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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
マリアンヌの真実
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1

幼い頃、よく同じ夢を見た。

眠りに落ちると、ある人の一生が、走馬灯のように流れるのである。不思議な夢だと思っていたけれど、その内に見なくなった。だから、どんな夢だったか忘れていた。


思い出したのは、つい、最近のことだ。


「―――――正直、貴女が誰かを助けるなんて少し意外でしたよ」


舗装されていない道を進む馬車が大きく揺れて、身体ごと浮かび上がる。馬車が大きく揺れることは、あらかじめ想定されていたので、従者は大きなクッションを複数個、用意してくれた。座椅子と身体の間に隙間ができないようにそれらを挟み込んでいる。

元々、貴人が乗るための馬車なので乗り心地は悪くない。だけれど、長旅であるが故にどうしても肉体への負担は避けられなかった。

腰が痛いような気がして背中を伸ばす。天井までは少し余裕があるけれど、クッションを置いている分左右は狭い。

向かい合わせの座席は大人二人が座れば当然、窮屈で、相手が男性ならなおさらである。

互いの膝がくっつきそうだ。


「……私だってたまには人助けをするのよ。貴方のことだってそうでしょう? 助けてもらった覚えはないなんて言わせないわよ」

微笑みながら答えれば肩を竦めた男が「それはまぁ、感謝しています」と軽く頭を下げる。

「それだってすごく不思議でしたけど……、もとより僕たちには何の接点もありませんでした。なのに、貴女は僕に言いましたね? 助けてあげてもいい、と」

「そうね」

「……僕が困っていることを知っていたのも疑問ですけど、そもそも、なぜです?」

「……、」

私が口を開こうとすると、男は右手を上げて遮った。吐き出そうとしていた息を呑み込む。


「そう、ずっと考えてましたよ。なぜ、僕を助けるのか。―――――伯爵家第一位のやんごとないお家柄の貴女が。よりにもよってなぜ、僕なのか」


放っておいたところで何の影響もないはずなのに。いや、むしろ……、


「僕に手を貸すことは貴女にとってあまり良いことではない。こんなことに関わっては貴女が責めを負うことすら考えられる。その場合、お家断絶もあり得るでしょう。何せ、国が関与しているような大事態だ。なのに、貴女は僕を助けることにした。だから、何でだろうってずっと思っていましたけど、」


彼女のためですね?


そう言って小窓にかかったカーテンを開けた。途端に、夕陽が差し込んでくる。目を細めたその人の横顔がオレンジ色に染まった。赤い髪が一層赤く、燃え上がるように見える。


「貴女は、この世で唯一無二の親友のために動いた。そうでしょう?」


結果的にそれが彼女のためになったとは言えないかもしれませんけど、と意地悪そうな笑みを浮かべた男がこちらに視線を戻す。

そうだ。彼の言う通り、結局あの子は何もかもを失うことになった。

直接的に関与して奪ったわけではないけれど、その責任の一端は、私にもある。

要は、この男を救ったことで、ソレイルは窮地を切り抜け、シルビアは傷つくことなく済んだのだけれど。

だからといって、何もかもが上手く収まったわけではない。

事実として、彼女は逃亡者となった。


この国には二度と、戻れない。


「後悔してるんですか?」

僅かな沈黙の後の問いに首を傾ぐ。

「―――――いいえ」

それは、絶対にない。

「彼女は生きているもの。―――――それだけで、いいの」

そう答えた私の心の底を覗き込むような、そんな何とも言い難い眼差しをした男が、

「……シルビアお嬢様と、ソレイルが手を繋いで幸福な人生を歩むことになっても?」

「……」

「それが貴女の望んだ彼らの結末ですか?」

「結末は、まだ分からないわ。彼らがどうなるかなんて誰にも」

「まぁ、そうですけど。でも、誰の目に見てもソレイルがシルビア嬢に惹かれていた。それは事実ですよ」

「そう、かしら」

「ええ」

なぜか冷笑を浮かべた赤い髪の男がふっと息を吐き出す。

「不満そうね」

「いいえ? 僕はソレイルの味方ですから。彼の選択が、たとえ応援できないものだったとしても否定することはしませんよ」

「友人としてそれは正解なの?」

「さぁ。友情の形なんて人それぞれでしょう。正解も不正解もない。だからこそ祈っています。彼が間違わないように。これまでも、これからだってそうです。けど、ただ……、」

「ただ?」


「悲しい」


僕はイリア嬢のことをよく知っているわけではないけれど、ソレイルと彼女はお似合いだと思っていましたからね。と、今度は視線を落として、膝の上で重ねた指を所在なさげに動かす。

その指には当たり前に剣だこがある。誰かを守るため、誰かと戦うときのために修練を積んできた人だ。騎士であれば皆そうなのだろうけど。

そんな風に、何かを背負う覚悟をした人間には、イリアの存在が眩しく映ったに違いない。

たった一人のためにすべてを捧げるなんてことは、大抵の人間にとってひどく難しい。だって、人間はあらゆるしがらみの中で生きている。

私だってそうだ。だから、


「ソレイル様は他人ひとに誤解されやすい方だわ。親友の貴方ですら見誤っているのですもの」


「どういう意味です?」男が小さく首を傾げる。体格は大人そのものであるが、正面からその顔を見据えればまだ幼さが残る。今日は共にしていないが、普段私の護衛を務めている別の騎士は、真実大人であるので体格も彼よりも一回り大きい。比べるべくもないが、まだ学院に通っているこの男とソレイルが、あの困難な状況から生還することができたのは奇跡に近い。


「……ともかく、私は為すべきことをなしたまで。ソレイル様もきっとそうするでしょう」


イリアは、ソレイルにシルビアを託した。彼はきっと生涯をかけて、約束を果たすはずだ。亡き婚約者の願いを反故にするようなことはしないと断言できる。

「―――――貴女にはソレイルがどんな人間に映っているんですかね?」

今度は私が首を傾げる番だ。なぜなら私にとってあの男は、「イリアの婚約者」でしかないからだ。それ以上でも以下でもない。その役目を失った今、私にとってソレイルは。


「可哀そうな人よ」


だって、愛を失った。

それは決して失ってはならないはずのものだった。



*******


いつからそうだったか分からないけれど。私と彼女―――――、イリアは常に好敵手のような扱いであった。

同世代の子女なら他にもいるはずなのにも関わらず、爵位の関係でどうしても私たちは並べて比較される立場にあったのだ。

けれどだいたいにおいてはこう言われる。

『マリアンヌ様のほうが、上ですわ』

何が上で、何が下かもよく理解できない年頃のときには既に、そういった裁定が下されていた。

今なら、私の伯爵家第一位としての家柄が理由なのだと分かるけれど。幼い頃はただ不思議に思っていた。

皆がそういう評価をした理由は何なのだろう、と。


だってイリアは、姿勢がいい。仕草に品がある。微笑は貴族そのもので、むやみやたらに大声を上げたりしない。ピアノは上手だし、ダンスは優雅で、勉強にも励んでいる。私に劣るところなど一つもない。むしろ、すべてにおいて彼女は私の一歩前を行く。

だというのに皆言うのだ。

マリアンヌ様のほうが素晴らしいと。

あまりにも皆が口を揃えて言うものだから、私はもしかしたら自分自身を過小評価しているのかもしれないと思った。卑下しているわけではないけれど、本当の私はもっとできているのではないかと。


でも、調子に乗れるほど貴族の世界は甘くはなかった。


あれは多分、七つのとき。

母と一緒に招かれた他家での茶会で。主催者である女主人に言われた。

『マリアンヌ様はピアノがお上手だとお聞きしています。ちょうどここには良いピアノがありますので、皆に聴かせてあげていただきたいわ』

本当に私の腕を評価していたのか、あるいはほんの少しの悪意があったかもしれない。

その人は母の古くからの知り合いであったし、招かれているのは顔見知りばかりであったけれど、同世代の貴族ばかりだったので、誰の子供が一番優秀か、将来への見通しはどれほどのものなのか試してやろうというもくろみもあったはずだ。

そんな中、余興として選ばれたのがたまたま私だったというわけである。

そうして披露した私の腕前は、悲惨ではなかったけれど称賛には値しないものであった。

きっと誰が聴いてもそう思ったはずだ。それもそのはず。だって私は、ピアノを弾くのが好きではなかったのだから。

指がなまらないように最低限の練習しかしなかったし、意欲的に音楽を学んだわけでもない。譜面を読み込んだわけでも、作曲者の意図を汲んで心を込めた演奏をしたわけでもなかった。


―――――なのに、私は皆に褒められた。


感動して涙がこぼれたという人まで現れるくらいに。

拍手喝采、称賛の渦。私を取り囲む大人たちは口を揃えて、演奏家も顔負けだと褒め称えた。

『―――――しかも、お美しくていらっしゃる! 将来が楽しみですわ!』

大仰に両手を叩きながら、かように聡明であるなら嫁ぎ先も引く手数多だろうと。


背筋が凍るような思いで、その場に立ち竦んでいた私の気持ちを、誰か理解できるだろうか。


あのとき、私の前に演奏した少女がいた。名を、イリア=イル=マチスという。

余興の余興に選ばれた子だった。彼女の演奏を聴いていた人は少ない。おしゃべりに興じていた大人たちは変わらず口を動かし続け、親と共に呼ばれた子供たちは運ばれてくる料理に夢中だった。

止まないざわめきの中、正しく伸ばした背中を曲げることなくまっすぐ前を見据えて『イリアと申します』と短く自己紹介した彼女は、楽譜も見ずに時間にして約十五分の曲を弾いて見せたのだ。

大人でも難解だと根を上げる、誰もが知っている古い曲だった。

小さな指、華奢な体格、大人なら難なく指が届くけれど、子供には当然届かない鍵盤もある。強弱だって甘いところがあった。大人のように力強くは叩けない。

それでも、一体、どれほどの時間を練習に費やしたのかと思うほどの演奏だった。

私は、心の底から感銘を受け、鳥肌を抑えることができなかった。


だけど恐らく、その演奏を最初から最後までしっかりと聴いていたのは私だけだっただろう。

その日招かれていた管弦楽団と同じように、ただの背景音楽として消費されてしまったのだ。

あまりに上手だったから?

いや、違う。


初めから、誰も彼女の演奏を聴く気がなかった。


彼女はそのとき既に、侯爵家の跡取りと婚約関係にあったのだけれど。端的にいえば、社交界は彼らの婚約を良くは思わなかった。あわよくば自分の娘を、と思っている貴族が大半だったので、要するにイリアはあの場で鼻つまみものだったのである。

伯爵家第三位が、なんという身の程知らずと陰口を叩かれ、その容姿もソレイル様に見合っていないと口汚く罵られていた。

大人も子供も彼女のことを侮っていたのだ。隙あらば彼女を貶め、傷つけてやろうという人間が集まっていたといえる。

彼女がピアノの前に立ったその瞬間、「あまり美しくないのね」と口にした人がいた。小さな声だったけれど。きっと大勢の人間がその言葉を耳にした。私だってその内の一人だ。

もしかしたらイリアにも聞こえていたかもしれない。

反論する人はいなかったし、その場にいたはずのイリアの母親ですら何も言わなかった。だから、その言葉は正しいものとして認識されてしまった。


けれどそれは、イリアだったからそうなったのではなく。あくまでも、侯爵家第一位の跡取りと婚約したから、いらぬ嫉妬を買っただけで。私がもしもイリアだったとしたら。あの心無い言葉を投げつけられていたのは私だったに違いない。


ソレイルの婚約者が亡くなり、父親同士に親交があったという理由で新たな婚約者として選ばれたイリア。世間的にはそう思われているが、事情はもっと複雑だ。

ソレイルの生家、ノルティス家は王家からの信頼も厚く、近年は王命による仕事を請け負うことも多いという。現侯爵は、元老院にも名を連ね、国王に直接進言できる数少ない人物であり、つまりそれほどの権力を誇る。

その嫡男の婚約者だ。適当な子女を宛がうわけにはいかない。両家の勢力均衡パワーバランスを考えた上で定められたのである。侯爵家と対等な家格だとあまりに力を持ちすぎる。それでは王家を脅かす存在になりかねない。子爵家、男爵家など力がなさ過ぎてもそれはそれで問題だ。

ソレイルとイリアの婚約は正しく政略によるものであり、彼らには他の人を選ぶことはできなかったのである。

一時は私の名前も挙がっていたようだが、ノルティス家が固辞したと聞く。そのあたりは、より信頼のおけるマチス家を選んだということだろう。


ゆえに、もしも何かが違っていたなら余興の余興に選ばれたのは私かもしれないと思った。

だから、自分の演奏が終わり周囲からの称賛を得た後、彼女の姿を捜したのだ。イリアはあくまでも傷ついた素振りなど見せず、堂々としたものだったけれど。柔く幼い心を抉るには十分すぎるほどの出来事だったに違いないはずだから。

慰めることはできないかもしれないが、せめて貴女の演奏は素晴らしかったと伝えたいとそう思って。


そんな風に思うことこそが、驕りだったとは気づかずに。


「もっと、練習しなければ」


茶会の行われていた部屋から出て長い廊下を歩いていると階段のあるほうからそんな声が聞こえた。

相手に見つからないようにそっと身を乗り出せば、踊り場に二つの影がある。一つは私が捜していた目的の人物で、もう一つは細身の女性のものだった。横顔から、その人がイリアの母親であることに気づく。

以前から、穏やかそうな方だとは思っていたけれど。想像よりもずっと神経質な声をしていた。


「誰にも文句など言わせないくらいの技術を身につけなさい」

「はい」

「誰からも称賛を得られるような表現力を育てなさい」

「はい」

「いつも前を見て、俯かないように。微笑みを絶やさず、誰に何を言われても堂々としていなさい」

「はい」


感情の起伏の見えない、淡々とした返事。褒めてあげないのかともっと身を乗り出そうとしたとき、背後から肩を叩かれた。驚きのあまりに漏れそうになった悲鳴を呑み込み振り返れば、自分の口元に人差し指をあてて「しーっ」とほほ笑む母が居た。

そのまま手を掴まれて、その場から離れる。


「マリアンヌ。貴女の正義感は美徳ではあるけれど、あまり首を突っ込みすぎるのはよくないわ」

「……でも、お母さま」

「そうね。彼女は……、とても気の毒だとは思うわ。私も」


でも、これから先、こういうことは何度もあるはずよ。と、慰めるように私の頭を撫でる。優しい指先になぜか、泣きそうになった。イリアだって本当は、こんな風に撫でてもらいたかったはずだ。


「強くなければならないの。今はきっと慰めてはならないのよ。少なくとも彼女のお母さまはそう判断なされたのでしょう。そこにマリアンヌの意見など必要ないのよ」

「……、」

「でも、今度もしも彼女と話す機会があったなら、盛大に褒めてあげなさいな」


二人きりのときなら誰にも文句など言われないはずだから、と片目を瞑って笑った母に同意する。

そうだ。二人きりのときなら誰にも邪魔されない。思いっきり彼女のことを褒めてあげられる。


何て言おうかしら。いいえ、考える必要なんてない。だって彼女は本当に素晴らしかったのだから。

喜ぶだろうか。笑ってくれるだろうか。

作り笑いなんかでなく。心から笑ってくれたなら。どんな顔をするだろう。


そう、思っていたのに。












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