12.決着
「ほらほら、どうしたのかな、勇者サマ。そんな剣筋じゃあたしは斬れないよ」
「ならば斬れるまで斬り続けよう」
「あははっ、やれるもんならやってごらん!」
オディロンの鋭い斬撃が幾つも走っているのだが、ベドジシュカは肉体を霧と化して、それをすべて空振りさせてしまう。
マナを込めた刀身で斬りつければ効果はある筈なのだが、流石にベドジシュカも高位の吸血鬼とだけあって、その対策も出来ているらしかった。恐らくは斬撃に合わせて霧を動かし、致命傷を避けているのだろう。
(ディの剣速はかなりのもんだが……吸血姫め、口だけじゃねえって事か)
アトレイは飛びかかって来た屍鬼を六尺棒でぶん殴って沈黙させた。
アトレイが得意なのは素早い動きによる速攻である。加えて身に着けた技の数々で、六尺棒を変幻自在に動かして相手を翻弄する。予想外の方向から打撃が飛んで来るので、相手は対応ができない。
尤も、骸獣は核を潰さない限りは死なない。しかし手足や首が折れればそれなりに動きは鈍るし、動けなくなる者もある。一撃一撃にマナを込めれば仕留められるが、今はともかく相手を無力化する事に注力し、とどめは後になってから刺すつもりだ。
だからそこいらに骨を砕かれて動けなくなっている屍鬼たちが転がった。オディロンとベドジシュカの戦いに介入できる屍鬼は一体もおらず、数も着実に減っていた。
アトレイは動きを止めて軽く呼吸を整えた。
オディロンの方は休む事無く剣を振り続けている。ベドジシュカはそれをかわしてはいるが、そちらに集中しないと危ない様で、攻勢に出る事はできていない。霧でオディロンを拘束するのも難しい様だ。どちらが先に根を上げるのか、根競べの様な状況に陥っている。
「おーい、ディ。大丈夫か? 手助けしようか?」
「まだいい!」
「そっか。まあ助けが要る様なら言ってくれな」
「うん!」
オディロンは何だか楽しそうである。猫耳がぴこぴこ動いている。強敵を相手に高揚しているのだろうか。アトレイが屍鬼をみんな食い止めているから、目の前の敵に集中できるのが余計にオディロンを楽しませているらしかった。
(ま、勇者はともかく剣聖に選ばれる様な奴は多かれ少なかれバトルジャンキーの気質があるからなあ)
アトレイはオディロンとベドジシュカを横目に見つつ、倒れて呻いている屍鬼に次々ととどめを刺して回った。
ほどなくして、動き回っているのはオディロンとベドジシュカ、それにアトレイだけになった。
アトレイは棒に寄り掛かって、二人の戦いを見物した。
相変わらずベドジシュカは霧になって攻撃をかわし、オディロンは剣を振り続けている。決定打は与えられていない様だが、ベドジシュカの方も完璧にかわし続けているわけではないらしく、どうやら刀身に触れた部分が少しずつ削られて、霧自体は少しずつ減っている様にも思われた。
「気の長い奴らだなあ……」
よくもまあ、あの速い動きをずっと続けられるもんだ、とアトレイは呆れるやら感心するやら、どっちつかずの気分で眺めていた。
しかし、やはり疲れはある様で、わずかながら動きに乱れが見える様になっているのも確かだった。
埒が明かない、と思ったのだろうか。ベドジシュカは霧になった体を急に広げた。そうしてオディロンを包み込む様に覆いかぶさる。オディロンは即座に地面を蹴って後ろに跳んだ。
「おいディ、それ罠だぞ」
アトレイが言った。
果たして、オディロンが飛び退った先にベドジシュカの頭があった。霧の一部を切り離して後ろに回り込み、顔だけ霧から戻したらしい。鋭い牙のある口を大きく開け、飛び退って来たオディロンの首筋に食いつこうとしている。
しかしオディロンは信じられない動きで体をねじると、体の勢いはそのまま、ベドジシュカの嚙みつきを紙一重でかわす。そうして細剣を額に突き込んだ。
「うわ、すご」
アトレイも思わず感心する様な動きだったが、額を貫かれた筈のベドジシュカはげらげらと笑って、オディロンの顔を真上から覗き込んだ。
「残念でした、あたしの核は心臓にあるのさ」
目が光る。オディロンの体が震えて、一瞬バランスを崩した。そうして動きを止める。
「ディ、どうした?」
オディロンはよろよろと顔を上げた。何だか顔つきがおかしい。ベドジシュカではなくアトレイの方を見た。
「さ、勇者サマ。まずその目障りな三下を殺して頂戴」
ベドジシュカが言うと、オディロンは剣を振りかざして飛びかかって来た。
アトレイは面食らって六尺棒で受け止める。
「魅了の眼光か。まーた、面倒な技を」
「あはははっ、血を吸うだけが能だとでも? 仲間に殺されちまいな!」
ベドジシュカは霧から戻って腕組みし、愉快そうにからからと笑った。この骸獣は自分で手を下すよりも相手を殺し合わせるのが好きらしい。
ドロシーの時といい、悪趣味な奴だなあとアトレイはげんなりした。しかしオディロンが容赦なく攻め立てて来るので、ひとまず防御に徹する。
しかし手を抜いてどうこうできる相手ではない。無力化しようという試みも中々難しい様に思われる。
どうしようかなあ、と思いながらも数合打ち合い、やがて鍔ぜり合う様に剣と六尺棒とが押し合った。
「およしになってオディロンさん! 吸血ババアの胸の谷間にでも釣られちゃったの!? あんなもんただの脂肪の塊ですよ、目を覚ませ!」
「ぶふっ」
オディロンが噴き出した。
ん? と思ったその時、笑い顔のオディロンと目が合った。ぱちんとウインクして来る。
(こいつ……)
アトレイはにやりと笑って、ひょいと後ろに跳んだ。そのまま間合いを計る様にして動く。オディロンもじりじりとした動きでアトレイを窺う。
再び二人は打ち合った。ややアトレイが押されている。
ベドジシュカに背を向けたアトレイは、オディロンに攻められるままに後ろに下がる。オディロンは斬撃と刺突とを容赦なく降り注がせ、アトレイは眉をひそめつつそれらに対応した。
「さっさと殺しちまいなさいよ。何をもたもたやってるんだい!」
ベドジシュカが苛々した様子で言った。
それとほぼ同時に、オディロンの剣がアトレイの六尺棒を巻き取って宙に放り出す。そのままオディロンは体を回して、バネを十全に利用した突きを繰り出した。
アトレイはひょいと身をかわす。オディロンの剣は止まる事なく、むしろさらに踏み込んで加速し、十歩の距離を一歩で詰める様な速度で前へ向かった。そうしてアトレイの後ろの方に立っていたベドジシュカの胸に、細剣が深々と突き立った。
「がっ……! あ、あんた!」
「油断したな。私が簡単に魅了されるとでも思ったのかい?」
「クソが! そっちこそ、心臓を貫けば勝負がつくとでも思っていたのかい、舐めんじゃないよ! この吸血姫ベドジシュカが、そこらの骸獣と同じだと思わない事ね!」
ベドジシュカの体が突然ほどけて、無数の蝙蝠と化した。蝙蝠は黒い羽根を羽ばたかせて、縦横無尽に飛び回る。鋭い牙を持っているらしく、それが凶暴な顔をして食いついて来るのである。
「だああ、面倒くせえ」
アトレイは跳び回る蝙蝠を六尺棒で叩き落とす。しかし数が多い。蝙蝠自体の強さは大したことはないが、これでは結局埒が明かない。
また根競べか、と思われた時、不意に辺りが明るくなった。
霧が薄くなり始め、周囲の木々や岩、草の茂みなどがありありと見えて来る。空はまだ曇っているが、辺りに漂っていた陰鬱な空気が吹き払われ、何だか爽快な気分だ。
「ぎゃああぁぁあぁああぁあああああ!」
飛び回っていた蝙蝠たちが急に悲鳴を上げて苦しみ出し、次々に地面に落ちる。そのまま身もだえして息絶え、肉体は崩れて崩壊していく。オディロンが動きを止めて辺りを見回した。
「これは……聖樹の力か」
「結界が直ったのか?」
と、アトレイは崩れかけた蝙蝠の死骸を蹴っ飛ばして言った。
「その様だね……ロザリーたちがやってくれたのだろうか」
「うーん……?」
(見張塔の最上階は消えてた筈だが……まあ、いいか。奇跡的に魔道具だけ無事だったのかも知れないしな)
あちこちから不気味な悲鳴が聞こえて来る。迷宮霧の中に潜んでいたらしい骸獣たちが、結界の力に当てられて苦しんでいるらしい。いずれ息絶えて崩壊するだろう。
それにしても、見ている限りベドジシュカは火力に特化したタイプではない様に見えた。オディロンの攻めに防戦一方だったせいで大技を繰り出さなかっただけかも知れないが、それにしたって見張塔を破壊できるだけの力がある様には見えなかった。
(……他にやべーのがいる可能性もあるのかな?)
だが、ベドジシュカの他には屍鬼ばかりだった。結界が復活した以上、骸獣が力を出す事はできない筈だ。情報を引き出せなかったのは失敗だったな、とアトレイは嘆息した。
オディロンは剣を鞘に収めた。
「アトレイ、ありがとう。私の意図をすぐ読み取ってくれて」
「少しは手加減しろよ。普通に魅了されたかと思ったぞ」
「ふふっ、あなた相手なら手を抜く必要はないと思ってね。それに、下手に手を抜いて敵に気取られるわけにはいかないだろう?」
とんだ勇者もあったもんだ、とアトレイは肩をすくめた。
霧が消えてみれば、向こうに見張塔が立っているのが見える。それを見てアトレイは噴き出した。
抉れていた筈の見張塔の先端が直っている。しかもただ直っているだけでなく、ファルウの頭を模した様なデザインに変わっているのである。
(……さてはユウの奴、力を使ったな)
アトレイは嘆息して頭を振った。あんな状態だった見張塔すら直すとは、やはりすごい力だ。だが、同時に強すぎて何だか空恐ろしく感じる。
アトレイとしてはやはり不安な気持ちになるのだけれど、おかげで助かった一面もある。何とも扱いの難しい力だと思う。アトレイの不安も漠然としたものだから、現にこうやって助けられている状況では絶対に使うなと言いづらくはある。
それでも、やはり無暗に使うものではないだろう。
(ま、今回は助かったからな。素直にそれは感謝しとこうかね……)
オディロンが変な顔をして首を傾げている。
「見張塔は……あんなデザインだったかな?」
「……そうだよ。元々ああだったよ」
「ふぅん……?」
〇
塔の最上階から、リュシエールは近場を包む霧が晴れて行くのを見下ろしていた。
背後には淡い光を放つ大きな水晶球がある。そこから放たれる光が波の様に辺りに降り注いでいく。
下の方では骸獣が苦しみ悶える声が響いていたが、もうすっかり静かだ。逃げたのか死に絶えたのか、ともかく骸獣の脅威はもうなさそうである。
森から柔らかな風が吹いて来て、リュシエールの梔子色の髪の毛を揺らす。
目にかかった髪の毛を指先で払ってから、リュシエールは大きく息をついて、くるりと踵を返した。
階段の方からニコレットが嬉しそうに駆けて来た。
「リュシエール様、やりましたね! 結界の修復、おめでとうございます!」
「……ええ、そうね」
浮かない顔をしているリュシエールを見て、ニコレットは首を傾げる。
「どうなすったのですか?」
「……ロザリーはどうしているの?」
「下でドロシー様に寄り添っておいでです」
「そう」
リュシエールはちらと水晶球を見、それから颯爽と歩き出した。ニコレットは慌ててその後を追う。
戦いの最中、急にユウが服を引っ張った。何事かと思って指さす先を見れば、見張塔の先端が直っている。形は何だか妙だが、確かに抉れている部分が修復されているらしかった。
早く結界を直そう、という段になって、ロザリーがその役目をリュシエールに譲った。
盲目では階段を駆け上がる事もできないし、力を使い過ぎて疲労が溜まっている。だからリュシエールに頼みたい、と臆面もなく言ってのけるロザリーに、リュシエールは思わずカッとなった。そんな風に簡単に手柄を譲られる事が、むしろ嘲りに感ぜられたのだ。
だが、ロザリーは悲し気に微笑むばかりで、眠るドロシーの傍から離れようとしない。
リュシエールは思いつくだけの悪態をついて塔を駆け上がり、そうして機能停止していた水晶球と、聖樹ガオケレナの魔力を結び直した。
(ここまで命がけで……ドロシーまであんな目に遭ったというのに、簡単にわたしに手柄を譲るなんて……! ああ、もう!)
釈然としない。そんな風では、必死に手柄を追い求めていた自分が間抜けに見える。
どうしてもっと自分に対抗しようとしないのだろうか。ロザリーにとって自分など取る足らない存在なのだろうか。
リュシエールは苛立たし気な足取りで塔の外に出た。もう戦いの気配が消え去っており、あちこちに動かなくなった骸獣の残骸が転がっている。
「リュシー」
声がした。リュシエールが目をやると、壁にもたれたて腰を下ろしていたドロシーがジッと視線を注いでいた。
「あら、目が覚めたのね」
「うん……結界、直したんだ」
「ええ。あなたが暢気に寝てる間にね。これで今回の任務の手柄はわたしのもの。あなたたちは無駄足という事ね。お気の毒様」
ドロシーはくっと唇を噛んで俯いた。ロザリーはにっこりと笑って、ドロシーの手を握っている。そうしてリュシエールにぺこりと頭を下げた。
「リュシー、あなたのおかげで助かったわ。どうもありがとう」
「――ッ! バカっ! 負けた癖に! 少しは悔しがりなさい!」
とリュシエールはぷいとそっぽを向いた。
その時、森の中からアトレイとオディロン、それに探索隊の一行がぞろぞろとやって来た。
探索隊はみんな満身創痍といった風だが、結界で瘴気が吹き払われたせいか、幾分か顔色は言い様に思われた。
「リュシー」
コランタンが早足でやって来た。リュシエールはふんと鼻を鳴らした。
「あら、コランタン。あなたも無事だったのね。悪運だけはある様で何よりですわ」
「ふん、減らず口は相変わらずか」
「何とでもおっしゃい。結界はわたしが直したわ」
「何だと?」
コランタンは怪訝な顔でリュシエールを見、それからロザリーを見た。
ロザリーはにっこり笑った。
「ええ、リュシーがやってくれたわ。わたしは動けなかったから……」
それを聞いてコランタンが高笑いを上げる。
「はっはははは、こいつは傑作だ! ここまで来て聖女の役目を果たせないとは、まったく気の毒だったねえ、ロザリー」
「コランタン……っ!」
ドロシーが怒った様に立ち上がろうとするが、まだ体が本調子ではないらしく、立ち切れずに再び座り込んだ。その肩にロザリーがそっと手を置く。
「いいのよ、ドロシー」
「二人とも」
オディロンがやって来た。心配そうな表情で片膝を突く。
「すまない、私が目を離したばかりに……無事でよかった」
「違うんです、ディさん。わたしが独断で動いたから……」
とドロシーは無念そうに目を伏せた。オディロンは笑って、ドロシーの肩に手を置いた。
「いいんだ。結果論だが、おかげで結界も直った。誰が直そうと、結界が修復されれば今回の任務は成功だよ」
ドロシーは俯いたまま黙っている。オディロンはぽんとドロシーの頭を撫でると、立ち上がった。
「さ、ひとまず休もう。それから帰らなくてはね。ジェニオ、転移装置の方は大丈夫そうかい?」
「うむ。ひとまずマナが充填されるのを待たねばならないよ。すっからかんだったから、まだ少し時間がかかるだろうね」
あたりが騒がしくなり出した。荷が解かれ、簡易の天幕が張られる。
喧騒の中、アトレイはすたすたとユウに歩み寄った。
「お前、力使っただろ」
と囁くと、ユウはおずおずと頷いた。アトレイは嘆息する。
「……まあ、今回は助かった。ありがとな」
ユウは一瞬きょとんとしたが、すぐにふんすと胸を張った。怒られるかとちょっと心配だったのだ。
「いやはや、本当に規格外の力でゴザルな。壊れたものまで元に戻すとは思わなかったでゴザル」
とニンジャが言った。ドラクゥがぴょこぴょこ跳ねる。
「ユウはすっごいぞ! ドラクゥのふわふわもくれたんだぞ!」
「それは聞いたよ。ま、これで結界も直った。俺らはヤヤヨノ様のトコに戻ろうかね」
「この連中は放って行くのでゴザルか?」
と、野営の支度をしている騎士たちを見ながらニンジャが言った。アトレイは肩をすくめる。
「転移装置でダオテフまで帰れるんだと。でも聖女がいなきゃ使えないらしい」
「好都合ではござらぬか。帰りが楽でゴザル」
「いや、俺らは一度ヤヤヨノ様のトコに行かにゃ。ドラクゥを送ってやらんと」
「ちょっとアトレイ」
リュシエールがずかずかとやって来た。
「何だよ」
「ひとまず、お礼を言っておきますわ。おかげで結界はわたしの手で修復できた。これで聖女としての位階も持ち直すでしょう」
「そいつは何より」
リュシエールはアトレイの顔をじろじろと見た。
「……だから何だよ」
「その……あなた、グラニエ家に仕えるつもりはありませんこと? 今なら好待遇で召し抱えて差し上げますわよ! 光栄に思いなさいな!」
「はあ?」
「あの、あの、アトレイ様……」
リュシエールの後ろから、ロザリーがひょこっと顔を出した。ドロシーも付き添っている。
「色々と、助けていただいたお礼がしたいのです。聖都まで来てはいただけませんか? 我が家でおもてなしさせてください」
「ちょっと! 横取りしないで頂戴! アトレイはわたしが雇っていたのよ!」
「で、でもリュシー、わたしもダオテフで助けていただいたし……個人的にとてもお慕いしている方だから……」
「……ははーん、あなた、この冴えない男に惚れたのね?」
「えっ? ち、違います! わたしはただ……」
「でも駄目よ。わたし、アトレイには裸まで見られてしまった仲なんですからね。ロザリー、あなたの出る幕なんかないのよ」
「ええっ? そ、そんな事が……?」
「いや、あれは医療行為……」とアトレイが言った。
「……ふーん、案外はしたないんだ、リュシー」
とドロシーがからかう様な口調で言った。リュシエールはハッとした様に頬を染める。
「勘違いしないでくださまし! 雨で濡れた服を脱いだだけですわ! 医療行為!」
「へえー……」
「くうっ……!」
にやにやするドロシーに、リュシエールは悔しそうに歯噛みした。
「それを言えば、そちらのお嬢さんとアトレイはキッスしたでゴザルけども」
とニンジャが口を挟んだ。ドロシーが目をまん丸にする。
「えっ? はっ? ききき、キス?」
「いや、だから医療行為……」とアトレイが言った。
「そうですわ! 舌までねじ込んでいたとしても薬を飲ませる為ですからただの医療行為! 特別な意味なんかありません!」
とリュシエールが息巻いた。
なんでこいつは余計な事言うかなあ、とアトレイは額に手をやった。
「…………初めてだったのに」
ドロシーがぽつりと呟いた。アトレイは気まずくなって視線を逸らす。
ロザリーは頬を染めておろおろし、ドロシーは真っ赤になったままうつむいて黙ってしまった。ユウとドラクゥはぽかんとこの状況を見つめ、ニンジャはにやにやしている。
「モテモテでゴザルな」
「オメー、引っ掻き回した癖に傍観者気取りやがって……今に見てろよ」
「がははは、遺跡でぶん殴られた借りをようやく返せたでゴザル」
ニンジャは満足げに笑ってばかりいる。収拾がつかなくなって来て、アトレイはうんざりした。
「とりあえずリュシエール、お前んちに仕官すんのはナシだ。宮仕えは好かん」
「何ですって!? このわたしが直々に誘ってあげているというのに!?」
「だったら何なんだよ。んな話するよりも先に、ちゃんとここまでの雇い金を払えっての」
「うぐ……い、今は持ち合わせがありませんわ。だから聖都に来なさい!」
「あの、その時は是非我が家にも……」
とロザリーがおずおずと割り込む。
「ちょっと、便乗しないで頂戴!」
「だ、だって……」
相変わらずうるさいリュシエールと、もじもじしながらも引かないロザリーとは、終わりの見えない言い合いをしている。
アトレイはこそこそと後ずさって、ユウとニンジャ、ドラクゥにひそひそと囁いた。
「今のうちに行こうぜ、面倒くさくなって来た」
「こっそり逃げ出すのでゴザルか」
「そう。雇い金は後々聖都まで行って請求すりゃいいや。こいつらは転移装置で帰れるから俺がいなくてもいいし、色々と質問攻めにされるのも面倒だし。いいな? 行くぞ」
有無を言わさぬ口調でそう言って、アトレイは荷物を担ぎ直して、そそくさと森の方へ向かう。他の三人もその後を追っかけた。
しかし森に入る手前で、ドラクゥがくるりとうしろを向いた。
「ドラクゥ帰るぞー! ばいばーい!」
と大きく両手を振る。がやがやと動き回っていた連中が皆してこちらを見た。
リュシエールが指さして怒鳴る。
「ちょ、コラーッ! どこに行くんですのーっ!」
アトレイはうんざりした様に頭を振って、ユウをひょいと抱き上げて肩に担いだ。
オディロンが金色の瞳をまん丸にする。
「あれっ、行っちゃうのかい?」
「おう。雇い賃はそのうち請求しに行くからな。またな」
それで一行は森の中に逃げ込んだ。
他の連中はともかく、オディロン辺りが追っかけて来ては面倒である。足早に獣道を突っ走り、瞬く間に見張塔から距離を取った。
もう大丈夫だろうという見当でアトレイはユウを地面に降ろし、やれやれと首を振った。
何だか妙にくたびれた。今までも旅の途上で様々な者と出会って来たが、ああいった風に迫られるのは珍しい経験である。ヤヤヨノ様の所までドラクゥを送ったら、そこで少しのんびり休んでもいいかも知れない。
ユウがもじもじしながら、ちょっと……行って来るね、と言って、いそいそと茂みの方に行こうとする。
「いや、どこ行くんだよ。結界は直ったけど、一人でどっか行くんじゃないよ」
とアトレイが肩を掴んで引き留めると、ユウは顔を真っ赤にして振り返り、おしっこ! と怒鳴った。
「あ、ごめん」
アトレイが手を放すと、ユウはぷりぷりと肩を怒らせながら、大股で茂みの中に入って行った。
「……遠くまでは行くなよー?」
とアトレイが言うと、茂みの向こうでひらひらと手が振られた。
「……しっかしまあ、星誕祭から今日まで随分慌ただしかったなあ」
「息つく暇もなくでござったな。しかし、これからユウの謎を求める冒険が始まると考えると、拙者ワクワクして夜しか眠れそうにないでゴザル」
「そいつは健康的だな」
「ニンジャは体が資本でゴザルによって」
「まあ、いいや。ドラクゥ、髪ぼさぼさだぞ。結び直してやろうか」
「うん!」
暴れ回っていたせいでぼさぼさになっていたドラクゥの髪を、アトレイは整えてリボンを結び直してやった。この青いリボンもユウの力で出て来たらしい。
(どうなる事やらね……)
アトレイはドラクゥの頭をぽんと撫でて、木の隙間の空を見た。
雲はすっかり薄れて、青空が覗いている。
〇
見張塔のほど近く、結界によって聖樹のマナが降り注ぐ森の一角で、兎が一匹、ひょこひょこと歩いていた。結界が戻った事で瘴気が払われ、見張塔から遠ざかっていた動物たちが様子を見に戻りつつあるのだ。
その兎に、頭上から真っ赤な蝙蝠が食いついた。
兎は驚いて暴れ回るが、蝙蝠の牙は兎の首にしっかと食らい付き、喉を鳴らして血を吸う。
兎はしばらく暴れていたが、やがて力なく手足を投げ出し、動かなくなった。
赤い蝙蝠はふらふらと飛び上がると、宙で一回りした。次の瞬間には、その姿は赤い髪の女へと変わっていた。
蝙蝠は吸血姫ベドジシュカであった。その赤い色は、彼女の髪の色と一緒だった。
ベドジシュカは口元の血を手の甲で乱暴に拭い、牙をむき出しにして憎々し気に唸った。
「ちくしょう、ちくしょう、奴ら、覚えてなさいよ……絶対に仕返ししてやる」
ベドジシュカは吸血鬼の持つ特殊能力で命をいくつかに分割していたらしく、その力の大部分は失われていたが、ともかく生きながらえていた様である。
しかし部下の屍鬼も餓鬼も全滅してしまい、残ったのは彼女だけだ。日の光も体に辛い。
加えて結界が起動しているから、まるで体はじりじりと焦がされる様だ。それでも他の骸獣と違って肉体を保っていられるのは、高位骸獣の面目躍如といったところだろうか。
アトレイやオディロンに対する恨みつらみが胸の内をじくじくと刺した。奴ら、次に会った時は全身の血を吸い尽くしてやる。
それにしても、どうやって結界を直したのだろうと思った。塔の最上階ごと消し去られた筈なのに。
「……あいつは『塗り潰した』って言ってたけどねえ」
得体の知れない子どもの事を思い出す。人を馬鹿にした様な笑顔と物言いをして、ひどく癪に障る子どもだった。しかし奇妙な恐ろしさがあって、ベドジシュカも手を出したりはしなかった。
もしかしたら、その子どもと同じ力を持った何者かが現れたのかも知れない。だとすれば、それは骸獣にとって脅威となる。この情報も古都へ持ち帰らねばなるまい。
ベドジシュカは霧と化して飛ぼうとした。
だが、不意に悪寒が走った。
「だっ、誰だい!」
怯えた様な声が出る。骸獣として復活し、高位の吸血鬼となってから、久しく感じた事のない恐怖が声に乗り、ベドジシュカは自分でも驚いた。
見ると、子どもが立っていた。大きめの無地のオーバーシャツを着て、くるぶしまでの長さのズボンと、中性的な装いをしている。こげ茶色の髪の毛は長くもなく、また短くもない。
ベドジシュカは息を呑む。
「あ、あんたは……いや、違うね。あいつじゃない」
まじまじと見ると、見知った子どもの姿ではない。服も違うし、髪型も違う。似通った雰囲気は持っているが。
長い前髪の向こうから、赤い瞳がベドジシュカを見据えた。
「――ッ! 動くんじゃない!」
一歩踏み出した子どもに、ベドジシュカは指を弾く様な形にして向けた。
「血を吸うだけが吸血鬼じゃないよ! 血の弾丸であんたの眉間を貫く事だってできるんだ! 死にたくなけりゃ動くんじゃない!」
子どもは嘲笑に似た笑みを浮かべたまま、そっと右手の平をベドジシュカに向けた。
ベドジシュカは気圧されて、構えた指を弾く事も出来ない。子どもは小さい。背も腰の辺りに頭が来るくらいに小さい。
こんなガキに舐められてたまるか、とベドジシュカは大きく息を吸った。
「この……っ!」
子どもはさっと手を振った。ベドジシュカの手首から先が、溶けた墨の様に宙に跳び散らかった。
「うぐあっ!?」
次いで右の足首が同じ様に溶ける。ベドジシュカはとても立っていられずに地面に膝を突いた。
いつの間にか近づいていた子どもがベドジシュカの肩を掴み、強引に地面に引き倒す。そうして背中を踏みつけた。ベドジシュカは身をよじるが、子どものものと思えないほどに力が強く、抜け出せない。
霧に変わろうとしたが、なぜかできない。
手の平が向けられる。
ベドジシュカは蒼白な顔を子どもに向けた。
「や、やめて! 助けッ――」
懇願もむなしく、さっと手が振り抜かれた。さっきまでベドジシュカだったものが、黒い墨の様になってそこいらに飛び散った。どろりと草や木々を汚し、しかし端の方から霧の様になって宙に溶けて消えて行く。
子どもはふんと鼻を鳴らすと、そのままさくさくと来た道を戻って行った。
1章終了です。
次回更新はもう少しストックが溜まってからにしますので、他の作品を読みつつのんびりとお待ちくださいませ。