11.吸血姫ベドジシュカ
「不潔ですわ!」
リュシエールが顔を真っ赤にして言った。アトレイはふてくされた様に薬草を片付け始める。
「仕方ねえだろ、あのままじゃどうしても飲まなかったんだから。医療行為だ、医療行為」
「それでこんな美少女とキッスできるとは、役得でゴザルなあ」
「殴るよ?」
「冗談でゴザル」
「ったく……で、ロザリー」
ドロシーの手を握っていたロザリーが顔を上げる。
「はい、なんでしょうか」
「その吸血姫ってのはどこ行った? 帰ったのか?」
「いえ、ディを……勇者を屠りに行くと、沢山の骸獣を従えて霧の中へ……」
「……オディロンなら負けるとは思えませんけれど」
とリュシエールが言った。ニンジャが頷いた。
「現勇者は、確か元々は十二剣聖の一角でもあった筈でゴザル。かなり強いと聞いているでゴザルよ」
アトレイは空の薬瓶を仕舞いながらふむと言った。
「多分、迷宮霧を作り出してるのはその吸血姫だ。もし勇者がそいつを倒したとすりゃ、霧も消える筈だが」
だが、まだ霧は向こうの森をすっぽりと呑み込んでいる。
上空は分厚い雲で覆われて、日の光がちっとも差さない。本来日光を苦手とするはずの吸血鬼が日中に活動しているのは、この環境に加えてベドジシュカ自体がかなり高位の吸血鬼であるからだろう。長く骸獣でいるうちに瘴気が体内で安定すると、その能力も強力になって行くのである。
その時ドラクゥが突っ走って来た。
「アトレイーッ!」
「おごっ!」
わき腹に頭突きを食らってアトレイは悶絶した。
「ドラクゥ、屍鬼いっぱい倒したぞ! 強いだろー!」
「はいはい、強い強い……お前よぉ、一々突っ込んで来るんじゃないよ。なんなの? 俺の事粉々にする気なの?」
「うん!」
「うん、じゃねえよ、まったく……で、結界の修復はできそうなの?」
「ええ、塔の最上階に据えてある魔道具に、聖女が力を注いで聖樹との力の線をつなぎ直せばいい筈ですわ。地方の町にも同じ様なものがありますし」
とリュシエールが言った。聖樹庁は各地の町などに、聖樹の力を中継する魔道具を据え、骸獣を避ける結界を展開しているらしい。その定期的な管理と整備も聖女の勤めらしかった。
アトレイは見張塔を見上げた。
「ふーむ……でも、最上階が消えてるんだけど」
「はえ?」
その場にいた皆が見張塔を見た。
「あ、ああいうデザインではないのですか?」
とニコレットが言った。アトレイは肩をすくめた。
「そうだったらよかったんだけどねえ。ものの見事に消えてるんだな、これが。魔道具だけ無事って事はないだろうな」
「そんな……これでは、結界を直せないではありませんの……」
リュシエールが愕然と呟いた。ロザリーが顔を上げる。
「あの……もしかしたら、ジェニオなら何とかできるかも」
「……そうね。いけ好かない男だけれど、魔法局副局長だものね」
「ふぅん? そのジェニオさんはどこにいるのよ。聖都から呼んで来るのは手間だぞ」
「いえ、ジェニオはわたしと一緒に来ていたのですが、やはり霧の中ではぐれてしまって」
「迷宮霧を知らなかったの?」
「霧がマナを帯びているとは言っていましたけれど……」
「……まあ、戦闘が始まっちまったら地面ばっかり気にしてもいられないしな。仕方ねえか」
対処法がわかっていても、それを実行できるかは別問題である。古都から来た屍鬼などを相手にしていたら、骸獣慣れしていない聖都の者は戦いの方に注力するしかないだろう。
アトレイは六尺棒を持ち直した。
「ともかく、そのジェニオさんとやらがいれば何とかなるかも知れないんだな?」
「はい。確約はできませんが、彼の魔法技術は一流ですから……」
「よっしゃ、じゃあちょっと捜しに行って来る。ついでに吸血姫とやらも仕留めて来るかな」
「吸血鬼いるのか!? ドラクゥも吸血鬼粉々にしたいぞ!」
とドラクゥが両腕を振り上げて言った。
「お前はユウを守ってろ。大体、単身で迷宮霧に入ったらお前なんか絶対迷うっつーの」
「アトレイ様、どうかお気をつけて……」
ロザリーが心配そうに言った。
「平気だよ。あんたは妹さんの事を考えてりゃいい。おい、リュシエール。お前どうせ暇なんだろ。一緒に聖女の力使って治してやれよ」
「わたしに命令しないで頂戴! ……ま、まあ、別に治療が嫌というわけではありませんけれどね! ロザリー! 貸しにしておきますわよ!」
「ありがとうリュシー……ふふ、嬉しい」
リュシエールはかーっと赤くなると、ムスッとしたまま腰を下ろし、ドロシーの体に手を当てた。
ユウとドラクゥもぽてぽてとドロシーに歩み寄って、その傍らに腰を下ろす。ミールィがユウの肩から降りて、鼻をくんくんさせながらちょろちょろと歩き回っている。
ニコレットが何だかホッとした様子でそれを見つめていた。
「拙者はどうすればいいでゴザルか」
「来たけりゃ来てもいいけど……だがまあ、ドラクゥは戦いに夢中になると突っ走っちまうからな。残ってこいつらを見ててもらえると助かる」
「心得たでゴザル」
それで話はまとまり、アトレイは単身で霧の中に踏み込んだ。再び視界が白く染まり、一寸先を見通すのも難しい。しかし屈んで足元を見ればきちんと見えるし、視界が利かない分、他の感覚が鋭敏になる様だった。
しかし、次第に体が少し重くなる様に思われた。
霧に魔法が込められているのかとも思ったが、どうやらロザリーやリュシエールといった聖女から距離を取った事が原因らしいと推測できた。
(なーるほど、知らないうちに聖女サマの恩恵を受けていたってわけね)
アトレイは得心しつつ、そろそろと先を目指して進んだ。
遠くから戦いの音が聞こえる。どうやらまだ勇者たちは全滅したわけではなさそうだ。
その時、気配が周囲に充満したと思うや、年恰好も様々な屍鬼たちがアトレイを取り囲んだ。武器も剣、槍に加え、長く伸びた爪を持つ者もある。全員顔は青白く、黒い白目に赤い瞳を持っている。
アトレイは六尺棒を構えた。
「おでましか。来いよ」
屍鬼たちは一斉に飛びかかって来た。
速い。
しかしアトレイは素早く包囲を抜け出して、手近な屍鬼に一撃を食らわした。屍鬼は腰を抑えて悶絶する。その隙に素早く六尺棒を取り回し、頭蓋を叩き壊した。
屍鬼たちはいきり立って襲い掛かって来るが、特に連携が優れているという風でもない。個々が勝手に動き回って銘々に攻撃を加えて来るばかりだ。
アトレイは六尺棒を自在に操り、淡々と屍鬼を仕留め続けた。首を折り、頭蓋を砕き、心臓を貫く。
ほどなくして周囲のワイトはすべて仕留められ、崩れた肉体がそこらで黒く溶けているばかりになった。
「雑魚ばっか。ま、こんな所までのこのこ出て来る様なのはそんなもん……まだ来るか?」
近くで戦いの音が聞こえる。誰かが骸獣を相手取っているのだろうか。霧が濃くて状況がわからないが、戦いはそう遠くで行われているわけではなさそうだ。
様子を見に行こう、とアトレイはそろそろと霧の中を音のする方へ進んだ。次第に音が大きくなって来たと思うや、屍鬼に出くわした。
「うわっと」
即座に棒を構えて打ち据える。なし崩しに戦闘が始まった。
それでもやはりアトレイの相手ではない。危なげなく戦い、確実に仕留めて行く。
その時、ふと霧の向こうから影がさし、光る剣が向かって来た。
アトレイは身を翻して剣を打ち払い、そのまま棒を回して反撃する。すると迫って来た影は即座に跳び退って棒をかわした。そのまま刺突と斬撃を織り交ぜて剣を振るって来る。
相当な腕である。骸獣にもこんな達人みたいなのがいたのか、と思いながらも、アトレイの方も六尺棒を自在に操って斬撃を防ぎ切った。
傍から見れば舞踏の如き体捌きだが、少し間違えばどちらかが死ぬ。
アトレイは面白そうな顔をした。
「やるな。さっきまでの雑魚とは違うみたいじゃん」
アトレイが言うと、影が動きを止めた。
「……君は人間か?」
「うん?」
アトレイは目を細めた。濃い霧から出て来た影は、濃血の猫人の青年だ。白い毛並みがふかふかと艶やかで、金色の瞳がアトレイをジッと見返している。服や手に持つ剣の様子から、ついさっきまで屍鬼と戦っていたらしい。
アトレイは構えていた棒を降ろした。
「あんたも骸獣じゃなさそうだな」
「すまない、てっきり骸獣だと思って攻撃してしまった」
青年は剣を鞘に収めて申し訳なさそうに頭を下げた。アトレイはからからと笑う。互いに逆方向から骸獣と戦っていたから、鉢合わせになる状況だったのだ。間違えるのも無理はない。
「なに、そりゃお互い様だよ。俺も屍鬼だと思ったし……けどあんた相当強いな。もしかして勇者サマかな?」
アトレイが言うと、青年は不思議そうな顔で頷いた。
「その通りだ。しかしどうしてその事を?」
「あんたを捜してたのさ。吸血鬼に出くわしてないか?」
「いや、出会っていない。吸血鬼がいるのか?」
「ああ、古都から来た奴だ。恐らくこの霧を作り出してる張本人だよ」
「古都から……そうか。そんなのが相手だったとは……ロザリー、ドロシー、すまない」
と勇者は俯いた。アトレイはふと思い当たって、口を開いた。
「や、ロザリーと、ドロシー、だっけ? あの姉妹は俺らが保護してるよ。もう見張塔に辿り着いてる」
そう言うや、勇者は信じられないという表情で顔を上げた。
「本当かい!?」
「ああ、だから心配は要らんよ」
「ありがとう! はぐれてしまって、もう駄目かとばかり思っていたんだ……」
「この霧じゃあそう思うのも無理ないわな。そうだ、あとリュシエールってのも一緒にいるんだが、そいつも知ってる?」
「リュシーまで? 勿論知っているが……あなたは、いったい何者なんだい……?」
「あ、名乗ってなかった。俺アトレイね。アトレイ・ベネシュ」
「アトレイ……? まさか、ダオテフでロザリーを助けてくれたというのは、あなたの事かい?」
「ん? ああ、そういや、あの子足挫いてたからな」
アトレイが言うと、勇者はからからと笑った。
「不思議な縁もあったものだなあ……ありがとう。おかげで私も安心したよ。それにしてもロザリーといいリュシーといい、聖女を二人も助けるだなんて、聖樹庁から感謝状を贈られてもおかしくない功績だよ、アトレイ」
「贈られるんなら感謝状より報奨金の方がいいけどな」
「ははは、正直な人だ。私はオディロン・エルヴェシウスだ。改めてよろしく頼む。親しい者からはディと呼ばれているよ」
「へえ、そうか。じゃあそんなに親しくないからそう呼ぶわけにはいかんね」
「え……」
寂しそうな顔をするオディロンを見て、アトレイは噴き出した。
「うそうそ、よろしく、ディ」
と差し出された手を握る。オディロンはホッとした様にその手を握り返して来る。手の平は剣を握り続けているせいか、ごつごつと硬かった。しかし手の甲の毛が握った指先に触れた。
(こいつが噂のオディロン・エルヴェシウス、ね。勇者の前は十二剣聖だったっけ……確かにかなり強いなこりゃ)
勇者は世界政府が個人に与える称号としては最高位のもので、実績と実力を兼ね備えた英雄的な資質を持つ者に与えられる。
先代の勇者が引退して以降その栄誉に与るだけの人物が現れず、およそ七年ばかり空位となっていたのだが、数年前にオディロンがその称号を授与されたのだ。ちょっとしたニュースになったので、その事はアトレイも小耳に挟んでいる。名前は憶えていなかったが。
大陸十二剣聖はその名の通り、大陸でも特に優れた剣技を持つ十二人に与えられる称号だ。
称号の格としては勇者には劣るものの、その称号を蔑む者は誰もいない。
ただ、あくまで剣士に与えられる称号である為、最も優れた十二人の武人というわけではない。しかし、大陸中から選り抜かれた者である為、一流の武人である事は確かである。
十二剣聖は、現役の剣聖が引退したり死亡したりして席に空きが出た際に行われる剣術大会での優勝か、現十二剣聖を正当な手続きで受理された決闘で打ち破るのが称号授与の条件で、これもやはり生半可な実力では得る事はできない。
剣聖と勇者は兼任が許されていない為、勇者を拝命した時点でオディロンは剣聖の地位にいないが、だからといって腕が落ちたというわけではない。
確かにアトレイから見てもかなりの実力者だ。先ほどの命がけの手合わせでそれを十分に感じ取る事が出来た。
「しかしあんた一人かい? 仲間がいると聞いていたが」
「仲間は別の所に待機しているよ」
オディロン曰く、霧に微弱な転移の魔法がかかっているらしい事を途中で察知した為、強引に戦闘を中断して、一行を一か所に集めて防御陣形を組んだ。
しかしそのさなかでロザリーとドロシーがいなくなった事に気づき、全員で捜しては各自迷ってしまうという事で、オディロンが一人霧の中を捜し回っていたという。そうして出会う骸獣と戦い続けていたらしい。
「迷宮霧の事は噂では聞いた事があったのだが、実際に入ったのは初めてでね、見抜くのが遅れてしまった。他の仲間がそう遠くに飛ばされなかったのが幸いだったが……」
アトレイは半ば呆れながら言った。
「そこまで看破しておいて、一人で霧の中うろつくかね、普通」
「それが勇者の役目だからね。それに、あなたも一人の様だが?」
オディロンは臆面もなくそう言う。アトレイは肩をすくめた。
「ま、ともかく吸血姫を仕留めようぜ。そうすりゃこの鬱陶しい霧も消えてくれる」
「そうだね。上手く見つかってくれればいいが」
「あっちは俺らの居場所くらい把握してそうなもんだが……なあ、あんたの仲間は屍鬼の大軍に襲われても平気なのか?」
「守りに徹しているならば、そうそうやられはしない筈だ。騎士団の隊長が二人いるし、魔法局の副局長もいるからね。尤も、ロザリーがいないから、骸獣の方も勢いは増しているかも知れないが……」
オディロンの仲間と合流するか、それとも吸血姫を先に倒してしまうか。アトレイは少し考えたが、合流した所で迷宮霧がある限り集団戦闘は却って足かせになりそうだ。そうなれば、オディロンと二人で吸血姫を仕留めてしまった方が話が早い。
結論はすぐに出て、アトレイは六尺棒を振り振り、大声でわめきながら歩いた。
「おーい、吸血ババアやーい。お求めの勇者はここにいるぞーい」
「……それで出て来るのかい?」
「多分。骸獣ってバカだから」
「うーん……?」
片付かない顔をしているオディロンを置いて、アトレイはそのままがあがあと喚き散らした。
すると、周囲から屍鬼たちがぞろぞろと現れた。青白い顔で武器を振り上げていきり立っている。
「さっきから、ごちゃごちゃうるさいんじゃコラァ! 姐さん馬鹿にすんじゃねえよ亡き者にすんぞオラァ!」
「ほらね」
「……何だろう、この気持ち」
オディロンは額に手をやってやれやれと頭を振った。それから細剣を抜き放つ。
「あまり離れない様にしよう。別々に飛ばされては面倒だ」
「あいよ。背中任したぜ。自分の位置を意識してろよ。気を散らすと飛ばされっぞ」
アトレイは六尺棒を構えるや、十歩の距離を一歩で詰めて屍鬼の心臓部を棒で貫いた。そのまま蹴倒すと、棒を引き抜いて後ろにいた屍鬼に振り下ろす。
屍鬼は咄嗟に手に持った剣で一撃を受けたが、強烈な衝撃で手が痺れたらしく動きが止まる。アトレイはさっと棒を回すと腰を一撃した。屍鬼は膝を突いて悶絶する。六尺棒は一回りして、そのまま骸獣の頭を叩き割った。
「野郎!」
「雑魚人間の分際でよぉ!」
屍鬼たちは銘々に武器を振り上げてかかって来る。アトレイはひらりと身をかわし、跳躍して屍鬼を踏み台にしつつ、頭を狙って次々に打撃を加えた。
そんな風に縦横に跳び回りながら、アトレイは自在に棒を操って、次々に屍鬼たちを打ち続けた。剣と違って即致命傷を与えるわけではないが、マナが籠った一撃は確実に骸獣の力を削いだ。
その後ろではオディロンがつむじ風の様な素早さで、屍鬼たちを次から次へと切り刻んでいた。細剣にもかかわらず鋭い剣閃で屍鬼の体が両断される。
その手並みに感心して、アトレイはひゅうと口笛を吹いた。
「流石、強いねえ」
「あなたこそ、かなりのものだよ」
オディロンはひゅんと剣を振って刀身についた黒い血を振り払った。
ほんの少しの時間で屍鬼たちは全滅していた。アトレイは眉をひそめて崩れて行く死骸を見やった。
「屍鬼ばっかしだな。吸血姫はいねえのか」
「当て馬という事かな……」
その時、ぱちぱちと拍手の音がした。霧が少し薄れて、女が一人現れた。血の様に赤い髪の毛が揺れている。不敵な笑みを浮かべるその顔立ちは控えめに言っても美女だ。瘴気の気配が濃く、どうやらこの骸獣たちの首魁である事が窺えた。
「やるじゃない。でも雑魚相手に粋がるんじゃないわ。勇者の血の味はどんなでしょうねえ」
「何勿体ぶってんだコノヤロウ、ド派手な髪の色しやがって。お前がさっさと出て来ないから屍鬼の皆さんの尊い命が失われたじゃねーか」
アトレイが言うとオディロンが噴き出した。口元を押さえて肩を震わしている。
吸血姫が詰まらなそうに口を尖らした。
「ちょっと。雰囲気を間延びさせるのやめてくれない? せっかくシリアスに登場したってのに」
「うるせー、お前の事情なんぞ知るか」
「野卑ね。まあいいわ。あたしは吸血姫ベドジシュカ。用があるのは勇者だけ。三下は適当に遊んでなさい」
ベドジシュカが手を振ると、霧の向こうから再び大勢の屍鬼や餓鬼たちが現れた。アトレイは面倒そうに帽子の鍔に手をやった。
「……ディ、一人であの派手派手女に勝てそう?」
「ああ。一人で十分だよ」
「それでこそ勇者だな。んじゃ、俺はあんたの後ろを引き受けようか」
屍鬼たちがかかって来るのと同時に、オディロンは剣を構えてベドジシュカへと駆け出し、アトレイは六尺棒を振りかざした。
〇
ユウはぼーっと見張塔を見上げていた。白く輝く壁面がずっと上まで続いている。
今は曇り空だが、もし陽光が差せば眩しくて目がちかちかするかも知れない。
正面の大扉は半開きになっていて、骸獣たちが出入りしていたらしい事が窺えた。
さっき中を見たが、冷たい石の壁に螺旋階段が続いていて、それがずっと上まで伸びている。しかし最上階が消えているせいか、上は真珠色の空が見えていた。
ユウは手持無沙汰に腰を下ろした。
傍らでは聖女二人がドロシーの体に手を当てている。ほんのりと手の先が光っているのは聖女の力なのだろう。
リュシエールが相変わらずつんつんしながら、ロザリーに何か言っている。
「大体ね、オディロンがついていながらこんな体たらくだなんて、情けない。どうせあなたが足を引っ張ったんでしょうけどね。ロザリー、やっぱりあなたに第一聖女なんて荷が重いのよ。さらに取り返しのつかない事態になる前に身分を返上したらどう?」
「ええ、そうね……序列一位だなんてもてはやされても、傷ついた妹を助ける事も出来なかったんですもの……」
しょんぼりした様子のロザリーを見て、リュシエールはうろたえた様に視線を泳がした。
「べ、別に責めているわけじゃないわ! もっとね、序列一位の自覚を持ちなさいというか、卑屈になるんじゃないというか……」
「おぬしは悪口を言っているのでゴザルか、それとも励ましているのでゴザルか?」
面白そうに成り行きを見守っていたニンジャが口を出した。リュシエールはかっと頬を染める。
「誰が励ましているというの!」
いきり立つリュシエールを見て、ドラクゥがからから笑う。
「リュシーは怒りんぼだな! あんま怒るとお腹空いちゃうぞ!」
「怒ってませんわ!」
「ドラクゥもさっき屍鬼にいっぱい怒ったからお腹空いちゃったぞ! アトレイ、早く戻って来ないかなー」
「だから怒ってないと言っているでしょう! ちょっと! 聞きなさい!」
何となく雰囲気が和んだ。ロザリーの表情も緩み、口元には微笑みも浮かんでいる。
ミールィがいつの間にかドロシーのお腹の上で丸くなっていて、それが重みになっているのか、時折ドロシーは「ううん」と呻く。
リュシエールはこほんと咳払いした。
「ともかくドロシーを治したら、結界をどうするか考えなくてはいけませんわ。魔道具自体がないとなると、果たしてジェニオに何とかできるかどうか」
「そうね……けれど、ここの魔道具がどんなものか、わたし知らないの。リュシー、あなたは知っている?」
「……ま、まあ、各地の中継用の魔道具と同じ様なものでしょう」
「しかし、この塔の魔道具は、よそのものと違って百年以上手入れの必要もないくらいだったのでござろう? そんな高性能なもの、作り直せるのでゴザルか?」
ニンジャが言うと、リュシエールは頬を膨らました。
「悪い予想ばかりするんじゃありません! ともかく、結界が直らない事にはここに来た意味なんか何もないんですからね!」
「怒るとお腹が空いちゃうでゴザルよ」
「ゴザルよー!」とドラクゥが笑った。
「怒ってないと言っているのに!」
ユウはちょっと立ち上がって、少し塔から離れて、改めて見上げた。高い。けれども天辺が見えないほどの高さではない。とはいえ、最上階が消えているらしいから、本当はどの辺まで高いのかはわからない。
今頃アトレイは戦っているのかしら、とユウは思った。
アトレイはとても強い。色々知っていて頼りになる。けれどちょっと心配症な気もする。自分の不思議な力というのは、こういう時にこそ使った方がいいのではないだろうか。
ユウは手近な石の上に腰を下ろし、自分の両手の平を見てみた。皺があって、小さくて、所々色が違う。
頼りない手だけれど、『本物の魔法』が宿っているのだ。靴やマントのサイズを変えられた。ドラクゥの髪を結んでいた蔦を、綺麗なリボンにも変えてやった。欠損した塔を修復する事だってできるかも知れない。
しかし、アトレイの言う事が正しい様にも思われる。
今のところ、ユウはアトレイを信頼している。ぶっきらぼうだし、何を考えているかわからない所も多いけれど、基本的には他人にとても優しいとユウは感じていた。そういう人間がただの意地悪で力を使うなと言うとは思えない。
自分が子どもであると自覚している分、ユウはひとまず大人しくしている事にした。自分の力を活かすかどうかは、アトレイが戻って来てからでも遅くはあるまい。
「どうしたの」
ニコレットが声をかけて来た。ユウはふるふると首を振って、なんでもない、と言った。
「そう……ねえ、あなたは子どもなのに、こんな所に来て怖くないの?」
怖くない、わけではないが、仲間がいるからと言うと、ニコレットはくすくす笑った。
「いいなあ……わたしは少し怖い。リュシエール様をお守りする心に嘘はないけれど……大森林は凄い所だね。ウルクと戦うのとは全然違う」
ウルク? とユウが首を傾げると、ニコレットはおやと言った。
「知らないの? ウルクっていうのはね、旧文明の生体兵器でね、土と瘴気から生まれる凶暴な連中なんだ。聖都の南西の荒れ地に、旧文明の施設がまだ生きているらしくてね、ウルクたちはそこから生まれて、時折聖都周辺を脅かすんだ。わたしたち聖都騎士団は、そのウルクたちと戦う事を主な任務にしているの」
そんなものまでいるんだ、とユウは驚いた。
この森だけでも驚く事が沢山あるのに、森の外にまでそんなに沢山のものがあるなんて、世界は広いなあと思った。
ニコレットはユウの隣に腰を下ろした。
「今は、わたしも少し安心しているよ。あのアトレイという人は強いね。ニンジャもそうだし……騎士としては守られるというのはやや屈辱だが、正直この森の中ではホッとする」
ユウは膝を抱いた。ニコレットは普段はリュシエールの護衛との事だ。今はアトレイたちに守られている様なものだが、元々は守る側の人間という事である。剣を振るって戦う事ができるのだ。
では自分は? いつも守られてばかりではないか。
子どもだから仕方がない、と言われるかも知れないが、我儘を言ってヤヤヨノ様の所に残らずついて来た事もあって、ユウは奇妙な居心地の悪さを感じた。
その時ドラクゥが急に立ち上がった。
「屍鬼のにおいする! むかつく!」
見ると、森の方に漂う霧の中から屍鬼たちがぞろぞろと出て来る所だった。
ドラクゥががおがおと雄たけびを上げて襲い掛かって行く。
ユウはロザリーたちの所へ駆け戻った。
「リュシエール様、お気をつけて! かなり多いです!」
ニコレットも剣を抜いて現れる骸獣たちを睨みつける。
「うーむ、拙者、直接戦闘はそれほど得意ではないのでゴザルが……止む無し!」
ニンジャも刀を引き抜く。
ドラクゥは既に骸獣と大立ち回りを繰り広げていた。さっきも暴れていたのに、勢いがちっとも衰えていない。
リュシエールが立ち上がった。
「ロザリー、力を広げますわよ。骸獣どもの動きを鈍らせないと」
「ええ、わかったわ」
二人は胸の前で指を組む。淡い光が体を包み込み、何だか淀んでいる様だった空気が少し爽やかになった様に感ぜられた。
ユウはミールィを抱き上げてそっと二人の後ろに隠れた。
こんな時に自分は何もできない。ひどい無力感があったが、下手に出しゃばって却って足を引っ張るのも嫌である。
聖女二人の力があるせいか、数の内ではかなり不利にもかかわらず、戦況は有利な様に見えた。ドラクゥは相変わらずだし、ニンジャも飛ぶ様に駆け回って刀を振るっている。ニコレットは攻め込む事はしていないが、近づいて来た骸獣を相手取り、危なげなく下していた。
しかし、ロザリーが何だか苦しそうな事に気づいた。ユウはそっと背中をさすった。大丈夫? と問いかけると、微笑んだ。
「ありがとう、大丈夫……だけれど、ずっと力を使っていたせいで少し疲れてしまって……」
「もう少し頑張りなさい!」
リュシエールが叱咤する。ロザリーは胸の前で組んだ手に力を入れた。
ユウはおろおろした。このまま見ていていいものなのだろうか。
上を見る。最上階がないという見張塔がそびえている。
元通りになれば、結界が広がって骸獣の動きは著しく鈍る筈だ。聖女たちに負担もかからないに違いない。
もし戻すとすれば? 想像するだけでいいのだろうか? しかし見張塔の元の形がわからない。想像しようがない。
目を閉じて、目を開けた時に戻っていればいいのに、と思っても、見張塔の先端は欠けたままだ。
力があるなどと言われても、こんな時に自分の意思で使う事さえできない。自主的に力を使ったのはドラクゥのリボンが初めてだ。靴とマントは自分の意思ではなかった。
しかし塔とリボンでは規模が違い過ぎる。どうしていいのかわからない。
いや待てしかし、最初に会った時、アトレイが言っていた。影の竜というのをユウが倒したと。手を前に出して、横に薙いで。それも自分が持つ力なのだろうか。
魔法は理論があるという。
ユウが持つ力は理論もマナも必要ないらしいが、それでもやり方というのはあるだろう。それが理論に乗っ取ったものでなくとも、自分の心が納得する様なやり方。それをなぞれば、力が発現するのではないだろうか。
ユウは片目を閉じ、そっと手を掲げた。
手の平を見張塔の方に向ける。こうやって見ると、見張塔と自分の手が同じくらいの大きさに見えるのだから不思議だ。
手を動かして、塔の先端が自分の目から隠れる様にする。
消すのではない。描き直すのだ。
この手をどけた時、塔は直っている。
そう心で念じながら、ユウはさっと手を横にどけた。