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お家シリーズ

おじいちゃんが玄関を掃除する話

初投稿です。よろしくお願いいたします。

数年前、トイレに女神がいるという歌が話題になった。

いい歌だな、なんて子供達と話したのを昨日のことのように覚えている。


これは私の持論ではあるが。

家の至る所には神が宿るならば、玄関こそ美しくあるべきではないか。

玄関が汚ければ宿る前に神は帰ってしまうだろう。


そう思えるほど、私がこの一軒家を建てる際こだわりを貫いた玄関は立派だった。


妻が両手に買い物袋を持っても通りやすい、広い出入口。

お洒落なデザインの黒いドア。

防犯意識の高いオートロック。ダミーの鍵穴とドアチェーン。

掃除のしやすさを第一に考えた傷つきにくい茶色いタイル。

高すぎず、低すぎない。こだわりを貫いた上がりかまち


玄関から入って右側には風水にこだわって姿見を掛けてあり、左側にはSLの模型や可愛らしいパッチワークのタペストリー(妻自慢の手作りである)、パリの夜景のジグソーパズルが飾っている。


上がり框を上がったすぐに右側に大きい靴箱が埋め込まれる形で設置されてある。非常に使い勝手のよい靴箱だと自負している。


全体的にシックに、ビューティフルに、モダンに、さりげなくカジュアルに、キュートで、クールな……と、まあ。

私にとっては家に帰るのが楽しみで仕方がないぐらい、愛おしい場所。それが玄関なのである。



定年してからというもの、月に一度この玄関を掃除するのが楽しみになった。

今日はとくに大事な作業もある。念入りに掃除をしようと思う。


数年していなかった靴箱の靴の整理整頓をしようではないか。


靴箱は全部で五段。一番上を開けてみた。

中にはぎっしりと娘の靴が入っていた。どれもヒールが細く高い。色とりどりの女性ものの靴だ。

パンプスだったか、ハイヒールだか、ミュールだったか。薄く汚れ、よく履き続けたもののようだった。


一旦全部出してみる。

娘は六年前、東京の会社に転職した。昔からやりたいと言っていた職業になったはいいものの、こんな田舎ではなく東京で夢を叶えたいと決心固く出ていった。

大学を出て数年間地元で働いていた時に履き続けた靴なのだろう。働きながら勉強をし、色んな資格を取っていた。彼女の努力を表しているようなくたびれ方だった。


一つだけ箱に大事にしまってあった。

そっと開けて確認する。



「あぁ、懐かしいな」



就職祝いに何が良いかと尋ねたら強請られたジミーチュウというブランド。

クリスタルのような飾りが留め具に散りばめられた黒いハイヒール。ひっくり返すと靴底は青い。こんなところに色が付いていても見えないのではないか。そう文句をつけると歩く後ろ姿が格好いいデザインだと娘が熱弁していた。

値段は思い出したくもない。

娘が好きな映画に出ていたブランドらしい。悪魔のような値段だった。


リビングから携帯電話を取り出してジミーチュウの写メールを撮った。

娘に送る。


『ただいま靴箱の整理整頓中こちらが見つかりました』


一つ一つ慣れないけれどメールの文字を打つ。

娘に何度も怒られながら教えられた成果が出ているだろうか。


続けて他の靴たちの写メールも送る。こちらにはなにも文字を打たないでおく。もう目が痛い。


送信ボタンを押して棚の上に置いた。



二段目には来客用のスリッパが入っていた。

昔はよく客を招いた。上司に部下に友人に親戚に。

息子が初めて結婚したいと彼女を連れてきたとき。


娘の三歳上に息子がいる。

真面目が服を着たようなつまらない奴で。しかしそれが自慢でもあった。

体を動かすことが好きな私とは正反対で静かに本を読むのが好きな奴だった。


今は地元の新聞社で真面目に働いている。

私が定年する数年前に息子の会社のビルが市内で一番高いビルへ建て変わった。私の働いている会社より高い位置になったのが少し面白くなかった。


けれどやっぱり頭の固い奴で、高いビルだからと自分が偉くなったわけではないと謙虚な姿勢だった。働いているだけで社長ではないからと至極真面目な顔で言われた。


そんな冗談が通じない奴が選んだ女性はよく笑う可愛らしいお嬢さんだった。大学の後輩だったらしい。

緊張しながらスリッパを出したのを覚えている。


彼女のご両親が来訪された時に新しく買ったスリッパもあった。これはなかなか高かった。高級ホテル御用達のブランドのスリッパである。


比較的綺麗なスリッパを残して後はごみ袋に詰めた。

結構な量である。



そのタイミングでグリーンスリーブスが流れ出した。

娘がガラパゴスと呼ぶ携帯電話を開いた。案の定娘からである。



『ジミーチュウは残しておいて。あとは捨てていい。それから明後日そっち帰るから』


『承知致しました』



私はメールを丁寧語で送るので、こうして見ると娘が偉そうな上司のようである。思わず笑ってしまった。

わがまま娘はそのままのようだ。


明後日は年金が振り込まれる日だ。久しぶりにデパートへ行って靴を買ってやるのも悪くは無い。



三段目。ここは私がいつも履いている靴を入れている。

会社勤めをしていた頃は、何足も革靴を持っていたが定年直後にまとめて棄てた。テーラーに何度も通いぴったりのスーツを、靴を、何度も買った。

そのうちの何足か分をもう少し妻へのプレゼントにしていれば良かったと後悔している。


雨の日が多いこの地域ではマッケイ製法の革靴が大活躍した。何足も買い、何足も駄目にした。

しかし男としてはグッドイヤー製法の革靴にもロマンを感じ色々と散財したものである。やはりそこまでの管理が出来ずにそれも駄目にしてしまったが。


今では冠婚葬祭用にも使えるストレートトゥキャップの靴が一足、散歩用の運動靴が一足、夏用のサンダル、冬用のショートブーツが一足。現役の時では考えられないぐらいだ。


整理整頓をする必要はないが拭き清めるために一旦全て出した。すっからかんの靴箱が妙に自分に似ている気がした。



四段目。手が震えた。呼吸を整えて一段飛ばした。

面倒臭い事を後回しにする癖はこの歳になってもとうとう変わらなかった。


五段目。

一番下の靴箱は他の靴箱より縦に長い。

開けると妻と私の雪用の長靴も、娘と息子がこの家を出ていく前に履いていた雪靴も入っていた。



家族四人分の、雪靴。

寒いこの地で、一歩一歩踏みしめるための靴。


この靴を履かなければならない日は早朝から大忙しで、ろくに会話もしないまま雪掻きをしていた。


娘はバスが渋滞するからといつもより二時間早く出ていくし、息子と二人、カーボート下の雪を必死に寄せた。家の前の道路は何台も車が通ったあとの轍が出来ており、それも崩して水路に捨てた。


車のフロントガラスには横殴りに降った雪がびっしりと貼り付いて凍ってしまって。それを妻が沸かした薬缶のお湯をかけて溶かしていた。

車のエンジンを掛けっぱなしにして車内を暖めながら雪掻きを終えると、妻が息子と私に車の中で食べるようにとラップに包んだおにぎりを手渡す。


やはり私もいつもより一時間以上早く家を出る。

息子の通う高校の近くを通勤中に通るので雪の日は送ってやっていた。

雪で渋滞する車の中で息子の好きなCDをかけて、息子が口ずさむのが好きだった。

息子と二人狭い車内で食べるおにぎりはいつも混ぜ込みふりかけの若菜味だった。



全員分の雪靴を手に取る。一旦全部玄関に並べた。

深呼吸をして妻の雪靴だけをごみ袋に詰めた。



「ばあさん」


一階奥の和室へ呼びかける。


「ばあさん、もう雪靴使わねぇだろ? 捨てたぞ」



もう一度深呼吸をした。

意を決して後回しにしていた四段目を開けた。


やはりそこは、妻専用のスペースだった。

昔から我慢する癖のある妻らしく、運動靴が一足、冠婚葬祭用のパンプスが一足、夏用のサンダルが一足入っていた。

どれも年季が入りボロボロだった。


三足、全てごみ袋に入れた。



「…」


スッキリとした棚を全て拭き清めて、再び取っておいた靴をしまった。


物が飾ってあった棚も綺麗に拭いた。

長らく変えていなかったタペストリーは一度外した。帽子を被った女の子がデザインされたパッチワークのタペストリーに変えた。妻はこの女の子をスーちゃんと呼んでいたっけ。


掃除がしやすいようにとこだわって良かったとタイルを掃いて水を流した。乾拭きをすると輝いて見える。


棚には香りの良い花束を飾った。自分で花を飾ったことなんてなかったもんで、花屋で飾り方を詳しく聞いた。少し気恥ずかしかった。

名前の分からない黄色い花と赤い花。

小さくて可愛らしいかすみ草。

その中で存在感を放つ一際大きな白いダリア。

金木犀も入っていた。

玄関に香りが広がった。芳しい花だ。



「…よし」



携帯電話を開いて時間を確認した。

もうそろそろ迎えが来る頃だろう。


車椅子を広げた。いつもより綺麗に整えておく。

上がり框に簡易スロープをかけた。


一度リビングに行って隠しておいた靴を取り出した。

ラベンダー色のラインが入った、履きやすそうな白い運動靴。マジックテープで留めるタイプだ。



「ばあさん」



一番奥の和室。

襖を開けた。



「ばあさん」


介護用ベッドの上に今日も妻が横たわっている。

焦点の合わない目が虚空を見つめていた。



ベッドについたボタンを操作して身体を起こす。そろそろ準備をしないといけない。



「ばあさん、着替えよう。今日はおめかししよう。ばあさんの好きなラベンダー色の、カーディガン着よう」


「……」



もう何年も続けた作業である。なかなか手際よく着替えさせられたに違いない。


なんとか車椅子に乗せて玄関へ向かった。

ラベンダー色のラインの運動靴を履かせると、やはりよく似合っていた。



「ばあさん」


返事はない。

もう一度呼びかけた。



「りょうこさん」


「…なぁに」


息が詰まった。私の呼び掛けに反応したのは久しぶりだった。


「…ラベンダー色、よく似合ってるな」


「そうかい」


「りょうこさんはラベンダー色好きだもんな」


「いいや」


妻は首を横に振った。



「あたしは元々は、そんなにゃ好きじゃなかったんさ。でもね、あの人がね、ようじさんが似合うって言ったっけね」



ようじは私の名前だ。



「それから好きになったんて。あの人が好きな色だったっけさ」


「…そうかい」


「ところで、あんた誰だい」


「誰だって、ええがや」


「そうかい」



それきり妻は黙った。


車椅子を押して玄関を出ると暖かかった。

秋晴れの空は高く澄んでいた。



「りょうこさん」


「…」


「…苦労かけたなぁ」


「…」


「今日は、あったけぇなぁ。良かったなぁ、りょうこさん。お天道さん出てて良かったなぁ」



また車椅子を押し進んで行くと息子とその嫁が車に乗って待っていた。



「お父さん」


息子と嫁が、妻を車に乗せるのを黙って見ていた。

嫁が素敵なカーディガンですねと笑っていた。妻もつられて笑った。



「準備はいいか?」


ぶっきらぼうに息子が言うもんだから、黙って大きいボストンバッグを差し出した。


「お父さんも、目がもうだんだん見えなくなってきてるんだから。無理しないで」


「……」


「お母さん、施設に送ったら戻ってくるから。お父さんも病院に行く準備してて」


「…分かった」



妻を乗せた車が発車した。

どんどん小さくなっていく。

小さくなって角を曲がって見えなくなった。



妻の本当に好きな色さえ知らず、知ったところでもうすぐ見えなくなる目と後悔を背負って。

もう一度玄関をくぐった。


今日は妻が介護施設に入居する日だった。

妻の痴呆が始まって、介護して、私の目が病で見えづらくなり、妻が徘徊するようになって。徘徊途中で事故に合って、ろくに歩けなくなってまたさらに痴呆がひどくなった。私の病も悪くなる一方だった。


いつ居なくなるかと気が抜けない日々より、ろくに歩けなくなってからのほうが楽になったと思ってしまった自分が嫌だった。


ヘルパーやデイサービスを頼ったりしたものの、結局は『いい施設に入るために』貯めてきた金を使うことになった。

いざ『その時のため』の金を使うとなると、渇いた笑いが漏れ出たものだった。


長い日々だった。終わるとあっという間だった。

けれど、これまで迷惑ばかりだった私が妻に恩返しをする大切な時間だった。

恩返しというより、ただの押し付けだっただろうけれど。不器用な男の介護など妻にとっては最悪だったろうに。


もう二度と妻はこの玄関から入っては来ないだろう。


最後に、妻を送り出した玄関は。



「いい玄関だ」



春になれば息子一家がこの家に住むことになる。

掃除した靴箱には新しい靴が並ぶだろう。

小学生の孫が三人もいるのだ。賑やかになる。


この家を建てて今日まで、妻がいてくれたお陰で、我が家にはたしかに福の神がいた。

そして春からも新しく福の神が訪れるだろう。


玄関の電気を消した。


妻を送り出したこの玄関は、やはり自慢の玄関だった。




ご覧頂きありがとうございました。

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