17
控えの間の、ささやかなお茶会は続いていた。
シュテフィン・フェナーの教えてくれる自分の風聞を知って、マリーシアは赤面するばかりだ。これでは表を歩けないではないか。
貴公子たちをあしらう高貴な手並み。それでいて謙虚な態度は好感を呼ぶ。そんな噂は街でも広まりつつあるという。
頬を赤らめるマリーシアの反応を面白がって悦に入ったシュテフィンは、大いに噂話を身振り手ぶり演じて見せた。
「皇帝陛下に手を取られた貴婦人はとても可憐で、帝国中のどんな乙女よりも皇妃に相応しい、おそばに女性を寄せ付けなかった陛下が、ついに皇妃候補をお選びになったのだと、人々の噂は次第にそのように総じられるようになったのでございますわ」
そこまで聞いて、ふとマリーシアは我に返った。
庶民たちの人々の明るく楽しい噂話。自分もそこに居たから解る。自分たちに害のない話題を話すときはただの娯楽。会話の中には悪意も意図するものもない。だがそこに至るまでに、たくさんの真実、どろどろとした貴族たちの思惑がろ過されているはずだ。
「ねえ、シュテフィン。他の貴族の方々が、私やユルフレーン家の事をどんな風に言っているのか教えて」
「ですから、さっきお話したとおりですわ」
シュテフィンは答えた。だが、楽しいお茶会の話し相手、そんな空気はマリーシアのまわりから消し飛んでいた。
「教えて」
静かに、真摯にマリーシアはシュテフィンをみつめる。
そう、実害と実利を被る貴族たちの間でなされる会話は、ときに奇麗事ばかりではないはずだ。
シュテフィンがみつめ返すマリーシアの瞳は、無垢であってもけして傷つかない強さがあるように見えた。
「衰えた家系が息を吹き返すのではないか、と。かつての栄光を取り戻すために、皇帝陛下に取り入ったのだとか、そもそも陛下に取り入らんとせんがために、どこぞの娘を忘れ形見だとでっち上げたのだというひどい噂もあります」
冷たいものが、マリーシアの背中を撫でたような気がして、一瞬息が止まる。経緯の差こそあれ、それが真実に最も近いからだ。
「それから?」
マリーシアは心の動揺を振り払った。いまは、ヴィスタークの立場とユルフレーン家を守らなくてはいけない。シュテフィンの知る噂話には、なにか自分が役に立てる糸口があるような気がするのだ。
「もしや皇帝陛下はいまや何の力もないユルフレーン家から皇妃を娶るのが好ましいとお考えなのでは、とか、寵愛の度が過ぎてユルフレーン家へのえこひいきが始まるのではないかとか、ユルフレーン家が新帝派ならば今のうちに目を摘んだ方が良いとまで、猛々しくおっしゃる方もいるそうです……」
「それは、どなたがどんな風に言っているの?……いえ、それはあとで教えて」
誰が言っているのか今わかっても、自分にはそれがどういう人々なのか判らない。だから、いま並べられた言葉の方向を考えるべきだ。彼らの願望、不満、嫉みがどこを根ざして、どこに向いているか。
現皇帝であるヴィスタークを快く思っていない派閥があるのは、マリーシアも貴族の家に身を置いて次第にわかっていたことだが、それが召使いの間でまで声高に話されているのは驚きだった。これなら街でもいずれそういう噂が聞けるようになるだろう。もしかしたら、自分が噂の波を高める要因だったのかもしれない、とマリーシアは考えた。
そして、最近知り得たのは、現皇帝を快く思っていない人々の旗印が、帝位継承権を持つシリス・カナン・フォスバールであるということ。彼の帝位継承権は、現皇帝に子が出来た時点で消滅するということ。
簡単に消え去るかもしれないが帝位継承権を持つ、少しあやふやで曖昧な立場の青年。彼の帝位継承権を消し去ることが出来るのは、現皇帝の子を産む皇妃。それに今一番近いと目されている自分。
と、マリーシアはシュテフィンが必死に息を殺しているのに気づいた。声を出すと、途端に泣き出してしまいそうだから、彼女はしきりにこみ上げてくる最初の嗚咽をこらえていたのだ。瞳には、たまった涙が決壊寸前だ。
「ごめんなさい、怒っているわけではないの。ただ、私も皆の役に立てることが見つかりそうだったから、つい真剣になってしまって」
「い、いえ、こちらこそ申し訳ありません。私の知っている噂話がマリーシア様のお役に立てたのなら嬉しいですわ」
シュテフィンは指で目尻を拭った。
気の抜けた表情のシュテフィンだったが、次の瞬間、控えの間の扉が外から叩かれて、彼女の心臓は凍りつくようだった。
入室の許可を求める声は、あろうことか彼女の主、アデルワント伯爵夫人であったのだ。
マリーシアは、シュテフィンが叱責されるのを怖れているのは理解したが、まさかいない振りをするわけにもいかず返事をする。
「あなた、何をしているの」
入るなりシュテフィンを目にしたアデルワント夫人は、自分の家の使用人がそこにいることをまず見咎めた。
「奥様! マリーシアにお茶を……」
「そう、ご苦労さま。長居してはお邪魔よ。もう行きなさい」
シュテフィンはもう口を開くことも出来ず、お辞儀して退がっていった。
夫人は、彼女の姿が見えなくなるのを待って、口を開いた。
「マリーシア、我が家の使用人が失礼をしました。あの子は、若い子達の中で一番落ち着いているから連れて来たのだけれど、たまに思い切ったことをするようね」
「いいえ、おかげで気持ちがとても落ち着きました。どうぞ、お叱りにならないでください」
だが、夫人はゆっくりと首を振った。
「むしろ、わたくしが叱咤したいのは貴女」
意外な言葉に、マリーシアは瞳をまっすぐに向けた。疑問と驚きの瞳。その正直な瞳にアデルワント伯爵夫人は答える。
「いったいいつまでお祖母様のスカートに隠れていらっしゃるおつもり?」
その言葉には、さしものマリーシアも返答に窮する。
そこへ、開かれたままの戸が再び叩かれた。新たな来訪者はこの館の主である。
「まったく、アデルワント伯爵夫人は厳しいお方だ」
「シリス様、殿方はご遠慮願います」
夫人の制止は強い語感ではなかった。受け取る側が畏まれば、それだけで辞去するだろう。だが彼は、透明な硝子のように、夫人の視線をすりぬけてしまう。
あの日、宮廷の宴で出会ってから、幾日振りの少女を見下ろす。
彼女は、あの日のように弱く、不安の色を貴婦人の仮面で隠してはいなかった。強い輝きが瞳にはある。広間に姿を見せることが出来ず、控えの間に縮こまっていたはずの彼女が、わずかなあいだに何を掴んだのか、その強い瞳は。
「そろそろ、君が私を必要としているのではないかとね」
貴女ではなく、彼は君と呼んだ。
それは親愛の意味であろう。この青年がそうした言葉を口にするとは。アデルワント伯爵夫人は二人の空間に、わずかばかりながら目を見張った。
椅子に座ったマリーシアは、まっすぐに黄金の髪の貴公子を見上げている。彼の美しさは、常から人々に自然と誇示されてしまうほどの存在感だ。一方、マリーシアはその境遇で話題になっただけの大人しい娘かと思っていたが、何を胸に秘めたのか、強い眼差しはシリスを射ぬかんとするほどだ。広間に出てこられなかった娘のものではない。
「シリス・カナン・フォスバール殿下。今宵は尊いお志で貴重な場を提供いただきありがとうございます。ぜひ皆様に、シリス様から紹介していただきたく存じます」
カナン・フォスバールの名が示すところを知ってなお、マリーシアは挑むように希望を告げた。
「喜んで務めましょう」
そして二人は、どちらともなく差し伸べられた手を取り合った。