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日も暮れる頃、レイトリ・フェナーは帝都にある我が家へ帰宅した。
盛り場には灯りが燈りだし、酒精で疲れを癒そうという男どもが集まりだしていた。肉体の疲れには眠るのが一番だが、心のうさを晴らすにしても、精神の健全な営みのためにも、仲間と酒を酌み交わすのはけっこうなことだ。なかには別の意味で不健全な店もあった。
レイトリは、やや心誘われたが、我が家では妹が待っている。レイトリはこうして外苑ロンテスキンに職を持っているが、妹もロンテスキンにある貴族家へ奉公に出ていて、兄の世話の為という理由で、住み込まずに歩いて通っている。衛士にも専用の宿舎があり、通う必要はないのだが、我が家を空き家にするのも躊躇われた。
両親は、十年と少し前、なんでもない病を運悪くこじらせて逝ってしまった。呆気ないものだった。
人が住まないと、家は傷んでしまうものだからと、外苑には毎朝通うことを妹に告げると、妹も家事の面倒を見るために通うと言い出したのであった。
我が家に帰ると、妹のシュテフィンがエプロン姿で迎えてくれた。
「おかえりなさい、兄さん」
んん、と気のない返事をレイトリは洩らす。衛士隊の帽子と上着を受け取りシュテフィンは兄の世話焼きにいそいそと動き回った。
「さあ、早く服を着替えてくださいな」
ソファにぐったりと座った兄を督促する。
夜のうちに汲み置きの水でお洗濯しないと、シュテフィンはいつも朝早くお勤めに出掛けるから家事が回らなくなってしまうのだ。
「ん……ああ」
気のない返事をしたレイトリの口から、ため息が漏れた。やはり酒でも飲んで上司の愚痴をだれかれと言わず零してくれば良かったのだろうか。
あの画家、ユットーに頼み込んで描かせた絵を、レイトリはシャツの胸ポケットから取り出して広げる。
喜び勇んで上司のもとに参じたものの、執務室は空で、主の不在を侍従に告げられたのである。
したがって、免罪符は発効しないまま、こうして手元にあるのだった。
「あら、似顔絵ね」
食事までのあいだ、咽喉を潤すためのお茶を兄に出したシュテフィンは、その手にあるものに気づいて覗き込んだ。
「似顔絵?」
「違うの? 最近、たまに似顔絵師が街で描いているわ。舞台の役者の絵を売ったりもしているのよ。特徴を捉えて、少し面白く描くので、ふっと笑えたりしてしまうの。真面目な人が描かれると、たまに怒り出したりもするみたい」
「そうか、似顔絵というのか」
肖像画とは違って、絵としての価値など落書きのようなものだと思っていたが、なるほど街角の大道芸と同じ、見せ物の類と考えれば、喜ぶ人もいるのかもしれない。自分も子供の頃は旅芸人の見せ物にはしゃいだものだった。
意識がどこかへ振り向いている兄の手から、似顔絵をシュテフィンはすっと抜き取った。最初は何気なく見ただけだったのだが、なにか引っかかるのだ。
「あれ? この方……」
「どうした」
「今日、マリーシア様というお方のお世話をしたの。とっても素敵なひとだったわ。その方を歓迎するお茶会だったのだけど……」
マリーシア嬢がお茶会に出たというのは初耳だった。そもそも自分自身にそんな情報網が持ち合わせていないのはレイトリも自覚しているが、クラウブは知っているのだろうかという疑問が、妹の次の言葉までの間に脳裏をよぎる。
「この似顔絵の方を、お茶会で見たわ」
「なんだって!」
口にしかけたカップから、お茶が盛大にこぼれた。