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皇帝の剣と姫君  第二部  作者: 夏川まさむ
一、  夜宴の客人
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 馬車の中の空気は重苦しかった。ヴェネルセン伯爵は不機嫌に違いない。そう思うと、若き画家にとって伯爵と二人の空間は重圧であった。

 彼、ユットーは息苦しさを感じて衣装の咽喉元を開いた。

 馬車は高貴な方の邸へ向かっていると教えられた。この衣装はそのためのものだ。

 真新しい着飾った衣服の馴染まない肌触りが、ユットーは好きではない。窮屈なお仕着せは、新婚夫婦の絵画の礼金と合わせた謝礼である。

「くれぐれも、失礼のないようにな」

 伯爵は、彼ユットーが愛すべき絵画の才能の持ち主であることを一目で見抜いた。真実が見抜いた通りなのか、伯爵がそう信じ込んだだけなのかは、ひとまず置いておくとして、彼には優れたモチーフが必要だった。できるだけ、我が家の外に。

 息子夫婦の結婚を記念した肖像画を描くのに、さる貴族からユットー・オプテルモーなる優秀な画家を紹介されたのがしばらく前のこと。才能のある芸術家をお抱えとして援助するのも、やぶさかではない。そう思っていた。この画家は、怠惰ではない。援助を受けて途端にそうなる若者を目にしたことがあるが、彼は創作に対する情熱が燃え上がっている時期のようだ。

 だが、彼の口も怠惰ではなかった。

 筆が動き始めると止まらない手と同じくらい、口も止まらなかった。そして絵に集中すればするほど会話は成立しなくなり、彼の一人語りとなる。時おり彼の口から飛び出す、絵と同じくらいの描写力と鋭い切り口の言葉は、果たして無意識なのだろうか。ほとんどすべての人が、完全無欠の容姿など持ち得ないものだし、性格やらなにやらにしても欠点はつきものなのだ。もちろん、悪辣にそれを彼が口にするわけではない。

 それにしても、正直は悪徳なのではないかとヴェネルセン伯爵は考えるようになった。

 そしてよく動き回る。邸の離れに与えた工房を飛び出し、邸や敷地をうろうろと歩き回り、取りつかれたように写生をはじめたり、そのまま油絵の具を取り出して本格的に描き始めることもあった。キャンバスの枠を髪の毛一本分でもはみ出れば途端に不器用になる彼の手は、絵の具をそこら辺に落とし、壁や柱に知らず知らず新進気鋭の色彩を加えてしまい、使用人たちが悲鳴を上げない日はない。

 だが、才能はあるのだ。 

 だから、なんとかせねば。いや、なんとかしてやらねば。もちろん、彼のために。

 ヴェネルセン伯爵は同時に思い出していた。さる貴族に、そんな優秀な画家を手放してなぜ自分に紹介してくれるのかと訊ねたとき、形容しがたい理由を記憶に止まらないような掴み所のない言葉の羅列で見事にはぐらかされたのは、つまりそういうことだったのだ。



 アルター公ヒルデムは、権力者としての威風を漂わせて、広間に姿を見せた。

 場がざわめく。

 アデルワント伯爵とアルター公には、古く遡れば血脈の交わる部分があるが、さりとて親戚としてこの場に現れるほど、もはや血は近くない。とすれば、わざわざユルフレーン家一党に敵対の表明と取れる行動など見せずとも、遠くから見下ろしていれば良いだけのことである。

 だが、伯と親交の深いものとして、アルター公は訪れた。自ら、皇帝に近づこうとする者たちを威圧するために。彼は策を講ずるのに興じる向きもあるが、小策士ではなく王者の気質に近い人格であった。

「アデルワント伯爵夫人、よく深窓の令嬢を連れ出してくれた」

 アルター公ヒルデムは、夫人を見つけて挨拶した。形式上、彼女はヒルデムを招待した立場だ。

「わたくしは、お茶にお誘いしただけ。ヒルデム様がシリス様を差し向けたのでしょう?」

 夫人の声は、かすかに非難の音色を含んでいた。ヒルデムは否定しなかった。

 シリスはお茶会に顔を出して、一言、両家の友誼を取り持つと言っただけで、いとも簡単にユルフレーン家の陣容を暴くことに成功したのだ。いや、今まさに成功しようとしている。

「高貴で不幸な方を、良いようにお使いになっているようですわね」

 マリーシア・レ・ユルフレーンをお茶会に誘い出すことに成功すると、そこへシリス・カナン・フォスバールが同席したいと申し出た。それを許し、さらに彼の会話の意図するところを汲み取って、この宴を催すことを同意したのは伯爵夫人だ。

 それらの成り行きには、すべてこのアルター公ヒルデムの意思が介在する。

 アデルワント伯爵夫人は、カナン・フォスバールという、称号であり家名を持つ彼が、薄氷を踏むような不確かな立場にあまんじて、なおかつ自分を利用するものに身を捧げているように思えてならなかった。

 伯爵夫人にとって、ヒルデムは憎らしい人ではないものの、シリスという青年にどこか痛ましい儚さを感じるのだ。



 中庭を見下ろす一室。その暗がりで、邸の主は椅子の背もたれに身を預けていた。

 先刻までは、火灯りの続々と集い訪う様を眺めていた。幼少のころは宮廷で同様の、あるいはそれ以上の眺めを、もっと高いところから眺望したことがある。それを失ったことに激しい喪失を感じたことはない。ただ、そうしたものは失われるのだということを、今はよく知っている。

 そして、いま集う灯りさえ、思い出と同じ。

 冷たい緑の眼は、いまは閉ざした目蓋に秘されている。

 思うままに人を動かし、我が名に集う。その名が失せて、残るものがあるだろうか。

 心に思うのは、諦観や無常ではない。

 ただ、そういうものだと割り切っているから、心に熱がないのだ。

 扉を叩く音で、彼は気だるそうに目蓋を開けた。家令が言葉無く頃合いを告げに来たのである。

 彼は背もたれに預けきった身を起こした。

 そろそろ、皆が揃うことだろう。この夜宴の客人が。


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