3
「ひめぇええええきいいぃいいい!!」
「うおっ!?」
昼休み、ヒメキは人気がまったくいない校舎裏で、壁に背を預けながら、黙々と惣菜パンを食べていた。普段は人目を避けるためここで食べているのだが、そこに笑顔の黎が怒声を上げながら現れた。
「れ、黎? な、なんで怒ってるんだ?」
誰から見ても愛らしく見える笑顔だった。
それだけを見ればヒメキも可愛いものだと感じた。だが、ヒメキは長年の付き合いから導き出された経験によって、只ならぬ雰囲気だと感じ、黎が怒っているのだと解った。
なにより、最初の一声が不気味である。それを完璧な笑顔で言うのだから、なにかあるかはヒメキでなくとも察せれるだろう。
「うん、私が怒っていると思うのね。おかしいなぁ、私、笑顔なのになぁ!」
そんなヒメキの内情など構わず、黎はニコニコと笑顔を崩さないままヒメキに迫り寄る。
「その笑顔が逆に不気味なんだよ」
「不気味なんて酷いわねぇ?」
「うっ! い、いや、そんな可愛い笑顔なのに、声が明らかに怒っていったら変だろ?」
「かっ――!?」
一瞬、顔を赤らめて顔を崩すと、調子を取り戻すように咳払いを一度して、再び笑顔になる。
「ヒメキ、私たちは大事な幼馴染よね? 仲がいいわよね? そんな仲がいい幼馴染に隠し事なんてしないわよね!?」
「と、とにかく、そんないい笑顔でそんなことを言われると余計に怖いから、怒るなら普通に怒ってくれ、頼む」
「へんなこと言って、話をずらさないでよ!」
「? へんなこと?」
「と、とにかく正直に話してくれたらいいのよ」
一応、ヒメキの言葉を聞き入れたようで、落ち着くように詰め寄った体を下がらせながら、表情を変える。
その顔は怒っているような顔というよりも、少し拗ねたような顔だった。
「もしかして、朝、勝手に先に行ったことを怒ってるのか?」
「それはちょっと前まで思っていたことだけど、いま私が聞きたいのはそのことじゃないわよ」
「はぁ? なんだ?」
「そ、その、今日、転校初日の女と道端でぶつかったのは本当っ!?」
それを聞いたヒメキは呆然と首をかしげるしかなかった。
「は?」
「あ、あまつさえ、ぶつかった時に、胸が顔に当たったり、下着を見ちゃったり、銜えていたパンを落したのは本当っ?」
「なんだ、その下手なラブコメの展開みたいな出来事……」
「ひ、ヒメキも男の子だから、大きい胸の子のほうが、いいの!?」
「いやいやいやちょっと待て。というか、あきらかに最初のほうと論点がずれてるだろ?」
そんなヒメキの言葉を無視して、黎はチラリと残念そうな顔で、自分の胸を見下ろす。
彼女自身、形のいい胸ではけして小さいわけでもないのが、巨乳というわけでもない。ほとんどない人のにとっては過ぎた悩みだと思うだろうが、常に向上を目指すものにとっては不服なのであった。
「結局、なにが聞きたいんだ?」
「その、小耳に挟んだ程度で、詳しくは知らないけど、ヒメキがそんなことをしたって聞いたから……。その、本当ならちゃんと女の子のほうに謝って、金輪際関わらないよう誓約書を書かないといけないわけだし、その子がヒメキに気を持っていたら抹さ―然るべき対処が必要なのよ」
「変なことを言ったような気もするけど、俺はそんな状況に陥ったことは今までない」
「ほ、ほんとう?」
「黎に嘘はつきたくない。つうか、朝は学校まで一緒に来たんだから、俺がそんなことになってないのは知ってるだろ?」
そう聞くと、黎、安心したような笑みになった。
「そ、そうよね・・・・・・よかった。ヒメキが恋愛帝国主義者の売国奴になったのかと思って心配したわよ」
「悪い、なんの心配していたんだ?」
「なら、外国から転校してきた胸の大きい綺麗な女の子が、ヒメキの隣の席になったのも根の葉もない噂な訳ね」
「あっ、そこは本当のことだ」
ヒメキが答えると一瞬の沈黙が生じた。
「……、ヒメキ、なんて言った?」
「いや、いま、黎が言ったのは本当にあったことなんだ」
更に、一瞬、沈黙。
「いつから、ヒメキはどんどん女の子と関係を持つような子になったのよぉおおお?」
「黎こそ、なに言ってるんだぁあぁぁぁぁああああああああ?」
襟首を掴まれ、ブンブンと頭を揺らされながら叫ぶヒメキの言葉は、いまの黎には届かない。
「確かに、ヒメキは顔だっていいし、性格だって優しくて、普段大人しいというか冷めてる感じはするけど実はかなり思いやれる人で、肝心なときは頼りになって、それぽい部分は沢山沢山あるけど、いきなり、そんな展開になるのはあんまりよぉ!
近頃は病院のあの子とも仲いいし、幼馴染がメインなんて、最近は多くないんだからね!」
「と、とりあえず、落ち着いて―」
最後の発言が一番意味が解らないが、今それこそがヒメキの願いだった。
「さっき言ったのも嘘なのね!? やっぱり、道端でぶつかってセクハラしたわね!?」
「嘘じゃない!? セクハラなんてしてない!」
「胸に顔埋めて、そのまま離れず三十分以上も揉みしだいたとかしたの!?」
「あんな胸に三十分も顔を埋めてたら窒息死するわ!」
「どんだけデカイのよ! このスケベ! 変態! 強姦魔!」
「だから違うって! 言われもない誤解だ!」
「じゃあ、なんで、ヒメキとその女の子の間で変な噂がたつのよ!」
「そんなの俺が知りたいっ!」
そこまで聞くと、ようやく黎の動きがピタリと止まった。
「本当にいきなり叫び声を上げられる覚えがないわけ?」
「う、うん。もちろん」
すこし、黙り、スッと襟首から両手を離した。
「ごめん、取り乱したりして……」
「いいよ、黎なりに俺を心配してくれたんだよな? ありがとう」
そう言われた黎は少し不満そうな顔になる。
「……、なんで、ヒメキがお礼を言うのよ。今は怒るところでしょ?」
「俺が感謝しているのに、怒るなんてできない。だから、ありがとう、なんだ」
「ヒメキ……」
泣きそうな嬉しそうな、いろんな感情が詰まった彼女の顔を見て、ヒメキは胸が少し温かくなった。
いつもは生徒会の仕事しっかりとこなしたり、周りに頼られるたりして大人びている印象も持つ彼女だが、こうやって見ている側がわかりやすいほど怒ったり、落ち込んだりする、ある種の純粋な様は昔から変わっていない。
これが本来の黎であった。
自分と接してくれる数限りある人間が、こんな子で本当に良かったとヒメキは思っている。
「でも、じゃあ、その留学生の存在は事実として、その子とヒメキの間で妙な噂がたつのよ」
「それが、俺もよく解らんし、そもそも噂自体初めて聞いた。
まぁ、あるいは俺って嫌われ者だから、その隣に珍しくて綺麗な女の子が座ったっていうのが気にらない奴が、変な冗談でも話して、それが尾ひれをついてなんとやら、じゃねぇの?」
推測としては馬鹿げたものだが、ありえなくもない話ではない。
それにこの程度の陰口には生憎と言われ慣れてしまっている部分もあり、今回の場合は荒唐無稽なことでしかないので、すぐに鎮静かするだろう。その鎮静化の前に偶々、黎の耳に入って来ただけだ。
ヒメキそれで片づけようとしたのだが、生憎と彼の目の前にいる幼馴染様はそうもいかなかった。
「いい度胸」
「黎?」
「くだらない噂に踊らされた報い、相応に払って貰おうじゃない。とりあえず、悪意で流した生徒には制裁をしないといけないわね」
「いや、そんな必要ないだろ? 事実無根の話なのだから、そこまでいきり立たなくても――」
「甘い。小さな火がそのまま消える可能性はあれど、逆にそのまま大きくなる可能性もあるのよ。ならば消火作業と発破人には指導しないといけないわ」
まるで小さな子供に言い聞かすように、黎はヒメキに指をつきつけてさらに言う。
「これは個人的な感情以外にも生徒会としても指導でもあるわ。だから、ヒメキがなにかしら思う必要はない。これは私がしたくてするのと同時に義務でもあるのだからね。
第一、ヒメキ以外にもその留学生だってその噂では不快な思いをするでしょう。これを境にヒメキにまた言われない嫌悪感を抱かれないためにも行動は必要よ。好かれろとはいかなくても、せめてその他一般生徒同様に普通な関係を築いてほしいわ」
「それに関してはすでに手遅れかもしれないがな」
思うわず口走ってたヒメキの言葉にまたも黎の態度がいぶかしむように変わる。
「どういうこと?」
少々失言だったかもしれないと思いながらも、ヒメキは留学生――ウィヌス・リュミエールのことを改めて思い出す・
「いや、もうなんだか知らんがその留学生には既に嫌われってるぽいんだよな。もう、なんていうか今にも殺しに来そうな感じ?」
「殺しに――」
「というのはオーバーかもしれないかもしれないけど、まぁ、どうやら留学生は俺のことは既にお気に召さないのは事実ぽいな」
「…………、たしか留学生はフランスからだったわね。一度会ってみる必要があるかも」
ほんの一瞬、黎の周りの空気が変った。
「は? なんでだ?」
わざわざ黎がその留学生に会う必要性を感じなかったヒメキは首をかしげたが、当の彼女は当然のことでも話すように理由を話す。
「別に大した理由でもないわよ。噂の件や、個人的な興味など小さな理由が諸々。大儀名分としては副会長が学園にきた留学生がなにかしらの不自由がないか訊ねるために訪問するでもいいでしょう。ヒメキが気にするような事でもない」
まるで断言するように言った黎にそのことに関してそれ以上ヒメキは口を挟まないことにした。
「まぁ、会うのは明日でもいいかしら」
「明日? 今日はなにかあるのか?」
ヒメキが知る限り、星明黎という少女は大抵の事は有言即実行するタイプだ。なにも準備もなく、猪突猛進に動くわけでもないのだが、何も問題がなければ即座に行動するのが彼女の行動パターンである。
尋ねるくらいなら、そろそろ終わってしまう昼休みは除いてでも、今日の放課後、もしくは授業の短い休み時間にでもやってしまいそうなのにと、ヒメキは考えていた。
「あるわよ。今日は少ない時間も惜しいくらい、少し忙しくなったから無理なのよ」
「ああ、そうなのか」
時間も惜しいくらいなのに、少しという言葉のニュアンスは微妙だったが、それを聞いてヒメキは納得―
「放課後はヒメキとデートするんだからね」
―しなかった。
「はっ?」
「だから、今日する予定だった生徒会の仕事は休み時間の合間にしないといけないといけないわけよ。授業が終わったら、すぐに街に行くから、聞く暇なんてないわ」
「ちょっと、待って! なんで、俺と黎がデートするんだ!?」
慌てふためくヒメキに対して、黎のほうはなんでそんな事を聞くのかわけのわからなさそうな顔をしていた。
「まさか、朝の件、さっき自分でも言っていたし、忘れてないわよね」
「あ、朝? そんな約束したか?」
当然、ヒメキ自身、そのような約束を言った覚えも、交わした覚えもなかった。
「もう、ヒメキ、朝、私を置いていったわよね?」
「あ、ああ・・・・・・」
それは確かにしたことだった。
「ヒメキのことだから、それは悪いことだと思ってるよね」
「も、もちろん・・・・・・」
確かに、自分からしたことなので悪いとヒメキ自身も思う。
だが、それとデートがなぜ関係あるのだろうか?
「だったら、私になにかお詫びにしてくれるわよね」
それを聞いて、ヒメキはようやく納得した。
「ああ、つまり、俺が今朝のお詫びに黎に奢ればいいんだな?」
「まぁ、詳しく説明するならそういう理由ね」
「なんだ、デートなって言ったから、びっくりしたぞ」
「……」
「うん? どうした?」
「ヒメキは、私とデートしたくないの?」
「黎と街に出かけるんだよね? 全然嫌でもないぞ。今朝のお詫びにちゃんと俺のお金で奢らせてもらう」
「……馬鹿」
「え? なんか俺、間違ったこと言った?」
「それが解らないから、馬鹿なのよ」
少し頬を膨らませて、諦めたように溜息をつくと黎はそのまま立ち去ろうとした。
「れ、黎?」
「予鈴―」
キーン コーン カーン コーン と、そこで、授業開始五分前を知らせる予鈴がなり響いた。
「―鳴ったから、早く自分たちの教室に戻るわよ」
「待てよ。なにか怒ってる? 今日街に行くのはなし?」
「なんでそうなるのよ、いくわよ。とにかく、ヒメキは馬鹿でアホでわからず屋で間抜けで超鈍感なの。それだけ」
「わ、訳が解らない・・・・・・」
ズカズカ と先を進む黎をヒメキは少し泣きそうな顔で追った。
説明するまでもないが、奏日ヒメキという少年は例によって例の如く、超鈍感である。