10.見張塔での戦い
朝もやが辺りに立ち込めていると思っていたが、白い霞を通して来る日の光が高くなっても、一向に晴れる気配がない。
どうやらこのまま霧に視界を閉ざされたままの様だと思う頃には、宙を舞う細かな水の粒によって、外套の表面に雫が垂れるくらいだった。
もう見張塔は間近という距離まで来て、ロザリーたち第一聖女一行は霧に足止めを食っていた。
濃く立ち込めるそれは、わずかな濃淡で動きを見せるものの、少し先すら見通す事が出来ないほどに一行の前に立ちはだかっていた。
オディロンが困った様に腕組みする。
「妙な霧だな……天気の具合からしても不自然だ」
「魔法の気配を感じるよ。何者かが意図的に発生させたものだろうね」
ジェニオが言った。ロベルタが顔をしかめる。
「何者かが? こんな森の奥地でか?」
「……見張塔に何かがいると考えた方がいいだろうな」
オディロンはちらとコランタンの方を見た。コランタンはむっつりと黙り込んでいる。
「コランタン、見張塔では戦闘が起きるだろうが、怪我は大丈夫かい?」
「余計なお世話だ。貴様の知った事ではない」
「ヘソ曲がりめ」
とロベルタが吐き捨てた。
コランタンは黙ったまま立ち上がり、離れて行った。普段の軽薄さは鳴りを潜めているが、代わりにひどく不愛想になっている。
彼の持つ転輪羅針儀は有用な魔道具である。五番隊との合流後、方角を読む手間を省いてここまで来られたのも、これのおかげである。
オディロンもロザリーも素直に感謝の意を示したけれど、コランタンは不機嫌そうに眉をひそめるだけでにこりともしなかった。協力せざるを得ない状況に追い込まれた事が、彼の自尊心を著しく傷つけているらしい事をオディロンは察していたが、他にやりようがなかった。
ロザリーが嘆息する。
「コランタン……どうしてそんなに頑ななのかしら」
「彼はプライドが高い。私に協力する様な形になったのが耐えられないのだろう」
「……裏切ったりしませんよね?」
ドロシーが言った。オディロンはふっと笑った。
「それはないだろう。彼は私たちの事は嫌いだが、聖都を害する意思は一切ない筈だ。結界の修復は我らの対立よりも優先されると判断してくれていると思うよ」
「無能になり切れない辺りが却って憎らしいねえ」
とジェニオが笑った。オディロンは寂し気に微笑んだ。
「昔はああではなかったのだがね……無論、他人を見下す様な態度は取っていたが、そこには親しみもあった。いつからだろうね、それが消えて冷たさばかりになってしまったのは」
「ディはコランタンと仲良しだった時もあるの?」とロザリーが言った。
「いや、親しく言葉を交わした記憶はないな。尤も、私が彼を嫌った事はないよ。私は最初から彼に嫌われていた様だがね……エルヴェシウス家とファルギエール家の確執の延長だとすると、少し寂しいよ」
休息を終えた一行は、ジャイロコンパスを携えたコランタンを先頭に、霧の中を恐る恐るといった足取りで進んだ。
この辺りは緩やかな傾斜になっているが、地面の凹凸自体はあまり多くはなさそうだ。倒木の数もそれほど多くない。ゆえに比較的歩きやすい。
ドロシーはロザリーの手を握って、注意深く手引きをしながらオディロンのすぐ後ろを歩いていた。霧がマントの表面で水滴になり、それが裾から垂れて足元を濡らす。
「お姉ちゃん、そこ少し下に下がってるから気を付けて」
「ありがとう、ドロシー」
ロザリーは何となく緊張した面持ちである。つないだ手もわずかに震えがある様に思われる。ドロシーは心配になった。
「大丈夫? 具合が悪いの?」
「ううん、違うのよ。ただ、何か強い瘴気の気配があるの。それが進む先に待ち構えているみたいで……体が震えてしまうの」
「瘴気の気配、か。この霧を発生させた者がいるとすれば、それは決して私たちに友好的ではないだろうね」
歩いていたオディロンが肩越しに振り返って言った。
「ロザリー、骸獣が相手であれば、君の力が重要になる。私の事はいいから、他の騎士たちの方を中心に力を出してくれ」
「ええ、わかったわ、ディ。でもあなたも油断しないでね」
と言いながら、ロザリーはぶるりと体を震わして、体を抱いた。ドロシーが驚いてその体を支える。
「お姉ちゃん?」
「近づいて来る……」
その時、ジェニオが一行を止めた。
「何か来るぞ、歪んだマナだ。骸獣に間違いない! 多いぞ!」
「総員戦闘態勢! ロザリーを中心に円陣を組め! 見通しが悪いから十分に注意するんだ! 馬を逃がさない様に気を付けてくれ! ロザリー、頼む!」
オディロンの号令に騎士たちが銘々に剣を構え、ロザリーはそっと両手を胸の前で組む。不思議と体が軽くなる様で、ドロシーは自分の双剣を抜いてロザリーの前に立った。ロザリーを挟んで反対側にはオディロンが立っている。
霧の向こうで声が上がった。武器の触れ合う音が聞こえる。戦いが始まったらしい。
戦闘の音と叫び声が聞こえるばかりで、それが却って緊張感を高める。ドロシーは前髪から垂れる雫を手の甲でぬぐい、油断なく辺りを見据えた。
「ドロシー、右前から来ます」
ロザリーが小さな声で言った。
果たしてそのすぐ後に黒い人影が濃くなったと思うや、青白い肌の男が一人、雄たけびを上げながら赤い刃の剣を振りかざして飛びかかって来た。骸獣だ。屍鬼である。
「聖女おッ!」
「ッ――! お姉ちゃんに近づくなッ!」
片方の剣で相手の一撃を受け止め、ドロシーはもう片方の剣で相手の胴を一閃した。上半身と下半身が別れ、屍鬼はどさりと地面に転がる。それでも手足がもがく様に動き、両手が這う様にして上半身がロザリーの方に向かう。
(そうだ、骸獣は核を……! 頭か、心臓!)
ドロシーはさっと体を翻し、屍鬼の脳天と心臓部に刃を突き立てた。屍鬼はビクンと一瞬痙攣したのち、沈黙した。
それを皮切りに、周囲に気配が満ちて来た。骸獣は波状攻撃を仕掛けて来ているらしい。時折ジェニオのものらしい魔法の光が、霧の向こうで雷の様に光った。
戦いの音が止まない。
ドロシーは必死になって骸獣たちを迎え撃った。
しかし骸獣の方も、前にコランタン達を助けた時のものよりも強力な連中がいるらしく、ロザリーの広げる聖女の力が手助けしてくれてはいるが、流石のドロシーも疲労が溜まりつつあった。
円陣はほぼ突破されつつあるらしく、陣形が崩れて混戦状態である。
見通しは悪いし、状況が把握できない。背後にロザリーがいるものだと信じて戦い続けているが、それはわからない。
ここ数日の行軍の疲れさえ、今になって鎌首をもたげて来る。いざ力を込めようという時にそれが足かせになる。
ドロシーは歯を食いしばった。ロザリーを守らなくてはならない。けれど自分の身も守らなくては。
次第に周囲から音が少なくなって行く様に思われた。こちらが負けているのか勝っているのかすらわからない。
ただ、骸獣の数は減っていない様だ。そうすると形勢は不利と言ってよさそうである。
「ディさん! ロベルタさん!?」
仲間の名を呼ぶが返事はない。まさか彼らがやられる筈はないと思いながらも、ドロシーは冷や汗をかく。
(いけない……ここで耐えていてもいずれ……)
ドロシーはぐっと力を込めて眼前の骸獣を斬り伏せると即座に踵を返す。骸獣はまだいる様だ。しかし何よりもロザリーを優先しなければならない。
ロザリーはすぐ後ろにいた。静かに手を組んで立っていた。周囲から響く血なまぐさい喧騒にもかかわらず、身じろぎせずに聖樹の力を周囲に広げている。
「お姉ちゃん!」
「ドロシー」
わずかに俯いていたロザリーは顔を上げる。その手をドロシーは握った。
「来て! 逃げよう!」
ともかく、このまま攻撃を受け続ける状況から脱さねばならない。ドロシーはそう判断した。
足の向く方に動き出したが、霧が濃くて方角がわからない。
骸獣の群れに突っ込む羽目になったらどうしよう、とドロシーが進みあぐねていると、ロザリーがつないだ手をくいくいと引っ張った。
「ドロシー、あっちには瘴気の気配があるわ」
ドロシーはそちらに目をやった。確かに気配がある様に思われる。戦いの気配ではなく、何かが集まっている様な気配だ。
(そうか……お姉ちゃんには霧なんか関係ないんだ)
自分たちは少し視界を奪われただけでこの有様だけれど、盲目の姉はこんな世界でずっと生きているのだ。委縮してなどいられない。
ドロシーは剣を鞘に収めると、ロザリーをさっとおぶった。ロザリーは驚いた様に小さく悲鳴を上げた。
「きゃっ、ドロシー?」
「お姉ちゃん、瘴気の気配のない方を教えて!」
それで走り出す。濡れた背中越しに伝わるロザリーの体温が、妙に愛おしく感ぜられた。
足場は悪く、唐突に木々が目の前に現れたりするものの、ドロシーは転んだりせずに駆け続けた。
ロザリーはドロシーにしがみつきながら、時折瘴気の気配を教えてくれる。
やがて、霧が少し薄らいできた。周囲の木々や茂みの影が見えて来る。そうしてとうとう霧がすっかりなくなった。
ドロシーは緊張気味に周囲を見回した。ぽっかりと開けた空間である。見上げた空には濃い灰色の雲がかかっており、今にも雨を降らしそうだ。
眼前にそびえ立つ塔は、目的地である見張塔であろう。
白い壁面は蔦の一つも絡まっておらず、傷一つ見えない。しかし、その先端を見たドロシーは、奇妙な違和感に首を傾げた。塔の先端が丸くえぐれているのだ。まるで、その部分だけ綺麗に削り取ったかの様だ。
(塔の先端に中継用の魔道具を据えてあったって聞いたけど……まさか塔ごと消し飛ばされた?)
だが破壊した、という様には見えない。断面があまりにも整い過ぎていて、元々そうだったという風にしか見えないのである。
その時、ロザリーがドロシーをぎゅっと抱きしめた。
「嘘、なんで……ドロシー、戻って」
急に周囲に気配が満ちた。屍鬼や餓鬼が、二人を取り巻いていた。
ドロシーは慌てて腰の剣を抜くが、ロザリーをおぶったままだから体勢が整わない。骸獣たちはうろたえる二人を見てげらげら笑っている。
その中から、誰かが歩み出た。
血の様に赤く長い髪の毛をした女だ。ひどく整った顔立ちをしているが、それが却って恐ろしい。露出の多い黒いドレスを着て、青白い肌を惜しげもなくさらしている。
「吸血鬼……」
ドロシーはそっとロザリーを降ろして双剣を構え直した。ロザリーはくっと口を結んでいる。
吸血鬼は品定めする様な目を向けた。真っ赤な瞳に二人の姿が映った。
「……成る程、そっちが聖女。忌々しい気配がするねえ」
冷たい声だった。身をすくませるロザリーをかばう様に、ドロシーは吸血鬼を睨んだ。
「一歩でも近づいたら切り刻んでやる」
「ふぅん」
吸血鬼は蔑んだ様な目でドロシーを見た。にやりと笑った口元から、鋭く尖った犬歯が見えた。そうして躊躇なく前へ踏み出す。
ドロシーはぐっと剣を握り込み、素早い動きで斬りかかった。
吸血鬼は微動だにしない。
斬った、と思った瞬間、吸血鬼の体が黒い霧の様になって宙に舞い、剣がその中を素通りした。
「なっ!」
「ふふ、吸血鬼を相手した事がないのかい、小娘。間抜けだね」
霧が元通りに女の姿になったが、戻らぬ霧だけがドロシーの手足と首とに巻き付いた。首元を絞められて息が詰まる。双剣が手から零れ落ちる。もがいても動けない。
「動くんじゃないよ、聖女。そうしたらこの娘の喉をかき切るからね」
ロザリーはびくっと体を震わした。胸の前で組みかけていた手をだらんと下に垂らす。
「……お願いします。わたしの事はどうしても構いませんから、妹には手を出さないでください」
「お姉ちゃん、駄目……」
もがきながらドロシーはうめく。吸血鬼はくっくっと笑い、指先から霧を出して、同じ様にロザリーも拘束した。
「恐怖を抱いているね。ふふ、それでいい。あたしは吸血姫ベドジシュカ。言っておくが、お前が何をしようとあたしには通用しない。下っ端の骸獣と同じと思わない事ね」
確かに、ハオマの木と同じく骸獣を忌避させ、動きも鈍らせる筈のロザリーの力が及んでいない。吸血姫を名乗るベドジシュカは、かなり高位の骸獣であるらしい。
ドロシーはもがきながら言った。
「な、にが目的、なの……冥王の、命令、なの?」
「別に? 目的なんかありゃしないわ。強いて言えば暇つぶしかしらね。古都って退屈だから、人間相手に暴れたい連中がごまんといるのよ。ねえ?」
とベドジシュカが周囲に目をやると、取り巻いていた骸獣たちが同意する様に騒いだ。
「他の連中はまだ霧の中をさまよっているだろうねえ。あんたたちは特別に通してあげたのさ。でも勇者だ聖女だなんて言ったって、森の深部を知らないヒヨッコじゃあ、迷宮霧の魔法も知らないんだねえ。正直、期待外れだったわ。魔都の探索団の方がよっぽど手ごたえがあるわよ」
と言いながら、ベドジシュカはドロシーの両肩に手を置いた。そうして大きく口を開き、首筋にかぶりつく。
「うっぐ……かはっ! あああぁぁ!」
「ドロシー!? やめて! 何をしているのですか!?」
ロザリーが悲痛な声を上げた。ベドジシュカが顔を放すと、口端から血が滴った。
「ふふっ、若い女の血はおいしいねえ」
「こ、の……何を……」
ドロシーは歪む視界の向こうのベドジシュカを睨みつけた。ベドジシュカは口周りの血をぺろりと舌で舐め取ってにやりと笑った。
「すぐに殺したんじゃ面白くないからね。知ってるかい? あたしら吸血鬼は噛んだ相手の体内に瘴気を流し込むのさ。今入れてやったくらいだと、そうね……大体一時間後に死亡、ってとこかしら。それからはあたしの眷属になる」
「そんな……! ドロシー!」
目の前が歪む。ドロシーは吐き気を覚えながらも必死になって意識を保とうとしていた。
「だい、じょ、ぶ、だから……おねえ、ちゃ……」
「ドロシー! ああ、どうして……」
ロザリーは涙をこぼしながらもがく。
ベドジシュカはふんと鼻を鳴らして、ひょいと指を振った。二人を拘束していた霧が消え、ドロシーは地面に倒れ込む。
ロザリーはおろおろと手探りで地面を這う様に近づき、ドロシーの体をゆすぶった。
「ドロシー? しっかりして! お願い、死なないで……!」
「さて、聖女。お前に癒しの力があるというのなら、妹の体を癒してみるがいいさ。それができなきゃ、苦しみながら死んでいく妹を眺めているんだねえ、ふふっ。そうなれば、眷属化した最愛の妹に殺される事になるけどね。さあて、あたしらは勇者でも屠りに行こうか」
骸獣たちはけたけたと笑いながら、銘々に武器を携えて霧の中へと消えて行った。しかしいくらかの骸獣たちはソーンダイク姉妹の成り行きを見物する心づもりなのか、周囲の岩などに腰を下ろしてにやにやしながら眺めている。
ドロシーは定まらない視界の中、必死になって自分の名を呼ぶロザリーの声を聞いていた。
体が凍る様に冷たいのに、首の傷だけ燃える様に熱い。
〇
裏道から出て小一時間ほど歩くと、急に辺りが白くなった。
霧というよりも、雲が地上まで降りて来たという風だった。視界は白く染まり、しかし濃淡があるせいで、木々のシルエットがまばらに見えている。霞が動くのがわかる。肌にはあまり感じないが風があるらしい。
この微小な水の粒のせいで、見通しも悪い上ににおいも微弱になる。
アトレイは荷物から紐を取り出すと、一行が列になる様に伸ばして握らせた。そうして渋面のままのろのろと歩いて行く。
その後ろにいるリュシエールが苛々した様子でせっついた。
「こんな遅い足取りでどうするんですの! ロザリーたちに先を越されてしまいますわ!」
「紐を放すんじゃないよ。この視界の悪さで突っ走れるわけねえだろ。無暗に突っ込んだ先が崖とか危険生物のコロニーだったらどうすんだよ。全員あの世行きだぞ」
その光景を想像したのか、リュシエールは口をつぐんだ。
ニンジャが最後尾から顔を出した。
「しかし、この状況では正しい方角に進めぬのでは? 我らは確かに見張塔へ向かっているのでゴザルか?」
「……こりゃ迷宮霧だな。ちと面倒だが、まあ、行けない事はない。だが、この魔法を使うレベルの骸獣は、中々の強敵だぞ」
迷宮霧? とユウが首を傾げた。
「そう。魔力を含ました霧を展開して、入った連中を迷わせるのさ。視界を奪われるのもそうだが、霧自体が微弱な転移魔法の性質も帯びていてな、しっかりと足元を意識してりゃいいが、他の事に気を取られてると別の場所にすっ飛ばされる。それで余計に迷うんだよ。一人になりたくなきゃ紐を放すんじゃねーぞ」
ユウは慌てて紐を握り直した。
アトレイはゆっくりながらも着実な足取りで進んだ。あちこちに微かな目印や手がかりが残されているらしく、時折足を止めて確認する他は淡々と進んで行く。霧が立ち込めているのもちょっとしたハンデくらいにしかなっていない様だ。
「おぬし、中々博学でゴザルな。経験があるのでゴザルか?」
「昔ね。古都付近をうろついてた事もあるから」
リュシエールとニコレットが息を呑んだ。
古都ノス=タルジアは今でも冥王が座していると言われている。熟練の探索師であっても容易には近づかない場所だ。
「何をしに行ったのでゴザル?」
「まあ、好奇心を満たしに、的な?」
「そんな理由で? あなた、馬鹿じゃありませんの?」
とリュシエールが言うと、アトレイは頭を掻いた。
「馬鹿だよ、知ってるよ。おかげでえらい目に遭ったしな……気を散らすな。足の裏をしっかり意識しろ」
やがて少し霧が薄れて来たらしかった。
ドラクゥがすんすんと鼻を鳴らして、嫌そうに顔をしかめる。
「アトレイ! 屍鬼のにおいするぞ! ドラクゥ、屍鬼嫌い!」
「俺も嫌いだよ。しかしそうか。屍鬼か。数が多いと面倒だな」
周囲のものの影が見える様になって来たので、アトレイは身を隠す様にしながら進んだ。やがて霧が晴れる頃には、白く光る見張塔がはっきりと見える様になった。
「ふーむ、着いた事は着いた、が」
アトレイは見張塔の周囲をうろつく屍鬼や餓鬼を見て眉をひそめた。
本来は結界の中心部で聖樹のマナが満ちている場所だ。野生動物たちが憩い、時には探索団が休息を取る。そんな場所が今は瘴気の気配に満ちていた。
「完全に占拠されている様でゴザルな」
「うん……だが、あんな芸当骸獣にできるかな?」
抉れた様に消えている見張塔の先端を見て、アトレイは首を傾げた。大火力の魔法だったとすれば、あんな風に綺麗に抉れたりせず、もっと周囲が崩れたりしている筈だ。しかも見る限り、抉られた塔の残骸がそこいらに転がっている様子はない。
(ただでさえ結界がある時は力が落ちてた筈なのに、骸獣が見張塔を壊せるとは思えねえ。だとすりゃ、骸獣以外の何かの仕業か……? でも見張塔って滅茶苦茶頑丈な筈なんだけどなあ)
アトレイが考え込んでいると、リュシエールが「あっ!」と言って立ち上がった。
「ロザリー!」
「おい馬鹿、大きな声出すな」
しかし手遅れで、その辺をうろうろしていた屍鬼や餓鬼たちが一斉にアトレイたちの方を見た。獲物がのこのこやって来た事に歓喜の声を上げ、武器を構えて駆け出して来る。
アトレイは嘆息した。
「お前さあ……」
「アトレイ! あそこに、ロザリーが!」
「あん? ありゃ」
見てみれば、地面にうずくまる様にしている少女の姿が見える。後ろ姿だから解らないが、砂色の髪の毛はダオテフの町で見た覚えがある。具合が悪いのか、うずくまる様にして動かない。
アトレイは荷物を置いて立ち上がった。
「ニンジャ、ユウを守っとけ。ドラクゥ、暴れていいぞ。こいつら全員ぶっ潰せ」
「うおーっ! ドラクゥお前ら大っ嫌い! 粉々にしてやるぞーっ!」
ドラクゥはぎゃおーっと雄たけびを上げると、トラの様な俊敏さと勢いで、先頭にいた屍鬼に躍りかかった。そうして脳天に踵を落とした。屍鬼の頭が果物の様に潰れた。倒れる屍鬼を踏み台にして、次の屍鬼を蹴り飛ばす。
人間というよりは動物の様な戦い方だが、動きは速いし力は強いしで、単純に強い。
「粉々……あいつ、俺をあんな風にするつもりなの?」
アトレイは背筋に冷たいものを感じながら、六尺棒を構えて手近な屍鬼を打ち据えた。打つ瞬間に手の先からマナを棒へと流し、威力を上乗せする。この六尺棒は特にマナの導性がよい特注品である。衝撃が倍以上になって屍鬼を襲い、打たれた所がはじける様に吹き飛んだ。
大暴れするドラクゥは屍鬼をまったく寄せ付けない。
リュシエールも魔法を放って攻撃し、近づいて来る骸獣はニコレットが剣を振るって足止めした。ニンジャの放つシュリケンがいい具合に援護しているらしく、骸獣たちは最初の勢いはどこへやら、完全に押されている。
アトレイは六尺棒を一振りして、餓鬼を一体叩き潰した。
(高い肉体レベルに比べて低い戦闘経験……やっぱ古都周辺から来たっぽいな。単にこいつらが下っ端って事もあるだろうが)
古都付近は瘴気が濃く、発生する骸獣も高位のものが多い。しかし、その分人間が近づかない事もあって、人間との戦闘経験に乏しい骸獣も多いのである。
アトレイは邪魔な骸獣を粗方片付けると、うずくまっているロザリーに駆け寄った。
近くで見れば、具合が悪くてうずくまっているのではなく、地面に倒れている者の手当てをしているのだった。
「大丈夫?」
「ドロシー……ドロシー……」
ロザリーは必死の表情で、地面に横たわるドロシーに手を当てていた。当てている手が淡く光っている。聖女の力を使っているらしい。アトレイが声をかけた事にも気づいていない。
アトレイは屈んで、ぽんとロザリーの肩に手を置いた。
ロザリーはびくっと身を震わせる。
「えっ、あっ……」
「ロザリー、だっけ? 俺の事覚えてる?」
ロザリーはすんすんと鼻を動かした。アトレイのまとう薬草のにおいに驚いたらしく、口をぱくぱくさせる。
「ア、アトレイ、様……? どうして……」
「詳しい話は後でね。この子は妹さんだったか。ちょっと見せて」
アトレイはドロシーの首に手を当てて脈を診る。止まってはいないが微弱だ。
虚ろな目は焦点があっておらず、白目は充血して赤い。肌は血の気が引いて青白くなっている。そうして首筋には牙のものらしい傷があり、その周囲が青黒いあざの様になっていた。
「おいおい、吸血鬼に噛まれたのか……しかしまだ死んじゃいないな」
「きゅ、吸血姫ベドジシュカと名乗る方が、ドロシーの血を吸って……一時間で死んでしまうと言っていて、わたし、どうしたらいいのかわからなくて……アトレイ様、どうか、助けてください……力をずっと注いでいるのですけれど、息が弱くなる一方で……うう」
ロザリーはアトレイに縋り付く様にして嗚咽した。アトレイは眉をひそめて後ろを見る。
ドラクゥはもう骸獣をほとんどせん滅していて、残った屍鬼や餓鬼を追いかけていた。大変活き活きしている。ともかく、治療に専念しても危険はあるまい。
(……聖女の力よりも瘴気の浸食の方が強いんだな。体が衰弱してる分、癒しの力が追い付かないって感じか)
聖女は聖樹ガオケレナとマナの糸をつなげている。聖女の力とはすなわち聖樹の力であり、聖女たちは聖樹の力のアンテナの様な存在である。聖女によってマナの糸の太さや、受けられる力の容量などの差がある。
また、精神状態などにもそれが左右される為、癒しの力を行使する場合は心を落ち着けていなければ効果が薄い。
癒しの力そのものも超常の域に達しているものではなく、あくまで人間の自然治癒力を高めたり、一時的な鎮痛の効果を与えたりするだけの代物だ。
瘴気に対しては特効があるが、この状況ではロザリーが精神的に追い込まれている事や、ドロシー自身の治癒力が著しく落ちている為、瘴気の浸食を抑え込めていない、という状態らしい。
残った骸獣をドラクゥに任せたらしいリュシエールと、荷物を持ったニコレット、それにニンジャとユウが駆けて来た。
リュシエールはやって来ると、持った杖を肩に置いてふんと鼻を鳴らした。
「……何があったの、これは。どうしてドロシーが死にかけてるのよ、ロザリー!」
「リュシー……? 無事だったの?」
「ええ、この通りぴんぴんしてるわ。オディロンは? ロベルタもジェニオもどこに行ったのよ」
「わ、わからないの……霧の中で骸獣と戦っているうちにはぐれてしまって……」
「吸血鬼に噛まれて死んだら体内の瘴気で眷属化しちまうぞ。早くなんとかせにゃ……」
さっさと殺さないでタイムリミットつけるとは、性格のねちっこい奴だ、とアトレイはぶつぶつ言いながら薬瓶や魔道具を取り出した。しかし、そのねちっこさゆえにこうして治療のチャンスができた。
アトレイはドロシーの軽鎧を脱がし、服の留めを外して肩口をはだけさせる。首の噛み傷から広がる青黒いあざは、血管に沿って肩や鎖骨の方まで広がっていた。
「あー、痛々しい……かわいそうに」
アトレイは乾燥させた薬草を手早くすり潰し、薬瓶の中の液体と混ぜ合わせる。半透明の奇妙な固形をそこに落とすと、しゅうしゅうと湯気を立てて色が緑から青に変わった。
「おいニンジャ、ちょっとこの子の手足押さえてろ。動かない様に」
「いや、拙者一人で手足は無理でゴザル。足は引き受けるでゴザルから、手はそちらのお嬢さん方が押さえて欲しいでゴザル」
「何でもいいから早くしてくれ」
それでリュシエールとニコレットがそれぞれ右手と左手を押さえ、ニンジャが両足をしっかと押さえる。
「暴れるからな、しっかり力入れとけよ? 行くぞ」
そう言って、アトレイは薬を傷口にかける。じゅわっと音がして、腐った様な嫌なにおいのする煙が立ち上った。
死んだ様だったドロシーが苦悶の声を上げる。胸だけが上に持ち上がった。同時に手足が暴れようと動くが、しっかりと押さえられているから身じろぎするだけにとどまった。
「ドロシー……」
ロザリーははらはらと涙を流しながら、両手で口元を抑えている。ユウがそっと寄り添って、きゅうと腕を握ってやった。
ドロシーはしばらく呻きながら体を動かしていたが、やがて力が抜けた様にぐったりとした。しかしさっきと違って、はっ、はっ、と荒い息をしている。顔色も少し良くなった様に見えた。
「よし、と。あとはこいつを」
と別の薬を取り出し、ドロシーの口に注ぐ。
しかし味が苦いせいか、ドロシーは驚いた様に吐き出してしまう。
「ドロシー、お薬よ。きちんと飲んで……お願い」
ロザリーはドロシーの手を握りながら言う。だがまだ意識が朦朧としているらしいドロシーは頑強に口を結んで、中々薬を受け付けようとしない。
アトレイは逡巡する様に眉をひそめていたが、やがて諦めた様に頭を振った。
「仕方ねえ。悪いけど失礼するよ」
アトレイは自分の口に薬を含むと、ぐいとドロシーの頭を引き寄せて唇を合わせた。
リュシエールが「どえええっ?」と素っ頓狂な声を上げる。ニコレットとユウが「ひゃー」と言って両手を頬に当てた。見えていないロザリーは、何が起こっているのかわからずにおろおろしている。
アトレイは外野を無視して、舌で無理やりにドロシーの口をこじ開けて薬を流し込んだ。
「んーっ!」
ドロシーは手足をばたつかせて抵抗するが、アトレイはその頭をしっかり押さえて、薬を飲み込むまで放さない。
やがてこくんと喉を鳴らして薬が流れ落ちると、アトレイは口を放した。
ドロシーは小さくむせながらも、やがて穏やかに寝息を立て始めた。傷口周りの青黒いあざもすっかり小さくなって、傷の周囲をわずかに染めるばかりだ。
袖で口元を拭い、アトレイはふうと息をついた。
「あー、にげえ……ひとまずよし。ロザリー、まだ力は使えるか?」
「は、はい。聖女の、ですね?」
「うん。今なら聖女の力が及ぶ筈だよ。この子に流してやんな。応急処置はしたけど、まだ瘴気が完全に抜けたわけじゃないし、瘴気にはやっぱり聖女の力が一番いい」
「では、では、助かるのですね……?」
「大丈夫だと思うよ」
ロザリーは涙を流しながらも、喜びに表情を緩めてアトレイに頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。アトレイ様には、何度も助けていただいて……」
「いいからいいから。ほら、妹さんの手を握ってやってな」
アトレイはふうと息をついた。
向こうでは付近の骸獣をすべて駆逐したらしいドラクゥが、満足げな表情で跳ね回っていた。