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日没が暦どおりの時刻を人々に告げる頃、外苑ロンテスキンの外れのとある邸に、続々と馬車が到着した。
その邸は、長い年月でみると主があまり定まることがない。カナン・フォスバールやその他の皇位継承権を持つ称号の持ち主たちが、ある種の時限付きで賜る館であるからだ。離宮とはいかないまでも、帝室にまつわる人間の住まう場所として、ロンテスキンの基準に縛られない広大な敷地があった。それゆえに、外苑の端に位置するのである。
そして、現在の主は無論、シリス・カナン・フォスバールであった。
また一台、馬車が到着する。
カナン・フォスバール家の使用人が駆け寄ると、貴人の降車用の台を置き、馬車の扉を開いて畏まった。
上司の友人という呈で、邸に馬車で乗り付けた衛士ならぬ貴公子レイトリ・フェナーは
庭園の見事さにあんぐりと口をあけた。
まるで宮殿である。いや、宮殿の中に入った事はないから、それはレイトリの想像でしかない。事実としては離宮にも及ばないが、見事というのは間違いではなかった。
レイトリは、ふと夜空を見やる。夜闇を打ち消すように満天の星が輝いていて、整えられた庭園は闇の暗幕に隠れることがなく、おかげでレイトリの尻込みを助長した。
これまで貴族の宴に上司とともに訪れたが、こんな場所は一度だってなかった。馬車で来訪するのも初めてだ。なにせ、ロンテスキンは労を惜しまねば、すべて徒歩で間に合う場所だ。
「どうした、早く降りないか」
上司が背中から急かした。降車用の台に一歩足を踏み下ろしたところで、レイトリはその光景に固まってしまっていたのだ。
使用人が、礼の姿勢を保ったまま来客の降車を待っていた。
「は、ただちに」
外に出ると、湿った空気がレイトリの頬に触れた。良い天気なのだが、明日は雨かもしれない。
ユルフレーン家の馬車が、外苑ロンテスキン領の西端に向けて街路を走っていた。
ラーナッタ夫人が進行方向を背にする座席に。向かいの席にマリーシアとローナが隣り合わせで座っていた。
馬車の中はとても静かだ。
街路は石畳で綺麗に舗装された上、往来が少なく傷みもない。車輪は滑るように走っていた。しかし、マリーシアの心が静けさを感じるのはそういうことではなかった。
向かいに座るラーナッタは瞑目して押し黙り、ばあやは主人であり親友である夫人の思考を妨げないように車内の沈黙を守った。
ラーナッタ夫人といえど、容易い状況ではないのだ。
マリーシアは自身の心配をラーナッタに悟らせないように、窓に顔を向けた。自分までラーナッタの重石になってはいけない。
外は、見慣れた街路の景色が流れていた。
馬車を走らせれば、ユルフレーン家の別邸からカナン・フォスバールの邸へは、さほど時間は掛からないと聞いた。どこそこの通りを抜けて、と、そんな風に説明してもらった様子では、日頃のお散歩の距離を考えれば歩くのは苦ではない。
だが今回は、きっちりと車を用意し、使用人に御者を任せ、貴族としての格式を整えた。
体裁を保つというのは、恥や外聞に対するものだけでなく、体裁それ自体を礼儀とするときもある。
そして整えるべき体裁のもうひとつが、家門の縁者であった。
カナン・フォスバールからの招待は、アデルワントとユルフレーン、たった二つの家門だけへのもの。
そして、シリス・カナン・フォスバールは両家の友誼の場を取り持つと言ったのだ。
彼の言葉が絶対であるのならば、縁故のある人間は招待せねばならない。血縁は公式の記録に残っているものであるから、誤魔化しは利かない。さりとて、古くから政略結婚で繋がった血の結束は、一部では強固であるものの、古く廃れば赤の他人より冷たくもろい。
まして、一躍注目を浴びるユルフレーンである。今、ユルフレーン家に縁故あるものとしてこの宴に参加するということは、現皇帝ヴィスターク五世を苦々しく思っている者たちや、ヴィスタークの皇妃に自分の娘をと目論む者たちの敵であると宣言することになる。
つまり、この宴へ参加する事はユルフレーン家の旗印に集う人間だと表明するようなものなのである。
そしてアデルワント家とアルター公が親密なのは多くの人が知ることだ。
この状況を見て多くの貴族たちは悟っていた。この宴は、アルター公の指図でユルフレーン家に与する人々をあぶりだす意味を持つのだと。
そんな所にのこのこと出席し、いまや衰退したユルフレーン家に連なるものだと名乗り出て大貴族であるアルター公に胸を張るなど、自分の家門を滅亡へと傾けるようなものだ。
果たしてどれほどの人が、ラーナッタ夫人の招待に応えてくれるだろう。
ユルフレーン公爵家としての体裁を整えられなければ、大いに恥を掻き、名誉を損なうだろう。夫亡き後、家を守ってきた夫人には耐えがたい屈辱のはずだ。
なにより、友誼の場を設けたカナン・フォスバールを軽んじたと他の貴族に糾弾される口実となる。
今後の領地経営の影響もあるはずだし、貴族社会での立場も失いかねない。
貴族としての礼法作法だけでなく、だんだんと貴族たちのありようを学び、察したマリーシアは、物事を解きほぐすように少しずつ理解し始めていた。
自分という厄介の種をラーナッタ夫人に押し付けてしまったことに、マリーシアは衣装の下の胸が痛いくらいだった。