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「マチス家のお嬢さんとあまり親しくしてはいけないよ」
イリアに話しかける機会を伺っていた私に、父は言った。普段は自由に出入りすることさえ許されていない書斎に呼ばれたから、何事かと思えば、久方ぶりに顔を合わせたその人がさらりと宣う。
しかも、紙の上で羽ペンを滑らせながら、だ。
この人にとっては、用をこなしている間に、片手間で済ませるような大したことのない話題なのだろう。
黙っていると、ちらとこちらに視線を向けて「いいね」と優しく念を押される。
私は、閉じていた唇をさらに引き結び、ただ父の手元を見ていた。
やがて、重厚感の漂う木製の机に肘をついた紳士は「そんな顔をするんじゃないよ」と苦笑する。指摘されて初めて、自分が淑女にふさわしくない態度をとってることに気づいた。
すっと視線を正して、父と目を合わせる。
さすがは伯爵領を治める人だ。朗らかな顔をしているのに、どこか威圧感がある。怒らせたら怖そうだと、なぜかそう思わせる。
「私の言っていることが理解できるかな?」
先ほどよりも殊更優しい口調で問われて、再び、視線が下がる。
「嫌」というのは簡単なのに、嫌という言葉だけで通じる相手でもないことを知っていた。
だから、何を言えばいいのか、どのように説明すればいいのか、考えてはみたものの。うまく言葉にできるような気がしない。弁のたつような大人であれば少しは抵抗できたのかもしれないが、そもそも私には、父を説得できるような材料がなかった。
家庭教師から優秀だと太鼓判を押されたのはたった数日前なのに。こういうときに言葉が出てこなければ何の意味もない。
いくら勉強ができても実生活で役にたたないのであれば、身になったとは言えないだろう。胸を過ったのは焦燥感だ。
私はまだ、全然足りない。
「困った子だね」
再び書類仕事に戻ったらしき父の、筆ペンを動かす音が響く。カリカリと規則正しく、神経質に。あるいは長母音を響かせるようにサラサラと。
音楽を奏でているようで耳心地が良く、そのしなやかな指先はさながら指揮者のようでもある。
……であるのに、骨ばった手の甲は陽に焼けており、繊細さとは無縁のように見えた。
私が生まれるよりも前は、騎士として実戦に出たこともあったらしい。当主だけが使うことを許されている、先代から引き継いだ古い両袖机も、この人の持つ豪胆さや無骨な部分を引き出すのに一役買っている。
今でも、有事の際はいつでも戦えるよう鍛錬を怠ることはない。
ふと、額にちくちくとした棘を感じて、うろうろと彷徨わせていた視線を戻した。
いつの間にか手を止めていた父が、先ほどよりも幾分か量を減らした書類を脇に避けながら、面白そうにこちらを眺めている。
「その強情さを好ましく思っているがね。お前の思い通りになることばかりではないよ。マリアンヌ」
それでも、ただ頷くことはできず、黙り込むしかなかった。父から向けられる視線は居心地の良いものではなかったけれど、耐えられないものではない。理由もなく手を上げる人間でもないと知っているから、許されている間は、沈黙を貫こうと思う。
そうして。
どのくらいの静寂をやり過ごしたか。重く張りつめていく空気を吹き飛ばすように、ふっと笑ったのははやり父だった。「座りなさい」と促されて、ほっと息をつく。
ずっと立ったままだったので、両足が棒のように凝り固まっていた。最近、ヒールの高さを上げたので、足の指がしびれている。
そのため、若干、不自然な動きになってしまったけれど。足首まである長いドレスの、幾重にも重ねたフリルがうまく隠してくれることを祈った。
いつ何時も淑女であること。
貴族の子女として生まれたからには、心得ておかねばならない。
「そんなに気を張ることはないのよ?」
ソファに腰を下ろした途端、ただ黙って事の成り行きを見守っていた母から声をかけられた。
その人は、この部屋に入ったときには既にそこに居たのだけれど。今のいままで気配を消していたのだ。
定規で測ったかのように精巧な作りをしている顔を見上げれば、ふかりと沈んでしまいそうに感触のいい生地が弾む。
父が愛用している書斎机とは違って、この長椅子は先日購入したばかりの新しいものだ。昔から我が家に出入りしている商人が、海の向こうから最高級の品を仕入れたと言って意気揚々と運び込んだのである。
その商人、ーーーーーというよりも商家は、私もお世話になることがあるからこその顔見知りだ。なので、新調された家具のことなど興味もないのに、どこから輸入されたものなのか、デザイナーは誰なのかなど、滔々と語って聞かせてくる。
いっそうんざりするほどであるが、母いわく、それも勉強なのだそうで。商人が帰った後、必ず復習させられるのだから困ったものだ。
事実、良いものを見極める目というのは、上流階級においては当たり前に必要なのだけれど。その才は勝手にやってくるわけではない。
『何事も研鑽を積み、学ぶこと』というのは母の言葉だ。
ソファの生地を選んだのもその人で、さすがにセンスが良く肌触りもいい。
社交界でもたびたび、母がその身に纏ったドレスは話題になり、やがては流行と化していくようだった。
類まれな美貌を持ち、かつ洗練された審美眼がある。
貴族になるべく、貴族として生まれた。そう言われても不思議はない。
そんな人の娘であるというのはなかなかに重責が伴うものであるけれど、運よくも私は母によく似ていた。
私と母が並んでいると誰もがそう言うので、そうなのだろうと思う。鏡を見れば、母の幼い頃を思しき子供が顔を覗く。
社交界では「美」こそが正義。
母に似ていて良かったと思ったのは、一度や二度ではない。
「けれど、いけませんわ旦那様。娘といえど言葉を尽くさないのはただの怠慢です」
私には至極優しい母であるというのに、己の夫に対してはなぜか手厳しい麗人が優雅な仕草でティーカップを持ち上げる。正面のソファに座った父は、やれやれとでもいうように首を振った。
「どういう意味だい?」
周囲には冷酷だとも評される仕事人の父は、その一方で愛妻家ということでも有名だ。
「……どうしてそうしなければいけないのか、説明が必要なのでは? 私たちは家族です。旦那様の使用人でも従僕でもありません。命じられたことにただ『はい』と従うことはできませんわ」
私たちを意のままに操れるなどと思わないでくださいまし。
微笑みを崩さない口元は、それでも不満を隠さない。
最近、紅の色を変えたのか、以前よりも一層若々しい母は少女のような無垢さで他人を惑わせる。これは、娘の私ですら厄介だと感じていた。
なぜなら、誰もこの人に逆らえないからである。
それは、広大な領地を管理し、領民を守り、なおかつ大勢の騎士を統括している絶対的な権力を持つ父も同じであった。
苦笑しながら、それでも一つ頷いた我が家の主は。
「―――――本当はねぇ、何でもかんでも家族に打ち明けるのが良いこととは思わないんだよ。なぜなら、いざというときに君たちを守れないからだ」と肩を竦める。
「……まぁ、そうですの?」
大仰に大きな瞳を開いた母が華奢な首を傾げば、ふわりと、よく慣れた香りがした。
社交界にはやはり流行りの香りがあるらしいが、母は専属の調香師を雇って香水を作らせているので、自分だけの香りを纏っている。
いつだって私を守ってくれる香りだ。
「例えば私が、罪に問われるような事態になったとき『妻と子は何も知らなかった』という弁明ができなくなる」そうだろう?と、この瞬間まで母の顔を真摯に見つめていた父が、つとこちらに視線を移した。
案に同意を求めているのだ。
つい「はい」と頷きそうになったところで、
「まぁ、旦那様。それではあまりに頼りありませんわ。貴方様の言い分ですと、いざというときに、私とマリアンヌを守れないということですの? それならば私、恐ろしくて仕方ありません」
「おいおい、」
「ですから、私はいざというとき、マリアンヌしか守りませんことよ」
薄情な旦那様には、薄情な妻がお似合いです。
「いざというときは、旦那様を見捨てる覚悟ですから安心なさって」
仮面のような笑みを携えて本音を隠すのは貴族の得意のするところであるが、家族と共にあるときの母は、この世界の人間なら誰もが魅了されるような笑みに、本音を添える。
家族間において建前など無用のものだと思っているようだ。
貴族に生まれたからには、それが普通のことではないことを知っている。どの家においても家長が全権を握り、男性優位の世界では女性の権利が低い。妻は「ただ支える存在」でしかなく、夫に従う。それが、良しとされている。
良妻賢母とは、そういうものなのだと。
本当にそうなのか、私はまだ、知らないけれど。
「―――――本当に、君にはかなわないな。政治のことだから全てを話すことはできないけれど。要するに……」
父と、イリアのご父君はどうやら政敵であるらしい。
社交界にはいくつかの派閥が存在し、それぞれの集団を管理するのは筆頭貴族と呼ばれるものである。
いわゆる高位貴族というもので、その中には当然、我が家のような伯爵位程度では簡単にお会いできない方々も含まれている。つまり、王族と縁を結んでいる尊い血筋の方だ。
父とイリアのご父君は、どうやら対立している派閥に属しているらしい。そして、当人同士がどれほどに強く望もうと、派閥を仕切っている領袖の許可なく親しくなることは許されない。
「あら、けれど……。私とマチス伯爵の奥様の親交は禁じられておりません」
先日もお茶会にお呼ばれいたしましたのよ。と、口元に笑みを刷く母は、あまりにも高雅なので何を考えているか分からない。
少し恐ろしい気がして、ほっそりした肩越しに見える質素な壁に視線を移した。そこに一つ、存在感を放つ小さな額に収められた絵画が飾られている。
我が家には、いかにも値の張る調度品がいくつもあるけれど、どれも職人が魂を込めて作ったであろうことが一目でわかった。それらと対峙するときは、畏怖さえ覚えるほどの厳かな美を全身で感じる。あまりにも力強い芸術品には、命が宿っているようで。
母は、そういったものに似ていた。
「君たちはむしろ仲良くしてもらわないと困るんだよ」
「……?」
右手が温かいものが重なって意識が向く。ぼんやりしてしまったのだろう。母の細い指が、私の甲に重なっていた。
「君と婦人が仲良くしていたところで、誰も君たちが親友だとは思わない。真実、血を交わした盟友だったとしても、それを信じるものはいないだろう。なぜなら、我が家とマチス家が相容れることは絶対にないからだよ」だから、表面上はむしろ、仲良くしておかなければならない。間違っても国王に我々が仲違いをしているなどと思われては、信頼を失うことになりかねない。
父は、優しく「分かるかな?」と問うた。これは、母へのけん制でもあるようだ。常に『家』に重きを置くこと。暗に、己の意志や願望は二の次であるべきなのだと。
ちらと見上げた、母の美しい横顔は、一切ぶれることがなく、微笑みを湛えた目元が変わることはない。けれど、感情が読み取れないその表情こそが、雄弁に語っている。父の意をくむと。
それを見て、我が家の主は満足気に微笑した。
もはや返事すら必要なく、夫婦ともなれば目と目を合わせるだけで意思の疎通ができるらしい。
「……しかし、マリアンヌはまだ子供だ。もしも、君とイリア嬢が親しくしていたなら、それはそのままの意味だと捉えられてしまう。純粋無垢な子供たちは謀略とは無縁なはず。そして、それを我々両親は許容していると。周囲にはそう見えるだろう」
父が真っすぐに私を見ている。でもやはり、難解な話を聞かされているようで、聞けば聞くほど混乱してくる。何を言わんとしているかがよく分からない。
「しかし、それは問題だ。つまり、我が家とマチス家が結託し、君たち子供を利用して何か企んでいるのではないかと思われる。……そういう可能性があるということだ」
鋭さを増した主君の双眸に、どきりと胸が鳴る。縋りつくように母の手を握った。すると、私と同じくらいの強さで握り返してくれる。それだけが、救いだった。
「残念なことだけれどね、マリアンヌ。貴族の家に生まれたからには、付き合う人間を選ばなければならないよ。いつだって、君を陥れようとする人間がいると肝に銘じておかなければ」
他人を疑うことは悪ではない。それは君自身を護る盾となるはずだ。
「家から一歩出たら、鎧を纏うこと。幼いマリアンヌには難しいことかもしれないけど、覚えておきなさい。ーーーーーだから、さぁ、笑って」
強張っていた頬がぴくりとひきつる。仲良くなりたいと願っていた子と、突然、親しくするなと言われて笑えるはずがない。でも、父はそうしろと言う。
母はただただ穏やかな微笑を向けるだけで、何も言ってはくれない。宝珠をそのままはめ込んだような瞳だけが、語りかけてくる。
それが答えなのだ。淑女とはこうあるべきだと、示されている。
もう否やとは返せなかった。なぜなら私は、母に焦がれていたから。こんな女性になりたいといつも思っていた。だから、納得のいかないことであっても、笑って受け流すべきなのだろう。
「……お父様。私、誰にも見られないようにいたします。誰にも気づかせたりいたしません」
笑みを浮かべて父の指示に従えば、それでうまくいく。分かっているのに、舌から滑り落ち形となったのは、単なる決意だった。
本当のところ、後悔し始めていたのだ。イリアに声をかけるならやはり、彼女が演奏を終えたすぐ後だったのではないかと。
言えば良かった。
会場に集まった大人たちが、あの子の演奏を悪し様に言う前に。ただ一言「素晴らしかった」と。
そのたった一言を呑み込んでしまったために、時が経てば経つほどに、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
つまるところ、遅すぎたのだ。
学院に入るまでは、彼女と顔を合わせる機会があるかどうかさえ怪しい。貴婦人たちが主催する茶会には、子供たちが呼ばれることもあれば、そうでないこともある。先日の茶会のように、中位貴族の令息、令嬢が一堂に会することは滅多にない。
そして、時間が過ぎてしまった今。イリアに会えたとして、ただの賛辞を与えるだけでは、あの演奏の素晴らしさが正しく伝わらないような気がするのだ。
社交辞令のように思われたくない。
「マリアンヌ、おやめなさい」
そっと手を離されて、自分が恐ろしい間違いをしたのではないかと蒼褪める。
「違うわ、マリアンヌ」ソファから降りて、絨毯に膝をついた母が私を見上げた。怒られるかもしれないと震える私の両手を改めて握り直し、願いを込めるように言う。
「何も言わなくてもいいの。何をしたいか、何をすべきか、皆に知ってもらう必要はないのよ。真意を知られないように、胸の奥にしまうのは悪いことではないの。むしろ、本当に大切なものは心の奥底にしまって、誰にも見せないようにしなさい。それは、私や旦那様に対しても同じよ。家族だからと言って、何もかもを打ち明ける必要はありません」
大切なものは、いつ誰に奪われるか分からないもの。
「ね、旦那様?」
「うーん。さっきと言っていることが違わないかい?」
「……まぁ! そうでしたか?」
「うん。私には説明を求めたけれど。マリアンヌには違うんだねぇ」と、一見、妻を問い詰めているようなことを言っているのに、それとは裏腹に頬を緩める。
「私は間違っていますか? 旦那様」
こくりと傾げたか細い首。母もまたこの家の女主である。か弱いように見えてそうではなく、意見を言えないようでいて、そうではない。
柔らかそうな肢体に、鋼にも似た強い意志を秘めている。
「同意はしたくないなぁ」
父は、私に向けた眼差しとはまた別の思惑を潜めて、最愛の人を見やる。
「けれど、……」
そういう君だから、愛しているのかもしれないなぁ。と、独り言のように呟いて天を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「マリアンヌは賢いからね。私たち、それぞれの言い分をうまく汲み取ってくれると信じているよ」
ただ、間違った選択をしないように。間違えば、後はないからね。