Chapter05: チカン出没注意の公園にて
思わぬかたちで敷島さんの失恋の傷口をえぐるかたちとなり、数分間、無言で歩く羽目におちいってしまった。
気まずい、いたたまれない、どうしようもない。
無意味とわかりつつ心の中で叫んでしまう、「ドラえもん、なんとかして!」と。
せめて四次元ポケットが落ちてないかと足元を確認しながら歩くが、石ころしか転がっていない。
その間にもアパートはただただ迫ってくる。
僕はフィクションへの逃避をあきらめ、敷島さんの股間を注視する。『股間を注視する』なんて言うと誤解を受けるかもしれないが、スケベな動機では断じてない。だってしかたないではないか、僕のスマホがそこにあるのだから……。
スマホが戻らないことには彼女と離れられない、戻ればタクシーだって呼べる。
自力奪取は、物理的には、たやすいだろう。ジーンズの穿き口に手を突っ込めばいいだけである。しかし実行に移せば、倫理上アウトな気がしてやまない。もちろん、最初にアウト臭いことをしでかしているのは彼女だが、それでも手を入れたら負けである。
期待していたのは、スマホがずり落ちてくることだ。
歩いているうちに振動で下へ下へとさがってこないか、裾から出てきやしないか。
でも、それは望み薄だった。
スマホの安定度が、絶望的なまでに素晴らしいのである。
体型にフィットしたスリムジーンズなのがいけなかった。癒着してしまっているのではないかと疑わしいくらい、彼女の下腹部からいっこうに動かないのだ。
このエロスマホめ!
仮に、股下へ移ったとしても、裾まで下がってくることはないだろう。そんなスペースは生じない。内股に潜り込んでしまえば、それこそ物理的にも回収不可能。ジーンズを脱いでもらう他にすべがなくなる。
○
いかんともしがたく黙々と歩るきつづけていると、地面がアスファルトから土に変わった。
アパート近所の公園までたどり着いてしまったのである。
この公園を横切り、あと五分もすれば、我が根城である。
取り急ぎ、重苦しい空気をどうにか改善したい。
その沈黙を破ったのは敷島さんだった。
公園中央に差しかかったところで、彼女が突然、笑いだしたのだ。
「ふふっ……あははっ……ぬふふっ……」
「し、敷島さん? 大丈夫?」
と、尋ねても返答がない。
断続的に不気味な笑い声をこぼし、身をくねらせるようにしている。
酔っぱらい特有の笑い上戸の症状が時間差であらわれたのだろうか?
ひとまず、近場にあったドーム型の遊具に背中をもたれさせると、彼女が両手で押さえている腹部に目がいく。いや、押さえていたのはヘソの下、下腹部だ。
「ぷふふっ……にししっ……あひひっ……」
ピコンッ……ピコンッ……ピコンッ……。
彼女が笑うのと同じタイミングで、手の奥から、くぐもった電子音が聞こえてくる。
さらに、『ブブー、ブブー、ブブー』と重低音もひびいていた。
どちらも耳慣れた音だ。
「いったん、手をどけてもらえませんか?」
手がどかされ、僕は顔をゆがめる。
敷島さんは余計に笑った。
ジーンズの開閉部周辺が、デニム地を透かして縦長に光を放っている。
スマホは、画面を表向きにして仕舞い込まれていたのだ。
電子音の正体はメッセージ通知音であり、重低音はバイ……振動機能によるもの。
どうやら、僕のスマホに着信が入り、くすぐられる格好となって、彼女は笑っていたようである。
「なははっ。これちょっと気持ちいいかも。なんていうか、ロー――」
僕は強く咳払い、そっち系の表現を規制。
なにはさておき、これは好機。
おそらく、メッセージを連投してきているのは、地方都市のカラオケボックスでいまだ歌い明かしている友人の誰かだろう。僕が家に着いたのを見計らい、睡眠を妨害しようという悪巧みをしてきたのだ。
さいわい、敷島さんはそんなことを知らない。
「スマホを返してください。こんな夜中に連絡をよこすんですよ。なにか緊急な要件かもしれないじゃないですか!?」
「これってアプリ通知だよね。緊急だったら電話でしょうに」
……まったく、変なところで冴えてる。
「ていうか、ヒーローっぽくない?」
股間を明滅させるヒーローがどこにいる。
僕はじれったさに頭を掻きむしった。
「言うとおりにしてくださいよ。むりやり取り返しちゃいますよ!」
「いいんじゃない? トライしてみれば~?」と、彼女はドーム遊具の球面に両腕を広げ、腰を突き出して煽ってくる。「でも、その前にさ、――ほら、そこの街灯にくくりつけられてある立て看板。その赤い字を、よく読んでみたほうがいいよ」
「……『チカン出没注意!』」
「次に、私の後ろの方向。公園の外にある家を見て。二階の角部屋の様子は?」
「……明かりが点いてる」
「はい、レッツ・トライ!」
できるわけがない。
僕がジーンズに手を突き入れます。敷島さんが叫びます。住人が出てきます。すると、どうだ。スマホを握りしめた僕は、女子大生の秘部をゼロ距離接写撮影している変質者である。『股間に仕舞われたスマホを取り返そうとしていた、などという意味不明な供述をしており、……』なんていう明日のニュース記事も想像がつく。
僕は肩に掛けていたバッグを、彼女に突き返す。
ひとりで公園の出口へと向かいはじめた。
「あれれ~? どこ行っちゃうのかな、栃内くん」
「あとはこの公園で一夜を明かすなり、徒歩で帰るなり、勝手にしてください」
「スマホはいいの~?」
「今度学校で会ったときでいいです」
「ブラウザの履歴見ちゃうよ?」
「…………」
「あっ、止まった止まった」
「……いいですよ、もうどうでも」
と、僕は歩みを再開する。
ほとほと疲れた。これ以上つきあい切れない。
敷島さんはさっき、彼氏と別れたと言っていた。ふったのか、ふられたのかは、定かではなかった。しかし今なら断言できる。彼女はふられたのだ。原因は、酒癖の悪さ。保証してもいい。
○
「キャァァァッ! 誰か助けてぇぇぇっ!」
それは、まさかまさかの大音声だった。
公園の出口へ向かっていた僕は、肝を潰して振り返る。
発信源は無論、敷島さんだ。
あたりには誰もいない。
最も近くにいるのは僕である。
彼女は両手をメガホンにし、短い髪の毛を振り乱れさせ、天まで届けとばかりに腹の底から絶叫しているのだ。
正気の沙汰とは思えない。絶賛べろんべろん中なので正気ではないのだが、酔狂の沙汰も大幅に踏み越えていた。ヤバいなんてもんじゃない。
なにやらかしてくれるんだよ、あのパツキン女!
「チカンでぇぇぇっす! チカン出現でぇぇぇっすぅ!」
「し、静かに! 静かにしてください! お願いだから!」
転げるように引き返し、叫ぶ口を塞ぐ。
正面から手を当てたため、彼女の体が後退し、ドーム遊具に接触。
それでも手のひらに音声がビリビリ伝わりつづけてきたので、ついカッとなって手を振り上げる。
口から手が離れたが、声は途切れた。
敷島さんが、ひどく怯えたような顔色を浮かべ、頭を覆う防御姿勢をとったからだ。
そこで僕は我に返った。
「……ご、ごめんなさい」と、かかげていた手を下げ、謝罪。
防御姿勢を解いた彼女が、きょとりと目を丸める。
「どうしてきみが謝るのよ」
「だって、手を出しちゃいそうになったし……」
「ふ~ん」と鼻を鳴らしたあと、彼女が僕の背後を指差す。「それよりさ、はやく逃げちゃわないと一騒動起きそう」
「え?」
公園を囲む家々に、ひとつ、またひとつと明かりが灯り出していた。
犬の遠吠えも上がっており、あちらこちらに波及していく。
窓を開けて怒鳴ったり、鉄パイプを持って飛び出してくる人物はまだ現れないものの、心なしか遠く向こうでパトカーのサイレンが鳴っているような気もしないでもない。
「ウケる。コントみたい」
「ぜんぜんウケませんから! 敷島さん、走って!」
「酔っぱらいに無理強いしすぎだよ」
「ああっ、ったく!」
と、僕は、手をたたき笑う傍迷惑な女の体を両腕にかかえる。
死力を尽くして逃走した。
こんちくしょー!