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3.雨上がり


 明け方に降り始めた雨は、ほんの少し大地を湿らすだけに留まった様だ。空を覆っていた雲はいつの間にか流れて行き、その合間から差す朝の日が、雨に濡れた木々や大地を照らして、宝石の様にきらきらと光らせた。


 ぱちりと目を開けた子どもは、体の重みにびっくりした。しかし何だかふかふかしていて、悪い感じではない。

 寝ぼけた気分で手を動かして、そのふかふかしたものをむんずと掴むと、それが急に跳ね上がった。

 子どもも驚いて跳ね起きる。それで余計に驚いたのか、ファルウたちがきゅうきゅうと鳴きながら寝床から飛び出して、そうして物陰の方に駆け込んで行くのが見えた。


 子どもはわけのわからないまま、しばらく寝台の上に座っていた。手の平に、ファルウの柔らかな毛の感触が残っていた。


 小屋の隙間から日の光が細く差し込んでいる。

 どうしてここにいるんだっけ、と子どもは思った。

 薄緑の光が瞼の裏にまだ残っている様な気がしたが、太陽の光を見ているうちにそれは消えた。そうして、次第に昨夜の一部始終が頭の中に思い出されて来たが、それも夢の中の出来事の様に思われて現実感がなく、記憶というよりも曖昧なイメージの群像になり、段々ともつれて、やがてわずかな色彩を脳裏に留めるだけとなった。


 アトレイが椅子にもたれていた。眠っているらしい。キャスケット帽が鼻まで押し下げられて、口元はマフラーがすっかり覆っているから顔が全然見えない。

 それから壁際にニンジャが直立体勢で目を開けたまま立っていたので仰天した。

 おはよう、と控えめに言ってみたが返事がない。不思議に思って寝床から降り、近くまで行ってみるとぐうぐうと寝息を立てているのがわかった。目を開けたまま寝ているらしい。

 子どもは小屋の中をぐるりと見回した。生活に必要な小物や道具が整理されて置かれている。

 棚には大小の瓶が並び、水薬や乾燥させた薬草などが入っていた。暖炉では小さな火がちろちろと揺れていた。その傍らのテーブルには果物を盛った笊と、栞を挟んだ本が置かれていた。


 入り口の方に行ってみた。小屋の戸は簡素な造りだったが、おそらく自分で削り出したらしい板は分厚く丈夫そうだった。

 裸足なので、どうしようかと思ったけれど、少しだけと呟く様に言って、小屋の戸を押し開けた。すると、緑のにおいを乗せた風が吹き込んで来て、それが胸の奥までしみ込んだ。一息ごとに森そのものを吸い込んでいる様に思ったくらいだ。


 子どもはそっと外に出てみた。

 頭上にはぽっかりと空が開けている。向こうの方には背の高い木がかぶさっていて、それが新緑の葉を風に揺らしていた。

 子どもは頬を染めて、濡れて光る木々と、その上を覆う真っ青な空を見た。知らない風景の筈なのに、不思議に懐かしさを覚えた。

 胸がわくわくして、子どもは裸足のまま湿った草を踏んで行った。


 子どもが出て行って少ししてから、アトレイはくぐもった声を上げて体を動かした。吹き込んで来た風が肌を撫でたせいだ。

 目を開けて、もう日が上っている事に気づいて体を起こす。椅子で寝たせいか、体は固くなっていた。首を回し、肩を回し、こきこきと音を立てながらほぐす。


「……寝た気がしないな」


 頭を覚醒させながら、寝台の方に目をやると子どもがいないので眉をひそめた。戸が開いたままだから外に出たらしい。

 立ち上がって外に出ようとすると、壁際にニンジャが突っ立っていたから驚いた。目を開けて腕を組んでいる。


「おはよう」


 と言ったが返事がない。変だなと思って近づくと、ぐうぐう寝息を立てていた。


 外はいいお天気で、雨の後の風特有の柔らかいにおいがしていた。思い切り空気を吸い込むと胸の内が洗われる様だ。

 見ると、少し離れた所で子どもが屈んで何かを見ていた。

 アトレイはすたすたとその近くまで歩いて行った。


「よお」


 声をかけると、子どもはびっくりした様に顔を上げた。よほど真剣に見ていたらしい。

 アトレイは目を細めた。昨晩、影の竜と相対した時の様な剣呑な気配はない、瞳も赤ではなく茶色である。


「何がいたの」


 子どもはもじもじしながら、蟻が、と言って見ていた方を指さした。

 成る程、小さく黒い光沢のある蟻が、せっせと地面を行き交っていた。蟻が珍しいのかとアトレイが言うと、子どもは頬を掻いて、すごく働き者だと思ってと言った。

 それはそうかも知れない。しかしアトレイはそんな事に一々思い当たらないな、と思った。子どもは変わった事に不思議な興味を抱くものだと何だか可笑しかった。


「体調はよさそうだな。何か思い出せた?」


 子どもはちょっと目を伏せた。


「……ユウ」

「ユウ? ああ、もしかして名前?」


 頷いた。そうか、とアトレイも頷く。声質は昨夜のものと違いがない様に思われた。しかし声色は幼い子どものものであった。


「ユウね。他には?」


 ユウは首を横に振った。アトレイは頭を掻く。


「駄目か。どうして遺跡にいたのかとか、あの影の竜をどうやって倒したのかとか、全然わからない?」


 影の竜? とユウは首を傾げる。


「わかんない? お前から出て来て、お前が倒したんだよ? こう、手を前にやって、横にこうやってさ」


 ユウは首を横に振った。ちっとも覚えていないらしかった。

 これ以上聞いても無駄だろう、とアトレイは肩をすくめた。


「ま、いいか。みんな無事だっただけで儲けもんだ。腹減っただろ。飯にしようか」


 食事、と聞いてユウは目を輝かした。そう言われると、お腹の中が空っぽである事を思い出す様で、急に空腹感が増して来て、くうと音までなる始末だ。ユウは頬を赤らめた。

 小屋に入るとまだニンジャが寝ていた。


「起きろニンジャ。朝飯にするよ」

「んごっ」


 ニンジャは瞬きした。起きたらしい。首を左右に曲げてほぐしながら言った。


「もう朝になったのでゴザルか」

「お前さ、寝る時は目ぇ閉じてよ。怖いよ」

「寝てる最中の事はちっともわからんでゴザルから、責任は持ち兼ねるでゴザル」


 それはそうかも知れない。アトレイは諦めて暖炉の前に立った。


「起きろ焚火ちゃん。朝の料理の時間だぜ」


 そう言って薪を一本放り込む。するとたちまち火が元気よく燃え上がった。そうして料理するのにちょうどいい大きさに落ち着く。

 アトレイは小鍋で芋を茹で、大鍋でベーコンと玉葱を炒め、さらにキャベツも入れた所に水を注いだ。それから干した香草をちぎって入れる。塩で味付けし、炉の端の熾きの所に大鍋をどかしてから、今度は大きなフライパンを出して卵を三つ割り入れ、その横に腸詰も放り込んでじゅうじゅうと焼いた。

 食欲を刺激する匂いが漂い、ユウはごくりと喉を鳴らした。


「遺跡守、中々手際がいいでゴザルな」

「一人暮らし長いからね。あ、皿出して。そっちの棚ね」


 ユウはハッとして立ち上がり、戸棚の方に行った。しかし背が小さいせいで届かない。

 つま先で立って、両腕を伸ばしたままぷるぷる震えていると、ニンジャがからからと笑った。


「はっはっは、ちびっ子だから届かんでゴザルな。拙者に任せるでゴザルよ」


 そうして代わりに皿を出してくれた。


「さ、これを運んでくれでゴザル」


 ユウはちょっと不満げに頬を膨らましながら、皿を食卓に運んだ。もっと背が高くなりたいなと思った。


「そういえば子ども、おぬし何か思い出したでゴザルか?」


 ユウは頷いて、ユウだと名乗った。


「おお、名前を思い出したのでゴザルか。そうそう、拙者はニンジャでゴザル。自己紹介をすっかり忘れていたでゴザルな。遺跡守、おぬしは何というでゴザルか?」

「俺アトレイね。アトレイ・ベネシュ」


 とアトレイは料理をしながら言った。ニンジャはうむうむと頷いた。


「拙者たち三人、共に同じ危機を乗り越えた仲間という事でゴザルな! 何だか運命感じちゃうでゴザル!」

「気のせい。さ、自分の皿によそいなさーい」


 とアトレイは食卓の真ん中に大鍋をどんと置いた。たっぷりのスープがほかほかと湯気を立てている。

 ユウは早速自分の皿になみなみとよそい、スプーンですくって口に運んだ。うまい。口に入って来た食物に反応してか、胃袋がもっともっとと急かし出す。

 目玉焼きと腸詰とを皿にあけたアトレイは、自分も椅子に腰を下ろす。


「ニンジャ、食わないの?」

「あ、拙者は自前の兵☆糧☆丸があるのでお構いなくでゴザル」


 と、ニンジャは懐から、小さな丸薬みたいなものを取り出した。


「なにそれ。豆?」

「いや、これはニンジャ特製配合兵糧丸でゴザル。見た目は豆粒程度の代物でゴザルが、これ一つで一日元気に活動できるという優れものでゴザルによって」

「え、すご……」


 なにかヤバい薬でも入ってるんじゃないか、とアトレイは思ったが口には出さなかった。


 ユウはスープをすすり、パンや目玉焼き、腸詰などをぱくつきながら、ニンジャの方をずっと見ていた。食べる時になれば、この覆面の変なやつも顔を出さざるを得まいと思ったのだ。

 しかし、ニンジャは隠したままの口元に兵糧丸を持って行ったと思うや、そのままもぐもぐと口を動かし出した。手にはもう何も持っていないらしかった。早業なのか、それとも謎の力か何かなのか、ともかくニンジャの素顔は見えなかった。

 残念に思いながらも、ユウはスープを三杯もおかわりして、すっかり腹がくちくなった。


「それで、名前以外は思い出せないのでゴザルか」


 とニンジャが言った。

 ユウは頷いた。よく寝たし、沢山食べたから頭ははっきりしているのだが、記憶となると全然思い浮かんで来なかった。


「あんな場所にいたのでゴザルから、何か魔法的な要因でゴザルかな? アトレイ、どう思うでゴザル?」


 食器を片付けてお茶を淹れていたアトレイが言った。


「どうだろうね。しかし人工精霊ではなさそうだし、ホムンクルスの一種にしては墓所内部の設備がなさすぎだったし……」

「しかし、内部空間の拡張具合といい、薄緑の光といい、どう考えても魔法施設でござらぬか?」

「うん。それは間違いないと思うけど、ともかく、そういうのは俺は門外漢だからなあ……魔法に詳しい奴に調べてもらわねえとわかんないな。ま、ひとまずそれは置いといて、遺跡がどうなってるか見て来るかな」

「拙者も同行するでゴザル」


 不思議な、しかし嫌いではない香りのお茶を飲んでから、ユウはアトレイとニンジャの後について家を出た。

 家の陰からファルウたちが覗き見ている。アトレイはそちらに目をやって、口端を緩めた。


「留守番、頼んだぞ」


 ファルウたちはこそこそと物陰に引っ込んだ。あれは何? とユウが尋ねた。


「あれ? ファルウ。ふかふかの動物だよ。気まぐれで餌あげたら懐いちゃって」


 朝に少しだけ触ったあのふかふかの手触りを思い出し、ユウは何となくむず痒い気持ちになった。ふかふかしたものはとても素敵だと思った。


「そういやお前裸足だなあ。でかいけど、これ履いとくか。それに薄着だし、せめて何か羽織らんとなあ」


 アトレイは自分の履き古した靴と予備のマントをあてがった。しかしどちらもだいぶ大きい。ユウは歩きづらそうに足を上げたり下げたりした。


「駄目か。それじゃあ裸足の方がまだいいかな」


 もう少し小さかったら丁度いいのに、とユウが呟くと、まるでそれを聞いたかの様に靴がするすると縮まって、ユウの足がぴったり収まるサイズになった。マントもきゅうと小さくなり、引きずるくらいだったそれがちょうどいい大きさになる。

 ユウは勿論、アトレイもニンジャも目を丸くした。


「え、なにそれは」

「魔法でゴザルか? しかしそんな魔法見た事も聞いた事もないでゴザル」


 ユウは困惑した様に首を横に振った。なんだかわからない、と言った。


「……まあ、いいや。お前が不思議な力を持ってるのは確かみたいだし、そのうち何か思い出すだろ。ともかく行くぞ」


 それで三人は遺跡の方へ歩き出した。

 磨き上げた様な青空が広がり、いいお天気である。朝方の雨で植物たちが勢いづいて、新緑の緑がより濃くなった様に見える。


「星誕祭も済んだし……今夜は星の欠片でも集めに行くかな」

「お主は探索者なのでゴザルか?」

「まあ探索もするけど、基本的には薬の原料ばっか集めてるよ。それを素材のまま売ったり、調合したりして金にしてる」

「成る程、薬師でゴザルか。そういえば棚にも色々あった様でゴザルな」

「まあね。森を探せば材料はタダでいくらでも手に入るし、この周辺は材料多いわりに遺跡が結界張ってくれてて骸獣が近づかないからね。見張塔の結界と二重になってる分、他より安全なんだよ」

「ははあ、それでこんな辺鄙な所に独りぼっちで住んでいるのでゴザルか。拙者、てっきりコミュ障の引きこもりなのかと」

「ぶつよ?」

「冗談でゴザル。しかし薬師にしては武術の腕も立つのでゴザルな」

「薬も武術も同じ師匠から習ったんだよ。育ての親だったし」

「ほほう、それは中々立派な御仁だったのでござろうな」

「うんにゃ、確かに強かったし技術もあったけど、人間的にはダメダメだったな。あちこちに女作って酒癖悪くてさ、最後は酒毒で死にやがって、医者の不養生とはよく言ったもんだよ。まあ、教わったもののおかげで食うに困らず生きて行けてるんだけどさ」


 話しているうちに遺跡の入り口まで来た。入り口はすっかり崩れ落ちていたが、ドーム自体は残っている。

 アトレイが瓦礫をどけて中を覗き込むと、長い廊下なぞ存在せず、外見通りの石造りのドーム状の部屋が、がらんどうになって広がっているばかりだ。


「廊下の天井が崩れて来た筈なんだけど」

「そもそも廊下がないでゴザルな……」


 壁を六尺棒でこつこつと叩き、アトレイは呟いた。


「マナの気配はないし……確か苔が覆ってたと思ったんだけどな」

「でゴザルな。うーむ、こんな事なら採取しておけばよかったでゴザル」


 ユウはぽかんとしたまま、高い天井を見上げていた。どうやったら石をこんな風に積めるんだろうと思った。


「お主はここで寝ていたんでゴザルよ。覚えていないでゴザルか?」


 ニンジャに言われて、ユウはふるふると首を振った。風景は何となく見覚えがある様な気がするけれど、どうして自分がここにいたのかはわからない。

 結局何もわからないまま三人は遺跡を出て、家まで戻って来た。


「全然手がかりがなかったでゴザルな」

「ま、簡単にわかりゃ世話ないわな……俺はちょっと薬作るけど、お前らどうする」

「拙者は兵糧丸の材料を集めたいのでその辺を探索するでゴザル」

「そうか。この時期は捕食生物が冬眠明けで元気だから気をつけてな」

「了解でゴザル。しかし拙者木っ端動物ごときには負けぬでゴザルからして」


 それでニンジャは出て行った。アトレイは棚の瓶をいくつも出して、テーブルの上に並べている。それらを少しずつ薬研に出して、ごりごりとすり潰す。潰したものを煎じ鍋に移して、水を加えて炉にかけた。ぷんと薬草のにおいが鼻腔をくすぐる。


 ユウは寝床に腰かけて、何となく小屋の中を見回した。棚には大小の瓶が並び、天井からは干した薬草の束や細い枝を束ねたものなどがぶら下がっている。炉の上には燻製にする意図か、腸詰や開いた魚などが下げられていた。朝と同じだ。

 ふと、後ろがごそごそと動いたので驚いて振り向くと、寝床の毛布の中からファルウたちが顔だけ出してユウを見ていた。黒い瞳に自分の姿が映るかの様に思われた。


 ユウはそーっと手を伸ばしてみた。

 ファルウたちは鼻先をひくつかして、ユウの指先をくんくんと嗅いだ。少し湿ったファルウの鼻先が指に触れると、ユウはびっくりして手を引っ込める。ファルウの方もそれに驚いて布団の中へと退却する。そうしてまた顔だけ出してユウの方を窺うのである。

 そんな風におっかなびっくりのやり取りをしているユウとファルウたちを見て、アトレイは何となく和んだ気分になった。


「……あっ、やべ」


 気を散らしているうちに、鍋がぶくぶく煮立っていた。



  〇



 日が暮れかけた頃に、アトレイは作った煎じ薬を棚に並べた。

 ユウは寝床に腰かけてファルウをぬいぐるみの様に抱きしめている。何となくうとうとした様子で、目を閉じたまま小さく前後に揺れていた。

 炉に薪を放り込み、そろそろ夕飯の支度かと思っていると、ニンジャが戻って来た。


「ただいまでゴザル」

「おかえり」

「遺跡の光が消えているでゴザル。それに、探索中に骸獣に遭遇したでゴザルぞ。結界が消えているのではないでござらぬか?」

「マジで? いや、でもここの結界が消えたからってすぐに骸獣が来るかね?」

「しかし現に拙者は遭遇したでゴザル。まあ、まだ肉体再構築前のゾンビでござったので、危なげなく仕留めたでゴザルが」

「ふうん? となると新しく骸獣化が始まったのがいるって事か……?」


 アトレイは外に出た。確かに暗い。いつもならば遺跡の発する淡い光でここいら一帯は薄ぼんやりと明るいのだが、今夜は真っ暗だ。空に瞬く星ばかりがちかちかと光っている。

 小屋に戻ったアトレイは困った様に腕組みした。


「……何か変だと思ってたんだよなあ。気のせいだと思いたかったけど」

「どうするでゴザル? 骸獣に寝込みを襲われるのは勘弁でゴザルよ」

「俺だってやだよ。ともかく飯食ってから考えよう」


 小屋の中では炉の火が赤々と燃えていた。影が長く壁まで伸びて、火が揺れる度に影が踊る。ユウは寝床にごろりと横になってむにゃむにゃ言っていた。

 ファルウたちはその腕の中から抜け出して、小さな後足で立って棚の上に置かれているパンを狙っているらしかったが、アトレイが戻って来るとそそくさと物陰に逃げて行った。


 朝の残りのシチューとパン、炙った燻製肉とで夕飯を済ました。

 炉に薪を足し、お茶をすすって、アトレイは呟いた。


「星の欠片を集めに行きてえけどな……」

「危険ではござらぬか?」

「深部ほどじゃないさ。だが、この近くに骸獣が出たって事は、見張塔の結界まで消えちまったのかな? そうだとするとここも安全じゃないなあ」

「ふむ。しかし上位種でもない限り、骸獣相手でも負けるとは思わぬでゴザルが」

「ただな、留守中にここを荒らされるのが嫌なんだよな……」


 アトレイはちらと炉の火を見た。今は火が落ち着いて、赤い熾きが光っているばかりだ。

 夕飯を終えて、ファルウたちと戯れていたユウが、不意にハッとした様に顔を上げた。ちょっと不安そうにきょろきょろと辺りを見回し、何か来たよ、と言った。


「ん?」


 アトレイは眉をひそめて手を止め、耳を澄ました。風に揺れる葉擦れの音の中に、深く低い息遣いが聞こえて来た。アトレイはさっと立ち上がって六尺棒を手に取った。


「ニンジャ、ユウを頼む。あと炉に薪をいっぱいくべてくれ」


 そう言って小屋の外に飛び出した。

 風が吹いていた。木々の葉がざわめいている。遺跡の光がないせいで辺りは妙に暗い。その暗がりの向こうから、何かがこちらに歩いて来ている。二本足だ。動物ではない。


「どちらさま!」


 とアトレイは怒鳴った。影は足を止めた。


「ひ、ひひ、ひ」


 影が笑った。長い髪の毛が風で暴れている。その間から、血の様に真っ赤な瞳が見えた。と同時に影が一足で距離を詰めて来た。鋭い牙と、長い爪が見えた。アトレイは面倒臭そうに舌を打ち、六尺棒で攻撃を受け流しつつ回り込んだ。

 攻撃をかわされた影は、不思議そうな顔をして振り返った。


「よりにもよって吸血鬼(ヴァンパイア)かよ……」


 骸獣は様々な種類がある。生前の生き物の特徴をそのままにする事が多い。

 最初は単に動く死体として、のっそりした動きをするばかりだが、瘴気が体に充満して来ると、頭部や心臓部といった、生前の核となる部分に瘴気が結晶を始める。そうすると肉体が再生を始め、動きは俊敏になり、知性を得たり、特殊能力を備えたりする。

 特に人間が元になった骸獣は高い知性や特殊能力を得る場合が多く、そのどれもが油断できない特性を持つ。


 吸血鬼はその人型の骸獣の成長先の一つだ。名の通りに生物の生き血を好む。

 噛まれると瘴気が体内に注ぎ込まれ、死んだ後に骸獣化し、噛んだ吸血鬼の意のままに操られる事になるという。

 危険な骸獣だが、基本的に日の光を嫌う骸獣の中でも飛び抜けて日光を苦手とするという特性から、昼間に遭遇する事はほとんどない。夜行性の代表の様な骸獣である。


(眷属はいないな……知性もあんまりないし、まだなり立ての吸血鬼ってところか)


 不幸中の幸いだな、とアトレイは六尺棒で吸血鬼に突きかかった。吸血鬼はひょいとそれをかわしてアトレイに腕を伸ばす。アトレイは滑る様にその一撃をかわすと、一気に身を翻して、その勢いのままに横なぎの一撃を放った。


「おっ」


 吸血鬼はすさまじい跳躍を以てそれを飛び越える。そうして上から両腕を振りかぶってかかって来た。

 アトレイは薙いだ棒の勢いを殺さず、そのまま手首、腰、反対の手と、自分の体を回す様に持ち替えて、二撃目を吸血鬼に叩き込んだ。空中で身動きができなかった吸血鬼はこれをまともに食らい、吹っ飛ばされて地面を転がった。


「フェイントにつられる様じゃまだまだだぜ」


 なり立てで戦闘技術もお粗末だな、とアトレイは棒を構え直す。

 吸血鬼は牙を見せて唸ると、不意に不気味な笑いを浮かべて、さっと踵を返した。凄まじい速度で小屋の方へと向かう。


「あっ、おい、そっちはやめとけ!」


 アトレイがその後を追う前に、吸血鬼は入り口から小屋へと飛び込もうと戸を蹴破って、ばちんと弾かれた。まるで見えない壁に阻まれたかの様だ。壊れた戸の隙間から、赤々と燃える炉の明かりが漏れ出した。

 吸血鬼は何が起こったのかわからないまま、仰向けにひっくり返る。そこにアトレイが飛びかかった。


「やめとけって言ったのに、人の話を聞かないから」


 アトレイは両腕を押さえる様に足を乗せ、素早く六尺棒を持ち直して石突きの先端で心臓部分を貫いた。吸血鬼が牙をむき出しにして叫ぶ。見るも恐ろしい形相だが、アトレイはちっともひるまずに間髪入れず棒を引いてから振り下ろし、吸血鬼の頭蓋を粉々に砕いた。

 指先がピンと力を入れて震えてから、ぱたんと脱力した。どろりとした黒っぽい血が地面に広がる。


 アトレイは息をついて、吸血鬼の死骸を足で転がした。

 既に死骸は溶けかけている。瘴気で保もたれている骸獣の肉体は、核を破壊すると崩壊する。吸血鬼は探索者がよく着る長衣を着ていた。森で死んだ探索者が骸獣化したのだろう。


(そんなに古くねえな。最近死んだとなると……やっぱり見張塔の結界までやばいか)


 アトレイはさっと踵を返して小屋の中に戻った。腰の刀に手をやっていたニンジャが、ホッとした様にその手を降ろした。


「仕留めたでゴザルか? 戸が破れたゆえ、ここに入って来るものかと……」

「その火が燃えてる限り小屋の中は安全だよ。ただ火が立ってねえと駄目なんだわ」

「ふむ? 何が出たのでゴザル?」

「吸血鬼。弱かったからいいけど、俺吸血鬼嫌いなんだよなあ」

「好きだと言う奴なぞ聞いた事ないでゴザル」

「それもそうか。いずれにせよ、もうここも骸獣が近づかないってわけじゃなくなったみたいだ。昨日の今日でこれは流石に想定外だわ」

「吸血鬼が出る様ではこの辺はそもそも安全な地域ではないでゴザルな」

「うん。骸獣もそうだけど、最近はシュミグナハルの大型個体も見たし、正直不安材料しかないわな」


 アトレイはリュックサックの中身を空けて、あちこちの道具を改めて詰め直し始めた。ニンジャが首を傾げる。


「どうするのでゴザル?」

「ユウの事を相談がてら、知り合いの所に行く。後回しにしようと思ってたけど、骸獣が出る様になったんならぐずぐずしてられねえ。今夜は薪を足し続けてずっと火を起こしといて。夜のうちに準備終わらして、明るくなったらすぐ出発するから」


 アトレイは棚の中身をどんどん引っ張り出して、次々に選り分けて行く。


「知り合い、となると聖都か魔都でゴザルか?」

「いや、森のもっと奥だ」

「もっと奥? 結界がなくなってるのに危険ではござらぬか?」

「これからどんどん危険になるし、奥は元々危険だからな。行くならむしろ早い方がいい。それに、知り合いの所は安全だからな」

「ふうん。まあいいでゴザルけども」


 ニンジャはやれやれと頭を振って、ユウの方を見た。


「しかしユウ、よく襲撃に気づいたでゴザルな。拙者もアトレイも気づく前だったのに」


 そう言われて、ユウは頬を掻いた。何となくわかった、と言った。ニンジャはうむうむと頷いている。


「やっぱりお主は只者ではないでゴザルな! あの遺跡に眠っていたのだから、きっと物凄い力を持っているに違いないでゴザル。拙者、お主が記憶を取り戻すまでは同行するつもりでゴザルから、よろしくでゴザル!」

「ニンジャ、そっちの籠取ってくれ。でゴザル」

「これでゴザルか」

「それでゴザル」


 あれこれと準備をしている二人を見ながら、ユウがぽつりと、自分のせいかな、と呟いた。アトレイもニンジャも顔を上げる。


「心当たりがあるの?」


 ユウは首を横に振った。ただ、自分が遺跡から出たせいで結界が消えたんじゃないかと思う、と言った。


「それはそうかも知れんが……別にお前のせいじゃないよ。こんなになるなんて誰も想像してないもん」

「そうでゴザルよ。お主が気にする事はなんにもないでゴザル。さ、明日は早いらしいでゴザルから、ファルウたちと一緒にいい子でねんねするでゴザルよ。そうだ! 拙者が子守唄を歌ってあげよう! ねぇええええぇんねえぇぇえええぇえんころぉぉおおりぃいよぉぉぉおおお!」

「うるせえ」


 アトレイの手刀がニンジャの頭を一撃した。


 そうして一晩明けて翌日である。

 吸血鬼以降骸獣の襲撃はなく、荷物の最終点検をしたアトレイは、寝床でくうくう寝息を立てているユウをゆさぶった。


「起きろー、朝だぞー」


 ユウはもにゃもにゃ言いながら体を起こした。寝ぼけているらしく、抱き枕代わりにしていたファルウを抱きしめたままだ。抱かれたファルウはもそもそと体をよじらしている。

 アトレイはやれやれと肩をすくめた。


「暢気なもんだなあ……なあ?」


 近くに立っているニンジャに言ったつもりなのだが返事がない。

 変だなと思って目をやると、目を開けて突っ立ったまま微動だにしていない。しかしぐうぐうと寝息の様なものが聞こえた。


「あっ、このやろう、ちゃっかり寝てやがる」


 立ったまま、しかも目を開けて眠れるから、こういう芸当ができる。

 パンと水だけの簡素な朝食を済ます頃にはユウの頭も覚醒し、ニンジャも目を覚まし、いよいよ出発という段になった。アトレイは火の消えたカンテラの蓋を開けた。


「さて、行くぞ。焚火ちゃん、おいで」


 そう言うと、炉の中で燃えていた火が手の平に載るくらい小さくなって、ひょいと炉を飛び出してカンテラの中に収まった。ユウは驚いてまばたきし、ニンジャは「おや」と言った。


「その火は魔道具の一種でござったか」

「まあ、人工精霊みたいなもんだ。火が起こっていれば、骸獣避けの結界になってくれる。範囲狭いし、燃料の消費がちょっと多いのが難点だけど、この小屋守るには十分だったからね」


 アトレイは背負い箪笥にカンテラをぶら下げると、六尺棒を持って外に出た。朝露に濡れた木々のにおいが全身を包み込む。

 そこいらはまだ霧がかかって薄暗いが、もうその霧の向こうには朝日の気配が漂っている。

 昨夜の吸血鬼の死骸はもうすっかり溶けて、黒々とした染みと服を地面に残すばかりになっていた。


 アトレイは周囲を見回し、それから空を見た。


「方角は……あっちだったな。ここから四日ばかりかかるぞ」

「それなりの距離でゴザルな」

「ま、それでも森のめっちゃ浅い所なんだけどな。でもそこまで行けば裏道に入ってすぐに着く」


 裏道? とユウが首を傾げた。アトレイは不敵に笑って、後のお楽しみさ、と言った。


「よし、行こう。暗くなる前に知ってる拠点まで行きたいからな」


 それでアトレイは歩き出した。ニンジャがその後に続く。

 ユウは小屋の方を見た。壊れかけた入り口からファルウたちがこちらを見ている。ユウは小さく手を振って、ばいばい、と言った。そうしてアトレイたちの方に駆け寄って二人を追い抜き、ずんずん歩き出す。

 その時、ファルウが一匹、アトレイたちの足元を駆け抜けてユウの背中によじ登った。ユウはびっくりして足を止める。

 ファルウはユウの肩にしっかと掴まって、鼻先をその頬に擦り付けた。ユウはくすぐったそうに笑う。


 アトレイとニンジャは顔を見合わせた。


「……あんなに懐くとは」

「あれもユウの力なんでゴザルかねえ?」

「さあねえ。ま、ああいうのなら平和でいいけどな」


 ともかく、それで三人と一匹は森の奥へと進んで行った。


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