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愛する人を失う恐怖というのは、私にだって分かる。
他の誰より、何よりも私自身がソレイルを失うことを心底恐れていたから。
だからこそ私は、彼に憎まれない為の努力をしてきたのだ。
「私、何か、間違ったの?」
思わず口から滑った言葉がしんと静まり返った部屋に思いの外響いた。
「お嬢様?」
幼い頃から私の護衛騎士だった男が部屋の隅から声を掛けてくる。
私のことを奥様と呼ばず、未だに独身時代と同じように呼ぶのは彼だけだ。
彼がなぜそうするのかは分からないが何度嗜めてもそう呼ぶことを止めない。
幼い頃から共にある為に私のことを大人の女性として見れないからかもしれないが、ソレイルの妻として認められていないようで胸が詰まる。
いつもであれば、ただ笑って受け流せることも、今はどうしても無理だった。
油断すれば泣き出しそうになるから、ぎゅっと瞳を閉じて堪える。
シルビア重篤の知らせが届いてから1週間。
シルビアは何とか一命を取り留めたのだと聞いた。
しかし、まだ予断を許さない状況らしく、未だに目を離すことができないようだ。
必ず誰かが傍に付いていると聞く。
ソレイルはシルビアの元に行ったっきり、屋敷に戻って来ていない。
私はといえば、酷い悪阻で頭も上がらない状況だ。
玄関ホールで倒れてからそのままベッドに縛り付けられている。
無理をすると子供が流れてしまう可能性もあるので、しばらくは絶対安静だと医師に念を押されたのだ。
すぐにでも生家に向かわなければならないというのは分かっていたがこればかりは自分の意思ではどうにもできない。
それほどに体調が悪かった。
馬車になど乗ろうものなら私の胃はそれこそ、ひっくり返ったまま戻らなくなるだろう。
それでも、シルビアのことを優先するなら、普通の姉であるなら、私は妹のところへ向かうべきなのかもしれないと思う。
それが家族であり、姉というものだと、私の理想は語っている。
私の思い描いた理想が、そう言っている。
だけど、だけど。
日が過ぎれば過ぎるほど、どんな顔をして会いにいけば良いのか分からなくなる。
一命をとりとめたと聞けば尚更。
意識が戻ったと聞けば尚更。
その傍らにソレイルがいるだろうことを思えば尚更。
行かなければ。そう思うのに、自分のとるべき態度が分からずに足が動かなくなる。
意識のないシルビアに、いかにも優しい姉の顔をして会いに行くことは可能だっただろう。
力ないその手を握って、どうか生きていてと祈りを捧げることもできただろう。
本音は全て心の内に塞いで健気な姉を演じることができただろう。
だけど、意識を取り戻したシルビアを前にして、自分がどんな行動をとるのかが予想が付かない。
私はきっと、あの子を責めるだろう。
言葉を封じても、私は自身の目であの子に言うのだ。
なぜ、生きているのかと。
「ねぇ、ちょっとこちらへ来てくれる?」
扉の近くに立っている護衛を呼び寄せる。
少しだけ躊躇する様子を見せたけれど、やがて、ベッドから少し離れたところまで近づいてくれた。
本来なら、いくら護衛といえど寝室に二人きりなのは誉められたことではない。
けれど主人不在の今、ほとんどの人間が出払っていてそれを見咎める人間はいなかった。
「お願いがあるのだけれど」
「はい、何でしょうか」
「・・手を、握ってくれない?」
「え、いえ、あの・・それは・・」
明らかに瞠目してうろたえた護衛に苦笑する。
「そうよね、やっぱり駄目よね」
差し出した手が力なくベッドの上に落ちた。
指先が熱を失っているのが分かる。
「ねぇ、アル」
「・・はい」
「私、いつまで、頑張れば良い?」
「お嬢様、」
見上げれば、澄んだ青い目が揺れ動く。
金色の髪に優しい相貌。
私を守る唯一の盾。
1度目の人生で私が罪人として捕らわれたとき、護衛騎士であった彼は共犯とみなされた。
積み上げられた罪状は、到底女一人では実行できるものではなかったのだ。
当然だ。そもそもが冤罪であるのだから。
その不自然さや不可解さの帳尻を合わせるように、清廉潔白であるはずの彼が捕らわれた。
それを教えてくれたのは名前も知らない牢番だ。
親切で教えてくれたわけではない。
お前のせいで、一人の騎士が死ぬ。それを覚えておけと言われたのだ。
だから、今生では近づきすぎないように、だけど離れすぎないように慎重に距離を図ってきた。
私の人生に、彼を巻き込みたくなかったから。
「手を握ってくれなくても良いから、そこにいてくれる?」
「はい、もちろんです。お嬢様」
膝を付いた護衛が同じ目線で私を見つめる。
湖面のように澄んだ眼差しだ。
しんと静まり返った部屋の中で、ぶつかる視線が小さく軋むような音をたてた、気がした。
「お嬢様」
「・・なに?」
「只の戯言と聞き流して下さって構いません」
「・・嫌な言い方ね。聞き流すなって言っているのと同じよ」
私が笑うと、まるで痛ましいものでも見るかのように僅かに眉根を寄せる。
「もしもお嬢様が望むなら、私はいつだってこの手を差し出します。本当に、望むのなら」
「っ・・」
「この手はいつだって、お嬢様の為のものなのですから」
言葉はどこまでも甘く優しいのに、潰すように吐き出された言葉が、それが決して許されるはずないことを示している。
私が、ただ手を握って欲しいと言ったのとは違うニュアンス。
その言葉の、重み。
それはつまり、真実、彼は彼の手を差し出すということだ。
剣を握る、騎士の誇りを捨てるということなのだ。
今ここで彼の手をとって逃げ出すことはそう難しいことではないだろう。
だけど、逃亡者の成れの果てなど想像するまでもない。
侯爵家を敵に回して、生きていける場所などどこにもないのだから。
この身に跡取りを宿しているのなら尚更、侯爵家は血眼になって私を探し出すに違いない。
その家格から、その血筋から、国をあげての捜索になるだろうことは明白だ。
そういう人生に、この優しい人を巻き込むわけにはいかない。
騎士となる為に、努力を積んできた人だ。
それはまさしく、侯爵家の女主人となるべく育てられた私と同じだった。
ここまでの道程を、私の為だけに、捨てさせることなどできない。
「聞いて損した。本当に戯言だったわね」
「・・・」
私が言うと、護衛騎士は力なく笑った。
出奔をそそのかすなんて、その発言自体が罪に問われる可能性がある。
だからこそ、その手を差し出すと言ったその瞬間、彼は相当な覚悟をしたはずだ。
その覚悟が分かっていて、私はその手を取ることをしない。
そして、この先もずっとその手を選ばない。
ソレイルに出会ったとき、私は彼の妻になることを決めた。
それは周囲に決められた道だったけれど、決して不本意だったわけではない。
想いの伴わない政略結婚が当たり前の貴族社会で、ソレイルに好意を抱くことのできた自分は幸運だとさえ思っていた。
幼いながらにも自分の役割をきちんと理解し、だけどそれと同時に夢を見た。
好きな人と歩んでいく未来には落とし穴などないと信じていた。
彼もいつか私を想ってくれるだろうと、それまで待つつもりでもあった。
私は多分、今もその夢を見続けたままなのだろう。
どれほどに期待を裏切られても、一度胸に抱いた幸福な未来が心から離れない。
それがどれほど愚かなことだと分かっていても。
「だから、ごめんなさい、アル」
半分眠りに落ちた暗闇で呟いたけれど、その声が届いたかどうか分からない。
護衛騎士からの返事はなかった。
貴方の覚悟を、戯言だと本当に聞き捨ててしまった愚かな私を許して。
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体調がだいぶ回復してから、私は一度だけ妹を見舞った。
仕事の為に屋敷へ戻ったソレイルに、シルビアに会いに行ってやってくれないかと頼まれたのだ。
てっきり、なぜ会いに行ってやらないのかと詰られるかと思っていたので、拍子抜けしながら力なく肯いた。
返事をした後で、この会話の不自然さに気づく。
本来なら、姉である私がソレイルに懇願しなければいけない場面だ。
病に倒れた妹を元気付けてあげてと、自分の夫に頼み込む。そのほうがずっと健全だ。
言われなくても行くつもりだったと言えればどんなに良かっただろう。
だけど、言えなかった。
許されるなら、会いたくなかった。
どんな顔をして、どんな立場であの子に会えば良いのだろう。
分からなかった。何一つ、理解できなかった。
『一緒に行ってください』
その言葉が口の中で弾けるようにして消えた。
―――――そして私は結局、ソレイルに乞われるまま妹に会いに行ったのだ。
久方ぶりに一人で訪れた生家は、ひっそりと沈んでいた。
シルビアというたった一つの光が輝きを失っている今、屋敷の中はまさに明かりを落としたように見えた。
シルビアは未だベッドの上ではあるけれど起き上がれるほど回復していると母が頼りなげに笑う。
目の下の隈と目尻の赤みが痛々しい。
「何とか、話せるまでに回復したの」
それでも、もう、長くないのよ。と告げるその声が震えていた。
妹の部屋へ足を踏み入れれば、払うことのできない死の影がすぐそこに迫っているのが分かった。
以前よりもずっとやせ衰えていて、呼吸をするのさえ辛そうな妹が私を射抜く。
元来の美貌がそう映すのか、それとも纏う影がそう見せるのか、彼女は病床においても尚とても美しかった。
「お姉さま、ごめんなさい」
私を見るなりそう呟いた妹に、何と声を掛ければ良かったのか。
死にかけている妹に、どんな言葉を与えれば非道な人間にならずにすむのか考えながら僅かに張り出したお腹を撫でた。
妊娠していると告げたとき、仕事で屋敷に帰ってきていたソレイルはただ「そうか」と微笑んだ。
その顔は確かに笑っているのに、何の感慨もない、冷めた声音だった。
喜びもしない。否定もしない。
任務を完了した部下に了承の意を示す、ただそれだけのようにも見えた。
「私、ソレイル様が好きなの、」
シルビアが、枯れ枝のようにやせ細った指を胸の前で組んだ。
祈りを捧げているようでもあるし、懺悔しているようでもある。
痩せて色を失ってもまだ艶のある頬を一筋涙が零れた。
「私、もうすぐ死ぬわ」
だから、だからどうか、許して。
シルビアの病に伏していて尚透き通るような声音に、いつの間に『お兄様』と呼ぶのをやめたのだろうかと、そんな場違いなことを考えていた。
薬の臭いに混じって、ソレイルが好む紅茶の香りが漂っている気がする。
それほどに長い時間をこの部屋で過ごしていたのだな、と少女趣味の妹らしい部屋の装飾を眺めた。
ここで、あの無愛想なソレイルが過ごしているのかと思うと少し滑稽であるし、こんな居心地の悪い部屋に彼を留まらせる妹が羨ましくもある。
「お姉さま、私、独りが怖いの。独りで死ぬのが怖い」
妹の声が耳を素通りしていく。
これほど、心に響かない言葉を聞いたことがない。
死ぬと決まっていれば、何をしても許されるのだろうか。
もうすぐ死んでしまう人間には、許しを与えなければいけないのだろうか。
私は結局、ただの一言も妹に与えることができなかった。
許すとも許さないとも、憎いとも恨んでいるとも、ただの一言も。
生きていて良かったということさえ、言えなかったのだ。
その日の夜、ソレイルは屋敷に戻ってきて私に言った。
シルビアが泣いていたと。
「君がシルビアの見舞いに来たと聞いた。シルビアに一体、何を言ったんだ」と。
私はその冷たい相貌を見つめながら、「何も」と返した。
それ以外に言葉は見つからなかったし、それが真実だった。
すると、ソレイルは心底失望したような顔をして「嘘をつくな」と言った。
嘘をつくなと。
君が今までしてきたことを考えれば、君の言葉など信用できない。
君はその顔とその声で多くの人間を謀ってきただろう。
もう、うんざりだ。
その子はだいたい、私の子なのか。
―――――止めを刺す、というのはきっとこういうことだと思った。
物理的に刃物で刺さなくても人を殺せる。
悲鳴を上げた気がするし、結局、声を上げることもできなかった気もする。
世界が色を失う。心が潰れる。
気づけば再び、ベッドの上に舞い戻っていた。
「このままいけば、母体を危険にさらすことになります。今ならまだ間に合います。
お子はあきらめたほうがよろしいでしょう。」
老医師が悲痛とも言える顔で私の手を取った。
いつの間にか、私の手を躊躇いなく握ってくれるのはこの医師だけになった。
「・・いいえ、医師。」
可能性があるのなら、私はこの子をあきらめたくない。
だってきっと、ソレイルに似た子が生まれるに違いないから。
私は自分の無実を証明する為に、我が子を利用する。
ああ、そうか。
だから、ソレイルは私から離れていくのか。
ふと、何もかもが腑に落ちた。
ソレイルの言った通りだ。
私は、ソレイルへの愛を証明する為にあまりに多くの人間を踏み台にしてきた。
何でもないような顔をして、平気で、誰かを踏みつけてきたのだ。
そのときは、そうすべきだと思ったから。
そうしなければ、自分の想いさえ守ることが難しかったから。
正しい道を、選んだつもりだったのだ。
―――――そして私は、数ヵ月後にソレイルと同じ髪色の子を産んだ。
でも、瞳の色は知らない。
私は、かろうじて子供を生むことはできたけれど、この手にその子を抱くことなくそのまま死んだ。
結局、医師の案じていた通りになったのだ。
意識が落ちるその瞬間、狭くなった視界の向こうに護衛の金色の髪を見た気がしたけれど、それも幻かもしれない。
いつの間にか、私の護衛は彼とは別の人が担うようになっていた。
最後の最後には、私の傍には誰も残らなかったのだ。
ソレイルは妹に付き添い、赤ん坊が生まれるというその日さえ屋敷に戻らず、妻を励ますことさえしなかった。
幻でさえ、私の傍に来てくれるのはソレイルではない。
寂しい。
悲しい。
独りで死ぬのが怖いと言ったシルビアの傍には、ソレイルが居る。
怖い。私だって、どうしようもなく怖かった。
もう嫌だ。
もう、二度と、こんな想いはしたくない。
もう、二度と、生まれてきたくはない。
こんな世界では、私はきっと生きてはいけない。