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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
三度目と、それからは。
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1

「―――――私の子は、どこなの?」


夢を見ているようなぼんやりとした声音が陽だまりの中で霧散した。


「イリア?どうした?」


ソレイルの険を帯びた双眸が私を捕らえる。

約束の時間よりだいぶ遅れて現れたシルビアは、今まさに用意された席に落ち着くところだった。

戸惑うようにして「お姉さま?」と首を傾いでいる。

その姿を目の端に留めながら、1つ瞬きをすれば、ソレイルとシルビアが見つめ合いながら言葉を交わす光景が蘇る。

二人がそうやって目線を交わす横で、これは何かの間違いだと泣き出しそうになっている自分がいたのを思い出す。

ソレイルがその瞳にシルビアを映して、優しく微笑んだのを、私はただ眺めていた。


―――――これは何?一体何だって言うの?


瞼の裏に浮かぶそれを振りきるように手に持っていたカップを無造作にソーサーの上に戻した。

陶器のぶつかる大きな音が響いて、溢れた紅茶がテーブルクロスに広がっていく。

自分の手だというのに思う通りに動かすことができない。

大きく震えたその指が宙をかいた。

淑女としてはあるまじき行為だ。

だけど、そんなことは気にもならなかった。


「私の子はどこ、誰が、連れて行ったの」


自分の声がどこか遠くから聞こえる。

目の前に広がるのは、ソレイルとシルビアが出会ったあの茶会だ。

いや、違う。あれはもう既に終わったことだ。

私は子供を生んだ。

ソレイルとの子供を。

男の子だったのだろうか、それとも女の子?どっちだったのだろう。

だけど、確かに生んだ。

死ぬほどの痛みと苦しみに耐え抜いて、私は、私とソレイルの子供を授かった。


「何を言っているんだイリア」


ソレイルが、立ち上がった私の腕を掴む。

嫌よ、痛い、離して。

今更何の用があるというの。私を独りきりにして。私に独りで子供を生ませて。


支離滅裂の言葉を吐きながら、ソレイルの手を振り払いテーブルクロスを引き上げ、名も知らない自分の子供を捜す。

侍女が連れて行ったのだろうか。乳母はつけないとあれほど言ったのに、私の意見はついぞ受け入れられなかったのか。それとも義父母が先に手を回して取り上げてしまったのか。


私はまだあの子を抱いていない。

あの子の顔さえ見ていない。


「返して、私の子を返して―――――!!」


私の叫び声に、シルビアが戸惑いながら「お姉さま」と呼ぶ。

いつもの甘ったるい声で私を呼びながら、私の体に縋りつくようにして「どうなさったの」と聞いてくる。

だけど、そのあまりに華奢な腕では暴れるようにして身をよじる私を制することはできない。


「離して!触らないで!」


それでも、振り上げた腕がシルビアの顔に当たりそうになったとき、本能は妹を傷つけまいと作用する。

不自然に動きを止めた自分に戸惑いながらも、唇は勝手に言葉を紡いだ。


「それとも貴女なの、貴女が私の子を奪ったの」

「何を、言っているの―――――?」

「ソレイル様を奪っておきながら、私の子まで奪うのね……!」


返して、返して、返して!私から奪ったものを全て返してよ!

叫びながらシルビアの細い腕を掴む。

痛みにゆがんだ妹のその顔に思わず指の力を緩めると、今度は私のその腕をソレイルがひねり上げた。

悲鳴を上げたのはシルビアか、それとも私自身か。


「やめるんだイリア!」


君はまだ結婚もしていないし、子供も産んでいない。誰も、君から何も奪ったりしていない。

私の顔を覗き込みながら諭すように言うソレイルの言葉が耳を素通りしていく。

かち合った視線のその感情の灯らないはずのその瞳に、いつか侮蔑の色が浮かぶのを私はよく知っていた。

この怜悧な眼差しが憎しみに染まった瞬間を確かに、見た。


「私の子を返して!私の子を、あの子は私の子よ!」


形振なりふり構わず叫びながら頭のどこかでもう一人の私がひっそりと呟く。


イリアは死んだ。そして、もう一度始まった。


「―――――違う!違う違う違う!!」

「……イリア!」


強く掴まれた腕がぎしりと音をたてる。容赦のないその仕草に覚えがあった。

喚く口を押さえようと、ソレイルの大きな手が私の首を掴む。

絞められることこそなかったけれど、その乱暴な動作は私の勢いを殺すのには十分な働きをした。


「……嫌、嫌、もう嫌なの、嫌なの、誰か、誰か」


助けて、という言葉は声にならない。

いつかの日と同じように、嗚咽が言葉という言葉を飲み込んでいく。

いつだってそうだった。私は全身で叫んでいた。助けて、誰か助けて。私をここから救い出して。

だけど、その声は誰にも届かなかった。


―――――そうだ、そうなのだ。


だから私は死んだのだ。

私の言葉は誰にも届かなかった。

私の想いはことごとく握りつぶされた。

子供も抱けずに、名前さえ与えることもできずに、愛する人に見限られ、独りきりで、たった独りで死んだのだ―――――


ひくり、と息を飲んだ自分の声が、いつの間にか静寂を取り戻していた茶会の席に響く。

ソレイルは私を掴んだまま、急に動きを止めた私を観察するように見つめている。


「……ここは、一体、私は、一体、」


終わったはずだ。私は全てを終えたはずだ。

なのに、どうして。


またここに立っているのか。


空の色を覚えている。芝生の感触も、咲き誇る薔薇も、テーブルクロスの柄も、お茶も、用意したお菓子も。隣に並ぶソレイルの隙の無い立ち姿も、遅れて現れる妹の可憐な姿も。

この目と記憶に焼きついている。

「あの茶会」だ。始まりの場所。そして、私の終わりを予感させる場所。


「なぜ、なぜ、」


その記憶と寸分変わりない風景に、これはもしかしたら夢なのかもしれないと、微かな期待が過ぎる。

死の間際に見る、夢なのかもしれないと。

だけど、どくどくと脈打つ心臓が、確かにここに生きているという事実を突きつけてくる。

それを認識した瞬間に、急激に体温が下がった。

唇が色を失っているだろうことが自分でも分かる。


「……イリア?」


戸惑うように私を呼ぶソレイルの声。

私の名を呼ぶ彼の声が心底愛しいと思ったのは、いつのことだったか。


「……お姉さま?」


私を見上げる妹の紫瞳を真っ直ぐに見られなくなったのは、いつのことだったか。

記憶と思考が意識を奪おうとしている。


ぐらりと大きく体が傾いた。


その隙に、いつからそこにいたのか音もなく現れた護衛が、失礼しますと私の体を抱き上げる。

一番近くに居たソレイルは私の体を支えることさえなく、あっさりとその手を離した。

護衛は常と変わらない声音で冷静さを欠くこともなく、お嬢様は具合が優れないようですので、と退席の断りを入れている。

その声を、まるで海の底にでももぐったような感覚で遠くから聞いていた。


ソレイルもシルビアも退席する私をただ眺めているだけだ。


ぼんやりと霞んだ視界で、それでも「私の子を返して」とうわ言のように繰り返す。

止めなきゃと思うのに、唇が勝手に言葉を紡ぐ。

背中を支える護衛の手が何度も宥めるように優しく上下した。

これはきっと現実だ。現実なのだ。

だけど認めることができない。


離れていく茶会の席で、呆然としながらも動揺するシルビアを慰めるソレイルの姿に視界を塞ぐことができない。

ただ一つ瞬きをするだけで良いのに、瞼を下ろすだけで良いのにそれができない。

寄り添う二人。重なる影。何度も何度もその姿を見せ付けられて、その度に私の目はそれを焼き付けていく。


「……アル、貴方今までどこにいたの、」


目を見開いたまま呟けば、惑う様子もなく返ってくる声。


「…ずっとお傍におりましたよ」

「いいえ、いなかった。私、貴方のこと呼んだのよ」

「お嬢様がお呼びになれば世界の果てからでも駆けつけます」

「いいえ、来なかった。来なかったわ。私、寂しかった、独りで産んだの、独りで産んだのよ」

「…お嬢様、」

「誰もいなかったわ。私の傍には、誰も、いなかった」

「……お嬢様、私はいつだってお嬢様のお傍におります」

「いいえ、いいえ、」


護衛騎士が私の言葉に合わせて返事をしているのが分かる。

要領を得ないはずの言葉に、異を唱えることなく無視することなく律儀に返事をしてくれる。

私の頭はきちんとそれを理解できた。だけど、唇は勝手に思考とは違う言葉を紡ぎだす。

心と肉体が完全に分離してしまったような感覚。

ああ、私はもう狂ってしまったのだと、頭のどこか冴えた部分が結論を出す。


「だけど駄目だわ、アル。貴方は私の傍にいてはいけないの」

「……なぜですか?」

「だって、だって、」


私の傍にいたら貴方は死んでしまうのよ、そう口にしようとして、過去の自分がそれを制す。

もう既に失ってしまったはずの人生の、私が。

それは口にしてはいけないことなのだと警告してくる。

自分が死ぬかもしれないなんてそんな不穏なことを耳にすれば、この生真面目で優しい護衛騎士はきっと思い悩むに違いない。

そして、私から離れるどころか、より一層傍にいようと努めるだろう。

自分が危険であるなら、その主人である私はもっと危険なのかもしれない。そんな風に考える男だ。

誰かを守る為の剣を、何より誇りに思う男だ。

だからこそ、初めの人生で否応なしに主である私の人生に巻き込まれた。


「……お嬢様?」

「また、始まったのね。私はまた―――――」


また、性懲りも無くあの人に恋をしている。


屋敷に向かう護衛の足は速まるばかりなのに、開けた庭には茶会の席を塞ぐような障害物がない。

遠く離れていくのに、ソレイルの手が妹に触れようと宙を彷徨うのがはっきりと見えた。

見慣れてしまったはずの場面なのに、私は何度でも傷つく。


「……お嬢様は、きっとお疲れなのです。部屋でお休みになれば、大丈夫ですよ」


アルの声が遠くなる。

「そうね」と「貴方が言うならきっと私は大丈夫ね」と、他人事のように返事をしながら大丈夫な瞬間なんてきっと来ないだろうことを知っている。

三度目なんだから今度はうまくやれるかもなんて、そんな自信はどうしたって沸いて来ない。

前の人生も、その前の人生も、私を打ちのめすには十分すぎるほどだった。


「だけど、もしも、もしも駄目だったら―――――?」


ぽつりと呟いた声が芝生の上に転がる。


「アル」

「……」


もはや返事もしたくないのか護衛の指が私の顔に掛かった髪を優しく払う。

見上げたその顔は、はっきりと憂いを帯びていた。


「アル、アル、お願いよ」

「……何ですか」

「私がもしも、もう駄目だと言ったら」


「私の心を、潰して」


「お嬢様、」

「もう二度と何も感じないくらいに」


もう二度と、誰にも、傷つけられないほどに。


「…できません、そんなこと」


できません、絶対に。そう呟いた護衛の声が掠れている。

いつかのときに、私を連れて逃げ出すと言ったときと同じように。



*

*


そんな風に始まった私の新しい人生は、いつだって錯乱の中にあった。


茶会の席で最初の人生よりももっと酷い失態を晒した私は両親から叱責を受け、更に自室へ軟禁された。

両親から向けられる失望の混じったその冷たい眼差しに既視感を覚えながら、自室に篭った私は只只管に記憶を整理することに時間を費やした。

これは現実なんだと言い聞かせながら、どこか夢でも見ているような気分で1度目と2度目の人生を振り返り、成すべきことを頭に叩き込んでいく。


そして、1週間もすればすっかり元の通りになっていた。


いや、元の自分を演じることに成功したというべきか。

表では普段通りのイリアを演じ、ソレイルの婚約者として務めシルビアの姉として振舞った。


「お茶会を台無しにしてごめんなさい。仕切りなおさせてくれると嬉しいわ」


意識せずとも、そんな言葉がいともあっさりと唇から零れた。

それは多分、それまでの人生で培ってきた経験によるものだったと思うけれど、私は実にうまくやっていた。


―――――表では。


それは例えば、夜一人きりになったときだとか周囲からの視線が自分から外れたときなどに、唐突にやってきた。


『君が、シルビアを殺したのか』


かつての人生が頭の中で鮮明に蘇り、交錯する。

明かりの消えた暗闇に居ては、あの狭い牢獄を思い出しぶるぶると体を震わせながら身を竦ませた。

遠くに響く金属音は別の虜囚がたてた狂乱の声。

ここから出せと喚きながら鉄格子を揺さぶる音だ。

ふと見れば、肘から先が、無い。

叫び声を上げようとして声が出ないことに気づく。

情けなくも「ひぃっ」と飲み込んだ音さえも闇に消えた。


そうかと思えば、どこかから赤ん坊の泣き声が響く。


怒鳴り声でも叫び声でも怒号でも罵声でも何でもない赤ん坊の泣き声は耳について離れない。

あれは多分、私の失った子供の声に違いない。

あの子はきっと元気に成長しただろう。

だけど、私が死んだ瞬間、あの子は永遠に失われた。

何度この人生を繰り返すことになろうとも、私はあの日確かに産み落とした我が子とは永遠に会うことは叶わない。


愛しい愛しい私の子。

だけど私はその顔さえ覚えていない。

どうしようもなくその存在が愛しく尊く懐かしくとも、私はあの子の手を握ることさえ叶わない。


だけど時々、夢か幻か、私は自分の子供を腕に抱いた。

或いはただ抱き真似をしていただけかもしれない。


壊れている。どこかではっきりと理解した。

だけど、どこも壊れていない。壊れているということを理解できるくらいには正気だった。


「そうだね、君は正気だよ。僕に比べられば、とんでもなく正気さ」


―――――そして、そんな風に夢と現実を行き来する私の元に、ソレはやってきた。

自室の窓から侵入したそれは最初、鳥の形を模していた。

黒い羽の、早朝に見かける小鳥よりも随分大きな図体の。

目を凝らしていなければ闇に溶けそうなその存在。

最初はただ暗い天上を音もなく飛び回るだけだった。

意図があるかどうかさえ分からない。ただ、いつの間にか自室へ侵入し闇雲に飛び回る。


それがやがて地面を歩き、ある日突然、人間みたいに喋りだした。


「君の名前は?捕らわれのお姫様」


少年のような声が私に話しかけてくる。


「僕の名前を知っている?」

「僕はカラス」


小さな頭が斜めに傾いで、その黄色い目が私を見つめる。




「凶兆を知らせる鳥だよ」













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