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父は悪びれもせず、むしろどこか誇らしげに一人でうんうんと頷いている。
つまり、我が家には明らかにされていない本当の後継者が、ずっと前から存在していたということなのだ。
義弟は俯き、己の両ひざに行儀よく並んだ二つの小さな拳を見つめている。
「けれど、順序がおかしいですわ。私のほうが先に生まれ、私に婚約者が宛がわれたのもこの子が生まれる前のことでしょう?」
年の頃は十歳か、大きく見積もったとしても私よりも年下なことは間違いない。
「ああ、それはね」
兄はきっと生き延びて、どこかで家庭を作っているだろうと思っていたから。はじめから、お前の夫が我が家に入ることはないと分かっていたんだよ。
「そう、ですか」
事も無げに述べられた事実にただ、気分が落ちる。何となく気づいてはいたけれど、いざ言葉にされると何だか悲しい。
難しいかもしれないけれど、男爵家出身のエイヴァンが父の跡を継ぎ、伯爵家の当主になる未来を想像しなかったわけではない。
けれど彼は、私の婚約者と定められた当初から後継者候補ですらなかったわけで。
私自身も、エイヴァンと結婚する以上、この家に残ることはできない。
すなわち。格下の婚約者と縁を結ぶことになったのはきっと、この世に誕生しているかすら分からない本当の後継ぎのためだったのだ。
初めから、私とその子が、万に一つでも争うことがないように先手を打たれていた。
間違っても私が、この家を欲しがることがないように。あまりに用意周到だ。
「マリアンヌ。一つ間違ってほしくないのはね」
「はい、」
「私はお前のことが大切で仕方ない。それだけは真実なんだよ。だから、この家の全てをお前とその夫に分け与えることはやぶさかではない。だけどね、莫大な資産を得ることよりももっと素晴らしいことがこの世にはあるんだ。自分自身がある日、突然家を継ぐことになったからこそわかる」
「……、」
「私にはお前のお母様がいたから。それだけで他の何もかもどうでも良かったけれど。お前はそうじゃないだろう? 他の何をおいても大事だという人にはまだ出会っていない」
「……、そうですわね。確かにそうですわ」
「それがエイヴァンだったらいいと、お父様は心からそう思っている。そして、二人には我が家の継承よりももっと、穏やかで豊かな人生を送ってほしいと思っているんだ」
「……、」
父が他の誰よりも母を、そして私を大切にしていることは知っている。
だから真に、目の前の少年がこの家の後継ぎだとしても、自分がないがしろにされるとは思っていない。そもそも私は、この家の女主人となるべく教育を受けたわけではないので、己がその役目を果たせるかというと疑問だ。
母に憧れて、母のようになりたくて、母のようになるにはどうしたらいいのか、その人に問うたこともあったけれど。
返ってきた言葉はこれだけ。
『貴女は、大丈夫』
その言葉をそのまま受け取った私は、必要なものはもう揃っているから大丈夫だと言われているのだと、勘違いした。それは、自分に自信があったとか過大評価していたのとは少し違う。
母はそれほどに、ただひたすら娘である私を慈しみ護ってくれたから、ただの親の欲目だと結論づけたのである。
だからまさか「貴女は知らなくて大丈夫」という意味だとは思いもしなかった。
私は、母のようになる必要もなく、その立場を継ぐこともない。
「……あの、あのっ、発言をお許しください!」
そのとき、突然声を張り上げた女性が立ち上がる。あっけに取られていると、
「シンシア」と、父の低い声が響く。明らかに高圧的な口調だった。
「……け、けれど……!」それでも言い募る女性を「座りなさい」と跳ねのける。
そして。
「二度は言わないよ」と、ことさら優しく言うのだった。そら恐ろしいような気がして皮膚が粟立つ。
「……も、申し訳ございません」何を言うつもりだったのか、揺れる声を呑み込むように身を竦めて、すとんと落ちるように座った。いたたまれなくなり、その人に声をかける。
「シンシアさんとおっしゃるの?」
「!」
ひゅっと発作のような息をして、顔を上げたシンシアが私を見つめた。大きな瞳がうるうると光る。泣いてしまいそう。「は、はい」と頷く声も少女のようだ。
母とそう変わらない年に見えるのに、表情があどけなく幼い。
黙り込んでいる息子のほうが大人びた顔をしている。
「お父様。そちらにいらっしゃるシンシアさんは、私の弟? のお母様でいらっしゃるのね? つまり伯母様ですわね?」
「うん、そうなるね」
「そうなの……ですよね」
と、いうことは?
「ここに伯父様がいらっしゃないということは、既に儚くなっておいでなのでしょう。そして、母が亡くなってから、見計らうようにわざわざお二人を呼び寄せた。お父様は一体、どうなさるおつもりですの?」
兄に成り代わった父。その名を自分のものとして、正真正銘他人と入れ替わり、母と結婚し、私が生まれた。けれど私が家を出ることは確定している。
そして、どこからか連れてきた正当な後継者は、現状どこの誰でもない。市井の子供であり、今のところは我が家とは何の関係もない人間である。
「その子を養子にでもなさるおつもりですか?」
「そうだね、そこでお前に言っておかなければならないことがある」
「はい」
嫌な予感がする。
「彼女を後妻に迎えようと思う」
「……ご、冗談ですわよね?」
悲鳴をあげなかった自分をほめたい。はっと吐き出した息が鼻を抜ける。嘲笑したように思われたかもしれない。そんなつもりはなかったけれど、父は眉間に皺を寄せた。
行儀が悪いと指摘しなかったのは、父にも何かしら思うところがあったからなのだろう。
あるいは、失望したのか。
淑女たる者、いつ何時も微笑みを浮かべ、冷静さと高潔さを失ってはならない。
学院の教えである。
いつだって本心を隠し、品よく清らかに笑っていなければならないということを教えられた。
だけど。
笑う気など起こらない。
「もちろん彼女に邪な気持ちをいただいているわけではない。それに、これから新しい家庭を築きたいわけでもない。ただ、貴族の出ではない彼女には確固たる地位が必要だ。この世界で生きていくには、どうしても彼女には、我が家の女主の座を得てもらわなければならないんだよ」
「―――――、」
「この子を跡取りに据えるには、彼女に私の妻となってもらい、体裁はあまりよろしくないが……、この子は市井で産まれた私の実の子としたほうがいい」
高貴な血筋の男性が、市井の女性に子供を産ませるのは、よくある話だ。
「仰ることは理解できなくはありません。お二人のことを考えるなら、そうすべきなのでしょう。でも、」
「マリアンヌ」
「っ、はい」
「私はお前に了承を得たいわけじゃない。それは、分かっているかな?」
「―――――もちろんですわ」
決定権は常に、当主である父のもの。母に強い発言権があったのは、我が家ならではのものであり、それはただ、父が母を愛していたからに過ぎない。
「申し訳ありません……」シンシアのか細く泣き出しそうな声に胸が詰まる。
所在なさげなその姿がどうしてか、幼い頃のイリアに見えたからだ。
容姿は全く異なるというのに。
「そちらの、正当な後継者はどうお思いですの? この家を継ぎたいのかしら」
問えば、討たれたように身を縮めた少年が、眦に涙を浮かべて、それでも「はい」と言った。
「どうして? 貴方はいずれこの家の全てを手に入れるけれど、そんなに簡単なことではないわ。伯爵家の当主となるには、相当の覚悟が必要です。血の滲むような努力など生易しく思えるほどの研鑽を積まなければならないわ。そして成果を出さなければ誰も納得しないでしょう。できるのかしら?」
ぐっと歯を食いしばり、たった今、いとこだと判明したその子が「できます」と誓いをたてる。
なぜ、それほどに?
そう思うけれど、これ以上の追及は相応しくない気がした。
私たちはそれほどの信頼を築いていない。まだ。
「それではシンシアさんは? この家の女主人になる覚悟はおありなのかしら?」
少し意地悪なもの言いだと、自分でも思ったけれど、ここで優しくしては彼女のためにはならない。
父だけでなく、使用人たちもみな母を敬愛し、生涯の忠誠を誓っていたことを知っている。
そんな屋敷で、どこの馬の骨とも知れない二人が、いかにもここで暮らすのが当然であるかのような顔をしていれば何が起こるか、想像しなくても分かる。侍女、侍従、従僕はきっと己の役目を果たすだろうけれど、優しく迎え入れるとは思えない。針の筵だろう。
もしかしたら、ここはシンシアにとっての幸せとは程遠い場所になるかもしれない。
「―――――私は、この子が全てです。この……、ヴィルヘイムが覚悟を決めたのであれば、私もこの子と一緒に腹を括ります」
ヴィルヘイムというのか。二人の顔を交互に見つめ、うむと頷く。
「ならば、私には何も言うことはございません」
お父様、と呼べば優しい微笑で答えてくれる。
「私、シンシアの助けになるよう助力を尽くします」
おや、と両眉を上げた父が首を傾ぐ。どうしたんだい?と訊かれて、
「……困っているときに、手を貸すことができなかった人たちがいるのです」
「そうか」
「はい。ですから、今度こそ私は躊躇いなく手を差し出します」
立ち上がり、シンシアの前に立つ。そして膝を折って彼女の手を取った。
音楽室で、ルビーがそうしてくれたように。
「娘……、になれるかどうかわかりませんが、家族にはなれるでしょう。貴女も私の母親になるなんて気負わずに、まずはこの屋敷に溶け込むことを意識してくださいませ。ね?」
「……は、はいっ」
ここに来るまで不安だったろうことはよく分かる。そんな彼らを追い詰めるような真似はしたくない。
「そして、ヴィルヘイム。私の弟」
「は、はい……!」
頑張ってくださいませ。そうでなければ、私がいずれこの家を出る意味がなくなってしまうのだから。
そう続けると、背筋を伸ばし「もちろんです!」とまるで騎士見習いでもあるかのように声を張る。
おやおや、と苦笑する父を見て、考える。これはきっと、父にとって理想通りの物語。成り代わり人生の終幕だ。こうなることを見越していたのかもしれない。
だからこそ、私は父のために、すべきことをした。
そんな私を、母はどう思うだろう。
あのすべてを見透かしたような目で何を言うだろう。
母はきっと、この二人を受け入れなかったはずだ。どのような形でも。
*
あれは、母が亡くなる前日のこと。
その人の体調がなぜか、たった数時間だけ回復した。ベッドから起き上がれなかったのが嘘みたいに。
新調したものの身に着ける機会がなかったドレスに袖を通し、クローゼットに仕舞っていた新品の靴を履いて。母は私を自分の部屋に迎え入れた。
「お話をしましょう」と言い、やせ細った指で私を呼ぶ。そうして、窓辺のテーブルに茶器を並べ、二人でお茶をしたのだ。
紅茶の香りを嗅ぎ、お菓子を味わい、紅をさした母はにこにこと笑っていた。
死の間際にはそういうことが起こるらしいと、後から聞いた。
それとも本当は、夢を見ていたのかもしれない。
「お父様には内緒の話だけど、聞いてくれるかしら」
「……はい、」返事をするだけでもう、泣きそうで。目の前の母は顔色も良いのに、ちゃんと話ができるのはこれが最後なのだろうと、なぜか理解していた。
「私には幼い頃から仲良くしていた庭師がいるの」
「庭師……、ですか?」
「ええ」
いわく、母が伯爵家に嫁いできたとき、その人も一緒に連れてきたのだという。
「庭師見習いだった頃から知っていて、年も近かったから私が一方的に頼っていたのよ。この家に嫁ぐとき、侍女も連れてくることができなかったから心細くて。伯爵家の庭を管理してほしいとお願いしてね」
その庭師はしばらくこの屋敷に居て、懸命に働いていたらしい。
「けれど、ね。その人はある日突然、出奔したの」
どうやら嫌がらせをされていたらしいのよ。と、母はさして興味もなさそうに言う。ただ、本心はどうなのか分からなかった。
「私の生家はもちろん、伯爵家よりも家格が劣るの。その家からやってきた庭師が、伯爵家で重用されたものだからやっかみを受けたのね」
「まぁ、」
「どうして相談してくれなかったのかしら、と思ったのだけれど。……彼はそもそも、私とは親しく口をきいて良い人間ではなかったのよ」
私は気にしなかったけれど、周囲はそうじゃなかった。と、ティーカップに口をつける。
「彼が、私との接触を試みたのか、それとも初めから挑戦もしなかったのか分からないわ。けれど、私たちは結局、顔を合わせることすらなく別れることになったの」
「そう、なのですか……、」
「そうなの」
「……、」
母が私に、何を伝えたいのかよく分からない。黙っていると、
「身分というのは、努力でどうこうできるものでもないのよ」と、我が家の女主人は静かに告げた。
「―――――、」
「マリアンヌ。決して、越えてはならない壁を越えないで」
お願いよ。
これは、お母様からの最後のお願い。




