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「……二人?」
かじりかけのサンドイッチをバスケットに戻す。食べかけを仕舞うのはあまり褒められたことではないが、食事しながら聞く話でもないような気がした。
校舎裏にひっそりと置かれた朽ちかけのベンチに並んで腰かけていた私とルビーは互いの顔を見る。彼女は既に昼食を終えていた。「二人ってどういうこと?」と再び問えば、「えと、そうですね……」とこちらに向けていた視線を手元に戻す。手を拭いたハンカチを畳んでいるけれど、その指先はどこか忙しない。いや、心許ないと言ったほうが正しいだろうか。
この話に、気まずさのようなものを感じているのかもしれなかった。
「以前もお話しましたけれど、私にとって階級とはあまり意味のなさないものです。それを不快に思う方もいらっしゃるのは存じておりますが、一方で好ましく感じる方もいらっしゃるのです」
一つ呼吸を置いたルビーの横顔は、口元に笑みを浮かべているもののどこか寂し気だ。いずれ豪商の三番目の妻になると言っていた。一般的にみれば酷い縁組だ。それでも彼女は、これ以上ない良縁だと笑う。
我々貴族にとって、婚姻は契約であり政治でもあるから。
個人の意思よりも家同士の思惑のほうが重要視される。互いの家にとっていかに有益であるかが最も肝心なことであり、それ以外のことは二の次といっていい。
まれに相思相愛の恋愛結婚だってないわけではないけれど、そういった場合は大抵がどちらかの家が有力貴族であり、社交界でも盤石な地位を築いていることが多い。相手を選ばずに済むということだ。
逆にいえば。
ほとんどの貴族が家のしがらみからは抜け出せず、本人の意思とは関係ないところで縁談が進んでいくのである。
だからいま、私がルビーの未来を案じていたとしても口を出すのはお門違いであり、余計なお世話というものなのだ。それでも。
貴女はそれでいいのかという問いを口にしようとして、ぐっと奥歯を噛む。
言ってはならないと知っている。
私はもう、幼子ではないから。貴族がそれぞれに抱えている事情を理解せずとも、分かった振りをするのが道理なのだと学んできた。
「誰とでも仲良くなれるものですから、色々なお話を伺うのです」
ハンカチを膝に置いた彼女の指に、先日まではなかった指輪がはまっていることに気づく。細くて小さな指には大きすぎる赤い石が陽の光を反射した。推察した透過率から分かる。ただのガラス玉ではない。相当値の張る代物だ。
「音楽鑑賞会でのピアノ演奏。先に打診されたのは恐らく、イリア様ですわ」
え? 唐突に持たされた衝撃の事実に声さえ出なかった。すっと吐き出した息が宙に浮く。
きっと間の抜けた顔をしていたのだろう。再び私の顔を見たルビーが苦く笑った。やはり、ご存じなかったですよね? と。
「イリア様はゆくゆくは侯爵家の夫人になる方です。学院側としても、彼女のために声をかけたのでしょう。学院内におけるイリア様のお立場を確固たるものにしたかったに違いありません。演奏会の奏者に選ばれれば、箔が付く。―――――けれど、」
どこから聞きつけたか分からないが、意義を唱えるものが現れたのだという。
「ピアノ演奏であれば、もっとふさわしい方がいるのではないかと。現状、イリア様は伯爵家第三位であるし、それはゆるぎない事実である。であれば、もっと家格が上の方に打診すべきと強い抗議が入ったと聞いております」
本来、音楽鑑賞会の奏者を生徒が担う場合、正式に決定するまでは本人を含めて関係者は口外しないことになっている。栄誉なことであるがゆえに、本人の資質、家柄によっては横槍が入ることもあるからだ。今回のように。
「そこでお名前があがったのが、マリアンヌ様だったのです」
「……、」
相槌を打とうとして失敗する。喉が塞がってしまったかのように声が出ない。
「マリアンヌ様の現在の伯爵家第一位というお家柄、そのお血筋。ピアノの腕前もかなりもものだと誰もが存じております。既にイリア様に声をかけていた学院側も困り果てていたようですが、」
「なんてこと」
「ええ。結局、イリア様への打診は白紙となったわけでございます」
「それほどの圧力がかかったのね?」
戸惑いと怒りにも似た感情に支配されて、ぎゅっと胸に力を入れる。そうしなければ話せなかった。
「さようでございますわ。イリア様が名声を得ることに強い不信感を抱く高位貴族がいたということでしょう。恐らく、ノルティス侯爵家の対立派閥だと考えられます」
「……なるほど」
「ですから、学院は結局、イリア様の将来のことはひとまず置いておいて、いま現在どうであるかを重視したほうが良いという結論に至ったようです。それは当然、学術テストの順位なども考慮されたのだと思われます」
すなわち、あずかり知らぬところで私とイリアは学院側に品定めされ、選定されたというわけだ。不愉快極まりない。けれど、
「これが、現実ですわ」
今しがた頭に過った言葉を、ルビーが先んじて発する。その目はどこか遠くを見ていた。
「そうね。私であれば、家同士の軋轢も少なくて済むでしょうし。私の婚約者は格下でもありますから、万一にも演奏会が失敗に終わっても私自身には特に影響がない」
イリアのように名誉を手にしなければならないわけでもない。せいぜい笑い者にされる程度だと考えられる。それこそが貴族にとっては許しがたいことなのだろうけれど、私にとっては大した問題ではない。
「だから彼女はあんな態度だったのかしら?」
思い返せば、図書館で対面したイリアは当初から友好的とはいえず、初めからずっと警戒していたように思う。ならば、頑なに凝り固まった精神に、何をしたところで無駄なのかもしれない。
ぼんやりと考え込んでいると、おもむろに立ち上がったルビーが地面に根を張っていた白い花を摘み取った。
「マリアンヌ様はこの花の名前をご存じですか?」
「……え?」
正直、草花には興味がない。誰かの手によって丹精込められて育った花であれば、教養として知っておくべきことかもしれないが。
「私も知らないんですけど」
その手から滑り落ちた花が土の上で花弁を散らす。風に飛ばされそうになり、抵抗しているかのごとく一回転、二回転する。身をよじるその姿が、のたうちまわっているようだった。
「天賦の才とはつまり、常人では得られない能力のことですわね。イリア様はとてもピアノがお上手ですけれどきっと天才ではありません。あそこまで弾けるようになるには相当の努力をされたのだと思います。それこそ、私なんかが想像もつかないような練習量だったことでしょう」
「ええ、そうね」
ルビーがイリアという人間を正しく理解していることに、安堵する。唇が緩んでしまって抑えられない。
「思い通りに弾けないことに苦しんだこともあるに違いありませんわ。目指す音色、たどり着かなければならない境地。あのお小さい手では技術的にも演奏することが難しい曲もあったでしょう」
まるで、イリアを見てきたかのように語る友人に違和感を覚える。
そんな私の心を見透かすように「分かるのです。私もそうですから」と、はみかむように笑った。
「でも、私とイリア様は決定的に違います。私は、幼少期に既に諦めたのです。これ以上うまくはならないと悟り、別の道を探しました。……楽器ならば何もピアノにこだわらなくてもいい。だから、フルートを練習しました」
何か思い出したのか、ふふと小さく吹き出して「おかしなことに、ピアノよりも上達が早かった」と続ける。
音楽という枠組みの中で、楽器演奏ということに違いはないのに不思議なことだと思う。けれど、そういうことは少なくない。歌が上手くても演奏が下手だったり、あるいは演奏が上手くても歌が下手だったり。
「けれど、イリア様は私と違って別の選択肢などあり得ません。次代の侯爵夫人たる者、ピアノが弾けないなんて笑いものもいいところですわ。プロの演奏家に混じっても引けを取らない技術は必要です」
高位貴族独特の習わしである。
音楽や絵画、骨董に精通してこそ上流階級という、妙なこだわりが共通認識として存在しているのだ。
だから貴族に生まれれば、誰もが幼少期より勉強以外のことにも時間を費やす。素質がなくても。
ある程度はできなければならない。
でも、イリアには『ある程度』が許されていない。
「ところでマリアンヌ様は、ピアノがお好き?」
再びベンチに腰かけたルビーのつま先を見る。新しい靴だ。少し前、家が財政難で髪飾りも新調できないと嘆いていたことを思い出す。相手の度量を図るにはまず足元から。そんな言葉もあるくらいだから、さすがに吐き古した靴で学院に通うわけにはいかない。
「いえ、あまり好きではありませんわね」
そもそも練習するのが好きじゃないの。と自嘲気味に言えば、
「ずるい」
と普段よりも幾分か低い声が聞こえた。空耳かもしれないと無意識にも耳たぶのあたりを触る。ルビーの顔を見ても敵意など感じられず、私たちの間にはただ柔らかな風が吹くだけだ。
どこかで小鳥が鳴いている。
「……と、イリア様は思われたのかもしれませんね」
失礼しましたとルビーは申し訳程度に頭を下げて、
「だってマリアンヌ様、そうでしょう? 貴女様はそれほど必死にならなくても、それでもとても素晴らしい演奏をされるのですもの。マリアンヌ様がピアノを弾けば、誰もが思うでしょう。お上手だと」
それを才覚というのですわ。
「そんなマリアンヌ様に、演奏披露の機会を奪われて。しかも、自分の演奏を褒められたらどうでしょう? あまりに情けないと思いませんか? 普通に、悲しいですし」
「……、」
「必死に練習しても、まだ練習が足りなくて。たどり着きたい場所があるのに、どうしても届かない。苦しい。つらい。練習なんて意味がないかもしれない。そう思っているところに、目指す場所に立つ人間から上手だと褒められれば。こう思うはずです。―――――どんな嫌味だろう。あるいは、お世辞だ。そうに違いない」
イリアの心を読んだつもになったらしいルビーが抑揚もなく続けた。
今、やっと理解する。イリアはきっと、心を踏みにじられたような気分だっただろう。
「私はただ、イリアに喜んでもらいたかっただけなの。傷つけるつもりなんてなかったわ」
胸が痛い。
傷つけたのは私のはずなのに。
「知っています。マリアンヌ様はただお優しいだけだと」
私は知っていますが、イリア様はきっと知らないでしょう。それほど親しくないのですから。と、あくまでも真実を口にしただけの友人に虚を突かれたような気分になる。
そうだ。間違いない。私は全然、イリアと親しくなれなかった。
「私、頑張るわ。イリア様に近づけるように」
改めて奮起した私を見て、ルビーは何を思ったのか。肯定するわけでも否定するわけでもなく、ただこちらを見ていた。その表情の意味を知るのは、もっと後のことである。
そうして私は、イリアに近づくべくあらゆる手段をとるようになるのだけれど。
それがとんでもない過ちだった。
**
「――――――どうしてですか?!」
悲鳴のような声に、身動きできなくなる。
ソレイルの隣に立っていた私はすぐさま、一歩後退した。
「どういうつもりですか? マリアンヌ様! ソレイル様は私の婚約者です!」
表立ってイリアと親しくできないのであれば、彼女の婚約者であるソレイルから間接的に距離を縮めることはできないかと、愚かなことを考えた。何でもいいから、情報を得たかったのだ。
さすがに相手が侯爵家であれば、我が家とマチス家のような政治的駆け引きというものは通用しない。
従って、己の立場さえ弁えていれば、家同士の妙な権力闘争に巻き込まれるようなことはないと踏んだのである。
けれど彼は、非常に守りが堅く、なかなか思うようにいかなかった。異性であることを踏まえても、イリアよりもずっと強固な壁に阻まれているように感じた。
さすがは侯爵家の嫡男といったところだろう。
だからこそ意固地になってしまった私は友人を伴い(さすがに二人きりになるのはよろしくないという自覚があったので)何度も彼との接触を試みた。
休みの日は何をしているのか、趣味は? どんな本を読むのか。など何気ない質問から始めて。だけれども、何度会っても親しくなるどころかもっとそっけない態度をられるものだから、回りくどいやり方は止めて。
ほどなくして、婚約者と会う頻度と訊いたり、婚約者とはどのような話をするのかまで踏み込んだりした。
あまりに必死だった私は、そういった自身の行いが周りにどう見られているかまで考えが及ばず。
ルビーは確かに「……やりすぎでは?」と苦言を呈してくれたというのに。
普段から親しくしている令嬢たちが勘違いをして、私を後押しするという形でソレイルやご友人に秋波を送っていることにすら気づかなかったのだ。伯爵家第一位の威光がここで発揮されるとは思いもしなかった。
つまり。令嬢たちを思いあがらせてしまったのである。
そこに私がいれば、何をしても許されると。
「イリア、落ち着け。何でもない」
ソレイルが取りなそうとして彼女に触れる。その手を払い「ソレイル様も何をお考えなのですか? このように婚約者でもない女性を傍において、」と、大仰なほどに体を震わせた。
「ごめんなさい、イリア様。私、そんなつもりでは―――――」と言いかけて、彼女が憎しみを隠さない形相でこちらを見据えていることに気づく。
いつから?
いつからこんな目で見つめられるようになっていたのだろう。
「由緒正しきお家柄であるならばご承知おきのことと存じます。婚約者がありながら、異性との接触を繰り返す振る舞いは、あまりにも品性に欠けることだと」
淡々とした口調ではあるが、明らかに断罪されている気がした。いや、はっきりと罪を問われている。
「イリア、止めないか」
ソレイルが再び、私たちの間に入り彼女を諫めようとするも「これは私とマリアンヌ様の問題ですわ」と聞く耳を持たない。その強気な態度がじわじわと衆目を集めている。
「そのような声をあげて。はしたないのはイリア様のほうでは?」
ここでひときわ大きな声で割り込んできたのは、私が連れていた友人―――――、と言っても普段は挨拶を交わす程度で、今日は一緒に廊下を歩いていただけの、ほとんど関わり合いのない人物だった。
家格はイリアよりも下、けれど、私の連れであるから代弁者にでもなったつもりなのだろう。
「ソレイル様もイリア様のように独占欲の強い方が婚約者だと、気の休まる暇もないのでは?」続けざまにそういった令嬢を、ちらと見やったイリアの眉根が寄る。唇が色を失っているのは、口の中を噛み締めているからだ。堪えている。
「はは、確かに。ソレイルは息苦しそうだよねぇ」
新たに参戦したのは、ソレイルの友人だった。確かエドワルドと言ったか。赤い髪のその人物は、家格こそソレイルには及ばないものの学院内では有名人である。彼らは学院に入学した頃から大抵一緒にいて、今日もいつもと同じように二人揃って歩いていた。侯爵家の嫡男が親しくしている人ならば一目置かれて当然だ。
だからこそ、皆こう思う。ソレイルの友人であれば、彼の言っていることが正しい。つまりこれが真実であり、本音なのだと。
「おい、」ソレイルは友人を窘めようとしたかのようだった。
「わた……、わたくしは、」けれど、震える唇で何かを言い募ろうとした婚約者の、次の言葉を待つことにしたらしい。その場に留まり、ただ待っている。
「ソレイルもさ、はっきり言ったほうがいいんじゃない? みっともない真似はやめるように」
友人の言葉が聞こえているのかいないのか、その人はイリアに触れようと右手を伸ばした。けれど、届かない。彼女は数歩後退して、ただ耐えるように磨き抜かれた床を眺めている。
スカートを握りしめた震える拳に、胸が痛んだ。
「もう、お止めください。私があまりに軽率だったのです。イリア様は何も悪くありませんわ」
お騒がせして申し訳ありません。と周囲に視線を投げる。
ところが「マリアンヌ様に頭を下げさせるとは。どのような了見なのかしら」と、誰かが口にした。なんてことだ。誰が何を言ってもイリアの責任になってしまう。
ぞくぞくと集まってくる野次馬に何といえば納得してもらえるのだろうかと思案していれば、人垣の向こう側にそっと佇むルビーが見えた。いつもは柔らかな弧を描いている双眸が、何かを訴えるような厳しさを伴い、こちらに向けられている。
時間にしてたった数秒、目があっただけ。それでも、通じるものがあった。
そうか。この場におけるイリアはすなわち「格下」なのだ。
―――――私が、いるから。
私がいれば、何をしても、何を言っても許されると勘違いをしている令嬢たち。そんな彼女たちを見過ごしてしまった私。つまりこれは私の責任であり、私のせいでしかないのに。
「……申し訳、ありません、」
潰れるように掠れて消えたイリアの声を遠くに聞いて。取返しのつかないことをしてしまったと思い知る。
指先から温度が消えた。
どうしよう。
どうしよう。
「参りましょう、マリアンヌ様」
騒ぎが大きくなっていくことに懸念を抱いたらしい令嬢に促され、逃げるようにその場を後にする。
『間違った選択をしないように』と、忠告してくれた父の言葉が。
刃のように鋭く尖って、胸を突き刺す。
心臓に熱湯を落としたみたいな、じくりとした痛みが、己のしでかした罪を突き付けているようだった。




