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ヒメキは待ち合わせの時間と場所の変更、その理由を黎の携帯にメールで送信した後、とある病院までやってきた。
ここにプリントを届ける生徒がいる。
名前は夕代愛美。一応、ヒメキのクラスメートなのだが、ヒメキは教室で彼女と会ったことがない。彼女は一年の三学期始まってからすぐここへ入院しており、ギリギリ単位と出席日数が足りたので病院に入院したまま二年生へ進級した。以後、彼女は学校には来ていない。
元々、体が弱く、昔から入退院の繰り返しが続いているそうだ。そして、今回の入院期間は平均よりも長いらしい。
ヒメキがいつものように、いつもの病室へ向かい、ドアをノックする。
「はい、どうぞ」
聞き覚えのある、ゆたりとした可愛らしい声がドアの向こう側から聞こえた。
「おじゃまします」
そう言いながらヒメキは一人部屋の病室に入り、ベッドの上の少女と顔を合わせる。
彼女こそが夕代愛美。ヒメキのクラスメートである。
しかし、彼女の容姿は少し幼い印象がある。身長は百五十あるかないか。肌も白い。
元々、そういう人間はいるだろが、彼女のそんな外見は入院生活に影響されてとも言えなくもない。彼女の外見は下手をすれば中学生にも間違われても可笑しくないほどだ。
「あ、奏日君・・・・・・こんにちは」
彼女はヒメキの顔を見た途端、にっこりと笑顔を浮かべる。それはまるで野原に咲いた一輪の花のように可愛らしいものだった。
素直にヒメキも可愛いと思う。同時にほんの少し切なく感じた。
「こんにちは、夕代」
そんな自分の心情を隠すように、自分も笑顔で返した。
「今日もプリント?」
「ああ」
そう答えながら、ヒメキはカバンから皐月鐘から受け取った課題のプリントを愛美に手渡す。
「いつも、ありがとう。じゃあ、これ。この前持ってきたプリントを、代わりにと言ったら可笑しいけど渡すね」
「へぇ・・・・・・もう、できたんだ」
ヒメキは受け取った課題のプリントを軽く目を通した限り、ちゃんと正しい答えが記されるので素直に感心した。
「あまりやることがなくて暇だったからね。最近は貰ったプリントは大抵が貰った日に全部やっているよ」
「一日で? すごいなぁ」
「そんなことないよ。奏日君が勉強を教えてくれなかったら、きっとチンプンカンプンだった」
「教えたっていうほど、なにもしてないけどな」
確かに愛美の言うとおり、以前にヒメキは彼女に勉強を教えたことがある。
といっても、ヒメキ自身は多少のコツを教えただけのつもりであり、実際にそうであった。だから、彼女の勉強のレベルが上がったのは純粋に彼女自身の努力によるものだとヒメキは思っている。
それでも、愛美は首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ。奏日君は人に教えるのがうまいよ」
感謝の気持ちをたっぷりこめた笑みを愛美は浮かべた。それを見たヒメキは少し照れくさそうに頬を赤く染めている。
他人が見れば仲の良い二人に見えるが、この二人は最初からこんな関係ではなかった。
奏日ヒメキはよく嫌われる。この夕代愛美も例外ではなかった。
最初は無関心にプリントを受け取った、次に会ったときは明らかな敵意を向けていた。
それでも、奏日ヒメキはプリントを彼女に渡しに病院まで来た。
普通なら、他の誰かが代わりに持って行くだろう。確かに三度目からはヒメキ以外の違う生徒がプリントを持って行った。その他の生徒たちはヒメキのように敵意を向けられてはいない。
しかし、彼女にプリントを持って行く生徒は巡り変わって、またヒメキが持って行くことになった。
なぜ、そうなったのかは明白だった。
単純に気まずかったのだ。
夕代愛美の病気は深刻なものである。詳しい病名はヒメキ自身も知らないが、小さい頃から何度も入退院を繰り返しているらしい。彼女に仲の良い友人いたなら、それでもプリントの受け渡し、関係なく、可能な限り毎日病室に通う事もするだろう。
だが、彼ら彼女らは取分け夕代愛美と仲がよい訳ではなかった。そもそも入院続きであり、僅かな学校生活に置いても元々彼女自身が内気だったため、現在、彼女が在籍している私立光園高校に友人と呼べる人間はいない。
そして、そこまで仲の良くない重症の人間を会うのは、それなりに心労する。いつのまにか彼女にプリントを届ける役目を担う人間は変わり変わりになっていた。
それは彼女自身も理解しており、来なくなった人間を責めることはなかった。
奏日ヒメキが再び訪れるまでは……。
仕方ないとはいえ、彼女はヒメキと過ごすことを時間が短くとも強いられることになった。
愛美にとって最初は苦痛でしかなかった。正直、わずわらしい気持ちでいっぱいだった。
だが、何時の頃から、愛美はヒメキという人間の本質を見るようになる。
そして変った。間違いなく昔の夕代愛美は現在のように自分と奏日ヒメキが普通に接することなど夢にも思わなかっただろう。今の彼女はヒメキと過ごす時間が心地よかった。
「それで、今日はいつまでいてくれるの?」
少しの期待と不安が入り混じった問いを愛美はヒメキにする。
「今日は悪いけど、これから約束があってな。もう帰る」
「そう、なんだ・・・・・・、えっと、星明さんと?」
愛美は寂しそうに顔を少し曇らされて、改めてヒメキに問いかけた。
愛美と黎は一度だけ面識がある。そして、彼女が知る限り、奏日ヒメキと約束を交わしそうな人間は彼女しか思いつかなかった。
「ああ、そうだ。・・・・・悪いな」
「えっ・・・・・・・・・・なんで謝るの?」
突然。謝られて愛美は困惑する。
「いや、なんでかしらないけど機嫌が悪そうな顔になったから・・・・・・」
ヒメキに指摘されて、愛美は顔を一気に赤くなった。
「き、気のせいだよ! 全然、寂しいとかそんなことはなくもないんだけど、奏日君が謝ることなんてなにもないよ!」
と、言いつつも愛美はヒメキが直ぐに帰ってしまうことを拗ねたのは事実で、彼女もそれを重々承知していた。
仲良くなった友達が別の友達と逢うのが嫌なんてまだまだ私も子供だと、愛美は心の中で反省する。
「そうなのか?」
「うん、そうだよ」
「あ、ああ、わかった」
ヒメキは様子のおかしい愛美に怪訝していたが、彼女自身が気のせいだといったのでとりあえず納得した。その様子を見て、ほっと愛美は胸を撫で下ろす。
「けど、話は戻るが少しだけなら話をする時間ぐらいあるぞ」
「ほんと?」
聞き返してきた愛美にヒメキが頷くと愛美が微かに笑ったように見えた。
そこからは取り留めない話をした。今日来た留学生のことや、最近どんな本を読んでいるか他愛ない日常の会話だった。
他の人間にとってはとるにたらなくても、入院生活の愛美にとってはそれは何よりも楽しい時間であり、また嫌われ者のヒメキにとっても貴重な時間でもあった。
しかし、その時間は予期せず終わる。会話の途中、急に愛美が胸元を苦しそうに抑えた。
「ゲホッ! ゴホッ!」
「だ、大丈夫かっ!?」
突然の発作にヒメキは動揺した。
今度は間違いなく勘違いではない。慌ててヒメキは愛美に駆け寄るが、彼女の手がそれを制した。
「へ、平気だよ」
安心させるように愛美は辛い顔で無理やり笑みを作った。それが更にヒメキの胸を締め付けた。
「いや、気のせいじゃないってっ! 明らかに辛そうじゃないかっ!」
「だ、駄目だよ、病院でそんな大きな声をあげちゃ・・・・・・」
「ごめん・・・・・・、けど――」
「ちょっと噎せただけ・・・・・・、念の為に看護婦さんも呼ぶから、大丈夫」
少し汗をかきながら、愛美は笑った。
「私の事はいいから・・・・・・ほら、早くいかないと星明さんに怒られちゃうよ?」
「……」
ヒメキは彼女が無理をしているのがわかった。
だが、ヒメキは彼女の辛さを和らげることはできない。医療の知識があるわけでもない。ただの高校生だ。なにより、ここは病院だ。専門家などいくらでもいる。
そして、無理して彼女の傍にいようとしたら、今は逆に彼女に負担になることも理解できた。
だから、ヒメキにできることは一つだけ・・・・・・。
「うん、わかった。じゃあ、また来る」
たったそれだけの約束の言葉。だが、それだけで愛美は十分だった。
「うん、待ってる」
◆
ヒメキが病院の出入り口まで行くと、そこに黎が立っていた。
「ヒメキ・・・・・・」
ヒメキが驚いて声を上げる前に、黎のほうからヒメキの傍までやってきた。
「夕代さん、具合良くなかったの?」
「え?」
「ヒメキが、暗い顔をしていたから・・・・・・」
黎はヒメキを心配そうな顔で見た後、ほんの僅かの間、視線を外した。まるで眼の前にいる人間ではない誰を思うような素ぶりだった。
それを見て、微かにヒメキは微笑む。
黎は自分と、そして夕代愛美のことを案じていた。
ヒメキは彼女が他人を嫌っていることは知っている。もっとも、ところ構わず嫌っているわけでもない。そして、一度しか会ってないが、黎は愛美のことを嫌いではなかった。
それは稀にだが、黎のほうからヒメキに愛美のことを気にする素振りをする。黎は嫌いな人間の話題を自分からはほとんどしない。
何より元々、彼女は優しい。それゆえに、好かれるべくして好かれている。彼女はそれが嫌なようだが、ヒメキはそれを羨み、憧れ、そして申し訳ない。
自分がもっと普通であれば、彼女も他人をそこまで嫌うことはなかっただろう。それは長年考えてきたことで、今だ解決しない悩みだった。
「今日の約束、また今度にでもしようか・・・・・・」
気遣うように黎がそう言うと、ヒメキは首を横に振った。
確かに、友人の具合が悪くなった後に、自分たちだけでのうのうと遊びに行くのは不謹慎だろうし、そんな気分になれないかもしれない。
だが、ここで約束どおり行かなければ、逆に愛美に申し訳ない。
もしも、逆の立場で、自分のせいで遊びに行かなくなった友人がいたら、それは嫌だと思う。
勿論、時と場合は存在するが、今回は、そうするとヒメキは決めた。
「いいの?」
「だって、約束しただろ?」
おそらく、黎はヒメキがメールを見た後、わざわざ病院までやってきて待っていたのだろう。
そんな黎の思いもヒメキは大切にしたかった。
「うん、わかったわ」
黎が様々な感情が入り混じった笑みをした後で、二人は病院を後にした。