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皇帝の剣と姫君  第二部  作者: 夏川まさむ
一、  夜宴の客人
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 3

 朝はいつも、早くに目が覚めた。

 種火を起こして、朝食の支度を始めなければ。無意識に前髪をゆっくりとすき分けて、手の甲を額に乗せると、薄く明るんだ天井を見上げる。カーテーギュウが出掛ける時間に合わせて、食事の用意をしなければいけない。

 そんな過去との時間の錯覚をよく覚えた。

 寝具をのけて起き上がる頃には、感慨もなく短い期間のうちに急変した身辺についてを思い出していた。

「おはようございます、お嬢さま」

 ローナがカーテン(リート)を開けると、まぶしい光が部屋いっぱいに注ぐ。

「いつもお早いですね」

 感心したように口にするのがローナの日課になった。

 着替えて、朝食を済ませる。外苑ロンテスキンのユルフレーン家別邸では、使用人はローナの一人きり。身支度から給仕まで、彼女が世話をする。食事は、一人では心細い、というマリーシアの願いで、ローナも一緒に採るようにしていた。偽りの素性で言うところの祖母に当たるラーナッタ夫人は、先日一旦領地へ帰ってしまったので不在なのである。そんな二人の元へ、明日この別邸に戻る予定だと報せる夫人からの便りがあったばかりだ。

 マリーシアの素直なわがままは、良い傾向だと思う。町娘が貴族社会の最も高みに近い場所へ、いきなり連れてこられたのだ。一見些細に思われる心の重石も、慎重に取り除いてあげなければ、知らず知らずのうちに弱ってしまう。心も身体も。

 今は、別邸のささやかな庭園の花壇で、花々の世話をするマリーシアを、ローナは見守っていた。

 花の世話で土いじり。マリーシアの普段の生活にもっとも近い時間の使い方だった。帝都市街にある我が家では、鉢植えの世話をしていたし、農民でなくても、共同の菜園で野菜を育てることはしていた。ただ違うことといえば、貴族にとってのそれは、美の鑑賞と娯楽でしかないということだ。それすら、下々の者のような真似、と唾棄する貴族もいる。どちらにしても、けして生活の足しに野菜を育てたりはしない。

 幸い、ラーナッタ夫人も花の世話は好きだったから、マリーシアにそれをさせることにローナは抵抗感がなかった。日々の時間に楽しみを見出せるなら、喜ばしいことだ。

 ローナはマリーシアの様子を伺ってから、視線を手元に戻した。

 テーブルの上には、束になった手紙が乗せられている。

 すべてお茶会や宴の招待状だ。便箋はすべて開封され、整理されている。整理とは、相手の地位、家同士の力関係、そのほかの絡みなどを考慮したものだ。

 今はまだ、どの招待にも断りの返事を出している。

 マリーシアには、返事をしたためる傍ら貴族令嬢らしい手紙の作法を教えていた。作法といっても、形どおりの礼儀作法はマリーシアも幼いころ通った教師の元で学んでいることがわかったので、言葉の選び方や差出人の体面を傷つけないための配慮の仕方だった。それから、習い事ではわからない事柄を。

 貴族の娘たちは封をするのに、仰々しく書簡のような蝋を使わず、さまざまな色のものや香りのするものを選んでは楽しんでいる。最近の流行りは、透明に近い淡い色の蝋をつかって、小さな花弁を押し花のように蝋付けして封をするものだ。

 流行りに乗りすぎて派手すぎるのは、ユルフレーン家の格に相応しくないばかりか、マリーシアの性格にも似合わない。マリーシア自身には、今日びの令嬢たちの常識の度合いがわからないだろうから、ローナはおしとやか目な飾りを奨めたのであった。

 まずは、奨められたとおりにマリーシアはやってみた。貴族社会の常識を持ち合わせていないのだから、まずは与えられた役柄を演じてみるしかないのだが、そうした考えと合わせて、ローナ自身と彼女の助言を信頼もしていた。

 昨日までにマリーシアがしたためた断りの手紙をまとめて、こんどはちらほらと届き始めた今日の分をローナは調べ始めた。その数の多さには、さすがに溜め息が出る。歳だろうか。

 そこへ、マリーシアが花の手入れを終えて戻ってきた。

「お茶にいたしましょうか、お嬢さま」

 便箋をテーブルに置く。

 どうやら息抜きが必要だ。息抜き以前に、ローナにとってマリーシアとのそれは一つの楽しみでもあるのだ。

「あら、お茶なのね。ちょうどよいところへ帰ったかしら」

 テーブルにお茶道具を並べ始めた頃、楽しげな声色が降って沸いた。

 庭園である中庭と屋内をつなぐ扉から姿を見せたのは、ラーナッタ夫人である。

「奥様!」

 思わずローナは声に出していた。予定は確かに明日戻ると便りにあったはずだ。

「まあ申し訳ありません、お出迎えもせずに」

「いいのよローナ。急に帰ったのだもの」

 確かに勝手口の合鍵があれば、邸への出入りは事足りるが、大貴族ならば本来ありえい気軽さだった。もちろん、ラーナッタ夫人も使用人を少しは連れているから、すべて手ずからする必要はないが、だとしても出迎えのないことに叱責があっても無理はない。いや、あって然るべきなのが、普通の大貴族というもの。しかし、夫からユルフレーン家当主の座を引き継ぎ守る女主人は、そんなことは気にも留めず、奇妙にたくましかった。

 早速、お茶の席に混ざった夫人は、ひとしきり他愛のない話題をお茶請け代わりに喋っては、咽喉の渇きを潤した。

 そして話題はテーブルの上の招待状へと流れた。

 ラーナッタ夫人は、整理された過去の招待状を、端から目を通していく。

「先日のヴェネルセン伯爵の招待は断ったのね」

 まず抜き出したのはその一枚。

「まずかったでしょうか、奥様」

 ローナの問いの答えを心配そうに見たのはマリーシアだ。宴に出ないのは、自分のわがままであったから。そう窺える表情だ。

「いいえ、まったく問題ないわ」

 すっぱりと気持ちよく、ラーナッタは言い切った。

「あの方の見栄や自尊心にお付き合いする必要はないわね」

 抜き出した一枚を夫人は元に戻す。

 さらに新しい招待状に目を通していく夫人に、マリーシアは緊張の面持ち。

 夫人はまた何通かを抜き出してテーブルに置くと、ふうと溜め息をついた。

「ほんとうに、多いわねえ」

 朗らかな声色に、マリーシアの肩の力が抜ける。

 そんなマリーシアを観察していたローナは、笑みがこぼれる口元を手で覆って言った。

「お嬢さま、そんなに身構えずともよろしゅうございますのに」

「あら」

 様子に気づいて夫人も招待状に落としていた視線を上げた。

「仮にとはいえ、あなたはわたしの孫娘なんですから、もっと楽にして欲しいわ。もう少し我がままを言ってもいいくらいねえ」

 その言葉どおりに甘えるわけにはいかないものだが、ラーナッタ夫人の暖かさは、十分にマリーシアの胸を満たした。

 孫娘の、遠慮がちにはにかむ笑顔に、ラーナッタ夫人も微笑む。

「それにしても、人気があるわね。これは予想以上だわ」

 ユルフレーン家は、それほど人々の記憶から遠のいていたのだ。

 公の位を持つ大貴族であったユルフレーン家だが、後継者を失い、ラーナッタ夫人の夫である公自身までもが没し、帝国での発言力、いわば権力を失って久しかった。

 ラーナッタ夫人は、ユルフレーン家に連なるという、欲の皮を突っ張らせた名ばかりの血族を遠ざけ、夫が守った高潔な家門が汚されぬように守ったが、是が非でも後世にそれを残すということは、考えていなかったようである。時に夫人を説き伏せようとする人もいたが、彼女はその点については頑なだった。血脈が途絶えれば帝室に所領が返還される可能性が高いことはわかっており、それもまた夫の意に沿うとの思いがあったからに違いない。

 そうして、いずれ長い歴史に自ら幕を下ろすであろうユルフレーン家は、人々から忘れ去られていった。

 だから、再び舞台に上がったユルフレーンの名が、どこまで注目を浴びるかは想像し難かったのである。

 愛らしい貴婦人の鮮烈な登場は、よほど人々の興味を掻き立てたのだろう。

 夫人には少し誇らしくもあった。なぜ、といえば、自分が目を掛けた娘にこれほどまで魅力を感じる人たちがいるのだから。問題は、彼女に近づいてくる人々の思惑であったが。

 そうこうしながら、招待状に目を通していたラーナッタ夫人は、また一通を束から抜き出してテーブルに置いた。

「アデルワント伯爵夫人だわ」

 困ったようにラーナッタはため息をついた。

「アデルワント伯爵夫人でございますか」

 女主人の胸中同様、ローナは眉根を寄せた。

 なにやら怪しい雲行きを、マリーシアはやはりやり過ごすしかない。

 彼女は無意識にティーカップに口をつけた。こんなときお茶がおいしいとわかるのは、とりあえずいいことだと思う。


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