15
鏡に映る自分の瞳から、マリーシアは目をそらした。
お化粧も、髪も衣装も、支度はとっくに整っている。鏡の中の瞳は、なぜ広間に行かないのだとしきりに問い掛ける。だから、逃げるように目を伏せた。
震えてしまう手は膝の上。
「お嬢さま、そんなに握り締めては、ドレスに皺がついてしまいますわ」
「ばあや……」
藁をも掴む心境か。子供が母親のスカートを握り締めるのも分かる気がする。いつの間にか握った手を開き、マリーシアは皺になりかけた生地を撫でた。
「あらあら、汗をお掻きになって」
ローナは、湿らせた布で汗ばんだ手を拭いてくれた。ひんやりとした感触が心地よかった。
「お嬢さまは心の優しいお方。ばあやは、お嬢さまが何を恐れているのか、よく存じておりますから。お心が定まりましたら隣室に控えておりますので、お声をおかけください」
マリーシアの手に冷たい手布を持たせて握った手を離すと、ローナはその場を辞した。
彼女を呼び止めたいという無為な衝動にマリーシアが躊躇しているうちに、扉は閉じられてしまった。
ローナの優しさと、少し突き放された感じが、また胸を苦しめる。
はじめは、ヴィスタークの足を引っ張らないように、夢中で貴婦人を演じていた。それが、ユルフレーン家の忘れ形見として生活するうちに、自分の立ち振る舞いがラーナッタやローナ、それだけでなくユルフレーン公国に関わる多くの人たちの命運を左右するのだと理解し始めて、マリーシアの胸は縮こまっていた。
勇気を出して、立ち上がらなければいけませんよ、とローナは言っているのかもしれない。
一人になった控えの間だが、静寂はつかの間であった。白塗りの扉が丁寧に叩かれたのだ。乱暴でなく、しかし明瞭な音をたてて来訪を告げ、入室の許可を求める。常に心配りをする使用人の手によるものだ。それがわかるほど、マリーシアは落ち着いてはいなかったが。
扉を開けて入ってきたのは、マリーシアと同い年くらいの、召使いの少女だ。
「あの、まだ支度の最中と伺ったものですから、のどが渇いていらっしゃらないかと思って、それで、お茶をお持ちしました」
「あ、……」
ありがとうに続けて謝絶しようと思ったマリーシアだったが、開いた口からこぼれた自分のかすれ声に苦笑して、少女に頷いた。
少女は嬉しそうな笑顔をみせて、お茶の用意を始める。
「マリーシア様は……」
お茶を入れる手を、ときどき滞らせながら、少女は思い詰めた様子で口にした。
「なんでしょう?」
「あの、マリーシア様とお呼びしていいですか?」
ついに話しかけてしまった少女はぐるぐると思考をめぐらせて、一番初めにお伺いしなければ、と心に決めていたことを思い出したのだった。
「ええ。私にも、よかったらあなたの名前を教えてください」
少女の申し出にマリーシアは笑顔で答えた。そういえば、身近には自分と同じ年頃の女性がいなくて、そうした意味では気を抜いた会話をもう随分としていなかった。
「も、申し遅れました、私シュテフィン・フェナーと申します」
シュテフィンは、マリーシアが街の教師に習った礼儀作法と同じようなお辞儀を、かちこちになりながらして見せた。
「シュテフィン……私、どこかであなたに見覚えが……」
「はい、先日のお茶会で。私はアデルワント伯爵家にお仕えしていますので。覚えていてくださったなんて、感激です」
「感激だなんてそんな。私、あなたときっと同い年くらい。何も変わらないわ」
「とんでもない! 長らく私のような民草と同じに育てられながら、皇帝陛下にお手を取られた貴婦人としてのご立派な振る舞いは、宮廷には縁遠い私たちにまで噂が届くほどです」
やや興奮気味に語るシュテフィンは、手に持ったままのポットに気づいてカップにお茶を注ぐ。
「あのときは、夢中だっただけ」
シュテフィンの淹れてくれたお茶を口にすると、マリーシアは胸の中のざわめきが少し落ち着いたように思えた。
夢中といえば、シュテフィンは今をときめく貴婦人とお近づきになれたことに、すっかり浮き足立って、感激の所以とするところを話し始めて止まらなかった。
「アデルワント家にお仕えしている友人たちと、マリーシア様のお噂を聞いては話題にしていますわ。クルフ家のお坊ちゃんがものの見事にあしらわれたとか、ロカス家の純情すぎて色恋に奥手な若様がすっかりお熱だとか」
彼女は、ほかの貴族の家に仕える同世代の友達もいて、お休みの日には一緒に外苑ロンテスキンの街を歩いたり、公園でお茶をしたりして過ごすのだと教えてくれた。自分にもそういう生活があり得たのかもしれない。そんな風に思って、マリーシアはまぶたの裏の情景に自分の姿を加えてみた。
シュテフィンは続ける。お勤め先の家で、聞くとは無しに勝手に耳に入る話の種は、その家の使用人たちの世間話で足りないところが繋ぎ合わされたり、他の噂も加わったりして量が膨らみ、今度はそれが他の家の友達同士で、また世間話の種になり、さらに量が増える。
時には彼女たちの家や、男の使用人たちによって町の酒場などに噂がばら撒かれることは想像に難くない。
そうしてシュテフィンは、まったく意識せずに、たくさんの話題を友人たちと共有しているのだった。
それを証明するように、彼女はあの夜の宴の様子をつぶさに語ってみせた。
「まあ、まるでシュテフィンもあの宴に一緒にいたみたいね」
マリーシアは感嘆した。そして、ユルフレーン家の別邸に、たくさんの使用人がいなくて良かったと思った。もしそうだったら、これからは使用人の目と耳が気になって落ち着いてはいられないから。それから、ローナのことを思い出す。彼女もそんな風に友人たちと噂話に興じるのだろうかと考えた。想像もつかなかった。きっと彼女は大丈夫だ。
「マリーシア様、いま私が口の軽い召使いだとお思いになったでしょう?」
思案顔をしたマリーシアの胸中を、シュテフィンはすぐに悟った。
「いいえ違うの」
マリーシアは慌てて首を振り、悪意を否定した。
「ただ、身近にいる人に私生活を言いふらされていたとしたら、とても残念だなと思って」
きっと傷つくだろう。そんな意味にその言葉を訳せないほど、シュテフィンの想像力は悪くない。だから彼女も、きちんと強く否定した。
「私だって、お慕いしている方たちのことを陰で言いふらしたりしません。アデルワント家の方々の事だってもちろん。陰口なんてしなくても、話題はたくさんあるんですよ? 今日はどんな方がいらしたとか、どういう方だったとか」
シュテフィンは否定するばかりでなく、違う真実を告げた。彼女の一生懸命さをマリーシアも信じた。
「わかったわ、ごめんなさい」
「いえ、わかっていただければ」
シュテフィンは小さく胸を張っておどけると、二人は顔を見合わせて笑った。