2.真夜中のニンジャ
家に帰り着く頃にはすっかり夜が更けていた。
暗い森は歩きづらい事この上なかったが、夜にしか取れない素材を集めに出た事も幾度となくあるから、危なげなく帰って来た。無論夜行性の捕食生物には注意を払ったが、結界の影響のおかげで骸獣の心配がほとんどないのが、アトレイとしては有難かった。
相変わらず遺跡は薄ぼんやりとした光を放っている。
アトレイは小屋の中に荷物を降ろすと、炉の火を起こしてフライパンを置き、買って来た分厚い肉を焼き始めた。
ファルウたちが足元をうろちょろしている。アトレイの足に前足を置いて、小さな爪を服に引っ掛けて引っ張る者もある。
「はいはい」
買って来たパンをちぎって投げてやる。ファルウたちはそれを咥えて物陰に引っ込んだ。
焼けた肉を切り分けて皿に盛り、酒瓶と一緒に持って外に出た。
流れ星は雨の様に空を流れている。森は他に光源がないだけ、町で見るよりも星がくっきりと見える様だ。
肉を食い、酒を傾けながら、今日出会った姉妹の事を思い出す。
妙な組み合わせだった。しかも、ロザリーは仲間と言っていたから、あの二人以外にも誰かがいるのだろう。
森に何の用事があるのだろうかと思う。単純に考えれば森の遺物を探索する者たちだろう。ロザリーが魔法使いか何かであればその筋はあり得る。においや音に敏感ならば、目が見えなくとも森ではわかる事もありそうだ。
しかし、それならば足を挫いたまま動けなかったのも変な気がする。魔法使いであれば、何かしらの対策は講じられる筈だ。
「……ま、俺には関係ないか」
酔いの回って来た頭では、大した事は考えられない。肉をたいらげたアトレイは、肉汁をパンでぬぐって綺麗にし、すっかり片付けてから、体を拭いて寝床に入った。寝る前に色々なイメージが頭をよぎって行ったが、それが次第にもつれているうちに意識が遠のいた。ファルウたちがこそこそとやって来て、布団の上にのぼって丸くなる。
すっかり眠り込んだと思った頃、急に爆発音がして、地響きで棚の瓶がびりびりと震えた。ファルウたちがたちまち物陰へと逃げ込む。
「な、なんだ?」
アトレイは跳ね起きるとコートを羽織り、帽子をかぶると、六尺棒とカンテラを引っ掴んで外に飛び出した。
開けた夜空に星が瞬いている。流れ星は随分数を減らしていて、薄雲もかかっている様な気配だ。もう夜半を過ぎているらしい。
遺跡の方から煙が上がっていた。アトレイは顔をしかめながらそちらに足を向ける。
少し行った所で変な奴が遺跡の入り口に張り付くようにしているのを見つけた。
「むう、全然でゴザルな……扉は開かないし、かといって隠し扉がある様子もなし。炸裂玉も効かぬし、どうなっているのでゴザルか?」
ぶつぶつ呟いているその姿は全身黒ずくめである。頭にも黒頭巾をして髪の毛は見えず、口元も黒い布で覆って、要するに目しか見えていない。それ以外は全身真っ黒である。有体に言って怪しい。アトレイは眉をひそめた。
「……何やってんの?」
「ぬお!」
黒ずくめの変な奴は、驚いた様に跳ね上がった。
「な、何者でゴザル! 遺跡荒らしでゴザルか!?」
「ここに住んでる者……でゴザル」
「なんと! うぬぬ、こんな辺鄙な所に住人がおったとは……」
「さっきの爆発はお前の仕業かこのやろー。さては遺跡荒らしだな?」
とアトレイは六尺棒を突き付ける。黒ずくめは軽い身のこなしで後ろに跳び退った。
「ち、違うでゴザル! 拙者は失われし古代の秘術を現代に蘇らせし者! 闇に生き、影を走るダークウォーカー、ニンジャでゴザル!」
「へえー……そのニンジャが何の用なの」
「それはでゴザルな、実はこの遺跡に莫大なお宝が眠っていると、さる筋からの情報を仕入れたのでゴザル。それを聞いた拙者、迅速果敢なる判断を以てしてここに参上、調査の真っ最中だったというわけでゴザル」
と、ニンジャは胸を張って自慢げにべらべらと喋る。アトレイはふむふむと頷いた。
「それはつまり……遺跡荒らしって事かな?」
「……ま、まあ広義ではそう言う場合もあるかも知れないでゴザルな」
アトレイは黙ったまま六尺棒を構え直した。ニンジャは大慌てでなだめる様な手つきをする。
「ま、待つでゴザル! 拙者は裏工作は得意でゴザルが、直接戦闘はそれほど得意としておらんのでゴザル!」
「いや、そっちの事情は知らないけど……」
「第一、この遺跡はお主のものではないでござろうが! 森の遺物は早い者勝ち! 拙者が何をしようが文句を言われる筋合いはないでゴザル!」
「骸獣と戦うわけでもないのに夜中に爆発起こす様な奴を放っておくわけにいかないだろうよ。そもそも安眠を妨害されてこっちは機嫌が悪いんだぞ。一発殴らせろ」
「おぬしにはロマンがないのでゴザルか! 開く事のなかった古代の遺跡……その中に眠っているものが何なのか! 好奇心が刺激されるでござろう!?」
「されるね」
「では見逃してくれでゴザル!」
「それとこれとは話が別だと思うな」
「若い癖に融通が利かねえでゴザルな! そんな型にはまった生き方ではなく、もっとパンクに生きてみたらどうなんでゴザルか!」
「前向きに考えとく」
と言いながら、アトレイはじりじりとニンジャに近づいた。ニンジャもじりじりと後ずさる。少しばかりの膠着状態の後、ニンジャがさっと懐に手を入れた。
「こうなっては致仕方なし! 正当防衛! シュリケンを食らえ!」
素早く腕を振り抜くと同時に、星の様な形をした投擲武器が投げ放たれた。アトレイは六尺棒を振って叩き落す。その隙を突くかの様に、ニンジャは腰の刀を抜き放って突っ込んで来た。
アトレイはひらりと身をかわし、六尺棒で斬撃を受け流すと、そのまま手の中で回す様にして、反対側でニンジャを一撃した。
すると、急にニンジャが煙を立てて爆発した。アトレイは顔をしかめて口元を手で押さえる。
「これぞミジンガクレの術! スキアリ!」
背後からである。頭上に刀を振りかざしたニンジャがかかって来た。
しかしアトレイは振り向きもせず、手首の動きだけで六尺棒を後ろへと回し打ちした。それがニンジャの腰をしたたかに打ち据える。
「んごおっ!」
腰骨から全身に響く衝撃に、ニンジャは悶絶した。膝を突いたニンジャの首元に、アトレイは六尺棒を突き付けた。
「降参する?」
「ぐぬぬ、拙者の術が通用しないとは……無念でゴザル」
ニンジャがかくんと首を垂れたその時、急にごつんと大きな音がした。そのまま何かを引きずる様な音がする。
二人は驚いて音のした方に目をやった。遺跡の入り口が音を立てて開いて行く。中からは薄緑の光が漏れ出し、同時に思わず目を閉じるくらいに強い風が吹き出して来た。
「な、何事でゴザルか! 風つめたっ!」
「わからん……! 風つめたっ!」
春の宵風を巻き込んで肌に冷たい。二人が身を縮こめる様にして目を細めていると、やがて風が止んだ。奇妙にしんとしているが、ずっと鳴り続けている妙な音が耳の底の方でじんじんと響いている様に思われた。アトレイとニンジャは顔を見合わせる。
「開いたでゴザルな」
「うん。なんで急に……?」
遺跡の中は薄緑の光で満ちていた。墓地にも飛んでいる燐光のが、いくつもいくつもふわふわと飛びながら明滅している。
「遺跡守、ここは一時休戦するでゴザル。好奇心がびりびり刺激されて、拙者もう辛抱たまらんでゴザル」
「いや、遺跡守じゃねえよ……まあいいか。でも怪しい動きしたらぶっ飛ばすよ?」
アトレイも中が気になるので、ひとまず休戦に合意した。
それで二人は恐る恐る遺跡の中に入った。
中は狭い通路が伸びていた。照明らしいものはないのに、カンテラがなくとも歩けるくらい明るかった。壁や床のあちこちに苔が生えていて、それがうっすらと光を放っているらしい。
突然扉が閉まったりしないだろうか、とアトレイは時折後ろを見ながらも、慎重な足取りで進む。ニンジャはその少し前を歩いていた。
「……なんか、外観と中の広さが違くねえではござらぬか?」
「確かに。まあ、古代遺物なんだろうし、何か魔法がかかっててもおかしくないよな」
通路は一本道なのだが、妙に長い。既に外観から見た広さ以上の距離を歩いている様に思われる。かといって傾斜している風でもない。どうやら魔法で内部空間が拡張されているらしい、とアトレイは当たりつけた。
やがて、廊下が終わって広間に入った。
ドーム状の天井が広々と頭上にあって、足元では薄緑の光を放つ苔が、絨毯の様に床を覆っていた。燐光の数も増えて、自分の手のしわの一本一本までくっきりと見えるくらい明るい。
その広間の中央に、石でできた台があった。大体アトレイの腰くらいの高さである。寝台の様にも見える。そうして、そこに誰かが寄り掛かっているらしい事が窺えた。
「……埋葬された死者? その割にはなんであんな格好で……」
アトレイは恐る恐る近づく。周囲の壁を張り付くようにして調べていたニンジャもその後に続いた。
「あれ」
そうして近づいて見て、アトレイは思わず目を丸くした。石の台に背中を預けてすうすう寝息を立てているのは、八、九歳くらいの子どもだったからだ。前に投げ出された裸足の足の裏は汚れている。
「子どもでゴザルな」
「うん……生きてる、よね?」
「息はしている様でゴザルが」
「……他には特になにもなし、か」
アトレイは周囲を見回して呟いた。ドーム状の広間に他に出口はなく、窓もない。ここで完全に行き止まりの様だ。広間には石の台の他には光る苔が広がっているばかりで、他に目立つものは目につかぬ。
ニンジャは足元の苔を見て首を傾げている。
「光ってる以外は何の変哲もねえ苔でゴザルな。お宝の気配もねえでゴザル」
「ニンジャ、壁に変な所はなかった?」
「ないでゴザル。その子どもがお宝って事でゴザルか?」
アトレイは眉をひそめた。
古代遺跡に眠っている人型の何かといえば、旧文明で使われていたホムンクルスかアンドロイドの可能性がある。
しかし、ホムンクルスであれば生体保管用のカプセルに入っているし、アンドロイドならばコードがあれこれと繋がっている筈だ。
アトレイは石の台をまじまじと調べてみた。しかしただの石らしい。術式の紋様さえ入っていない。
仮にこの石台が休眠中のホムンクルスや人工精霊に魔力を供給するものであるならば、何かしらの魔法の気配があるのだが、それがちっとも感じられない。
「いや、そんな事ないと思うが。だってホムンクルスとかアンドロイドの保管施設にしちゃ、あまりにも設備がなさすぎるし、かといって強いマナの気配もないし」
「それならどうしてこんな所に寝ているでゴザル?」
「俺に聞かれても……」
と二人が腕組みしていると、子どもがもそもそと動いた。そのまま上体を起こして、大きく腕を伸ばしながらあくびをする。
「起きたぞ」
「起きたでゴザルな」
子どもはぼんやりした視線で辺りをきょろきょろと見回し、そうして二人に目を止めて小首を傾げた。
ここは、どこ? と言った。
年のせいだろうか、男の子とも女の子ともつかぬ声色である。大きめの無地のオーバーシャツを着て、くるぶしまでの長さのズボンと、装いも中性的だ。こげ茶色の髪の毛も、長くもなく短くもなくという感じである。ただ、前髪が少し長く、目にまでかかっていた。
「ここは遺跡の中だよ。君は、ホムンクルスか? それとも人工精霊?」
アトレイはそう言った。しかし子どもはきょとんとしたまま、目をぱちくりさせている。
「遺跡守、これは埒が明かんでゴザルぞ」
「そうねえ……」
その時、子どもが苦し気に顔をゆがめた。胸に両手を当てて、ぐっと押さえる様にうずくまる。アトレイは驚いて駆け寄った。
「大丈夫? 痛いのか?」
いやいやと頭を振る子どもの体から黒い霧がにじみ出て来た。それがドームの天井付近に集まって、段々と渦を巻いている。その中では小さな光が星の様にいくつもいくつも光っている。まるで小さな銀河の様だ。
「うわ、なんか始まったぞ」
「好ましい感じじゃねえでゴザルな」
子どもが大きく息をついた。脂汗が滲んでいて息も荒いが、苦痛は過ぎた様である。
渦が少しずつ広がって頭上を覆いそうに思われた。何となく嫌な予感のしたアトレイは子どもをひょいと抱き上げた。軽い。
「ともかくここを出た方がよさそうだ。行こう」
「あの渦は何かわかるのでゴザルか? その子どもから出たのでござろう?」
「わかんない。でも何か嫌な予感はする。俺の予感は結構当たるんだよな」
三人は大部屋を出た。子どもは抵抗もなく、連れられるままに一緒にやって来た。むしろすがる様にアトレイの体にぴったりと体をつけている。ほのかに温かい。
部屋を出て、振り返ると、黒い渦がもう部屋中に満ちて、廊下にまで溢れようとしている所だった。出てよかった、とアトレイは少し足を速めた。
「おぬし、名はなんと言うでゴザルか?」
とニンジャが子どもに問う。子どもは答えようとしたが、口を開いたのにぱくぱくとさせて、自分でも困惑した様に青ざめた。わからない、と言った。
「わからんのでゴザルか? 自分の名前なのに?」
子どもは頷く。アトレイは眉をひそめた。
「記憶喪失、って事かな……ま、ともかく早く出よう。閉じ込められちゃシャレにならん」
「……しかし遺跡守、入った時よりも道が長くねえではござらぬか?」
「うん。俺も思った。やだなあ、こういうの」
果たして廊下が長いのである。入る時は恐る恐るだったので足も遅かったのだが、今は早足だ。それなのに一向に外に出るどころか出口が見えない。歩けば歩くほどに出口が遠ざかっている様な気がするくらいだ。
アトレイたちは早足で進み続け、いよいよ駆け足になった。ちらと見た背後の黒い渦は、着実に迫って来ている。
「なんだか、その子を逃がしたくない様な感じでゴザルな!」
ニンジャが言った。
アトレイはちらと子どもの方を見る。子どもは少し息が上がっている様に思われた。それなのに、何となくうつらうつらしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「おい、大丈夫か?」
アトレイが言うと、子どもは小さく頷いた。しかしどうも大丈夫そうではない。
早く出なくてはなるまい、とアトレイはまた少し足を速めた。走りながらニンジャがぼやいた。
「ちくしょう、これのどこがお宝でゴザルか! ガセネタ掴まされたでゴザル!」
「……ご愁傷様。もうちょっと情報は精査しとけ」
それからしばらく走って行くと、急に出口が見えた。だがホッとしたのもつかの間、近づいてみると、入り口の重い石扉は固く閉ざされている。ニンジャが「ぎゃー」と言った。
「閉じ込められちまったでゴザル!」
「うーん、嫌な予感的中……参ったなあ」
アトレイは困った様に足を止め、後ろを見た。廊下の向こうから、黒い渦がこちらに向かっている。
しかし、少し様子が違う。渦が中心に収束する様に縮まったと思うや、そこから影の様なものが広がって、そうして何かの形を作り始めた。
「さらに嫌な予感がする」
「ちょ、やめるでゴザル、縁起でもない! 先手必勝!」
ニンジャは焦った様に懐に手を入れると、影に向かってシュリケンを投擲した。しかしシュリケンは影には刺さらず、ずぶりとその中に入り込んで、そのまま見えなくなった。
「効かねえーッ!」
「あの形は……竜か?」
影の輪郭がいよいよはっきりとした。爬虫類の様な体に、大きな翼を持つそれは、まさしく竜と言っていい姿である。影の筈なのに、表皮を覆う鱗の一片一片がぬらぬらと光を照り返している様だ。そうして目の部分に赤い光が灯った。
子どもはいよいよ眠ってしまいそうだ。アトレイの手にすがる様にしながら、頭がもう舟を漕ぎ出している。アトレイは子どもをニンジャの方に押しやった。
「頼む」
そうして六尺棒を構えて滑る様に影へと近づく。その勢いで棒を突き込んだ。
影を突いたという風な手ごたえではなく、それには確かな手ごたえがあったが、アトレイの思った以上に硬く、重かった。棒を握っていた手から、足の先まで衝撃が跳ね返って来る様だ。
「とんでもないな……」
いつもの夜のつもりだったのに、とアトレイは舌を打った。
だが、同時に何となく面白い様な気もした。繰り返しばかりだった日々に、突如として非日常が飛び込んで来たわけだ。困惑もあるが、沸き立つ心があるのも確かである。
アトレイは棒を手の中で滑らせて持ち直すと、そのまま後ろへ飛んで竜と距離を取った。
影の竜は不気味な声を上げて、口から紫色の炎を吐き出した。熱気が迫り、アトレイは顔をしかめつつ、棒を風車の様に回した。炎はそれに阻まれて勢いを止める。
「おお! 遺跡守、やるでゴザルな!」
寝かけている子どもを支えたニンジャが言った。
そんな称賛の言葉に頬を緩める暇もなく、アトレイは炎を掻き分ける様に前に跳び出した。そうして棒を両手で持って、上段から竜の頭に打ち下ろす。頑丈でしなやかな六尺棒は竜の眉間を打ち据えた。
必殺と言っていい一撃だったが、竜は不機嫌そうに唸ったきりで、そのまま首を乱暴に跳ね上げて、六尺棒ごとアトレイを押し返してしまった。
「うーん、こういうのの相手はあんま好きじゃねえな……」
面倒くさいな、とアトレイは口を結んだ。
森でも大型の捕食生物相手に戦う時は、こんな風に攻撃が効きづらい事がある。いくら棒術の腕前があっても、相性というものがある。賞金首や骸獣、捕食生物には易々と負けはしないけれど、今のところ自分の技はこの影の竜には通用しそうにない。
「ま、やるだけやってみるか。ニンジャ、子どもを頼んだぜ」
「任されたでゴザル!」
アトレイは竜へと距離を詰めた。竜は口を大きく開けていなないている。その声だけで体中がびりびりと震える様だ。
しかしアトレイはひるまずに、その開けられた口の中に棒を突き込んだ。喉奥に当たった、と思った時に竜が口を閉じた。六尺棒に牙が突き立てられる。しかしアトレイは素早く棒を引いて、竜の口から棒を抜き取った。棒には傷一つついていない。
「折られないぜ。特別製なんでね」
そのまま今度は棒を横なぎに振るい、赤く輝く右目を打ち据えた。
これには幾分か効果があったらしく、竜は身をすくませて数歩後ろに下がった。しかしその後は後肢をしっかと踏みしめて再び咆哮する。凄い迫力だが、アトレイは委縮せずににやりと笑った。
「ははん、効かないわけじゃないのね。実体化が仇になったな」
ニンジャのシュリケンの様に物理攻撃がすり抜ける様ではなすすべがなかったが、効果があるならば勝機はある。
アトレイが棒を構え直した時、不意に背筋に冷たいものが走った。後ろでニンジャが「どうしたでゴザルか」と言っている。
見ると、子どもがしっかと両足で立っていた。雰囲気が違う。長い前髪の間から見える赤く光る目が奇妙に虚ろで、何だか恐ろしい。
子どもは右腕を前に突き出し、手の平を影の竜に向けた。
アトレイはぞっとして咄嗟に地面に伏せた。
子どもが手をさっと横に薙ぐ。
すると、影の竜が溶けた。まるで子どもの手の動きに合わせる様に、さながら紙の上で墨が手で広げられた様に、びしゃりと跳ね散らかったのだ。そうして霧の様に漂い、そのまま宙に溶ける様に消えて行ってしまった。
あたりがしんとした。
「なんだこれ……」
アトレイは呆気に取られて呟いた。
子どもはかくんと力が抜けた様に膝を崩し、それをニンジャが慌てて支えてやっている。
「ま、魔法でゴザルか……? しかし竜を一撃で葬るとは……こんな出鱈目な魔法、聞いた事ないでゴザル」
「……ともかく、急場はしのげたのかな?」
アトレイが立ち上がって服の埃を払っているうちに、辺りを漂っていた燐光が次第に薄くなって来た。あっ、見えなくなると思う直前に、アトレイのカンテラに灯がともった。
ずっと聞こえていた奇妙な音が止んだ代わりに、何だかみしみしと家鳴りの様な音が聞こえる。アトレイとニンジャは顔を見合わせた。
「……崩れる?」
「かも知れんでゴザルな」
果たして天井からぱらぱらと石粒が落ちて来始めた。そこいらの壁にひびが入り、今にも全体が崩壊しそうな勢いである。
アトレイは六尺棒を構えて、ひびの入った石扉に強烈な一撃を加えた。ひびが広がる。
「もうちょいで壊せるな……」
「おっと、ここは拙者に任せるでゴザル!」
急にニンジャが前に出て、懐から手のひらサイズのボールみたいなものを取り出した。
「これぞニンジャ特製炸裂玉! こんな事もあろうかと……いや、思ってはいなかったでゴザルが、もし進入路がなければこいつで穴を開けようと思っていたのは事実! さっきはこれでも傷一つつかなかったでゴザルが、これだけヒビがあるならば効果もある筈! よもやこんな形で役に立とうとは思わなかったでゴザル!」
「いいから早くして」
「いざ!」
ニンジャは炸裂玉に火を点けると石扉に向かって放り投げた。
アトレイは子どもを抱き寄せてコートで包み、自分も両手で耳を押さえた。
少しの間があって、急にパッと光が迸ったと思うや、強烈な爆発が起こって、石扉が吹き飛んだ。
「はっはっは、どうでゴザルかこの威力!」
「崩れる! 逃げるぞ!」
アトレイは寝ている子どもを抱き上げて、ニンジャの脇をすり抜ける様にして外に飛び出した。後から慌てた様子のニンジャも出て来る。
耳の奥がじんじんする心持だ。アトレイは、こんな状況でもぐうぐう寝ている子どもを地面に降ろし、キャスケット帽を脱いで、ぱんぱんと埃を払った。
「やれやれ、ひどい目に遭ったでゴザルな」
「うん」
アトレイは嘆息して、寝ている子どもを見た。子どもは何でもない顔をして寝息を立てている。遺跡にいた事といい、さっきの奇妙な魔法といい、得体の知れない子どもである。しかし寝顔は年相応のもので、可愛らしくも見えた。
空にはもう雲がかぶさっているが、どことなく白々としている様にも思われた。もう朝が近いのかも知れない。
アトレイはあくびをした。
「とんだ夜になっちゃったな……寝が中途半端で気持ち悪い」
「遺跡守、その子どもはどうするつもりでゴザルか」
「どうしようかね……まあ、起きてから詳しく話を聞いてみるかな」
「そうでゴザルか。確かに、さっきは寝起きの様だったでゴザルから、ちゃんと意識が覚醒してからなら要領を得た話が聞けるかも知れないでゴザルな。楽しみでゴザル」
「え?」
「え?」
「お前も聞くの?」
「当り前でござろうが! 開く事のなかった遺跡から出て来た、見た事のない魔法を使う謎の子ども……こんなロマン溢れる面白そうな事、放っておけないでゴザル!」
「えー……まあいいけど、何か盗んだりするなよ?」
「失敬な! 拙者はニンジャであって泥棒ではないでゴザル!」
「ああ、そう」
またあくびが出た。なんとなく考えるのが面倒くさい。
雨のにおいがしている。既にぱらぱらと小粒の雨粒が降っているらしい気配である。
ともかく小屋に戻ろうと、アトレイは子どもをおぶった。
「ニンジャはどこから来たの」
「拙者の生まれは月都でゴザル。しかしニンジュツを身に着けてからは、あちこちを放浪しておったでゴザルよ」
「月都か……懐かしいな」
「おや、知っているのでゴザルか?」
「昔行った事があるよ。常夜ってのは不思議なもんだよな」
「むしろ拙者は外に出て昼間の明るさに驚いたでゴザル。ニンジャにはやはり夜が似合うでゴザルからな」
「そう……遺跡の事は誰から聞いたの?」
「誰という事もないのでゴザルが……万請負の待合室にいたら小耳に挟んだのでゴザル。拙者、耳はいい方でゴザルので」
「ふうん……ガセネタってか、お前の勇み足だったわけか」
「……ま、まあ、そうとも言うかも知れぬでゴザルな」
そうとしか言わねーよ、とアトレイは苦笑した。
そこで小屋に着いた。小屋に入ると屋根を叩く雨の音が大きく聞こえる様だった。
寝床に近づくと、家主が留守なのをいい事にそこを占領していたファルウたちが一斉にアトレイを見た。
「ちょっと、空けて空けて」
ファルウたちを寝床から追い出して、子どもを転がして毛布をかけてやる。
それから燻っていた炉の火を起こし、椅子に腰を下ろすとどっと疲れが出て来た。激しい動きをしたわけではなかったが、緊張感が途切れる暇がなかったせいだろう。狭い空間にずっといたというのも、精神的にちょっとくたびれた。
アトレイはうんと伸びをして、大きく息をついた。
「この子はまだ起きそうにないし、一時間くらい寝る。ニンジャも寝るなら椅子使っていいよ」
「いや、拙者は立ったまま眠れるのでお気遣い無用でゴザル」
「え、すご……」
妙な特技もあったものだなとアトレイは感心した。しかし仮にそういう事が出来ても、自分はきちんと寝床で寝たいと思った。
何だか色々な事が一度に起きた日だったな、と思う。
キャスケット帽を目深に降ろし、椅子に深くもたれて腕を組む。全身の力が抜けて行くという風に思ったら、思考がもつれて螺旋になり、次第にそれが取り留めもないイメージの連続になって来た。
アトレイが寝息を立て始めると、物陰から様子を窺っていたファルウたちが出て来て、子どもの寝ている布団の中にもそもそと潜り込んで行った。