1.星誕祭
――空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。
取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。
だが、おどけと云う奴を忘れてはいけませんぜ。
J・W・v・ゲーテ『ファウスト(森鴎外訳)』より
○
深く、鬱蒼とした森が、どこまで続くのかわからない、暗く、静かに、遥か地平線の彼方まで広がっている。
一歩踏み込めば外界とは違う重苦しい生命の気配に圧倒される。
木々はどれも太く、厚い葉が枝枝に色濃く生い茂って日の光を遮っている。かつてあった古い文明を覆う様に広がる森には、数多くの不思議な生き物たちが住んでいた。
大陸の七割以上を覆うその森を人々は大森林と呼称し、恐れながらも、自然の恵みを享受して暮らしていた。
その森の中でアトレイ・ベネシュは一人、六尺棒を片手にうろついていた。
無精に伸びたままのぼさぼさの栗毛を、キャスケット帽で無理やりに押さえつけ、はみ出た後ろ髪は束ねている。分厚いコートを着てマフラーを巻いて、リュックサックを背負っていた。
鬱蒼と茂る木々の間を縫って歩き、萌え出したばかりの新芽や、石の上に広がる苔、硬質化し始めた茸などを採集して、古布や油紙で小分けにして包み、リュックサックに入れている。
「毎日毎日、伸びるのが早い事早い事……」
呟きながら、倒木から伸びていた手の平くらいもある大きな茸をナイフで切り取った。
春節を過ぎて残雪も解けきり、もう辺りはすっかり暖かくなって来ているが、まだ日が落ちれば肌寒い。既に太陽が西に傾いて、頭上からかぶさる木々の影が濃くなって来た。
もうじき星誕祭だ。夜空を流れる無数の流れ星を見ながら、人々は願いを込めた木札を焚火で燃やす。その願いが星に届く様に祈りを込めるのである。
そうして夜の間じゅう、飲んで食べて、歌って踊ってのお祭り騒ぎに興じる。
星の持つ力が魔力の結晶となって大地に落ちて来る晩でもあり、星の欠片と呼ばれるそれらは、魔道具のエネルギー源や魔法の実験の触媒、また製薬、武器の素材など様々な使い道がある。
不思議な事に、星の欠片は大森林でしか結晶しない。その為、それらを求めて、星誕祭の後は森の探索も賑わう事だろう。
ふと、アトレイは目を細め、手近な木にするすると登った。
しばらくして、ずるずると何かが地面を這う様な音が聞こえて来た。細い木や、下の方の枝が折られる音がする。
やがて大きな蛇の頭が見えた。巨大な頭、特に目立つのが蛇らしからぬ分厚い下顎だ。そこから太く鋭い牙と、細長い舌が覗いている。体は艶のあるうろこでびっしりと覆われていた。
(シュミグナハル……でかいな。繁殖期でこんな所まで来ちまったか?)
巨大な蛇の一種であるシュミグナハルは、その強靭な顎で、甲殻を持つ獲物ですら噛み砕く。鱗も硬く滑らかで、生半可な攻撃では傷すら付けられない。対峙するのは自殺行為だ。
幼体でも大人の腕の太さほどもあり、成体ともなれば巨木の幹ほどにもなるが、ここまで大きくなった個体は珍しい。
基本的にはここよりもさらに深い場所に生息しているのだが、稀に獲物を求めて浅部にまで出て来る事もある。いずれにせよ、あまり出会いたくない相手だ。
シュミグナハルはゆっくりと地面を這っていたが、急に鎌首をもたげ、一心に向こうの方へとすっ飛んで行った。何か獲物を見つけたらしい。
ぴいっ、と笛を吹く様な悲鳴が聞こえた。鹿だろう。
そのままシュミグナハルが見えなくなるまでやり過ごしたアトレイは、木から降りて伸びをした。
もう日が暮れかけている。アトレイは辺りを見回して捕食生物などの気配がない事を確認してから歩き出した。
ここ最近はああいった大型の捕食生物をよく見かける。
春は冬眠明けの捕食生物たちが旺盛な食欲をむき出しにして動き回る時期だ。冬の間に腹を空かした彼らは、動くものを見れば食物だと思って襲い掛かって来る。この後に繁殖期を控えている生物などは猶更だ。
アトレイはやや慎重に歩を進め、やがて拠点へと戻って来た。
森の片隅に遺跡があった。石で造られたドームを中心に、様々な形の石が建ち並んでいる所だ。円柱形のものもあれば、立方体もある。その上で長い時間のうちに積もった堆積物が土となり、草や木を茂らせていたり、太い木の根に巻かれて、わずかしか見えていなかったりするものもある。
中心にある巨大なドームの表面はすっかり苔むしていたが、わずかに見えるその石肌には、古代文字なのか絵なのか、不思議な模様が刻まれている。それの前面に石柱が立ち、アーチ状の入り口は重い扉がしっかりと閉じられていた。
その遺跡の周囲には高い木が少なく、ぽっかりと開けた様になっていて、空が広い。
日当たりがいいせいか季節折々の花が咲き乱れて、いつの時期も自然な華やかさがあった。
苔むした岩の間からごぼごぼと湧き出す水もあり、静謐な寂寥感が漂いつつも、どこか美しさがある、不思議な場所だった。
アトレイはそのドームの傍らに立てられた簡素な小屋に入った。かつてあったらしい家の石積みの壁だけを利用して、屋根は木の骨組みと木の皮、苔とで造り直してある。
もう日が落ちた事もあって中は暗い。アトレイは火の灯ったカンテラを天井からぶら下げ、暖炉の灰の中で微かに赤く光っている熾火に声をかける。
「起きろ寝坊助さん。夕飯の支度の時間だぜ」
それで薪を一本、乱暴に放り込む。すると、熾火が急に元気に燃え立って、赤い火を舌の様にちろちろと動かした。アトレイは朝の残りのシチュー鍋を火の上にかけた。
茹でた芋にシチューをかけて、その上にチーズを削って食べた。硬くなりかけたパンもちぎってシチューに浸す。もう外は真っ暗だ。春の日は暮れかけたと思ったらすぐに暗くなる。
不意にきゅうと小さな鳴き声がして小さな影がさっと横切った。
アトレイがそちらに目を向けると、何だかふわふわしたものが、棚の陰から寝床の陰へと駆け出て行く所だった。アトレイはつい笑ってしまった。
「どこにいたんだ、お前ら」
寝床の陰から、もこもこした毛玉みたいなものがいくつもこちらを見ていた。鼠に似ているが鼠よりもずっと大きく、まん丸で、手足は毛に隠れてわずかしか見えず、尾っぽだけがひょろひょろと長い。
全身を茶色がかったクリーム色の柔らかな毛で覆われたそれはファルウと呼ばれる生物だ。空洞になった木の中や、自ら掘った穴に巣を作り、草や木の実を食べる無害な生き物で、むしろ他の肉食獣に襲われたり、毛皮を狙われて狩人に狩られたりする被食生物である。
被食生物の割にのんびりした所があって、このファルウたちは、アトレイが気まぐれにパンの欠片などをやっていたら懐いてしまい、今ではこの小屋に住み着いている。
元々廃墟を作り直した家であるから隙間だらけなのだが、ファルウにしか通れない秘密の出入り口があるらしく、勝手に出たり入ったりしているらしい。
くりくりした黒い眼でこちらを見るファルウたちに、アトレイはパンの欠片を投げてやった。
ファルウたちはきゅうきゅうと小さな声で鳴いて、ちょこちょこと出て来ると、パンの欠片をくわえて再び物陰に入って行った。
「のんきな奴らだなあ……」
食事を終えたアトレイは熱いお茶を一杯飲んで息をつくと、取って来た薬草や茸をテーブルの上に広げて、一つ一つ点検を始めた。ぬるま湯を桶に入れて、虫や汚れを丁寧に洗い落とす。
「こっちは干して……これは煮ておくかな……」
保存方法の違いによって選り分けておき、干すものは笊に広げ、煮るものは鍋に放り込む。
隙間風が吹き込んで来た。アトレイは身震いして、またお茶を一杯コップに注いだ。
アトレイは、生まれた年が確かならば今年で二十七歳になる。
育ての親が旅人だった事もあって幼少の頃から旅を続けていた上、仕事を選ばずなんでもやったので、年齢の割に様々な経験を積んでいる。
掃除代行や野菜の収穫の手伝い、果ては街の清掃やドブさらい、迷い猫探しの様な地味な仕事も受けたし、時には町の金持ちの護衛に雇われ、温かな食事と柔らかい寝床を得た事もあれば、野伏たちと一緒に森の中で埃まみれになって過ごした事もある。
大型の捕食生物や骸獣、指名手配の賞金首などと命のやり取りをした事もある。森の怪物を討伐した事もあるし、南西の荒野でウルクと戦った事や、犯罪者を捕まえた事もある。
そういった荒事の経験も多い為、一見のんびりした頼りなさそうな男に見えるが、その視線や体の動きを、見る者が見れば決して油断できる相手ではないと思うだろう。
旅暮らしが長く、大陸中を行き交っていたが、ここ二年ばかりはこの遺跡を拠点に、時折町に出て薬草を売ったり、薬湯を処方したり、万請負で仕事を斡旋してもらったりして暮らしていた。
収穫物の整理を終えたアトレイは鍋を火の上にかけた。そうして入り口の手作りの木戸を押し開けて、そっと外を窺い見る。
遺跡のドームはその全体が薄ぼんやりとした明かりを放っていた。特に奇妙な紋様が薄緑の光を放っている。それだけでなく、低く響く奇妙な音が、夜な夜な中から聞こえて来るのだ。来たばかりの頃は変に思ったものだが、もうすっかり慣れてしまった。
大陸には、こういった旧文明の魔法的な遺跡や遺物は数多く残っているものだ。月都マホロバの“月”や、魔都アウグリウムの“世界塔”などはその筆頭である。この遺跡もそういったものの一つなのだろう。
森には、最深部にある古都ノス=タルジアから溢れる瘴気が死骸に宿って動き、生者に襲い掛かる骸獣と呼ばれる奇妙なものがいる。野生動物の死骸は勿論、森で死んだ人間の遺体も動き出す事があるのだ。
骸獣は瘴気を元に動いているので、瘴気を寄せ付けない結界には近づく事ができない。
遺跡は一種の結界発生装置でもあるらしく、野生生物はともかく骸獣がその周囲に近づいて来る事はなかった。
森のもっと深い所には見張塔と呼称される遺跡もある。旧文明の塔の先端に、マナを中継する特殊な魔道具が据えられており、その魔道具が聖都の聖樹ガオケレナとマナの糸を結んでいる。それによって周辺に結界が広がっていて、要するにこの遺跡周辺は二重結界の状態なのである。そのせいで、森の中とは思えないくらい安全な場所でもある。アトレイが住み着いたのもそういった事情があった。魔法の正体は不明だが、利用できるならば何でも構わないというのがアトレイの心情である。
夜風が木々の葉を撫でて行く音の他は何も聞こえない。パンを食べ終えたらしいファルウたちが、足元をうろちょろしている。
薬湯に手ぬぐいを浸して体を拭いてから、ぼつぼつ寝ようかと明かりを消し、寝床に潜り込んだ。ファルウたちが上って来て布団の傍で丸くなる。
翌日になって、アトレイは薬師でもあった師匠の形見の背負い箪笥に薬草や乳鉢、煎じ鍋や携帯用の炉などを詰め込み、家を出た。
ダオテフという近場の町までは、森に慣れたアトレイの足でも歩いて二時間ばかりかかる。距離的なものもあるが、そもそも道が整備されていないので、荷物などを持っていると歩みはどうしても遅くなるのだ。
町に辿り着く頃にはもう日が高くなっていた。
高い石壁の中の町では星誕祭の賑わいが始まっていた。あちこちに旗と提灯がぶら下げられ、広場には大きなかがり火の支度がされている。夜になる頃にはこれに火が点けられ、人々は願いを書いた札を放り込み、煙と共に願いが星に届く様祈るのである。
ダオテフは森のほとりの町としてそれなりの規模を誇っているから、催し事も賑やかだ。周辺の森は封印塔の結界のおかげで瘴気もあまり来ず、骸獣が少ない事もあり、探索の拠点としてもよく利用されている。
小高い丘を取り巻く様に広がっていて、見通しがよく、夜空を見上げるにも都合がいいので、わざわざ遠方から流れ星を見に来る者もいるくらいである。宵闇の中黒く広がる森を下に見ながら、上空から雨の様に流れ星が降り注ぐ光景は定めし美しい。
通りは人で溢れている。
行き交う人々の中は森の探索を仕事とする者たちもいるし、近隣の小さな村などから出向いて来る者もあるだろう。無論商人や職人もいる。旅人の姿も多い。祭りの日はみんな家の外に出て来るから、普段以上に賑やかである。
アトレイが「生薬」と書かれたのぼりを立てて、薬売りの口上を述べながら往来を辿っていると、家の戸から女の人が駆け出して来た。
「薬屋さん、薬屋さん!」
「ああ、こんにちは。あれっ、前にも……」
「はい、その節はお世話に」
「毎度どうも。何かご入用で?」
「そうなんです。息子がまた腹痛で……何かいい薬はありませんか?」
「ははあ。どれ、ちょっと診察させてもらおう。お邪魔しますよ」
中に通される。一般的な町家で、何か作っていたのか、香ばしいにおいが立ち込めていた。
奥の部屋の寝床で、十歳くらいの少年が苦しそうにしていた。少年はアトレイを見ると表情をこわばらせた。
「苦い薬の人だ!」
「こら! 前はそのお薬のおかげで治ったんでしょ! まったく……こんなでも、今夜は星誕祭に行くんだって大騒ぎしてて困ってるんですよ」
「それだけ元気ならすぐ治るでしょ。どれ、診るよ。舌出して」
アトレイは少年の舌を見たり、腹部に手を当てたりしてから、ふむふむと頷いた。
「果物を食い過ぎたんだな。さては白イチゴだな?」
アトレイが言うと、少年はバツが悪そうに目をそらした。アトレイはくつくつと笑う。
「ま、この時期の白イチゴは熟してうまいからな。えーと、ライエンの根と干し生姜と……」
そうして背負い箪笥から乳鉢を取り出し、引き出しから数種類の薬草を出してすり潰し、粉にした。それを紙に包んで母親に渡す。
「これね、コップ一杯のぬるま湯で飲ましてやって。後は大人しくして、冷たいものを食べたり飲んだりしない事。そうすりゃ夕方には出かけられると思うよ」
「まあ、すみません。よかったわねえ、夜には出かけられるって」
少年は曖昧な表情で「うん」と言った。星誕祭に行けるのは嬉しいが、苦い薬は嬉しくないのだろう。
アトレイは代金を受け取って家を出、また往来を辿って行った。薬を処方する相手もいれば、薬草だけを買い取る者もいる。十人を相手にし、十軒ばかり回る頃には、もう日が傾き始めていた。
通りにも露店がひしめいて、人々が大勢行き交っている。
既に一杯機嫌の連中ががあがあとがなる様に歌っている。装いからして森の探索を仕事にする者たちの様だ。探索であろうと討伐であろうと、大森林と関わる以上彼らは死の危険と隣り合わせだから、こういう時の金遣いは豪快である。
(明るいうちの酒はうまかろうなあ)
腰を下ろして休憩していたアトレイは、それを眺めながら水筒の水を飲んだ。酒は好きだが、それほど強くはない。今酔ってしまうと後が面倒である。
ともかく、今夜は星誕祭なのだ。今日の稼ぎでちょっといい肉と酒を買って、空を埋め尽くす流れ星を見ながら晩酌というのは乙なものではないか。それを想像してやる気を出し、アトレイは立ち上がった。もう何軒か回ったら買い物をして帰る事にしよう。
育ての親である旅の武術家は薬師としての技術もアトレイに叩き込んだ。森は薬の原料の宝庫だ。知識と技術さえあれば食いっぱぐれる事はない。おかげで万請負の世話にならずとも、アトレイはこうして日銭を稼ぐ事が出来ている。一度に大きな金額を稼ぐならば万請負で仕事を回してもらう方が早いが、日々の生活費を稼ぐだけならば薬草の行商で十分である。
しばらく歩き回ったアトレイはのぼりを畳んで仕舞った。もう今日の営業は終わりだ。あれこれと買い物をして家に帰り、ゆっくりするつもりである。
あれこれと買い物を済ましているうちに、もう日が斜めになりかけていた。
光に朱が濃くなり、あちこちの影が長い。帰る頃には真っ暗だろうなとアトレイは頭を掻いた。もう少し早めに帰ろうと思っていたのだが、商品を物色しているといつの間にか時間が経つから困ったものだ。
表通りに人が増えて来た。もう広場のかがり火も火が点けられただろう。
アトレイは往来を下りながら、暮れかけて行く空を時折見上げた。既にいくつもの流れ星がきらきらと尾を引いて流れて行くのが見えた。
(やっぱり綺麗だなあ)
毎年見られる光景なのだが、こうやって見ればやはり綺麗だと思う。それに、こういうものを美しいと思う気持ちは、年月を重ねても萎えさせてはいけないとアトレイは思っていた。
「ちょっと、邪魔だよ」
「あ、すんません」
通りはどんどん人が流れている。立ち止まっている暇などない。
ひとまずアトレイは邪魔にならぬ様に道の端に寄って、あらためて空を見上げる。見ていて何を思うでもないけれど、見ていればいつまでも見ていられる様だ。
少し肩の力を抜いてぼんやりしていると、ふと、誰かの声が聞こえた。
「もし……もし、そこのお方……」
か細く、聞き逃してしまいそうなくらいに小さかったが、アトレイはきょろきょろと辺りを見回した。
建物と建物の隙間に木箱が積まれた場所があって、その薄暗がりに女が一人、隠れる様にへたり込んでいた。質のよさそうな服を着て、頭にフードをかぶっている。傍らには杖が転がっていた。
「どうしたの?」
「あっ……」
女は顔を上げた。目は閉じられている。ふと、においを嗅ぐ様な仕草をした。
「あの、もしかして薬草をお持ちでしょうか?」
「え? ああ、持ってるけど」
アトレイは怪訝な顔をして六尺棒の先を見た。のぼりはとっくに片付けている。背負い箪笥が見えたのだろうか?
「すみません、足を挫いてしまって……腫れに効く薬草をいただけませんか?」
「あれま、そりゃ大変だ」
アトレイは傍に近寄って背負い箪笥を降ろし、女の方を見た。
歳は十九か二十か、ともかくアトレイよりは年下に見える。ローブの下からさらりと落ちる砂色の髪の毛は、きちんと手入れされている様だ。髪の手入れ具合といい、着ている服の質といい、上流階級に属する娘らしい。心細かったのか、目じりには涙が流れた跡が見て取れたが、うっすらと化粧をほどこしてある顔立ちは整って美しい。
しかし目を閉じたままだ。痛みをこらえているのかと思ったが、そうではないらしい。
「……もしかして目が見えないの?」
「はい。妹と二人でいたのですが、わたしの不注意ではぐれてしまって……何とか宿に戻ろうと一人でさまよっていたのですが、段差に躓いてしまって」
「おいおい……見えないなら一人でうろつくのは自殺行為だぜ」
「そうですね……見えない分だけ、色々とわかる事もあるものですから、大丈夫だと思ったのですが……星誕祭で人が多いせいでしょうね、音もにおいも混じり合ってしまうし、助けを求めようにも皆さんどんどん進んで行ってしまうし、音に溢れていて声も届きませんし」
成る程、そういう事かとアトレイは合点した。視覚がない分、この少女は嗅覚と聴覚が鋭いのだろう。さっきアトレイが薬草を持っていると見抜いたのは、においを嗅ぎ取ったという事らしい。
「声も小さかったもんなあ。俺も聞き逃す所だった」
「そうなんです……通りにいると人の流れに逆らえずにどんどん流されてしまうので、ここに逃げ込んでいたんです」
見た目通りに気弱な性格らしい。アトレイはすり潰した薬草を水で練って布に塗り、手早く痛み止めの湿布をこしらえた。
「どっちの足?」
「あっ、こっちの……」
「靴脱がすよ。痛いかもだけど我慢ね」
とアトレイは女の靴を脱がし、靴下も脱がした。女は「んっ」と少し痛そうに顔をしかめる。確かに足首が腫れて太くなっていた。アトレイはその足首に、湿布を張った。
「あうっ……」
と一瞬体をすくめた女だったが、すぐにホッとした様な顔に変わった。
「ああ、ひんやりして……いい気持ちです」
「応急処置ね。ちゃんと治ったわけじゃないから、あまり右足に体重をかけちゃ駄目だぞ。立てる?」
とアトレイは靴を元通りにはかしてやって、女の手を取って引いてやった。
「はい、これなら、何とか」
と女はアトレイの腕に体重をかけながら立ち上がり、おずおずと口を開いた。
「あの、助けていただいた上に厚かましいお願いなのですが、宿まで連れて行ってはくださいませんか?」
「乗り掛かった舟だし、構わないよ」
「は、はい! ありがとうございます。あ、わたし、ロザリー・ソーンダイクと申します」
「そう」
「ええと、あなた様のお名前は?」
「俺? アトレイ。アトレイ・ベネシュ」
「アトレイ様。重ねて御礼申し上げますわ」
「そう改まられるとむず痒いよ。あと、荷物が多いんだ。あんたを支えてると片腕が使えないからさ、一つ持ってくれる?」
「え? きゃっ」
手提げ籠を持たされたロザリーは驚いてバランスを崩しかけた。アトレイの方も驚いてそれを支えてやる。
「そんなに重くない筈だけど……足は大丈夫?」
「だ、大丈夫です。びっくりしただけで……普段は荷物を持つ事がないものですから」
「そう。まあ、俺に寄り掛かっていいから」
盲人という事を加味しても随分な箱入りだな、とアトレイはロザリーが寄り掛かりやすい様に腕の位置を調整した。
人ごみの中で、はぐれない様に気を付けながらロザリーを支えて行く。ロザリーは歩きにくそうにしているが、それでもゆっくりと確実に歩を進めていた。
ぴったりと体を寄せたロザリーがふんふんと鼻を鳴らした。
「アトレイ様からは色んな薬草のにおいがしますね」
「うん。それを売って歩いてるからね」
「では薬草園などをされていらっしゃるのですか?」
「いや、材料は専ら森で集めてるよ」
「森で? では探索をお仕事に?」
「薬の材料集めを探索って言うならそうなのかもね。まあ、探索団に属した事はないけどさ」
「えっ、それではお一人で?」
「まあね。気楽なもんだよ」
「それではきっとお強いのでしょうね……」
「そうねえ……ここまで生き延びてるからそこそこ強いんだろうよ」
「ふふ、きっとそうですわ。でも、毎日森に行って大変ではありませんか?」
「森に住んでるから、大変も何もないかなあ。慣れだな」
「まあ、森に……」
「そう、森に。あんたは観光? 見た感じいいとこのお嬢様って感じだけど」
アトレイが言うとロザリーは苦笑した。
「観光ならよかったのですが……生憎と用事があって来たのです。普段は聖都にいるのですけれど、今回は森の中に入らなくてはいけなくて……」
「えー……」
アトレイが呆れた様な声を出すと、ロザリーはくすくす笑った。
「大丈夫です、仲間たちが一緒なら……危ないかも知れませんが、どうしても行かなくてはいけない用事があるのです」
「ふぅん?」
まあ、俺の口出す事じゃないか、とアトレイは肩をすくめるだけにとどめた。
「けれど、アトレイ様が通りかかってくださってよかった……あのままあそこにうずくまっていたらと思うと、ゾッとします」
「いや、安心するのはまだ早い。俺は送って行くとあんたを騙して誘拐するつもりかもよ」
「まあ! わたし、どこに連れて行かれちゃうんでしょう?」
「さて、どこでしょうねえ。何て宿だっけ?」
「黄金の駿馬という宿です」
ぽつぽつと世間話に興じているうちに、ロザリーの泊まっているらしい宿に辿り着いた。高級な宿屋である。高級な分だけ、周囲があまり騒がしくない。やっぱりお嬢様なんだなあ、とアトレイは感心するやら呆れるやらである。
ロビーも落ち着いた雰囲気だ。ほのかに香のかおりが漂っている。
「ああ、よかった。ここまで来ればもう大丈夫です」
ロザリーはアトレイの方を振り返った。
「あっ、そうだ。ええと、アトレイ様。お薬の代金をお支払いしますので……おいくらになるでしょうか?」
「ああ、そっか、忘れてた。いくらだったかな……」
ロザリーから代金を受け取り、荷物も持ち直す。ロザリーはホッとした様に微笑んだ。
「本当に色々とお世話になって……お礼の言いようもありません。ありがとうございました」
「いいよ、困った時はお互い様だし」
「ふふ……あ、そうだわ。よければお礼に夕食を……」
「おねえちゃぁあぁあああぁん!!」
その時、不意に階段を駆け下りて来る足音がして、素っ頓狂な声がしたかと思ったら、砂色の髪の毛を束ねた少女がすっ飛んで来た。抱き付かれたロザリーが「ひゃわわ」と言った。少女はロザリーに頬ずりしながら涙目になっている。
「うわあああ、よかったぁあああぁぁ……! ごめんね、ごめんね、目を離しちゃって……よかったあ……よく戻って来れたね……もーっ! 心配したんだから! このこのっ!」
「んぎゅ……ドロシー、苦しい、放して……」
「だーめ! ……えへへ、お姉ちゃんのにおいだあ」
と、ドロシーと呼ばれた少女は、ロザリーの胸元に顔を埋めながら、抱く腕に力を込める。ぎゅうぎゅうと抱きしめられたロザリーは、しかしまんざらでもなさそうに苦笑して、ドロシーの頭を撫でた。
「もう、この子ったら……アトレイ様、この子が妹のドロシーです」
「へえ、妹さん」
確かにそう言われて見ると顔立ちはロザリーによく似ている。しかし、より快活で明るい様に見えた。
動きやすそうな服を着ている。どうやら軽鎧の下に着る類のものらしい、とアトレイは当たりをつけた。腰のベルトにも剣を下げる為らしい金具が付いている。そうなると、この妹は剣士か、それに類するものらしい事が窺える。
(盲目の姉と剣士の妹ね……何してる人たちなのやらなあ)
ロザリーはドロシーを撫でながら言った。
「ドロシー、こちらはアトレイ様で……困っていた所を助けてくださったの」
だらしなく表情を緩めていたドロシーはハッとした様に居住まいを正した。
「そうだったんだ。お姉ちゃんに何かあったらどうしようかと街中を駆け回ってて……今からもう一度捜しに行こうとしてた所だったの! 本当にありがとうございます!」
「どういたしまして。そうだ、足を挫いてたから湿布してあるんだ。治りきってないから、安静にしてね」
「えっ!? お姉ちゃん、足挫いたの!? もう!」
「アトレイ様、もう行かれるのですか? よろしければ夕飯でも……」
「そりゃ嬉しいけど、荷物もあるし、帰りが遅くなると困るから行くよ。家が遠いんだ」
星誕祭の日は普段よりもマナが濃くなる為、骸獣の動きも鈍るけれど、それでもまったくいなくなるわけではない。ロザリーは残念そうに俯いた。
「そういえば森にお住まいと仰っていましたね……あの、またお会いしたいです」
「機会があれば、またね。それじゃあお大事にね」
「お姉ちゃん、足見せて! 痕が残ったら大変!」
「ちょ、ちょっとドロシー。せめて部屋に戻ってから……」
どたどたしている姉妹を尻目に、アトレイは早足で立ち去った。
もう空には溢れんばかりの流れ星が降り注いでいた。