スノリの誕生
第1-5部は導入部となってます。
ムム暦556年6月17日、ムムール帝国北部の炭鉱都市アッカリアの朝はいつものように深い霧が立ち込めていた。大通りを行き交う人々も衝突を避けるためにゆっくりとした歩調を取る。しかしその日は1人だけ大通りを猪のように真っ直ぐと走り抜けようとする大男がいた。
「うぉ!危ねぇだろ!」
その大男に肩をぶつけられた商人が大声で叫ぶと、
「そりゃすんまへん!」
すでに霧の中へと姿を消した大男の謝罪が早口で返ってくる。
(あかん、間に合えへん)
この大男…ダレレには夜から朝まで炭鉱に潜って疲れ切っているのにもかかわらず、ひたすらに急がなければならない事情があった。
「すんまへん!道の真ん中開けてくれ!」
「うわっ」
「すんまへん!」
「きゃっ」
「すんまへん!」
「おい!」
「すんまへん!」
「ちょっ」
「すんまへん!」
ダレレは何人もの通行人にぶつかりながら、1本の細い道に入り込む。するとそこには弟のデレレが立ち塞がるようにして待っていた。
「兄貴、何しとんのや!早よ行くで!」
デレレは荒く呼吸するダレレに対して少しばかり苛立ちを見せると、ダレレを置いて細い道を走り出す。
「おまっ…デレレ!待ちぃや!」
ダレレは悲鳴をあげる足を無視して力一杯走り、霧に消えた弟の背中を追いかける。
「兄貴が帰ってきたぞ!今どないなってん!」
「まだや!ダレレ急がんかい!」
「ダレレ飛ばせ!」
「ノロマかおどれ!」
「こんの木偶ぅ!」
霧の中、四方からダレレに向かって罵詈雑言のような声援が飛び交う。
「堪忍や!ボスが解放してくれへんかったんよ!」
ダレレも言い訳を口にするが、その顔は少しずつ緩んでいく。
「義姉さん!兄貴が帰ってきたぞ!頑張れ!」
遠くからデレレの声が聞こえてきて、ダレレは目的地までもう一踏ん張りと足に力を入れた。ちょうどその時だった。
ーーフフフッ、アハハハーー
(なんや?笑い声?)
ダレレの耳に罵詈雑言とは違う…そもそも人の声かも疑わしい綺麗な笑い声が流れ込んだ。それと同時に自分の後ろから小さな光の粒が1つ、ものすごい速さで追い抜いて行った。
(…なんなんや?今のは…)
追い抜かれると、その笑い声も聞こえなくなっており、ダレレは目的地に辿り着く。
そこは強風が吹けば潰れてしまいそうな掘っ建て小屋で、その周辺にはダレレの親戚から知人、近所の住人までもが集まっていて、誰も彼もが掘っ建て小屋の方を向いていた。
ダレレはその人だかりをかき分け、掘っ建て小屋の扉の前に立っていたデレレの肩を掴む。
「デレレ、変な光の粒…見んかったか?」
「何を言うてん?早よコッコさんとこ行きや!」
デレレはダレレの掴んだ手を振り払い、ダレレを扉の前に突き出す。すると、
「コッコさん!産まれはったわ!」
掘っ建て小屋の中から女性の叫び声が響き渡る。そして、それに続けとばかりに大きな産声が掘っ建て小屋の前に集まった人々の元まで聞こえてきた。
「お…おい…」
「聞こえた…聞こえたぞ!」
「産まれたんや!」
「「うぉぉおおおおおお!」」
大歓声に包まれた掘っ建て小屋の扉が開き、中で叫んだ声の主である女性が姿を見せると、目の前に立っていたダレレを見上げ、満面の笑みを見せた。
「ダレレさん、男の子や。元気な男の子や!」
女性は笑顔をくしゃくしゃにして泣き始める。ダレレはそれをただ呆然と見ていた。
「兄貴!」
デレレが再びダレレの背中を押す。
「早よ行き!…ほんま、おめでとうや」
ダレレはおぼつかない足取りで産声が聞こえた方へと歩き出す。
「コ…コッコ?」
掘っ建て小屋の中央に敷かれた布団の上にはダレレの妻コッコが1人の赤子を抱いて横になっていた。
「ダレレ…おかえりなさい。すっごい汗やね」
「…お互い様やろ」
ダレレはコッコの横で膝をつき、目も開かぬ赤子を見て…そこでようやく笑い始める。
「ようやった。ようやったでコッコ!ほんまにようやった!」
「私を…誰やと思っとんの」
コッコは横になりながら、ダレレの額を人差し指で突く。
「天下のコッコ様や。わしの嫁は天下一じゃ」
「ふふん…よせやい」
ダレレもまた嬉しさのあまり涙を流す。
「そや、名前は…」
「そんなん男の子やったらって決めてたやん」
「ああそうやった。そうやった」
ダレレはコッコから赤子を受け取り、天井に向かって高らかに持ち上げる。
「お前はこれからスノリや!」
こうして産まれたのがスノリ・ブラウン。この時からすでに彼は神々の気まぐれに巻き込まれていたが、当然そのことを知っている者は誰1人としていない。ただ、ダレレだけは予感していた。
(あの光はスノリが生まれるとわしに知らせてくれたのかもしれへん。きっと、この子にはなんぞあるんかもなぁ)
この後、ダレレはコッコ達にそのことを話したが、信じる者が現れることはなかった。