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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
終わりの終わり。
61/64

7

部屋の中は、あくまでも小さな明かりを灯しただけだというのに、マリアンヌがそこにいれば、世界の彩度が上がる。全身に淡い光の粒を集めたような彼女には、それほどの華やかさがあった。

ほっそりとした体躯を守るように纏っている外套は闇夜のように暗く、決して目を惹くものではないというのに。


「夢じゃありませんわよね? 本当に、ここにいらっしゃるのね?」


抱きしめられたまま動けずにいると、確かめるように背中や肩を撫でられる。何度も往復する手の平にくすぐったいような気がして笑みをこぼせば、その吐息に気づいたらしいその人が再び「ああ、良かった……!」と声を漏らした。明らかに感極まっている様子の友人に、こちらも胸が詰まる。

どうしてここに、そう訊こうとして口を開いたにも関わらず、すぐには言葉が出ない。


「……マリアンヌ様。あまり時間がありません」


滲んだ視界を振り払うように何度も瞬きをしていると、部屋の隅でこちらの様子を窺っていた男が静かに言った。それでも私を離そうとしない彼女に焦れたのか「お急ぎください」と、窘めるように声を張る。

はっと、虚を突かれたように一歩後退したマリアンヌの離れていく体温が寂しい。手を伸ばしてしまったのはほぼ無意識だった。もしかしたらそれは、彼女も同じだったかもしれない。

互いの指先だけが、掠めるように一度だけ触れ合う。

「泣いてしまいそう」

震える唇から零れた、聞き逃してしまいそうなほどに小さな声。

けれど「イリア様」と、覗き込むように視線を合わせてくる意志の強い双眸は、揺らぐことがない。


「お怪我は、ありませんのね?」

既にそうと知っていたのか、確信にも似た問いにそっと頷く。そのときになってやっと気づいたのは。

あまりにも唐突に現れた友人の目の下が、暗く淀んでいることだった。最後に会ったときと比べて、頬の肉が落ちている。隠しきれない疲労が滲んでいた。

彼女が、一人しか護衛を共にしていないことを考えると、蝶よ花よと箱庭の中で育てられてきたはずの貴族の子女が、侍女も連れずに旅をしてきたことになる。

疲れていないはずがない。


足元を見れば、汚れたつま先の上で埃まみれの裾が、重たげに緩く踊っている。一目で高級品だと分かる生地のドレスがくすんで見えるのは埃を被っているからだ。細い手首を囲む袖口も汚れていた。


こんな恰好は。いつもの彼女ならあり得ない。


「マリアンヌ様は、寝る間も惜しんでここまで来ました。だから、馬を二頭失った。長時間走り続けたからです。それほどに急ぎました。―――――貴女に会うために」


私の顔を見て、思うことがあったのだろう。男が簡潔に語る。

その口調には、隠しきれない非難の色が滲んでいた。

「……あの男のことはお気になさらず」

まったく、と首を振って笑うその人に、何を言えばいいか分からない。だから、ただ「マリアンヌ様、」と名前をなぞれば、はにかむような笑みが返ってきた。続けて、

「イリア様にお会いする前に、湯あみをしたかったのですが……、」と息を吐く。

間に合わなかったのですと、脱力するように、ぽすんとベッドに座り込んだ。

頭を垂れる姿が頼りなげで、倒れそうにも見えたので声をかけようとしたけれど。彼女は、すぐさま何事もなかったかのように身なりを整えて背筋を伸ばした。

肩に落ちた金色の髪を指で払い、ベッドの上に広がったスカートの寄れをさりげなく直す。その仕草が、あまりにも優雅で。どうしても市井の人間とは違うのだと実感する。

悠揚な振る舞いは、ともすれば尊大にも見えるだろうに嫌な気分にはならず、自然と人の目を惹く。

「貴婦人」と呼ばれるのに相応しく、そうあるために訓練されたものだ。貴族に生まれた女性なら、誰もが学ぶ。というより、学ばされる。だけれども、生まれ持った素質でもある。と、私は思う。


―――――何度人生をやり直しても、得られない。


「……本当はもっともっとお話ししたいところですが、時間がないというのは本当ですの」

マリアンヌはそう言って、足元に置いていた小さな鞄を膝の上に乗せた。

隣に座るように促され、戸惑いつつも指示通りに動く。

私が落ち着くのを見守った後、その人は鞄のふたを留めている金具を外した。中を覗き込み、そこから束になった複数枚の紙を取り出す。

「今から説明いたしますから、よく見ていてくださる?」

一枚一枚、紙面に刻まれた文字を読み上げながら、マリアンヌはとつとつと口上でも述べるかのように説明を始めた。それぞれがどのような役割を果たすものなのかを。

相槌を打つ間もない。

「今の段階で準備できるものは用意いたしました。出国許可証、旅券、近隣国へ入るための査証です」

船に乗るために必要なものがこれ、と手渡されたそれらに、こくりと喉が鳴る。

紙の厚みや印字、関係各所のサインなど、偽造などではなく正式に取得したもののように見えた。

もしくはよほど高度な技術で作られたものなのか。

どちらにしろ只人が手に入れられるものではない。


「この出国許可証と査証を合わせて、身分証となります。名前は、もちろんイリア様ではなく別人のものですけれど。……だから、この名前をよく覚えてくださいませ」

他人名義の、だけれども、偽物ではない書面。その意味を推し量ることができない。

誰かの手を借りていたとしても、マリアンヌには、これだけのものを用意する力がある。


「それと、貨幣価値がありそうな石をいくつか持って参りました」

「―――――え?」

「換金なさって。私、個人の持ち物ですから、もしも出所でどころを探られることになっても困ったことにはなりません。けれど、換金なさるのは、できれば出国された後でお願い致します。そのほうが安全ですので」

友人の発言に耳を疑い、目を瞠る。さらりと告げられた事実に気持ちが追い付かない。ちょっと待って、と言いたくとも矢継ぎ早に話されるので、どうしようもなかった。

「とりあえず、船でこの国に渡ってください」

目の前に差し出されたのは地図だ。端に刻まれた年号から最新のものだというのが分かる。

そこに赤いインクで示されていたのは我が国とも親交の深い、友好国の一つであった。

「本当なら、道案内に我が家の配下の者をつけたいところですが、他人が介入すればそれだけ危険因子が増すことになります。ですので、場所の詳細は、黒髪の彼にお伝えいたしますわ」

「……え?」

マリアンヌの視線を追って振り返れば、入口の傍に立っていたカラスが薄く微笑む。

「イリア様がお住まいになる家はご用意できておりますので、どうかご心配なさらず。少し遠い場所ではありますが、私が個人で所有している別荘です。といっても、名義はもちろん私ではありません。当家とは縁もゆかりもない人間が管理しております。つまり、れっきとした隠れ家ですわ。いざというときのための。ですので、大丈夫です。私がこの件に関与しているとは思われない」

「……あ、あの、」

「元々は、もしも我が家に何かあった場合、短期間でも身を隠す場所が必要だと祖父おじいさまが準備していたものですの。まさか今、あの家を使うことになろうとは……、思っていませんでしたけれど。備えはしておくものですわね。役に立ちました」

「、」

「これからの身の振り方が定まるまでそちらにお隠れになって。その後のお住まいまでは手配できませんけれど……、でも、きっとそのほうが安全でしょう。わたくしは貴女の今後を、知らないほうがいい」

「あの、マリアンヌ様、」


「どうして、このような……、」


マリアンヌとは我が家で別れたきりだ。あの後、自分の屋敷に戻ったこの方は、学院を休んでいる私のことを案じてくれながらもいつもと変わらず、普段通りの生活をしていたはずだ。

それなのに彼女は、私が今置かれている状況についてとてもよく知っているように見える。


「私は、何も知りません。イリア様」


つと、視線を上げたマリアンヌがそう断言した。

「ただ、貴女様がこの国から早急に出なければならないということ、そしてしばらくの間、隠れる必要があるということ、知っているのはそれだけですわ」


ああ、それと。

貴女はもう亡くなっているということももちろん知っています。


「何も知らない、と言いましたけれど。案外、知っていることが多い、かもしれませんね」

ふふ、と笑みを深くした彼女がじっと私の顔を見つめる。

「……、なぜ、生きているのか……、不思議ではないのですか」

あまりにも真っすぐに向けられた視線に、罪悪感を覚える。

「……確かに、イリア様がお亡くなりなったと聞いて、私、声を上げて泣いてしまいましたわ」

優しい声だった。けれど、死を偽装したことがこの方を悲しませたのだと思うと苦しくなった。


幼い頃から既に、貴族として申し分のない素質を兼ね備えていたマリアンヌ。

いつぞやの夜会では他国から招かれた貴賓に、王族と間違われていた。それほどの人なのだ。外見のことだけを言っているわけではない。もちろんそれも、彼女の魅力の一つではあるけれど。

詳しくは知らないが、化学の分野では専門家顔負けの知識を誇ると聞く。頭もいい。

自尊心が高いように見えるのではなく、事実、自信があるのだろう。

他人を圧倒するほどの美貌と気品を兼ね備え、堂々とした振る舞いはいつだって毅然としていて物怖じすることがない。

多少のことでは動じない人だ。

それが。

―――――声を上げて泣くなんて。


「お恥ずかしいことですけれど、毎日毎日、悲しみに明け暮れておりました。もう貴女はいないというのに、取り戻すことなどできないと知っているのに、一体どうすれば貴女を助けられたのか考えたりして……」

「……っ」

「私はあのとき、帰るべきではなかった。どんなに拒絶されたとしても傍にいるべきだったと、そんなことを思ったりしましたわ」

そのとき、膝の上に重ねた私の手を、マリアンヌの両手が優しく包み込んだ。

「でも、イリア様。貴女はこうして生きていらっしゃるし、こうして私たちは再会することもできましたわ。だから、いいのです」


優しくて、でも力強いその手にはっきりと激励を送られている。

「あのまま二度とイリア様に会えなくなっていたなら、私は生涯、己の行いを悔いたでしょう」

そうならずに済んだのはきっと神の思し召しなのです。と、地図や旅券などを再び鞄にしまうと、それをそのままこちらに渡してくる。

「本当はもっとたくさんのものを用意できれば良かったのですけれど……、荷物になっては旅の邪魔になるかもしれないと思いましたの。それに、幸い、お洋服などは用意できたのだとお見受け致します」

ちらりと私たちが持ち込んだ旅行鞄に目を走らせて、一つ頷いた彼女が立ち上がる。


「―――――私の下へ現れた神は、蝶の形をしていましたわ」


はっと、カラスの方に視線を向けるも、当の本人は、いかにも無関心といった様子で視線を返すこともせずに明後日を見ている。

「信じて良かった」

そんなカラスを気にも留めない様子でふわりと笑んだマリアンヌが「私たちはこのまま屋敷に戻ります」と両腕を広げる。座ったままぽかんと見上げていれば、軽く上半身を丸めた彼女に抱きしめられた。

頬に落ちてくる金色の髪の、柔らかな感触と、優しい香り。同性の羨望を一身に浴びる女王のような人だ。

その細い肩越しに、染みの浮いた天井が見える。

こんな場所でまさか、抱擁を交わすことになるとは。


幼少期から知っているはずの人なのに、これほどの距離で互いの体温を感じたことはない。近づきすぎず、離れすぎず。そうすることが一番、私たちにとって良いことなのだと思っていた。

己の数奇な人生に、巻き込みたくなかったから。

「きっとこれが今生、最後」

耳元で囁かれた言葉にびくりと肩が震える。反射的に離れようとしたけれど、あまりに強い力で抱きしめてくるから叶わない。華奢な背中が小刻みに揺れていることに気づいたのはそのときだ。


泣いている。


「マリアンヌ様、時間がありません」


ず、と鼻をすする音が聞こえて、今の今まで逃れられないほどの力で拘束されていたというのに、信じがたいほどあっさりと解放された。

改めて向き合ったマリアンヌは、いつものように優雅に微笑んで。


「―――――さようなら、イリア。……、」と、昔からずっとそうしていたかのように、敬称なしで私の名を呼んだ。とても親し気に。けれど、隠しきれない寂寥せきりょうを伴って。

そして、呼吸を一つ置くだけの、短い沈黙の後。

すっと胸を張った彼女は、いかにも貴族らしい礼をして、護衛と共に部屋を出ていく。急いでいるという二人を引き留めるつもりなどなかったのに、つい名前を呼んでしまって。マリアンヌも思わずといった感じで足を止めたけれど、振り返すことはなく。


私たちは、そうして、別れた。





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