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皇帝の剣と姫君  第二部  作者: 夏川まさむ
一、  夜宴の客人
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 5

 日差しが、布の日傘から()きこぼれる。

 暑気はまだないが、良いお天気の日が続くと夏も近そうに思えた。

 日傘を傾かせて青い空を見上げると、気持ちの良さに顔がほころぶのだが、ふとうつむいて自分の足の行く先を考えると憂鬱顔になる。

「お嬢さま、笑顔でございますよ」

 後ろを歩くローナには、見えずともお見通し。

「はい、ばあや」

 目的のお邸の門は、もう目の前。左手にずっと続いていた石壁の塀は、そのお邸のものだ。優雅な曲線で飾られた塀の造りに、お邸の造りを想像する。ロンテスキンに立ち並ぶ家屋は、どこをとっても芸術的な部分に手抜きがない。

 このお邸は、彫刻などの威圧感は皆無で、落ち着いた趣きを良しとしている風だった。

 こうした体裁を好む主人の人柄とは、どういうものなのだろう。これから伺う場所について、少しでもよい先入観を持ちたくて、マリーシアは想像をめぐらした。

 そしてふと、その思考の根底の間違いに気づく。

 招待状の差出人は、この邸の主ではなくその奥方だった。

 心の準備がすっかり無に帰してしまったときには、アデルワント伯邸の門は目の前だった。

 来客の頃合いを見計らって門前に待っていた、アデルワント家の家人が慇懃に礼をする。

「ユルフレーン家のマリーシア様でございますね?」

 身形を整えたその家人は、招待状を受け取る前にそう訊ねた。

「はい」

 マリーシアが応じると、ローナが素早く招待状を家人に差し出す。

 型どおりに彼は書面をあらため、扉を開いた。

 彼らは馬車が来れば馬車用の門扉を開くが、ロンテスキンではよほど邸同士が離れていない限り、貴族たちも自分たちの足を動かす。若い貴婦人たちが一人歩きすることも多い。高貴な身分と、立ち入りを許された者だけしかいないロンテスキンという空間は、それだけ信頼されているのだ。

 門扉の脇の扉をくぐろうとしたとき、マリーシアは家人が新たな客を迎える声を聞いた。

「これは、レプシーヌ男爵夫人」

 緊張に上ずった声。

「ようこそおいでくださいました」

 家人の礼を受け、マリーシアのほうへ歩いてきたのは、すらりとした立ち居姿の貴婦人だった。

 その年上の女性を見たマリーシアは、羨ましいほどの色香を感じたが、彼女の歩く姿になぜか威風堂々という言葉を脳裏に浮かべた。彼女が引き連れているのが、侍女や召使ではなく、騎士だからだろうか。その騎士は彼女に対して、高貴な女性に奉仕する態度ではなく、まるで主君であるかのように付き従っているのだ。

 彼女は緑色の瞳でマリーシアに目礼した。

 気高くありながら、他者を受け入れる寛容さがあり、同時に他者を立ち入らせない深みを持つ瞳であった。

「やはり、いつ見ても素敵な御髪(おぐし)ね」



 まったく無防備に、きょとんとした顔だった、あの少女は。

 フィンプリース・レプシーヌ男爵夫人は、今日の主役であろう少女の姿を脳裏に描いていた。

 思わず、口の端に笑みが忍び出てくる。

「愛らしいご令嬢でございましたね」

 後ろを歩く騎士が、主人の機嫌を察して感想を述べた。控えめでも、激しく主張するでもなく、空気のように心煩わす必要のない性格の男だ。

 彼の弁には、まったく同意するしかない。

「あなたの女性の好みは、ああした方がよいのかしら?」

「さて、我が主君にはどうお答えすればお喜びいただけるやら」

 騎士は肩をすくめる。

 それにしても、あの少女はこの場がどういう場であるか、心構えが出来ているとよいのだが。そんな風に心のうちで言葉にしてみて、レプシーヌ男爵夫人は気づいた。どうやら自分は少女寄りの立ち位置で状況を見ているようだ。

「肩入れしたくなる面立ちだものね」

 独白を呟いた廊下の先の、明るく日がさす窓辺を、アデルワント伯爵夫人が悠然と歩いていた。召使いに、お茶を運ばせているところであった。

 彼女は召使いに目線で促がすと、レプシーヌ男爵夫人を迎えた。

「あら、レプシーヌ男爵夫人。貴女がわたくしのお茶会に来てくださるなんて」

「ご招待はいただいているはずだったけれど、お邪魔でしたか?」

 レプシーヌ男爵夫人はアデルワント伯爵夫人の誘いを受けたことがまったく無かった。過去、敵意や優越を背景に届けられた様々な集まりの招待状を、彼女は丁重に断り続けてきたのだ。

「いいえ、とても嬉しいわ」

 アデルワント伯爵夫人は、一分の隙も無く微笑む。

「さしもの貴女も、ユルフレーン家令嬢に興味がおありということかしら?」

「そうですね」

 彼女は見栄を張るでもなく、清々(すがすが)しく認めた。



 一方の二人といえば、ローナは案内の召使いに、化粧直しのための客間を借りて時間を作った。

 髪も化粧も乱れてはいなかったが、さあ、お嬢さま、と化粧台の前にマリーシアを座らせる。お茶会だから、それほど凝った髪の結い方も濃いお化粧もしないものだが、一分の隙だって見せてはいけない。名家のお嬢さまとはいつもそうしたものですが、今日は格別にです、とローナは気張った。

 なんだかそれが可笑しくて、マリーシアの緊張はほぐれていた。すっかりとはいかないが。

 ここを乗り切れば、周囲への、ユルフレーン家の忘れ形見としての顔見せは、一区切りだとラーナッタ夫人は言っていた。

『あまり断り続けるのもねえ……』

『孤立すると面倒ですわね。それに、アデルワント伯爵夫人はほかのご婦人方に対して影響力がつようございますから』

 ユルフレーン家令嬢宛ての、数々の招待状を選り分けながら、ラーナッタ夫人とローナはそんな風に口にしていた。

 貴族のなかでも、女性たちには女性たちの社会がある。

『そうね、彼女の顔を立てておけば、取り巻きを窘めてくれるでしょう』

 これはどうやら、出席せねばならない雲行きだとマリーシアはあの場で覚悟したのだった。

 鏡の中で、ローナの手がてきぱきと動いている。マリーシアの髪を結いなおしているのだ。背中のほうにある彼女の口は、まったく別の事柄を注意していた。鏡に映っている手は、喋っている口とはまるで別人のもののようだ。

「お嬢さま、お気をつけくださいませ。今日の来客はアデルワント伯爵夫人がよく知る方たちばかり」

「どうしてわかるの?」

「門の前にいた者が、招待状もあらためずにお嬢さまをユルフレーン家の令嬢だと見抜いたでございましょう? 家人程度の身分でお嬢さまの顔を知っているはずがありません。ですから……」

「他の客人は、家人も見知っている頻繁に来る顔。知らない顔は私ということね」

 マリーシアの頭の回転のよさに満足げに、そうです、とローナは頷いた。

 ふと、マリーシアはあの美しい貴婦人を思い浮かべた。

 フィンプリース・レプシーヌ男爵夫人と彼女は名乗った。

 先だって、皇帝陛下の催した宴でマリーシアの姿を見たのだと彼女は言った。

 あの気高い貴婦人も、やはり自分を快く思っていないのだろうか。

 脳裏に客間でのことを思い返しながら、マリーシアは出されたお茶の器を手にしていた。

 集まった名家の女性たちが、すでに気心の知れたもの同士でお喋りに興じている。人数はさほどでもなかった。

 ほど良く採光を調節した部屋に、小さな卓がめいめいに置かれ、椅子に腰掛けたり、横長のソファに相掛けしたりして、気ままに寛げるようになっている。

 マリーシアはソファの真ん中を宛がわれるまま座ったが、顔見知りもいなければ、当然歓談の相手もいない。

 もてなし役のアデルワント伯爵夫人は、お茶を運んだ召使いとともにいったん席を外している。

 沈黙とお茶を(たしな)むほかなくて、マリーシアは手にした器に口をつけた。

 途端、顔をしかめそうになったのをマリーシアは踏みとどまった。

 苦い。そして渋い。渋味は、その液体が舌に乗ったとたん、口のすべりが悪くなるかというくらい。その渋味とともに、口腔に張り付くような苦味が咽喉の奥まで伝ってくる。

 その一口を飲んだ瞬間、くすりと誰かが笑いを口に含ませたのを感じた。

 誰かの、いや、そのとき部屋中の視線をマリーシアは感じた。声なき嘲笑の視線が、首筋や背中、胸のうちを這い回っているようだった。

 そうか。

 マリーシアは悟った。

 はじまった(・・・・・)のだ。

 より所もなく、ティーカップを手に包む。中身の赤い液体は、見たこともないくらいとても綺麗だったが、少し濁りが多いようにも見える。お茶の扱いを良く知っている証拠だ。きっともともとは良いお茶に違いないのに、これほどまでに酷い味になってしまう保管の仕方と淹れ方を理解しているということなのだから。

―――― 宮廷での注目は、好意と悪意が恐ろしくはっきりと表れる。特に悪意は注意が必要ね。アデルワント伯爵夫人は……そうね、行ってみないと解らない。けれど、難しいかた方だわ。

 ラーナッタ夫人の所感から得た印象は、悪いほうへ傾きそうだが……。

 カップを置いたマリーシアは、ふと卓に用意された砂糖とミルクを確かめると(・・・・・)、たっぷりとカップに注ぎ足して口を直す。

「まあ、こんなに良い茶葉にミルク(ラーレ)とお砂糖を入れるなんて。アデルワント夫人がせっかくご用意くださったのに」

 隣に座った同世代の少女が見咎めた。まるでマリーシアがそうするのを待ち構えていたかのようだ。事実、ミルクと砂糖を入れた磁器を、罠の様に彼女は見張っていたのだろう。

「そんなつもりでは……」

 確かに迂闊だったかもしれない。そう思うと、揶揄も注意されたように聞こえる。

「ユルフレーン家のマリーシア様ね。私たち、あなたにお会いするのをとても楽しみにしていたのよ?」

 会話を聞きつけた別の少女が、近寄ってきてソファに掛けると親しげに話しかけた。

 それを皮切りに、周りの貴婦人たちが集まってくる。年齢はマリーシアと多少前後するくらいが多く、逆にアデルワント伯爵夫人と同世代の女性は少なかった。

「ご趣味はなに?」

「いつもはどんなことをしてらっしゃるの?」

「お庭の花壇を……」

「土いじり? お花の世話をしてらっしゃるのね」

「いいえ、畑を耕して野菜を作ってらっしゃるのに違いありませんわ」

 矢継ぎ早な質問と、マリーシアの発言に言葉をかぶせて主導権を与えない。

「下々の使う肥料って、臭いのよね。どうしてかしら」

「いやだわ、ご存じないの?」

「お茶の席でそれをおっしゃらないでね」

「でも、言われてみれば、少しそんな臭いがしませんこと?」

 怪訝な顔で辺りを見回したその娘は、扇を開いて顔を隠した。扇からは、香水のかおりがふわりと広がって消える。

「まあ、失礼ですわ」

「気になさらないでね。貴族の身分に戻られて間もないのだから。ついた臭いが取れなくても仕方ないわ」

 そう言いながら、ドレスが触れそうなほど言い寄ってきた少女が、あからさまに隙間をつくる。

「染み付いて取れないのかもしれませんわよ?」

「あなたも、マリーシア様にあまりなれなれしくすると、高貴な臭い(・・・・・)がうつりますわよ」

 最初に避けた娘が別の少女の袖を引く。

 マリーシアが中心のように集まりながら、彼女たちがほんの少し作った隙間は、新参者の少女を孤独という檻で囲うようだった。

 暗に嘲けりを含ませた上品な笑い声と視線が、作られた隙間から存分にマリーシアを撫で回す。檻の中で、マリーシアの心は裸で、ドレスは心を守る鎧にはならなかった。

 今までに感じたことのない羞恥心だった。

 ただ、そんな中でも、良かったとマリーシアは思えた。だって、ここでは自分がどんな失敗をしても、ヴィスターク兄さんやユルフレーン家を失脚させてしまうようなことには繋がらないから。ユルフレーンの名を貶めないようにだけ、気をつければいい。

 だから、彼女たちの言葉には耐えられた。

 そもそも彼女たちの言うようなことがあるわけがない。でも、とてもにおいの強いものを扱うこともあるし、何より彼女たちはそういうものには触れず、香水や花々の中で人生を送ってきた人たちだ。もしかしたら、マリーシアには解らないにおいを感じるのかもしれない。ラーナッタ夫人やローナは、ただ優しいだけで、真実を言わないだけなのかも。

 そう思うと、心細くなる。

 なにか反論できるのなら気も紛れようが、高貴な女性ならこういう時どうするだろう?

 初めての宴のときは、向けられる好意をそれらしくご辞退すればよかった。でも、悪意を跳ね除けるなんて、いったいどうすればよいのか想像もつかない。

 わからなくて、ただこの視線に耐えるしかなかった。

 そのとき、檻であるかのように思われた隙間を、真の貴婦人がすっと通り抜けた。そこが、彼女のために作られた空間のように。

 マリーシアの隣に座ったのは、あのレプシーヌ男爵夫人である。

 周囲はあっけにとられた。

 もちろん皆、来客のなかに彼女の顔があることは認識していた。貴族の女性社会で、アデルワント伯爵夫人と並び立つ人物なのだ。しかし、今日この場の主は伯爵夫人であり、レプシーヌはまるで、舞台の袖に隠れているかのように存在感を消してしまっていた。

 その名高い女性が、いまや舞台の中心にいる。

 レプシーヌ男爵夫人は、わき腹を抱きすくめるようにして、マリーシアの首もとに顔を寄せた。同じ女性の彼女からしても、マリーシアの腰は細くかよわい。

「そうでしょうか。彼女はとてもいい香りです」

 彼女の大胆な行為に、少女たちは顔を赤らめた。

「それに、お茶についても明るいようね」

 彼女は、自分の為のお茶をみずから(そそ)いで、一度口にした。

 そして、ミルクの入った磁器の温度を手で確かめると、フィンプリース・レプシーヌは、マリーシアを真似て砂糖とミルクをたっぷりと注いだ。

「どうしようもないお茶だけど……」

 きっぱり言い切ったレプシーヌ夫人に周りの娘たちはややどよめく。

「アデルワント夫人はちゃんとミルクをほど良い温度にして用意してくださっているわ。もちろん、若いあなたたちの為に、お砂糖もね」

 マリーシアは、近い距離に座るレプシーヌの言葉を、見入るように聞いていた。

「実のないご機嫌取りより、素直にお茶を楽しめる友人であるかどうか」

 合格はいったいどちらか、明らかであった。

 そこへ、計ったようにお茶会の主が姿を見せた。

「皆さん、お詫びいたしますわ。召使いの手違いで、傷んだお茶をお出ししてしまいましたの」

 申し訳ございません、と新しいお茶を運んだ女の召使いが深々とお辞儀をしたが、彼女は間違いを犯して恐縮している風には見えなかった。もちろん、伯爵夫人が言い含めた、舞台演技のひとつであった。


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