7
雨が降っている。
校舎の窓から外を見れば、灰燼を風で飛ばしたような曇天が広がっていた。その下には、湿度の高い庭園が続く。
ルビーは無事に旅路を終えただろうか。その安否すら、知ることができない。胸の奥を鷲掴みされた感覚で、ぼんやりと雨粒を追う。
「……マリアンヌ様?」
並んで歩いていた友人が、立ち止った私に気づいて振り返った。
「先に行っていてくださる?」
次の授業は外国語だ。学院が諸外国から教師を招き、生徒は自分で学びたい言語を選ぶことができる。時間の許す限り、いくつでも選択できるので大抵は二か国を選ぶのだが、確かイリアはもっと多くの授業に出ていた。侯爵家の人間は三か国語は話せると聞くから、彼女も必然的に多言語を習得する必要がある。
彼女もいずれ、この国を動かすための重要な役目を担うのだろう。外交は侯爵家の重要な仕事の一つであるから。
私は。
私はどうだろう? 周囲の誰よりも早く学院を卒業せざるを得なかった友人を思う。護衛を共にしているとはいえ、ここからは遠く離れた場所へ一人で向かった。誰かの伴侶となる、それはつまり誰かの人生を半分背負うということだ。
「……、」
誰もいなくなった廊下に立ち竦む。大きなため息と共に、雨脚も強くなるようだった。
そのときふと、庭園を挟んだ向こう側の回廊に誰かが立っていることに気づく。等間隔に並んだ柱の影にいるので分かりずらいが確かに、いる。その近くを幾人かが談笑しながら通り過ぎていくのだが、誰もその人には気づかない。ただ、位置的にこちらの廊下からはよく見えるというだけだ。身を潜めているのは間違いないだろう。
何となく見ていると、覚えのある黒髪が風に舞った。
―――――ソレイル様?
腕を組んで俯いている。一見すると隠れているようでもあり、また、誰かを待っているようでもあった。
先ほど通り過ぎて行ったのは騎士課の男性たちなので、他に待たなくてはならないような人物がいるとすればエドワルドだろうか。もっとよく見ようと窓辺に寄るが、降りしきる雨に邪魔されて視界が悪い。小さな泉を囲う庭園の、更に向こう側にいるので、彼がどんな表情をしているのかいまいちよく見えなかった。
と、そのとき。
回廊の角を曲がって、一人の女性が歩いてくるのが目に入る。急いでいるのか、速足だ。
「……イリア様」
呟いてからはっとして、声を呑み込む。
イリアはまだ、ソレイルに気づいていないのだろう。姿勢よく、だけどいつものように視線を落としているはず。胸の前に抱えている書物の多さに、きっとの気の休む暇もないのだろうと胸が詰まった。学院内ですらこうなのだから、屋敷へ帰っても根を詰めているのは想像に難くない。
それはいつ始まって、いつ、終わるのだろう。
そこまでやらなければならないものかと案じるけれど、答えを知っている人間はいない。知っているとすれば彼女自身だけだ。
せめて語学の授業でどれか一つでも被っていれば、理由をつけて話しかけることもできたというのに。
あいにく一つも一緒にならなかった。自身のやる気の問題でもある。将来的に必要そうではなかったので、あくまでも趣味の一つとして、母国語に近く覚えやすそうな言語を選んだゆえ。
「……、」人生は思う通りにいかない。
最近、特にそう思う。
子供の頃に思い描いていた未来というのは、もっと輝かしいものであったはずだ。だけど。
「あ、」
そんなことを思っている間に、ソレイルに近づいて声をかけた人間が一人。エドワルドである。やはり、彼を待っていたのか。……そう理解したものの、彼らはしばらくその場に留まり何事か話し込んでいる様子だった。
ソレイルはエドワルドの肩を押し、廊下の先を指差す。恐らく、先に行くように言い含めている。
次の授業が始まるので、当然だ。しかし、抵抗しているのか動かない。
そこに偶然通りかかったのがイリアである。
もちろん声をかけるのだが、話しかけたのはソレイルではなくエドワルドのようだった。
婚約者とその友人に向き合ったイリアは軽く膝を折って挨拶をし、彼らと一言、二言言葉を交わした後、早々に去っていく。
その後ろ姿を眺めているソレイルとエドワルド。
―――――何がしたいのかよく分からない。首を傾げていると、興を削がれたらしいエドワルドはやれやれと肩を竦めた後、一人で、イリアが来たほうへと去り。されどソレイルはしばらくその場に留まり、遠ざかる婚約者に視線を送り続けた。
「?」
不思議なのは、その後だ。
ソレイルは、踵を返してエドワルドとは逆のほうに歩いて行ったのだ。つまりイリアの後を追うように。
だけれども、無常にも授業が始まる合図がして。イリアは必ず授業を受けるだろうから、彼らがこの後落ち合うことも、話しをすることもないというのは察しがつく。
結論として。
「……イリア様を待っていたんだわ」
合点がいって、自身ものんびりしている場合ではないと次の授業へと急ぐ。
ソレイルは、イリアに用事でもあったのだろうか? 謎は残ったものの、私が答えを知ることはない。
私は、彼らの友人ではない。
友人には、なれないから。
*
不幸というものは、こうも静かにやってくるものだろうか。それとも私が気づかなかっただけで、影くらいは見えていたのか。
友人にはなれなくともせめて、赤の他人という立場は脱却したい。そう思い始め、相談するなら母しかいないと一念発起した私に父が言った。
「お母様は病気なんだ」
初めは風邪でもひいたのかしら? と軽く考えていた。すぐにでもよくなるはずだと。けれど父はもっと深刻で、もっと重々しい雰囲気を纏っていた。眉間に寄った皺が如実に物語っている。
「どうなさったのですか?」
尋ねても明瞭な答えは返ってこない。
言い淀み、普段はこちらがたじろぐほどの鋭い眼差しを向けるその目が彷徨ったことに、事態はよほど重大なのだと察した。
そういえば最近、晩餐にも顔を出さない。しかしそれは、さほど珍しいことでもなかった。我が家の社交を担う女主人としては、夜会に引っ張りだこというのはむしろ名誉なことでもあったから。
どちらにしろ疲れているのではないかと案じたところで私には何もできない。
いつも遅くまで務めを果たされていてさすがだと感心していたくらいだ。
だというのに。
もしかして、体調不良だった―――――?
「いつからです?」
学院から帰って早々、その時間珍しく屋敷に居た父が玄関ホールまで顔を出したのは、愛情ゆえではないらしい。よほど急いでいたとみえる。
いかにも焦っているので、母が病気だという事実を半信半疑ながらも受け入れざるを得ない。
見るからに頼りがいのある胸元に縋りつくような格好で見上げれば、
「本当はね、随分前から悪かったんだよ。だけど、ああいう人だから弱っているところを見せたくないと言ってね。お前には黙っていたんだけど」
母の性格なら私も分かっている。だから、父の言い分も理解できた。
けれど、納得できるかと言えばそれは全く別の問題で。
近くに控えている家令も無論、母のことは知っていて、恐らく上級の使用人も把握していただろう。こんな重大なことを知らされていなかったことに、悲しみよりも先に怒りが沸く。
だというのに、体温は上がるわけでもなく下がっていく。視界が滲んで胸が苦しい。
自分でも説明できないような、訳の分からない感情に支配される。
「治るのでしょう? 医師は何と仰っているのですか?」
父の大きな手が私の頭を包むように撫でて、その後、頬を挟むように動く。いつもは安心感を与えてくれるその手がなぜか不安を煽った。
優しくて、けれど威厳を忘れない父の整った顔が近づいてきて額にぶるかる。幼い頃、熱を測るときにそうしてくれたのを思い出した。
具合が悪くて心許なくて、寂しかったときも心強かったのだ。
だから私は、その人に明確な答えを与えられなくても自ら悟る。
母は、死ぬ。
「マリアンヌ。こちらへ来て」
天蓋の向こうから声をかけられて、そっと近づいた。よく考えれば顔を見ること自体、二週間ぶりだ。
大きなクッションを背もたれにして半身を起こしている母は、少し痩せたもののいつもと変わらない艶やかさで、ほの暗い室内の雰囲気さえ味方にしている。直視できないほどの優麗さ。
寝台に乗り上げると、両手が迎えてくれるのでその胸に顔を寄せた。二人分の体重でもびくりともしないベッドの脇に置かれたサイドテーブルでは、小さくても絢爛な時計が時を刻む。
ち、ち、ち、ち。
音がすると、その分、母の命が減っていく。
あと、どのくらい残っている?
「浮かない顔をして、」
声が掠れている。父が、時々饒舌なほどに口が回る母に「よく鳴く小鳥だ」と冗談を言って「貴方は物言わぬ虎ですわね」と皮肉めいた言葉を返されていた。二人は楽しそうに目を見合わせて笑っていて。
そんな当たり前の、何でもない日常が失われる。
「お母様は、私を置いていってしまわれるのですか?」
口にすると、吐き出した言葉が形になって現実に落ちていくようだった。世界が褪せていくのに、これは嘘でもないし、夢でもない。
「そうね。大抵はそうだわ。親は子供よりも先に人生を終えるものだもの」
私は少し、早いだけ。と、赤い唇が柔らかな曲線を描く。
「どうしてですか? どうしてお母さまが?」
幼子みたいに地団太を踏んでしまいそう。大声を上げて泣き叫んで、思い通りにならないことに怒るのだ。こんなことが起こるなんて許さない。絶対、絶対に許さない。どうして、何で、
喉を締め上げられたみたいに苦しい。泣いてもいないのにしゃくりあげる。
そうしたらもう堪えきれずに、涙が一粒。頬を転がってシーツに落ちた。
「嫌です。絶対に嫌です。どうにかなるのでしょう? 大丈夫なんでしょう?」
抱きついて、骨の浮いた身体にこの身を沈める。すると「あらあら」と、白百合を集めたような優雅な香りを纏う社交界の華が苦笑した。この人が傍にいれば、叶わないことなんて何もないと信じていた。
教えてくれれば、空さえも飛べると本気で。
「もう分かっているのでしょう? マリアンヌ。この世界ではどんなに願っても望みが叶わないこともある。努力は確かに無駄ではないし、何をしてきたかという過程はとても大事。でも、だからといって全てを手にできるかといえば、それは違う。結果が伴わないことだってある」
「……、」
まるで、学院での私を見てきたかのような口ぶりである。
「分かるのよ。私にも貴女のときのような少女時代があったのだから」
そこまで話して、喉が渇いたのか枕元の盆に置かれたグラスを手に取る。丁寧な仕草だが、指が震えているようだ。すぐさま何気ない振りで握り直すけれど、誤魔化せていない。
「マリアンヌ。人はね、生きている間に多くのものを得て、同時に色々なものを失っていくの。生きるというのはそういうことだから」
「―――――失いたく、ありません」
ますます歪んでいく視界に、イリアやルビーの顔が浮かぶ。そして、目の前には輪郭がぼやけて定まらない母の顔。いなくなってしまう、皆。
「誰かと関わって、誰かと繋がりを持って。誰かと一緒に生きるなら何も失わずにいることなんでできないわ。与えて、奪われて、失くして、そして与えられるのよ」
大丈夫。失っても残るものがあるから。と母は太鼓判を押す。
「……残るものとは、何ですか?」
「私は、たとえ命を失っても、ずっと貴女を愛し続けるわ」
この先、貴女がつらい思いをすることがあっても忘れないで。貴女は私の愛に守られているのよ。
そう言って、その人は私の額に口づけた。祝福を贈るように。
「でも私には、お母様のこの手が必要です。すぐ傍にいて、抱きしめて」
きっとみっともない顔をしているだろう。目も当てられないとはこのことだ。
「それならマリアンヌ。そのときがきたら目を閉じて。身体を失っても、お母さまは傍にいるってことがわかるはずだわ」
まるで創作めいた話だ。死による別れがこれほどに悲しいのはもう二度と会えないことが分かっているから。想像で、失った人の存在を埋められるわけがない。それでも。
今は母の言葉にしがみつくしかない。
肉体が滅びても、心と心は離れたりしないと。
「お母様、」
「なぁに?」
「大好きです。愛しています。……いかないで、」
逝かないで。
そうして、母が亡くなったのは一週間後のことだった。
あれほど華やかな人だったというのに、葬儀は実にしめやかに執り行われた。教会に集まったのは親類縁者の、それもごくわずかな人たちだけ。それもどうやら母自身の希望だったそうだ。
気位の高いあの人らしい。あえて派手な葬儀にして、その権威を見せつけるのが主流の世の中で、「唯一」「自分だけのもの」にこだわる母が質素な葬儀を選んだのも納得がいく。
父はきっと大げさなほど厳かな式にしたかっただろうに、最後は最愛の人の願いを聞き入れた格好となった。せめて棺だけはと、派手な彫刻を入れたのは母に一番似合うものを用意したかったからだと知っている。
「マリアンヌ。お母さまにお別れは言ったかい?」
葬儀を終えて、縄に吊るされた棺が深い穴に沈む。
あんなところに一人きり。寂しくはないだろうかと、そんなことが気になった。
「お父様。お母様はいつだって私と共にあると仰いました。ですから、お別れは言いたくありません」
「おや、そうなのかい? それは困ったな」
「?」
「お母様はお父様のものだからね。お母様は、いつもお父様の傍にいるんだよ」
どういう反応を期待しているのか、片目を瞑った父。
「酷いお父様。残念ですけれど、お母様は一番に私を愛しているのですわ」
「おやおや」
隣でふっと笑う気配がして、寸の間おいてから声を殺したすすり泣きが。
「お父様を置いていってしまわれるなんて。……お母様らしくないですわね……」
穴の中に砂を落として、母は永遠の眠りにつく。あの柔らかな指先が私の頬を撫でることはもう二度とない。
それでも。
目を閉じればそこに、母はいるという。
その後、しばらくしてから。
父は、一人のある女性と少年を我が家に迎え入れた。




