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皇帝の剣と姫君  第二部  作者: 夏川まさむ
一、  夜宴の客人
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 6

 シルヴェンライン帝国に、短い夏が近づいている。

 季節に見合った豊かな日光が地上を照らし、人々の脳裏から厳しい冬を忘れさせた。

 制服のしたで肌が汗ばむのを感じつつ、レイトリは日常の勤務の時間を過ごしていた。それは絶対服従の上司に連れまわされる夜宴に比べれば、あまりにも日常すぎて気も緩みがちな午後だった。

 ロンテスキンの街角に、直立不動で立つ。もしくはきびきびと歩く。

 衛士は警備兵でありながら景観の一部であり、だらけることは許されない。

 あくび一つで鉄拳一つ。

 居眠り一つで減棒ひと月。

 失態ひとつで首ひとつ。

 そんな風に歌われるくらいだ。預かる場所が貴族ばかりの町であるから、その厳しさは近衛騎士並みであった。

 とはいえ、人も(まば)らなこのロンテスキンの昼下がり。幾分暇つぶしは必要だった。あくまで頭の中で。

 槍の尻を石畳に突き、気を付けの姿勢を保ったまま目線を空にやる。

 そういえば、妹のシュテフィンは、今日はお茶会のお世話だと言っていた。

 失敗をして奉公先の奥方に叱られなければ良いのだが。

 さほど、距離の離れていないところで働いているはずの妹のことを、レイトリは慮っていた。



 お茶会は、ちょっと変わった趣向で始まったようだった、と彼女は、日常とは少し違う仕事風景を楽しんでいた。

 奥様のいいつけで、手違いを装って謝る振りをさせられたけど、奥様は、ごめんなさいねと気遣い、お菓子と、お給金とは別のお小遣いまで下さって、本当に自分が失敗をしてしまったのではないのだと分かると、気にはならなかった。

 そして、今日の主賓だと聞かされている令嬢の前に、お茶を淹れ直した、薄紅の薔薇を描いた陶磁器のポットを置くと、同い年ほどの少女は、ありがとう、と綺麗な微笑みを見せる。自然と笑顔を返してしまった。

 それから、新しいお客様をお出迎えに玄関へ。

 玄関に通されて待っていたのは、黄金の髪の美しい貴公子と、どこか冷たい感じのする貴族の殿方だった。

「お待たせいたしました。ご案内します」

 お二人をご案内するとばかり思っていたのだけれど、黄金の貴公子が、もうひと方に目配せすると、そちらの方は帰られたようだった。なにかまた違う趣向があるのだろうか。

「さあ、案内を頼むよ」

 高貴な方の多くは、召使いに声など掛けないが、この方はそうでもないようだ。

「はい、カナン・フォスバール様、こちらへどうぞ」

 来客の方のお名前は、あらかじめ聞かされている。そういえば、聞かされた名前は一人分だったっけ、と思い返した。そしてとても美男子だということも、教えられていた。

 美しい貴公子に出会っても、けして浮かれたりはしない。だって、この方々は住む世界が違うのだ。心境としては、立派な美術品を傷つけないように丁寧に、少し冷めて距離を保つのがいいのだ、と年配の召使いに心得を聞いたことがある。

 聞いておいて良かった。そういい含められてなお、とても存在感のあるお方だった。

「カナン・フォスバール様がお見えです」

 皆様がお集まりの部屋の入り口で、奥様を始めお客様方に告げる。

 ここから先は、用がなければ立ち入れないのが召使い。つまりは別世界との境界だ。いつもはお掃除や片づけをしている部屋。見えないわけでも、触れられないわけでもない。ただ、高貴な人たちが醸す存在感に、立ち入れないのだ。許しという呪縛からの解放を与えられない限りは。

 あの少女は、広い部屋の真ん中のソファにいる。際立って美しい貴婦人が庇護を与えるかのように、隣に座っていた。そんな女性が隣にいるにもかかわらず、その少女も可憐で愛らしく、かすんで見えたりはしない。

 この方が、ユルフレーン家のマリーシアさまなのだ。

 マリーシアさまが邸に到着するまでの間、ほかのお客様にお茶をお出ししたりしていたら、いろんな噂話が耳に入った。みんな、庶民出のマリーシアさまを目の仇にして、悪口ばかり。

 そんな悪い方には見えないのだけど、同じ平民だったからという贔屓目(ひいきめ)なのだろうか。

 カナン・フォスバール様が奥様に招かれて入っていく。いつまでも入り口で突っ立っていたら叱られてしまう。

 早く厨房に戻らなければならなかった。



 外では陽射しが強まったようだった。

 室内の明るさが増したように思える。けれど、日の光をうまく入れる工夫で、室温は快適だった。

 きっと温かいお茶がおいしいだろう。

 召使いの少女が新しいお茶を運んでくれて、ありがとうと言うと、彼女は笑顔を返してくれた。同じくらいの年だろうか。

 おかげで少し肩から力が抜けた。そもそも、声を掛ける余裕を与えてくれたのは、隣に座るレプシーヌ男爵夫人だ。

「新しいお茶を、いかがですか?」

 マリーシアは淹れ直されたお茶をレプシーヌ男爵夫人に示した。召使いの少女が、古いお茶の入った器を新しいものに替えていったので、中身はからっぽだ。

「いただくわ」

 頷き返して、マリーシアは二人分、お茶を器に注いだ。

 ようやく、少しはお茶を楽しめる心地だ。

 二人とも、今度は何も足さずにお茶を口にする。

「やっぱり、丁寧に淹れたお茶は違うわね」

「はい」

 さしものレプシーヌ夫人も、自然と微笑が浮かぶのをとめられない。自分の心境を客観視して、改めてフィンプリース・レプシーヌはマリーシア・レ・ユルフレーンを見た。

 少女が微笑み返す。

 冗談めかして、護衛の騎士に『肩入れしたくなる面立ち』などと話したが、彼女にとってもマリーシアの謙虚さや礼節を弁えている態度は好ましかった。

 マリーシアもまた心強さを感じていた。男の人たちが言うなら、これを百万の味方を得た気分ということなのだろうか。自分を快く思っていない貴族の令嬢たちに囲まれて、こうも悠々とお茶を楽しんでいるのだから。

「マリーシア、あなたは不思議な魅力があるようだわ」

「私なんて、とんでもない。フィンプリース様こそ、とても素敵な方です」

「まあ、名前で呼んでくれるのね」

「失礼でしたか?」

「いいえ、嬉しいわ。私を前にすると、なぜか遠慮する方が多いのよ」

 不敵な表情は、自分が相手に与える存在感の優越を自覚してのことだった。それで気圧される相手など、友とするには不足だ。それは傲慢さからではなく、精神的に対等でなければ、その友情は不幸ではないかと思うからだ。

「でも、フィンプリースなんて、大仰な名前。大貴族か、まるで王族ね」

 自分の名前を思うたび、レプシーヌ男爵夫人は父親のことを思い出した。貴族でもなかった父親は、上昇志向が強くて、娘を文字通り貴族に売り出すのに躍起だった。それを卑下はすまい。そのおかげで今の自分があることは確かなのだ。ただ、それは悲しいことなのかもしれない、とは思ったが。

「……かといって、一般的な愛称のプリスでは、わたくしには可愛らしすぎるわ」

「そんなことはありません!」

 語気が強くなってしまったことに恥じて、マリーシアは頬を赤くした。

 頬と同じくらい赤い紅茶を、気を落ち着かせようとマリーシアは口につける。

 きっと野原に放てば天真爛漫な少女に違いない。それこそプリスなんて愛称は、彼女の方こそお似合いなのだが。レプシーヌ男爵夫人はそう思った。

 そこへ、召使いの少女が新たな客人の来訪を告げた。

 新たな来訪者の顔を見て、体を硬くしたのを隣にいたレプシーヌ男爵夫人は感じ取った。

―――― シリス・カナン・フォスバールか。

 雲行きの怪しさに男爵夫人は表情を引き締める。

 が、苦虫をつぶしていた貴族令嬢たちは、逆に色めきたった。

 レプシーヌ男爵夫人といえば、アデルワント伯爵夫人とは双璧をなす人物だ。令嬢たちは、伯爵夫人に与するとはいえ、レプシーヌ男爵夫人にも憧れがある。それを独り占めされたのだから、マリーシアへの負の思考に拍車が掛かろう物だ。

 だが、そこへ新たな潤いたる貴公子がやってきたというわけだ。 

「シリス卿、おいでになるとは思ってもみませんでしたわ」

 レプシーヌ夫人の声は、社交の場の礼を失せず、悪意も拒絶も感じられない。だというのに、彼をある一線から寄せ付けぬようにする盾か、ゆっくりと突きつける冷たい刃のようにその言葉は聞こえた。

「ご婦人がたの席にお邪魔するのもどうかと気兼ねしましたが、アデルワント伯爵夫人のせっかくのお誘いですから、ご挨拶に伺ったのです」

「シリス様とご一緒出来るなんて嬉しいですわ」

 年若い令嬢たちが彼を出迎える。はしたなくないようにと、精いっぱい貴婦人を気取って彼を案内するが、声が高くなるのは抑えられないようだった。

「シリス様、こちらにいらして。お茶をお入れしますわ」

 あっというまに、彼のための椅子とテーブルが用意される。もちろん、マリーシアとは距離を置いたところへ。マリーシアとすればありがたい限りなのだが。

 シリス、彼の目に留まらないでいられればよい。できることならこの場から立ち去りたかったが、新参者がお開きでもないのに帰るなんて、そんなアデルワント夫人の顔に泥を塗るようなことをすれば、貴族の女流社会はユルフレーン家の女に厳しくなるだろう。

「楽しんでいただけているかしら」

 殿方を若い娘に任せたアデルワント夫人は、マリーシアの向かいに座った。

 実のところ、お茶の香りが分からなくなるくらい、マリーシアは動揺していた。

 あの舞踏会の夜の、庭園での言葉の駆け引きの失敗はいくらでも取り繕えるものだけれど、マリーシアの嘘の衣をすべて剥ぎ取ってしまいそうな彼の瞳と、紡ぐ言葉は、とても恐ろしかった。

 やがて、自分という糸口から、身の回りの人々を不幸にしてしまいそうで。

「マリーシア、今日は来てくれて嬉しいわ。あなたのお祖母様のラーナッタ様や、お母様のアスリンとも私はお知り合いだったの。親しくさせていただきたいと思っていたのだけれど、一六年前の不幸があって、それも叶わなくなってしまって……とても悲しかったのを覚えているわ」

 アスリンとは、ユルフレーン家での偽りの経歴であるところの、亡き母の名前である。それでも、不思議と懐かしみや悼む気持ちは、母に対する感情としてマリーシアの心に自然と湧きあがって来た。

「母は、どんなひとでしたか」

 マリーシアは訊いた。マリーシアは、生まれてまもなく市井に預けられて母を知らないということになっている。でも、本当に知りたいのは、本当のお母さんのこと。幼いころ流行り病で両親を失ったマリーシアには、ほとんど父母との思い出がなかった。ただ、なまじそのぬくもりを知っている年齢であったために、寂しさばかりが募った。

「そうね、小鳥のようなかわいらしい方だったわ……本当に残念だった」

 思い出を脳裏に描く夫人の表情は、嘘ではないと思いたかった。本当の母のことを思い出しているわけではないと分かってはいても、亡くなった人への思い出を偽るのは、悲しいことだと思うのだ。

「だから今度ぜひ、ユルフレーン家の皆様をお招きしたいわ。夫も、一族ぐるみで親しくさせて頂きたいと言っているのよ?」

 一聞したままの、あたたかい心遣いを、マリーシアは素直に受け取っていた。

「ああ、そういう事なら、私が友誼の場を取り持ちましょう」

 そこへ、少女たちの相手をしていたシリスが耳ざとく口を挟んだ。少女たちの囲いを、花を傷つけぬような身のこなしで歩み寄ると、アデルワント伯爵夫人の座るソファの背に手をついて輪に加わる。その手は夫人の肩にあるがごとく、声はより耳元に近く、少女たちは羨望の眼差しを送る。もちろん、それで浮き足立つ伯爵夫人ではなかったが。

「まあ、フォスバール家に取り計らっていただけるなら、我が家とユルフレーン家の友情も深まるというもの。縁のある方々もお呼びして、盛大な宴にいたしましょう」

「それはよい。過去の悪夢も、喜ばしい出来事で癒えることでしょう」

 アデルワント伯爵夫人の申し出は、心温まるものであるはずなのに、なんだか、知らないうちに話が進み出している。ユルフレーン家の事柄を自分が決めてしまってはいけない。そう思い、マリーシアは口を挟む隙間を探して声を出そうとした。

 そのマリーシアの手を、肩を寄せるレプシーヌ夫人の手が強く握って制止した。マリーシアがそちらを伺うとレプシーヌ夫人と目が合った。彼女は改めて制止の意を、かすかに首を振って示した。



 お茶会で危機感を募らせたのはそこまで。あとは楽しい集まりという、表向きの体裁を貫いた茶会であった。どちらかというと、マリーシアとレプシーヌは輪の外にいたのだが。

「それはようございました、お嬢さま。レプシーヌ様に感謝をしなくてはなりません」

 とローナは言った。

 帰り道がてらの散策で、マリーシアはローナにレプシーヌ男爵夫人の事を話した。彼女がマリーシアの発言を制したことについてを特に。そこに、マリーシアの知らない宮廷の習慣なりを感じたからだ。そのローナの感想がそれであった。

「カナン・フォスバール家というのは……」



 アデルワント伯爵邸の門を、騎士を従えて後にする姿があった。

「強い少女です。いや、真に貴婦人たるの資格ありということでしょうか……貴女のように」

 背中から、フィンプリース・レプシーヌに語りかける者がいた。濁りのない透き通った音。シリス・カナン・フォスバールの声であることは疑いようも無い。

「強い……そう、あの子は強いかもしれないけれど、傷つけられる心はとてもつらいはず。そして、その傷あとは少しずつ残っていくわ」

 彼女はシリスのほうを振り返って質問を突きつけた。

「あなたは、彼女を追い詰める為に来たのかしら」

 日が傾いていた。斜陽を帯びた金色の神が神々しい。レプシーヌは忌々しげに目を細めた。

「そんなつもりは。彼女に、ここが敵地であることを教えてに来たのです。私がアデルワント伯爵夫人の招きで訪れることによって」

 そして、背後にあるものも見えてくるはず、と彼は付け加えた。

「不思議なことをおっしゃるのね。あなたはその背後にいるアルター公に(くみ)しているのではなくて?」

 シリスの考えはアルター公の意に反しているのではないか。そういう指摘だ。だが、黄金の貴公子はこともなげに受け流した。

「そのとおり。ゆめゆめお忘れなきよう」


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