1
シルヴェンライン ――――― 一一王国三六公国を束ねる帝国の中央に、まだ夏は訪れていなかった。
中央地方と呼び習わされながらその実、国土の北限たる北の銀嶺に寄り添うこの地方は、帝国の中でも夏が遅い。そして、厳しい冬が見舞う土地でもあるが、冬を越すと穏やかで安定した気候であることが、中央地方の広大な平原を豊かな穀倉地帯に育てた理由でもある。
この豊かな平原に、帝都リスターテルクは長く繁栄の時代を鎮守するかのようにあった。
その帝都を雷雨が襲った。天の気まぐれとあれば、珍しくはあれども事もない。家に引っ込めばいいだけのこと。豪雨ではあったが、災害と呼ぶほどに人の生活を脅かしはしなかった。
たたきつける大粒の雨は、貴族たちの別邸が立ち並ぶ外苑ロンテスキンにもさほど時間差をおかずに降り落ちた。
次第に密度を増やす空からの水滴に、外苑の衛士レイトリ・フェナーは顔をしかめた。日が完全に覆われ、まるで時刻が先を急いだかのように暗い。実際には、先刻昼食をとって警備の任を同僚から引き継いだばかりだ。すなわち、当番の交代はまだ三刻も先であり、これから降り出す雨は、自分の当番の開始時刻に合わせて降り出してくれたということであった。
滝の飛沫のように大粒な雨は、あっというまに叩きつけるような豪雨となった。
レイトリは皮の外套を被り、制式装備の槍を手に立ち尽くす。仕方ない、これが仕事だ。背中には石壁。高貴な人々の間で話題をさらっているというユルフレーン家の別邸の外壁である。
ロンテスキン外苑の守護を司るクラウブ準男爵直々の命令で、常に複数名の衛士がこの邸の警備に当たっている。
先日、かのマリーシア・レ・ユルフレーン嬢のあとを尾けていた男を目撃してからというもの、クラウブ・ロンテスキンの覚えがよく、レイトリ・フェナーはユルフレーンにまつわる仕事に回されるようになった。一躍、皇妃候補となった女性の警護となれば、さぞや名誉ことであろうと思いきや、そうでもない。
レイトリをはじめとする庶民からすれば、華々しい貴婦人の登場や、その輝かしい世界には憧憬はあっても、遠くの出来事みたいなものだ。それこそ桃源郷のような話。そのかわり、壁の向こうに必ず存在している世界なのだが。
いまは背中の壁が別世界との境い目。
豪雨は、風がないだけいいものの、石畳には短時間で水溜りの膜ができあがった。石の継ぎ目を伝って街路のわきの溝へと流す、水はけをよくするためになされた工夫も間に合わなくらいの雨水だ。
支給品の革の長靴はすでにじわじわと水が染みている。ぴっちりと着込んだ外套には水をはじく油が塗りこんでいるが、いずれその防壁も破られるに違いない。
降りが強いぶん、しばし耐えれば止むのではないかと、願望も含めての予想だったが、その雨はやむ気配も弱まる気配もない。
レイトリは手持ち無沙汰に、フードの下の、制帽のひさしから垂れ落ちる水滴をぼんやりと見つめていた。警備中ではあるが、なに、往来には雨滴がたたきつけられる音ばかり。人気は微塵もない。
と、視界が白い閃光に一瞬覆われ、すぐさま雷鳴が轟いた。
すぐそばで鳴った轟音に、恐ろしさで首が竦む。
また、稲光が走った。
白く反転する光景。レイトリは、脈絡もなく眉間に衝撃を受けて水溜りに突っ伏すように崩れた。
豪雨に、水溜りを打つ足音すらかき消されて、人影が静かにレイトリに歩み寄る。
首尾よく、矢が衛士の眉間を打ち抜いたようだが、狙ったのは心の臓であった。標的の始末を確認しにきたのだ。
その人影が、突っ伏した標的を足でひっくり返そうと靴底を浮かせた瞬間、石畳に転がっていた槍が、両足を払った。
勢いよく、レイトリは立ち上がった。ぶはっと殺していた息を吐き、砂まじりの雨水を、いきり立つ獣のように吹き出す。
命を狙われた!
衛士隊に勤めて五年。未知の経験だ。こういうときはどうすればいい? そうだ、笛を、と警笛を咥えて吹き鳴らすが、雨水を詰まらせた細い人差し指ほどの笛は、頼りない音しか発さなかった。
その隙に、人影は体勢を立て直し襲い掛かってくる。ええい、こんなことなら、飛び掛って押さえつけてしまえばよかったのだ。
捕縛経験の無さを呪いつつ、レイトリは暴漢の剣を槍で受ける。
交差する鋼鉄の向こうに、彼は見た。
あの男だ。ユルフレーン家の令嬢をつけていた。鋭く冷たい眼光。痩けた頬が、腹を空かせた猛禽を想起させる。
この男だ。
上司の顔を思い浮かべて恨み言を呟く。レイトリは先日からクラウブに連れまわされていた。ユルフレーン家を探っていると思しきこの男の顔を知っているのは自分だけなのだ。だが、その仕事は相手に探っていることを気づかれるということでもあったのだ!
こんなことなら、この数日間、もっと真剣に探せばよかった。あるいは、仮病でも使ってクラウブの命令を断れば良かったか。
誰も気づくことの無い雷雨のなかのことであった。