三階建てアパート四十代男性
せっかく書いたので投稿
朝の列車は、会社員と言う名の労働者たちをぎゅうぎゅうに詰め込んで輸送していく。肉体的にも心理的にも大きな負担を受けながら輸送された先も、職場と言う名のストレス試験場である。雨羽原駅で電車を降りた女は人のうねりに流されながら改札を出て道沿いに歩いていく。その足取りからは覇気がうかがえない。
薄い化粧にひっつめ髪、少しよれたスーツを身にまとった彼女は彩テックとかかれた看板が掲げられた真新しいオフィスに入っていった。ここが、彼女の職場であるらしい。
時刻は八時十五分、オフィスの入り口から右壁際のデスク前に立った彼女は、バッグの中からウェットティッシュを取り出しデスクを拭き始めた。デスク上には何も置かれていない。隅々まで拭き終わると、デスクに備え付けられたオフィスチェアの座面をウェットティッシュでさっと払ってから腰かけた。そしてバッグをデスクにおきデスク右下に置かれたキャビネットのダイヤル錠を開け、中のPCを取り出した。PCを起動すると、グループウェアを立ち上げメールをチェックし出した。この間に、他に社員達も出社し、オフィス内には十数名が集っていた。しかし彼女に挨拶するものも居らず、彼女も挨拶をすることはなかった。
時刻は八時三十分になり、スピーカーからチャイムが鳴り出した。始業の合図らしい。彼女は鞄から手帳を取り出すと、なにやら書き込み始めた。手帳には日付と仕事内容が書かれている。どうやらその日のタスクを朝一番に書き出すのが彼女のスタイルのようだ。
一通り書き終えた様子の彼女はおもむろに立ち上がり口を開いた。
「係長、中野山の現場に行ってきます」
「ハイよ、気を付けてな」
三十代前半ぐらいの面長で眼鏡をかけた男性が気だるそうに返事をした。男性は顔もあげず世話しなくキーボードを叩いている。エンターキーを力強く叩く音が度々響いた。
彼女は顔を一瞬しかめたが、すぐにもとの無表情に戻して、デスクの上のPCや手帳をバッグに詰め込むと、足早にオフィスを後にした。
時刻は九時過ぎ、今朝歩いてきた道を逆戻りして雨羽原駅に向かっている。フラットヒールのパンプスの足取りは今朝よりも、いくぶんか勢いがある。しかし顔は相変わらずの無表情である。
通勤ラッシュの乗客を輸送し終え一息ついた列車内で彼女はスマートフォンでネットニュースを見ながらため息をついている。芸能人の訃報が伝えられていた。その後も、政治や経済のニュースをつまらなそうな顔で読んでいた。二十分ほど経ち列車が中野山駅に着くと面倒くさそうに立ち上がり列車を降りた。
薄曇りの空のもと、スマートフォンの地図アプリを見ながら、うねうねと横道を十五分ほど歩き、赤地に白で入居者募集中と書かれたの幟のたてられたアパートの前で立ち止まった。三階建てアパートのアパートは白い外壁に雨汚れもなく、新築かそれに近いものであることがわかる。
「こんな綺麗なアパートなのに」
彼女は残念そうに独りごちた。そうしてまた、ため息をついた。手帳を確認して、アパートの外階段を登ると角部屋のインターフォンを鳴らした。するとすぐにドアが開き、中から中年の男性が顔を出した。
「彩テックの佐藤と申します。木下様のお宅でしょうか」
今までの無表情から一転、笑顔を作り、少し高めの声で男性に問いかけた。
「はい、木下です。今日はよろしくお願いします。どうぞお上がりください」
男性の目の下のクマは世間の様々に疲れきっているかのようだった。室内は人が暮らしているとは思えないほど簡素で、家具類も生活雑貨も見られない。
「綺麗なお部屋ですね」
「クローゼットに収まらないものはすべて捨てました」
男性はなんの抑揚もなく答えた。それを聞いた彼女は一瞬、眉尻を下げ悲しげな表情を見せたが、すぐにまた笑顔を作り直した。
「本日はこちらのお部屋で新たな門出を迎えられるとのことで、うかがわせていただきましたが、どの様な彩をお求めでしょうか」
「門出ですか、そういう見方もありますか。そうですね……門出らしく桜色にしてもらえますか。私の実家の最寄り駅には桜並木があって、新年度を迎える時期には、それはそれは綺麗だったんですよ。いまは両親も実家も失くなってしまったので、久しくあの町には行っていないのですが、また見れたら嬉しいなと思いまして……」
男性は、今までよりも少し饒舌になり楽しそうに語った。それを彼女は笑顔で何度も頷きながら聞いていた。
「承知いたしました。桜色に彩らせて頂きます」
そう言うと彼女はバッグをから、ところどころ色の剥げた赤と紺のカスタネットを取り出した。それを左手に待つと少し緊張したような顔つきになり深呼吸をした。
「それでは参ります」
カンカカカン――
カスタネットの甲高い音が部屋中に響き渡った。そうして部屋の床、天井、壁、すべてが桜色に染まった。
「床も天井も桜色にしてしまいましたか、何て言うか桜並木のイメージとは少し違いますね。綺麗だからまぁいいか……」
男性は苦笑いした。その声色には若干の失望がうかがえた。彼女はそれを察しとったのか、少し慌てた様子を見せた。
「申し訳ありません、せっかくの門出なのにご期待に添えず」
「いや、良いんですよ。どうせ最後の遊びみたいなものですから」
彼女の謝罪を男性は受け入れるわけでも拒絶するわけでもなく、ただ苦笑いをしていた。
「大変申し訳ありませんでした……」
彼女は困った様子で、目を泳がせながら再度謝罪した。手を握りしめた拍子にカスタネットが、カツと鳴った。
「良いんです、もうどうでも、良いんです。それでは私は少し用事があるのでこれでお引き取り願えますか」
「かしこまりました。本日は彩テックをご利用いただき誠にありがとうございました。もしよろしければ、アンケートにご協力をお願い致します。スマートフォンでもご回答頂けます」
そう言って、おずおずとバッグから一枚の紙を取り出し、男性に差し出した。男性は黙って受けとると、少し声を出して笑った。その笑いは悲しみの笑いではないようだった。
彼女は、一礼すると部屋を出た。そうして、アパートの外階段を降りると、またため息をついた。
「なんで私は気が利かないんだろう、次は駅前のマンションかぁ」
そう独りごちて、ため息をつくと、駅前に向かって歩き出した。その歩みは泥濘に足をとられているかのようであった。
気まぐれに続ける予定