Chapter08: ドランカーの認知力がぶっ飛んでいるという例
敷島ゆかりが罰を受けるのは自業自得である。当然の報いだ。しかし、僕にまでとばっちりが及ぶのはいかがなものか。まったくもって解せない。責任者出てこい。
玄関先に生み出された〝コーラ池〟は、台所からバケツに水をくんで流しに流し、痕跡を散らした。
星がきらめく晴天にもかかわらず、あたり一帯は水浸しである。
明日の朝、外出する隣人が、「えっ、雨が降ったの?」と驚く姿が目に浮かぶ。ぜひとも、そう勘違いしてもらいたい。僕がやらかしたと思われたら、引っ越しを余儀なくされる。
掃除を終え、僕は肩を落として内玄関へ戻った。
三和土には敷島さんのスニーカーが揃え置かれている。足を伸ばして座っていたことが幸いし、スニーカーは〝洪水〟による巻き込まれを免れていた。だが、指摘するまでもなく、ボトムスは甚大な被害をこうむることになった。
そんな彼女は、もっか浴室で悪戦苦闘中。
「ぐすんっ……ああもう脱げな~い! 気持ち悪い! ずびびっ……バカヤロー!」
ぐずりながら悪態をついている。デニム地が水分をふくみ、肌に張りついて脱げないでいるようだ。スリムジーンズのうえ、酔いもくわわり、思うようにいかないのだろう。
玄関を上がったすぐ右手側が、キッチン、冷蔵庫、洗濯機が並んだ台所。そして左手側に、浴室とトイレの間取りになっている。手前にある浴室には、脱衣場がない。曇りガラスのはめ込まれた折れ戸を開けば、タイル敷きのバスルームだ。
僕は浴室内に目を向けないように戸脇に立って呼びかける。
「ちゃんと座ってますよね? 立ったままで転んだりしないでくださいよ」
「ねぇ、こっちきて脱ぐの手伝ってよ」
「手伝えませんって!」
「ケチ!」
致命的なまでにネジが飛んでいるなと思う。
ジーンズを脱いだあとはパンツ一枚だ。それも〝決壊〟直後でびしょ濡れのだぞ。そんな痴態を、彼氏でも友達でも救急隊員でもない、会話もろくにしたことがなかった同級生というだけの男に晒してしまってもいいのか……良かないだろう。そのパンツだって脱いで、シャワーを浴びなくてはならないのだ。
彼女の脳みそはアルコールに侵食され、ホンワカパッパした精神状態にある。「めんどうだから体も洗って」とも言い出しかねない。そうなったら僕だって頭のネジがぶっ飛んでしまいそうで怖いのだ。
いまや浴室内は立ち入り禁止の不可侵領域なのである。
ピシャンッ、という音が反響した。ジーンズとの格闘に終止符を打ったのだろう。タイル床に叩きつけた音だ。あれを洗濯するのも僕になってしまうのだろうか……。
……洗濯?
とんと忘れていた。
敷島さんには、着替えがない。
やがてシャワーの流れる音が聞こえ出す。
愕然と立ち尽くしていた僕は、不都合な現実を彼女に伝えた。
「あのう、着替えはどうしましょう?」
「テキトーなのを貸してよ」
「僕が普段着てるジャージとかしかないんですけど……」
「それでいいって。贅沢はしません」
「でも、下着は……」
「未使用なのがひとつくらいあるでしょ」
無かったらどうするんだよ。
「バッグに予備の下着とかないんですか?」
「都合よくあるわけないじゃない。ナプキン貼りつけとけっていうの?」
「いいませんから!」
「そうだ。中に入ってる私のスマホを充電しといてよ」
「それならバッグをこっちによこしてください」
「なに言ってるの? 駅出るときに栃内くんが持ってたでしょ」
「なに言ってるんです? 今持ってるのは敷島さんじゃないですか」
「「え?」」
なんてことだ、彼女のショルダーバッグが行方不明である……。
僕は記憶を遡った。たしかに、駅を出てからずっと僕がバッグを肩に掛けていた。でも、公園まできて、彼女に嫌気が差し、突き返したはずなのだ。その後、チカン騒動が勃発。てんやわんやで今に至る。
……きっと置き忘れたのは、公園なのだろう。
僕を責めるように、シャワーのお湯が浴室戸に向かって浴びせかけられる。
「今すぐ取りに戻って。財布も入ってるんだからね。盗まれたきみのせいだよ」
いいや、あんたのせいだ。
けど僕は、情け容赦のない鬼ではない。だから戻りますよ、戻ってあげますとも。しかしその前に、スマホが話題にのぼって肝心なことを思い出す。
「……僕のスマホって、どうなりました?」
「ああ~、そういえば。濡れてなかったよ、奇跡的に」
「ほんとですか!?」
僕は歓喜した。あの〝大氾濫〟において水没に見舞われることがなかったとしたら、まさに主人公補正レベルの奇跡である。
「先に僕のスマホを返してください。そしたらバッグを取りに行ってくるので」
さすがの敷島さんも、この交換条件には素直にしたがってくれた。
足音をペタペタさせて浴室戸へ近づいてくる気配がする。
後ろを向いているからスマホだけ差し出して床に置いてください、と言おうとしたのだけど、それより早く、折れ戸がガバッと引き開けられてしまう。僕が戸脇の壁沿いに立っていたからいいものを、見える角度にいたらあわやの大惨事である。警戒心のカケラもないな……。
水蒸気が漂い出るなか、濡れそぼった腕が一本、ぬっと差し出された。
「はい、コレ。お返しま~す」
「ちょ、ちょっとまって…………ずぶ濡れじゃないですか!?」
彼女の細い指は、僕のスマホをつまみ持っている。そして、ぷらぷらと揺らされる本体からは、水が滴り落ちていた。手を伝ってきた分にしては、やけに多い。それに、画面をボディーソープの泡のようなものが下っているのも見受けられる。
「洗ったの」と、そっけない声。
「非防水なんですけど……」と、僕は細い声で訴える。
「私のは防水」
「聞いてない! 洗ちゃったのは僕の非防水スマホなんですって!」
「でも、そのまま返したら不潔でしょ?」
……ダメだこいつ、手遅れだ。
「ありがとう、余計なことをしてくれて!」
「どういたしまして~」