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邸の主を迎えて、宴は始まった。
卓に並んだ料理の蓋が取り払われ、給仕が客人たちに飲み物を配り歩く。
型どおりの挨拶を終えたシリス・カナン・フォスバールが階段から降り立ち、広間の中央を進むと、広間の左右、水と油のように分かれたユルフレーンとアデルワントに連なる人々が彼に挨拶をすべく、繋ぎ合わされるように中央に集まった。
二つの家の当主たるアデルワント伯爵夫妻と、ラーナッタ夫人が、カナン・フォスバールの引き合わせのごとく彼を交えてにこやかに言葉を交わすと、その場の和やかな様相の下に隠れた緊張感が幾分緩んだ。しかし、幾分かだけである。その緊張感については誰も言及はしていないが、その源はアルター公だ。
この宴の背後に立つアルター公と、ユルフレーン家との接触の行方を見守っているのだ。その接触が衝突となるのか。衝突が決定的な敵対関係へと発展するのか。
ユルフレーン側の人々はもちろんだが、アデルワント伯家の招待によって訪れた人々も、迂闊にユルフレーン側と親交を深めてしまうと、今後の展開によってはアルター公のあらぬ疑いを持たれてしまう。身の処し方を誤ってはならなかった。
ヒルデムは控えの間で、使いの者がもたらした紙片に目を通していた。
砂漠でフィンデル王国の王女と、それに従う民衆に遭遇したという、隊商の頭目からの報せを受けて、指示を授けた連絡役を送ったものの、隊商と接触できなかったという連絡を、鳥が運んできたのだった。
邸に鳥が戻ると、家臣が即座に使いを走らせたのだった。急を要する場合もあるので、そのように厳命しているのだが、今回ばかりは面白くも無い内容に失望を禁じえなかった。
燭台の火に紙片をあぶる。火は瞬く間に紙片を食い尽くした。
まあ、あの男ならうまくやるだろう。ただ飼われているだけではない男だ。いつ咬みつくか解らない危うい気概をヒルデムは気に入っていた。そのくらいの野心で動いてくれなければ、こちらの望むような働きを期待できないからだ。
その時、扉が叩かれ、何かから逃れるように男が入ってきた。
シプレン子爵キルクである。
「クラウブ・ロンテスキンが、部下を使って面通しをしているだと?」
間違いないのだなというヒルデムの問いに、キルクは頷き、ロンテスキンで顔を見られた衛士に違いないと請け負う。
「始末はつけられるだろうな?」
ヒルデムの問いにキルクは再び頷いた。
「では、今日は姿を見られぬように帰るがいい。私の護衛は不要だ」
キルクは、この権力者の命令に異を唱えて護衛に残る忠誠心を発揮すべきか、
不興を買わぬようおとなしく退散すべきかを脳裏で計算した。
ヒルデムには敵も多い。それは権力者の常である。だが、この男が不要といえばそれなりの算段もあってのことだろう。したがってキルクは口を開かぬまま頭を垂れてその場を退出したのだった。
ラーナッタ夫人は、給仕から果実酒を受け取り、ほどほどに嗜んでいた。宴の空気に身を馴染ませて人々の心を肌で感じるのも必要なことなのだ。ユルフレーン家に嫁いで、とくに当主の座を亡き夫に代わって勤めはじめてから学んだことだった。
長く中央から離れてはいたが、ユルフレーン公国も血族やら周辺の貴族たちとの関わりのなかで生じる問題から無縁ではいられない。
夫を亡くした直後は、しかるべき後継者に公爵位を譲るようにという圧力もあった。自分が嫁入りしたばかりの小娘であったのならば、なすがままだっただろうとラーナッタ夫人は振り返る。だが、貴族社会で存分に立ち振る舞ってきた経験が、その時には備わっていた。
ラーナッタは、老いてもなお直系男児の誕生に拘った夫の意志を汲んで、公爵位、ひいては公国の領地をただの利権と見る血族を寄せ付けなかった。
夫は、公国を帝室に返還するも良しと生前から口にしていたし、めぼしい後継者が血族にいれば、引き継ぐ準備をしていたはずだ。
が、それを今際の際まで後継者について口にすらしなかった。夫が、死の床につくまでの間に妻たる自分に語ったことが、彼の思うところの全てであると、ラーナッタは長かった二人の生活のあたたかい想い出とともに確信している。
挨拶の列が途切れると、渇いた口を潤すために給仕から受けとった新しい果実酒をラーナッタは含んだ。
(あら、美味しいわね)
口惜しい。せっかく美味しいものを見つけても、ここではゆっくり楽しめない。そんな心の呟きを洩らすのも、精神に持たせなければならない余裕を心得てこそである。
「ラーナッタ夫人、楽しんでおいでですか?」
「あら、シリス・カナン・フォスバール。素敵な宴をありがとう」
「いかがです? 我が家自慢の葡萄酒です。我が家と同じ、歴史の浅い品ではありますがね」
というからには、彼が言う我が家とは両親のローズロント公家ではなくカナン・フォスバール家を指すのだろう。称号として、再び彼のような立ち位置の人間が現れない限り使われることの無い家名だ。
「充分に美味しいわ。あなたのように鮮やかで眩しい」
「それは光栄。おかわりをお持ちしましょうか」
後ろに、給仕がさりげなく現れて控えている。
広間の端で、アデルワント側の人々に一瞬のざわつきがあり、視線が集まったのをラーナッタは感じ取った。
「いいえ、ひと仕事終えてから、ゆっくり頂きましょう」
彼女は人波の隙間に肝を据えた瞳で視線を差し込んだ。
そこには、アルター公ヒルデムがいる。