手入れも行き届いていて捕食生物もさほど危険なものはいない。

 温暖で過ごしやすい気候に加え、聖樹の癒しの力を求めて大陸各地から怪我人や病人が集まり、医療施設などが発達している。世界政府の本拠地がある事もあって治安も良好だが、その分森に対する異常事態への対応は他の都市より一歩遅れている。


 膝に乗って来たミールィを撫でながら、アトレイはあくびをした。


「聖都の騎士団は強いけどな。南西の荒れ地でウルクどもを食い止めてるのはあいつらだし」

「平地の戦いと森での戦いは違う。ウルク相手と森の生き物相手の戦いもな」

「まあ、そうだな……考えてみりゃ、大森林で聖都の騎士を見た事はないし」

「煮えたぞ。食うか?」

「おりょ、いいの? あんたの晩飯だろ?」

「これも何かの縁だ、遠慮するな。お前の仲間は要らんのか?」

「ユウは寝てるし、ニンジャは……」


 とアトレイが目をやると、さっきから一言も喋らないニンジャは腕組みしたまま突っ立っていた。微動だにしない。


「寝てるわ。どっちみちあいつは食わないから平気だよ」

「寝てるのか? あれで?」

「寝てるんだよ、あれで」

「妙な奴と一緒にいるんだな」

「まあ、うん……粥の礼に干し肉でもどう」

「気持ちだけもらっておこう。節約しているんだろう」

「お気遣いどうも。それなら遠慮なく」


 温かい麦粥をすすると、乾パンと水だけの味気ない夕食が幾分か塗りつぶされる様だった。


「見張塔を骸獣が占拠しているとすれば、相当強力な骸獣だろうな」


 出し抜けにレグロが言った。アトレイは椀に水を注ぎながら顔を上げる。


「だな。あの塔って元々何の為の施設なんだろうな。結界の為、ってわけじゃないだろ?」


 見張塔というのは、後の時代の人間たちが、その高さから見当をつけて名付けただけに過ぎず、実際に見張りの為に使われていたかどうかはわからない。

 レグロは水筒を手に取った。


「いや、一概にそうでないとは言えん。塔の最上階に据えられている魔道具は、旧文明のものだ。特定のマナを受信して増幅し、周囲に広げる機能は元々あるのだろう。しかし、聖樹のマナと結んだのは百年前の聖都の魔法使いだ。遺跡が利用されていたであろう千年前には、聖樹はまだ小さなハオマの木でしかなかった。だから恐らく本来の用途とは違う」

「旧文明の遺産を、上手い事利用したってわけか」

「ああ。しかも見張塔は古代遺跡の中でもかなり丈夫な部類だ。植物の浸食をものともしないし、劣化もしない。シュミグナハルの大型が巻き付こうとも傷一つつかないだろう。森の生物にも侵されず、結界を張れば骸獣も跳ねのける。これ以上便利な遺物もあるまい」

「だろうなあ、滅茶苦茶硬いもんな、あれ。物理破壊はほぼ不可能ってわけだ」

「そうだ。加えて、聖樹の結界の中継地点という事もあって、結界の強さはかなりのものの筈だ。塔周辺ともなれば、聖樹のマナの密度も濃い。それを突破して占拠したとすれば、結界をものともしない様な相当強力なのが来ていると見ていい」

「ふーむ……古都周辺から来た、とか?」

「おそらくは、な。狙いが何だかはわからないが」


 レグロは麦粥をすっかり食べ終えると、中を大きな木の葉でぬぐい、それからマントにくるまる様にして膝を抱えた。


「寝る?」

「火が落ち着いたらな」

「そうだ、このカンテラの火、炉に移してもいい? 屋上屋かもだけど骸獣避けになるからさ」

「魔道具か。好きにしろ」


 アトレイがカンテラを開けると、中で燃えていた火が嬉しそうに焚火に飛び乗った。燃えていた炎と混じり合い、影がゆらゆらと揺れる。


 獣のものらしい声が聞こえる。虫や、よくわからないものの鳴き声もする。

 小枝を踏み折る音、不意に耳元を通り過ぎて行く羽虫の羽音、薪の燃える音。

 様々な音が次第に混じり合う様になってきて、アトレイは瞼が重くなって来るのを感じた。



  〇



 ドロシー・ソーンダイクはむくれていた。大好きな姉が、ぽっと出の男に熱を上げているのがどうにも気に食わないのである。

 星誕祭の晩、ロザリーを連れて来たあの男の事を思い出してみる。

 正直、あの時はロザリーが無事に戻って来た事で気が高ぶっていて、アトレイの事までしっかりと観察したりはしなかった。だが、キャスケット帽子に分厚いコート、マフラーに背負い箪笥と六尺棒、ぼさぼさの束ねた栗毛、と見た目は随分野暮ったい印象だ。顔立ちも何となくのんびりした様な感じだった気がする。

 そんなにいい男なのかなあ? とドロシーは思った。


(……うー、複雑な気分)


 姉を助けてもらった恩義は勿論ある。しかし、姉の心が一気になびいているのが、何だかとても気に食わない。それも自分がほとんど知らない男に。


「どうしたの、ドロシー?」


 向かいに座って香草茶を飲んでいたロザリーが、不思議そうに首を傾げた。


「ううん、何でもない! お姉ちゃん、干しアンズ食べる?」

「ありがとう。でも、まだお腹は空いてないわ」


 森に入って二日、ロザリーたち第一聖女一行は今のところ大きな問題もなく進んでいた。

 聖都周辺ではほとんど見かける事のない骸獣相手に初めは少し驚いたものだが、相手取ってみれば動きは鈍いし、反応は遅いしで大した脅威ではない。勇者オディロンを筆頭に実力者揃いの一行は、危なげなく骸獣を排し、オディロンの安定感のあるリーダーシップで先を急いでいた。

 大森林における行動の経験があるオディロンは、その実力も相まってとても頼もしく、一行は過度の緊張や不安に襲われる事もなかった。


 しかし春になって木々が成長したり、雪解け水で地滑りがあったりして、想定していた道が使えなかったらしく、現在はルートを構築し直している最中だという。その為身動きが取れなくなり、周辺の索敵に出た者たち以外は休憩となっている。


 ドロシーも探索を手伝おうとしたのだが、ロザリーを守るのが君の役目だよ、とオディロンに言われたので、こうやってロザリーの護衛も兼ねて、今は姉妹水入らずで焚火の傍で向き合って座っている。


(ディさん、気を遣ってくれたのかなあ)


 向かいの姉を見る。

 とても可愛らしい。

 森で二日過ごしている分の汚れはあるけれど、そんなものは彼女の可愛らしさをちっとも損ねていない。

 ロザリーは普段は聖樹庁の屋敷の中で過ごし、聖樹の癒しを求めて来る病人や怪我人の相手をしたり、聖樹ガオケレナに関する様々な儀礼を行ったりしている。

 儀礼の最中のロザリーは凛として美しく、何者も近づきがたい雰囲気をまとうが、こうしておいしそうにお茶を飲んでいる姿は可愛らしい女の子だ。


 ドロシーは嘆息した。

 普段は騎士団の一番隊に所属し、南西の砦に駐留してウルク相手に戦い続けているドロシーだが、ロザリーが護衛にと強く推薦してくれたおかげで今回の探索団に抜擢された。それなのに初っ端から姉とはぐれるという大失態を犯してしまった。

 そんな自分が、アトレイの事が気に食わないなどと言ったところで説得力なぞありはしない。第一、そうやって自分が失敗したからアトレイと会う事になったのだ。


 ソーンダイク家は聖都の名門一家だ。昔から優れた戦士や魔法使い、聖樹庁や世界政府の重役などを輩出してきた。数代前には都督になった者さえいる。

 そんな名門一家に生まれながらも、ロザリーは病で幼少時に光を失ったゆえに将来を絶望視されていた。しかしドロシーはいつも優しく可愛らしい姉が大好きで、子供の頃からずっと一緒にいた。目の見えない彼女の手を引いて屋敷や敷地の中を散歩したり、本を読んで聞かせたりしたものだ。


 それがひょんなことから、ロザリーは聖樹の加護を強く受けている事が判明し、巫女として聖樹庁に入り、盲目というハンデをものともせずに、あれよあれよと聖女の序列一位にまでなってしまった。

 そうなってからというもの、ロザリーはソーンダイクの屋敷には帰って来ない。聖樹庁の屋敷にいる以外の時は、聖都周辺の村や町を巡って結界の修復や儀礼を執り行っている。

 ドロシーも聖都にいる時が少ないという事もあり、幼い頃の様に姉妹だけで過ごす時間はなくなった。


 だから、久しぶりの姉妹水入らずについはしゃぎ過ぎてしまったのも無理はないだろう。

 目の見えない姉は、様々な物品を手で撫でたり、ドロシーが見たものの説明を聞いたりするのを楽しみにしている。見えなくとも、知らない景色や知らない物品がとても好きなのだ。

 そんな姉になるべく楽しい思いをしてもらおうと、きらびやかな星誕祭の露店や商店に目移りしてしまった。

 ほんの一瞬手を離しただけなのに、姉は人ごみに流されて見えなくなってしまったのだった。

 尤も、聖樹庁の方はドロシーの気持ちなぞ斟酌しないだろうから、こんなものは取るに足らない言い訳に過ぎない。


(せっかく護衛に抜擢されたんだから、もうしくじるわけにはいかないよね)


 嫉妬してむくれている場合ではない。そう何度も言い聞かせているのに、感情がいつまでも落ち着かないから困ったものだ。ドロシーはまた嘆息して、自分のカップを手に取った。

 その時、そっと向かいから手が伸びて来た。探る様に少し宙をさまよい、指先がドロシーの頭に触れると、次いで手の平が乗った。そのままよしよしと撫でられる。


「お姉ちゃん……」

「ふふ、あなたも思いつめる事があるのね。大丈夫よ」


 ロザリーは目が見えないのに、いや、むしろ見えないからか、他者の気持ちの動きに敏感なところがある。盲目というハンデを負って苦労している筈なのに、いつも他人に優しい。自らに敵意を抱く者に対してすら常に気遣いと思いやりを忘れない。

 姉のそういう所がドロシーは本当に好きだ。自分自身がそうはなれないと思っているだけ、崇敬の念すら湧く。

 ドロシーは嬉しさとむず痒さで緩む口元を隠す様にカップを運んだ。


「風が出て来たわね。森は色々なにおいがするわ」


 とロザリーが言った。木々の間を縫って柔らかな春風が吹きつけている。

 ここいらは少し開けた場所で、陽光が燦燦と辺りを照らし、清々しい空気が満ちている様だった。

 周囲では居残り組の騎士たちが見張りをしている。トリウマは座って、顔を撫でてもらっている。ジェニオが胡坐を組んで瞑想している。近くに小川が流れていて、その水音が聞こえていた。


「川に行ってみる? 少し足を洗うのもいいかも」

「いいの? 行きたいな」


 それで二人は立ち上がった。ドロシーはしっかりとロザリーの手を握る。ロザリーは嬉しそうにその手を握り返した。そうしてゆっくりと川へ下って行く。


「ふふ、昔、わたしがまだ巫女になる前は、こうやってあなたが手を引いてお散歩に連れて行ってくれたわねえ」

「懐かしいね。庭から、家の裏の林にも行ったっけ」

「そうそう。あの林には野イチゴの茂みがあったわね」

「ね。わたしにはわからなかったのに、お姉ちゃんがにおいで気づいたからビックリした」

「そうだったかしら……? でも、あなたが摘んで食べさせてくれたのはよく覚えてるわ」

「うん。えへへ、あの時もお姉ちゃんは可愛かったなあ」


 口を小さく開けて野イチゴを入れてもらうのを待っていた幼いロザリーの事を思い出すと、ドロシーの頬は緩んだ。


 靴を脱ぎ、冷たい川の水に素足を浸すと、ロザリーはびくりと肩を縮め、それから脱力した様に足を延ばした。


「ああ、冷たくていい気持ち……ねえドロシー、前には何があるの?」

「えっとね、川の向こうは緩やかに上りの傾斜になってる。大小の岩があって、太い木が倒れたりもしてて、それが全部緑色の苔で覆われてるの。その中から、若木が伸びてる。細いけど高さはディさんの頭よりちょっと高いくらいかな。川の下流の方には銀竜草の花が咲いてるわ。においがする? その先はずっと曲がってここからは見えないけど、少し流れが急になってるみたい」


 ドロシーは丁寧に風景や見えたものをロザリーに説明してやる。ロザリーはそれを嬉しそうに聞いている。こんな風に過ごすのが日常だった頃もあるのだが、今ではそれがとても貴重なものになっている。

 ふと、向こうの茂みががさりと動いた。ドロシーはさっと腰の剣の柄に手をやる。

 しかしそこから顔をのぞかせたのは骸獣でも捕食生物でもなく、若い女鹿だった。驚いた様な顔をしてドロシーたちの方を見つめている。


「何が来たの?」


 とロザリーが言った。


「鹿が来たよ。こっちを見てる。まだ子どもかな……あっ、行っちゃった」


 鹿は跳ねる様に駆けて、向こうの木立の間に消えて行った。


「水を飲みに来たのかしら……? 悪い事したわね」

「大丈夫だよ、きっと。別の場所で飲むんじゃないかな」


 こうやって見ていると、森の中に危険などない様に思われた。ドロシーはほっと息をつき、ロザリーの隣に並んで小川に足を浸した。そうして手ぬぐいを取り出して水に浸し、ぎゅうと絞ってからロザリーの顔を拭いてやる。

 ロザリーはくすぐったそうに身を捩じらした。


「自分でやれるわよぅ」

「いいの、わたしがやりたいんだから」


 晴眼の人々が思う以上に盲目の人は色々の事をやれる。ロザリーも勿論そうなのだが、一緒にいるとドロシーはやっぱりあれこれと世話を焼いてやりたくなる。それは盲目の人に対する気遣いというよりは、姉に対して何かしてやりたいという気持ちの表れらしい。


(……こんなに汚れてる)


 拭いてみると、思った以上に手ぬぐいが汚れた。

 本来、聖樹庁や各地の聖所での祈祷や儀礼ばかりの聖女というのは、こんな風に汚れる事はない。しかも聖女の中でも筆頭の序列一位であればなおさらだ。荷物を担いで歩くなどという事すら珍しい。


 目的地の見張塔まで仮に五日かかるとして、まだ二日。先は長い。

 不測の事態があれば、時間は食われるし疲労も溜まる。後半の方は足取りも重くなるかも知れない。慣れていないロザリーは段々辛くなって来るだろう。


(お姉ちゃんはわたしが守るんだ)


 ドロシーはそっとロザリーの手を握り締めた。


 ちょうど斥候に出ていたオディロンたちが戻って来たらしい。そろそろ出発だろう。

 ドロシーはロザリーの手を引いて、小川から上がって行った。


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