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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
終わりの終わり。
59/64

5

宿の人が用意してくれた湯舟は、とても心地の好いものだった。

柔らかなお湯に包まれていると、こびりついていた血や泥と一緒に、溜まっていた疲労まで溶け出していくようだ。

全身が重く、ぼんやりとしていたらそのまま眠ってしまいそうになる。これではかつての二の舞だと早々に浴槽を出てカラスが用意してくれた服を着た。

古着ではあるが汚れはなく、むしろ洗いたての匂いがする。仕立てがいいとは言えないが、長く着られるように、あくまでも丁寧に縫製されているのが分かった。ごわごわとした感触なのは厚めで頑丈な生地だからだろう。これも市井ならではのような気がする。


いつも身に纏っていたドレスは当然オーダーメードであるから、身体と衣服の間にはほとんど隙間がなかった。侍女の手伝いがなければ着脱も難しいほどなのだが、貴族女性の纏う服というのはだいたいそのように作られている。足に絡みつくように翻る丈の長い裾と、華奢であることを誇るような細いウエストの華美なドレスは、私自身を貴族に縛り付けるものでもあった。

だから、今はすごく楽だ。息がしやすい。

譲り受けたものであるからサイズが合わないせいもあるが、気分的な問題でもある。

血に塗れたドレスは捨ててしまおう。そう思いながら浴室を出た。


「……何だか、顔が赤いね」

ベッドの上に座り込んでいたカラスが首を傾ぐ。白いシャツに黒いズボンという、飾り気のない恰好であるが、足を投げ出していてもどこか品がいい。

「イリア?」

「……あ、いいえ。何でもないわ」

「そんなことないでしょう? 何か、変」

首を傾げるカラスの白い頬に踊る黒い髪。馬車の上でさんざん風を浴びたというのに、砂埃を被った様子はない。

じっと眺めていると、ふと、先ほどまで借りていた彼のローブが壁にかけてあるのに気づく。

血がついてしまったのではないだろうか。生地が黒いせいでよく分からない。

私の視線を追ったカラスが、ふんわりと笑った。

「あとでちゃんと洗うよ。それよりも君、」

手招きをされて、ベッドのほうに寄る。

「そうね。貴方の言うとおり、お湯に浸かっていたからちょっと熱いかもしれないわ」

濡れた髪をタオルで押さえた。水滴がぽつりと、木製の床を濡らす。元々そんなに離れていないのにわざわざ呼び寄せるなんて何かあるのかと訝しめば「ふふ、」と堪えきれなかったように吐息を漏らした少年が言う。

「乾かしてあげるから、おいで」

でも風を起こす魔法はまだ使えないから、拭いてあげるだけになっちゃうけど。と、理解の範疇を越えるようなことをさらりと口にした。

『まだ』使えないということは、その内、風すらも自由に扱うことができるようになるのだろうか。

「後で髪に塗れるようなオイルも買おうね。せっかくきれいな髪をしているんだから大事にしないと」

カラスに背を向ける格好でベッドに腰かければ、渡したタオルで首筋から耳の後ろを優しく拭われる。

ついでに緊張しっぱなしだった筋肉をほぐしてくれた。肩のあたりをぐいぐいと押されて笑みが零れる。

ずっと遠い昔。

ベッドに腰かけた私の膝に頭を載せて寝転がっていたカラス。

いくつもたわいない話をした。


妹を、――――シルビアを助けてほしいと頼んだあの夜。


もしもあのあと、何の問題もなく人生が続いていたなら。私とカラスはどんな結末を迎えていたのだろう。

少なくとも、今生で再び巡り合うことはなかった気がする。


「少し、休んだら?」

「……そう、ね。そうするわ」


うとうとと微睡むような睡魔が襲ってきた。いっぺんに色んなことが起こって、頭が情報を処理しきれないのかもしれない。そのままベッドに横たわる。

体が熱いからか、生乾きの髪が少し冷たい。

「約束通り、子守唄を歌ってあげる」

優しい声がして、ほんの僅かにベッドが軋む。うっすらを目を空ければ、私と同じように横になっているカラスが、こちらを見ていた。

狭いベッドに二人きり。いつかの再現のようで心臓がひりつく。幼い顔をしたカラスが薬を飲ませてくれた。弱り切った体で寝返りさえろくに打てない私の横に並んで。その冷たい手がそっと、私の手を握った。

本当は今もまだ、あの古びたベッドの上にいるのだろうか。


全てやり遂げたというのは、現実ではなく、夢の中の話で。

だとすれば、私は一体、どこにいるのだろう―――――、


*

*



「……きっと生き延びて……、幸せになるのよ。そして、もしも……、」


「もしも、……黒い鳥が現れたなら選択を誤らないように」


それが母の最期の言葉だ。頬の肉を失ったやせ細った顔に優しい笑みを浮かべていた。

死を目前にして、あれほど穏やかだったのはなぜだろう。


あまりに過酷な旅路で疲れ切っていた母。本当は村を出たそのときから体のどこかを悪くしていたようなのに、幼い私の為に不調を隠していた。だから、旅の間も医師の診察を受けたことはない。ゆえに薬を飲んだこともなく、だからといって栄養のあるものを食べられたわけでもない。

時々、思い出したように襲う腰の痛みに呻く姿を何度か見かけたので、大丈夫かと問えば「私も年かしら」と儚く笑う。その姿に嫌な予感がしたのに。

一刻も早く王都へと、旅路を急ぐ母を止める術はなかった。


そうして、故郷から離れて一月ひとつきが経過した頃、歩くことすらできなくなったのだ。


とうとう道端に倒れこんだのはその後で。巻き込まれる形で下敷きになってしまい、圧し潰されそうになった。息ができない。小さな体ではどうすることもできずにもがいていると、

「大丈夫?!」―――――誰かが手を差し伸べてくれた。

たまたまその場に居合わせた若い女性である。

危なげない手つきで助け起こしてくれたその人は、弱り切った様子の母を案じて、自分が働いている宿屋で休んでいけばいいと提案してくれた。さらに、格安で部屋を提供してくれるという。両親が経営している宿だから融通が利くのだと。

もしかしたら、善人の振りをして近づいてくる人攫いの類かもしれない。そんな懸念はあったけれど、もはや形振り構わず助けを呼びたいくらいには切羽詰まった状況だったので、ためらいつつも伸ばされた手を掴んだ。

よく知りもしない赤の他人に助けを求めるなんて愚かなのは分かっていたけれど、だからと言って代替案も浮かばない。

危機的状況において打開策を練られるほど、知識があるわけでもなかった。

―――――結果的にいえば。

彼女を信じようと思った私の直感は正しかったのだけれど。

こうして出会ったのも何かの縁だからと、医者まで呼んでくれたのにはさすがに驚く。診察代も不要だということで、神様のような人もいるのだと思ったものだ。


でも、だからといって「現実」は優しさなど見せてくれない。

宿に入ってから数刻もせず現れた老医師から宣告された母の病状は、とても笑えるようなものではなかった。

幼くとも言葉を失うことがある。がくがく震える唇を両手で押さえた。

ここまで歩いてこれたのが不思議なほどだと、感心するようにため息をついた医師が私の頭を優しく撫でる。

「こんなに小さい子がいるのに……、可哀相だけれど」

仕方ない。という言葉が刃物になって突き刺さった。しがみつくようにベッドに手を伸ばせば、母の細い指が私の目元を拭う。

掠れて消えた「ごめんね」という声。口を開けば「どうして置いていくの」と責めるようなことを言ってしまいそうで、ただ唇を嚙んだ。


「数日ももたないだろう」という医師の言葉通り、母がそっと息を引き取ったのは、その翌々日のこと。

亡くなる前、思い出したように黒い鳥の話をしたことが気になるが、確認しようにも、もう訊くことはできない。

こんなことになるくらいなら村を出るべきじゃなかったと後悔したところで、全てを失っては何の意味もなかった。


たった一人、取り残された形となった私はただ茫然とするしかなく、今後のことなど考えることもできない。

困り果てた宿の従業員が、街の葬儀屋に頼んで母の遺体を荼毘にふしてくれた。そして、私を施設に入れるための手筈を整えてくれたのである。しかし、ここで異を唱える人間が現れた。

どこの馬の骨とも分からない子供を、街の有力者の寄付で運営する施設に入れるのはいかがなものかと。

つまりこの街の生まれでもないのに面倒を見る筋合いはないということだ。

それはそれはすごい剣幕でまくしたてられたので、嫌でも己の置かれている状況を実感する。完全に厄介者だった。

その内、親切の限りを尽くしてくれた宿の人まで白い目で見られるようになったので、街に居座ることもできず。一人で王都を目指すことになった。

もともと持っていた路銀は既に底を尽き、日銭を稼ごうにも、子供の身では使い勝手が悪いようで仕事がない。娼館に入って見習いから勤めればと、親切なのか何なのか助言を与えてくれる人もいたけれど、借金があるわけでもないのにそんな所に入ればさすがに母が悲しむだろうと思った。


街を出るときに餞別だと二枚の銅貨を渡されて頭を下げれば「引き取ってあげられなくてごめんね」と宿の老夫婦が泣く。私と母を助けてくれた女性は、彼らの一人娘らしい。親子揃って、本当に人がいい。

だけれども、思いやりだけではどうにもできないことだってある。

「大丈夫」だと笑ってみせることが、礼を述べることよりも重要だった。


本当は、とても怖かったのに。


あれほど必死に王都を目指していたけれど、母がいなければ何のために向かっているのかもわからない。元々、母の親戚を頼っての出京だったのだが、さほど親しい仲でもなかったらしく村を出る前に一度だけ手紙のやり取りをしただけだ。それでもその人を頼らざるを得なかった。

それほどに村は、困窮していたのである。

長期間、雨の降らない日が続き、農作物は枯れ、蓄えていた僅かな乾物も数えるほどしかない。

やがて村の男たちが遠出して狩りをするようになったが、別の集落と諍いになり、獲物を得るどころの話ではなくなってしまったようだ。

このまま死ぬくらいならせめて王都まで出てみようという人間が出始めたのは、必然だったのだろう。馬車を使ったとしても何週間もかかる道のりを、徒歩で行く。決して楽な旅ではないが、無事にたどり着けたなら仕事を得ることもできるだろうと期待した。

父もその内の一人だ。

都で仕事を得て、必ず仕送りをする。それまで辛抱してくれないかと、出ていった。

「手紙を送るから」「いつか帰ってくるから」「いい子にして待っているんだよ」なんて優しい言葉を言い置いて。実際には王都に着いたという連絡すらこなかった。

妻と娘のことなど忘れてしまったのか、あるいはどこかで命を落としたか。

どちらが真実なのか私には分からなかったけれど、ともかく父は私達の元には戻ってこないのだと心得て、私と母も村を出ることにしたのだ。


旅に慣れていなかった私と母にとってその道は、ともかく過酷だった。

旅姿とはよく言ったもので、それすらまともに用意することができなかったのだから、私達の旅には初めから暗雲が立ち込めていたのだといえる。

現に、母が命を落とすことになった。

私がもっと大人だったなら、もっと早い段階で宿を取っていただろうし医者にも見せていたはずだ。何より、旅を止めることだって検討していたに違いない。

王都にまで行かずとも、途中で立ち寄った大きな街でなら母も何らかの職を得ることができたのではないか。少なくとも、碌な治療も受けられずに死ぬようなはめにはならなかったのではないか。


……なんて、いくら考えたところで後の祭りでしかない。

今まさに、私自身が窮地に立たされている。


善意で差し出された銅貨をいつ使うか、それはとても重要な問題だった。王都への方角だけを聞いて、あとは着の身着のまま歩くだけ。……そんな状況ではいつ死んでもおかしくない。

野盗に襲われずに済んだのはただ単に運が良かっただけで、人攫いに合わずに済んだのも偶然そうなったに過ぎない。二日ほど歩き続けてふと空腹に気付き、鞄の中から宿の人がくれたパンを取り出してみるもカビだからけで、とても口にできるものではなかった。

無心に歩いていればいつか王都に辿りつくだろうという安易な考えが食べ物を無駄にしたのだ。


私は容赦ないほどに無知な子供だった。


やがて飲み物すら底を尽き、食べ物を手に入れようにもどこにも商店がないことに気づいたのは五日ほど歩いた後だった。精神的な限界もきていたのか。一歩足を進めるごとに命を削られているような感覚に陥る。ふらりふらりと数歩進んで膝からくずおれた。

倒れ込んだときに一瞬だけ視界を掠めた足元。履いていた靴のつま先に穴が空いていたことに気づいて嗤う。

きっと限界だったのだ、何もかも。

この世界に独りきり。差し伸べてくれる手はない。


だけど、昔は違った。

村が今よりもずっと豊かだった頃、肩車をして畑の中を歩いてくれた父。育った稲穂が風に揺れて、かさかさと音をたてる姿が雄大で。笑い声みたいだと言ったら、父が「笑っているのかもしれないね」と答えた。

豊かな大地に根を張って、太陽の光をめいっぱい浴びて、頭が重くなるほどの実をつけて。

「幸せそうだね」と、言ったのだ。


「……笑ってるの? 起きてる? 寝てるのかな……」


ふと誰かに問われたような気がしたけれど。返事をする気力はない。

それでも微かに目を開けることができたのは自分でも驚きだった。霞んだ視界の向こう側に黒い靴が見える。黒光りしているのは高級品だからだろう。

村でも、母を看取った街でも、こんな靴を履いている子供はいなかった。


―――――そう。子供、だ。


「坊ちゃま、危のうございます」

「……どこが? だって、意識がないみたいだけど」

「それでもでございます。不用意に近づいてはなりません」

「そうなの? だって、この子。僕が助けないと死んじゃうんじゃないかって思うけど。それはいいの?」

「……よくは、ございません……が、」

「でしょ?」


誰かこの子を運んであげて。そんな声と共に、体がふわりと浮き上がる。ゆらゆらと揺蕩うような揺れに身を任せていると、あまりに心地よくて。もうこのまま死んでも後悔はないと思った。でも、


「頑張って」


何度も、優しい声に励まされた。

その後、眠りと覚醒を繰り返しながら、それでも何とか生き延びることができたのは全て、この人のおかげだ。

あくまでも、看病してくれたのは屋敷の使用人だということはよく分かっているし、少年はベッドの脇に置かれた椅子に座っていただけで、濡れタオルの絞り方すら知らなかったのだけれど。

目覚める度に顔を覗き込んでくるその子の、あまりにも心配そうな顔に、高熱で苦しくても何とか自分を保っていられた。

名前も知らないけれど、彼が傍にいてくれたから。

私はまだ、生きていてもいいのだと思えたのだ。


「……母と一緒に故郷を出て、王都を目指していたんだけど、母が……病で亡くなってしまって」


やがて、はっきりと覚醒してからこれまでのことを簡単に説明する。ここに来る前に居た街の話は省略した。語ってもどうしようもないことだと思ったから。生まれ育った村のこともほとんど話さなかった。

いや、話さなかったのではなく、話せなかったのかもしれない。罪悪感があったから。

本当はずっと夢見ていたのだ。

王都に出て稼ぎを得たら、救世主になれると。大金を稼ぐことはできなくても、お給金の一部を村に送れば、幼い子たちが一日、二日食べることはできる。

村人全員を救うことはできないだろう。それでも、助けることのできる命がある。そう、信じた。

母もきっとそう思っていたはずで。

だというのに、命を落とす結果となった。


結局分かったのは、己を食わすことさえできないのに、他人を救うことなどできやしないということ。


「そんな悲しい顔をしないで。……せっかく生き延びたんだから」


「こうして、今、生きてるんだから」


少年の黒い瞳が翳る。彼にはどうやら家族がいないらしい。説明されなくとも、何となく察することができたのは、使用人以外に大人の気配がないからだった。特に夜は、あまりにも静かで耳鳴りがするほどだ。

屋敷が広すぎることもあるけれど、きっとそれだけが理由ではない。

この一種、独特の寂寞には覚えがある。母を亡くした後、確かに感じたものが、この屋敷全体に漂っているような気がした。


「そう、ね……。貴方の言う通りだわ。私を、助けてくれてありがとう」


屋敷の小さな主に頭を下げる。

だいぶ具合は良くなったけれど、急に歩き回れるわけでもなく、相変わらずベッドの上にいる私は半身だけ起こして少年と話しをしていた。

「顔を上げて」

ふと、両手が温かくなる。目の前で、艶のある黒い髪が揺れていた。

掛布の上で重ねていた己の両手に、少年の手が重なる。

ぼろぼろの指先を労わるように撫でられた。優しい感覚に、母を思い出す。そのとき、彼女の最期の言葉を思い出したのだった。


―――――黒い、鳥。



「ねぇ、君さえよければ一緒に暮らす? 独りぼっち同士、肩を寄せ合って生きていくのも悪くないと思うよ」

冗談でも口にするかのような物言いで。だけど、その真摯なまなざしが胸を打った。

私にはこの人が必要だ。―――――けれど、彼にも私が必要なのだと思った。

出会ったばかりなのに、なぜかそう感じる。


「……ええ、貴方さえよければ……。一緒に暮らしたいわ」


握り返したその指が、縋りつくような気がしたのは間違いじゃない。私たちは、とても孤独だった。


「ところで、……私の名前を訊かないの?」


「私の名前は、」




「エマよ」


















貴方の名前は?

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