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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
終わりの終わり。
58/64

4

近くに待機させていた辻馬車に乗り込んで大きく息を吐き出す。唇が震えたのは気のせいではない。

瞼を閉じれば否応なしに色んなことを思い出す。忘れようと思えば思うほど、そうなる。

そして、たった今、別れを告げたばかりのモリスを考えてしまうのもまた仕方のないことだった。


繰り返す人生のあまりに残酷な記憶。その中で、家令の印象が強く残っているかと言えば、そうでない。

―――――けれど。

よくよく思い返せば、彼が本当はそれとなく私の味方をしてくれていたのが分かる。


はっきりと示すことはなかったけれど、何かが起こったときは、あくまでも両親の肩を持つようなふりをして、私に責めがいかないようにしていた……、のではないだろうか。

例えばそう。今生で、母の自害を止めようとした私がまるで予定調和のように父から責められていたとき。己の首をかき切ろうとした母のナイフを拾い、父に見せたのは確かに家令で。


それに、そうだ。あの場にシルビアを連れてきたのも彼だった。


怪我をした私を診せる為という理由で、シルビアの診察をしていた医師を呼んだモリス。シルビアはそのとき、呼ばれた医師に勝手に着いてきたということだったけれど。

もしかしてモリスはあえて、あの子も一緒に連れてきたのではないだろうか。


あのとき、いわゆる錯乱状態にあった私は、激情に任せてそれまで胸のずっと奥の方にしまい込んでいた本音を叫んだ。どうして誰も愛してくれないのかと。

あまりに感情が高ぶっていたので、あのままだったら、他に何を口走っていたか分からない。

両親への恨みつらみだけでなく、もしかしたら耳を塞ぎたくなるような暴言を吐いていたかも。

でもそれは、自分自身を裏切る行為だ。淑女になる為にとただひたすら努力してきた自分を、―――――これまでの人生を否定してしまうようなものである。


あるいは、父や母が、再び私を追い詰めるようなことを言っていた可能性だって否定できない。全て想像でしかないけれど、要するにあの場では誰が何を言ってもおかしくなかったということだ。

そこに現れたのが、シルビアである。

空気を読んでいないかのようなあの子の声。ふんわりと空気を漂うみたいに現れた妹のおかげで、父は多少なりとも落ち着きを取り戻した。

その優しい口調が耳に残っている。


私にとってそれは、とても悲しいことだったけれど。

興奮状態にあったあの場の熱が、妹の登場により霧散したのは事実だ。


もしも。モリスが私のことを少しでも大切に想っていてくれたなら。私の為に、シルビアを連れてきてくれたのかもしれないとも思う。つい、そんな風に考えてしまう。


「……、いいえ、そんなはずないわね。馬鹿馬鹿しい……」

何もかもが推測の域を出ない。空想だ。『もしもそうだったらいいな』という願望を詰め込んだ、空しい絵空事。

他人の心なんて誰にも読めない。

「イリア? どうしたの?」


声を掛けられて、いつの間にかマチス伯爵家からは随分、離れていることに気づいた。


「具合が悪い?」

カラスが心配そうに私の顔を覗き込む。馬車に乗る直前で人型を取り、御者に行先を告げたようだったが、またもや私は蚊帳の外だった。

「……モリスのこと。どう折り合いをつければいいか分からなくて……」

「ああ、あの家令ね」うんうんと訳知り顔で頷くカラスがその幼げな相貌で言う。

「いいじゃんない? もう忘れたら。だって、もう二度と関わることはないんだよ?」

あまりに無邪気だ。

「そう、そうよね。確かにそうだわ」

けれど、どこか腑に落ちない。もう考えるのはよそうと思っても、何となく気になる。

そんな私とはどこまでも対照的なカラス。

「……あ! そういえば、さっき時計をもらってたでしょ? 見せてくれない?」

彫刻がとってもきれいだったよね、とモリスが私に懐中時計を手渡した一瞬でそこまで見ていたのかと感心を覚えつつ、傷どころか指紋すらなさそうな手の平に銀色の時計を載せる。

多少の傷はあるけれど丁寧に磨かれているのがよく分かった。

長い鎖のついた何の変哲もない、ごくごく普通の懐中時計だ。

「これ、壊れてるね」

「……え?」

文字盤を見せられて、初めて気づく。秒針が同じところをいったりきたりしている。つまり、進んでいないのだ。時を刻むのを止めたような奇妙な動きをしていると思った。

「でも、そんなはずないわ。モリスはよくこの時計を見て時間を確認していたもの」

「じゃぁ、最近壊れたのか。もしくは、壊れた時計を見ていたのか」

「……壊れた時計を見るなんて、そんなわけないじゃない。新しいものを買えばいい」

最近は手ごろな価格で懐中時計が出回っている。

使用人でも購入するのは難しくないだろう。


「壊れた時計を換金しろなんて、どういう冗談だろうね」


ふふ、と笑ったカラスの顔を見る。表情から読める情報はない。彼はただ微笑を浮かべているだけだ。

「……いいの。最初から売るつもりはないわ」

壊れていては二束三文どころか、売れるかどうかすら怪しい。

「どうして? だってこのまま旅に出るなら現金は必要だよ? 泊まるところすら確保できない。野宿でもする? それも楽しそうだけど」

答えようとしたところで、馬車がガクンと揺れる。舌を噛みそうになって、思わず口を閉じた。

「……というのは冗談で。本当は当てがあるから大丈夫」

私の顔を覗き込むようにして、カラスが髪に触れてくる。

再会してから、やけに距離が近い。他人とここまで近づくことは滅多にないし、ましてや異性だ。いつだって適切な距離感というものがあり、それが礼儀でもあった。

唯一、夜会のときはソレイルとダンスを踊るので、限りなく距離を詰めるけれど。できる限り体が接触しないように気を付けていた。

彼が、嫌がると思っていたから。


「それにねぇ、この時計。壊れてるけど……、それは問題じゃないんだよね」


じっと文字盤を眺めていたカラスが、指で表面のガラスを叩く。そして、耳元に近づけて時計を軽く振った。

「……やっぱりね」

一人でうんうん頷いた後、手の平に載せてこちらに寄せてくる。カラスの視線を追って手の平にちょうど収まるくらいの懐中時計を見れば、彼はいとも簡単にリューズを引き抜き、文字盤を覆っているガラスを外した。

「えっ」

留め具が甘くなっていたのか、どういう仕組みなのかよく分からないが、文字盤と時を示す針がむき出しになる。カラスはそのまま文字盤を指で押した。

馬車はいつの間にか舗装されていない道を走っている。そのせいでひどく揺れた。

肩を支えてくれるカラスに倒れ込むようにして分解された時計を覗き込めば、外れた文字盤の下から時を刻むためのカラクリが現れる。

そこに。

複雑に組み込まれた小さな部品の隙間に、色鮮やかな石がはめ込まれていた。

「……何? 何なの?」

口から零れたのはそんな言葉だったけれど、本当は察しがついている。


「宝石だね」


さらりと告げられた事実に心臓がはねた。

「落としたら大変だから元に戻そう」カラスは軽い微笑を浮かべたまま、細い指で器用に懐中時計を組み立てていく。

懐中時計の小さな部品の間に納まるような、小さな石だ。それでも、本物を目にしてきたから分かる。

「大金にはならないね。でも、価値がある。換金すればそれこそしばらくは食うに困らない」

ね? と同意を求められて思わず頷いた。

けれどすぐに、はっと我に返る。


「……こんなのは駄目だわ!」


叫んだつもりだったけれど、喉元が締め付けられたようになる。語尾が不安定に消えた。

そうだ。こんなことは良くない。決して、良くない。


「そうかな? これはきっと、彼が示すことのできた最大限の愛情の形だと思うけど?」

愛を宝石に換算するなんて認めない人間もいるだろうけど、誰が何と思おうと関係ないよね?とカラスは片方の眉を寄せてどこまでも意味深な顔をする。

「家令とは言え、使用人。自由にできるお金なんてほとんどない。貴族に仕えているとは言え、給金はきっと相場だろうね。だとすれば、彼は与えられた金銭のほとんどをこうやって宝石に変えたことになる」

ここにあるのは、それくらいの額の石だよ。と続けて、懐中時計を握らせてくる。

「重いよね? 彼はきっと、それくらいの覚悟で君を送り出したんだ。自分がこれまでに得たものを、文字通り全部、差し出したんだよ」

「……、」

「もちろん、彼のやったことを全て肯定しているわけではないけど。彼が言っていた通り、あの人は君を助けなかった。一度だって、手を差し伸べなかったんだから。僕にとって彼は、―――――モリスという人間は許しがたい存在だ」

「……、」


「でも、誰にだって経験があると思うんだよね。伝えたいことが、伝えられなかったこと」


僕だってそうだし、君だってそうでしょう?と言われてしまえば、反論できない。

たくさんの言葉を呑み込んで生きてきた。それでいいと思っていたし、そうすべきだと自分に言い聞かせて。


「許す必要なんてないよ。ただ、受け取るだけでいい。彼の思いを捨てるのは君の自由だけれど、持っていたって何も困らないでしょ? モリスの想いがあまりに重たくて君を苦しめるっていうなら別だけど」

よしよしと慰めるみたいに頭を撫でられる。小さな子供みたいで恥ずかしい。

手の平に返された懐中時計はひんやりとしていた。

文字盤の下に宝石を隠して、時を知らせる役目さえ放棄した小さな時計。

壊れた振りをして、本当に大切なものを仕舞っている。

それがどこまでもモリスを思い起こさせた。


冷然とした眼差しと一度も笑ったことなどないかのような凝り固まった表情。だけど、胸の奥に大切なものをしまい込んで、隠している人。


「……イリア、」


懐中時計の繊細な彫りの上に、ぽつりと水滴が落ちる。雨かと思って見上げれば、つんと鼻の奥に痛みが走った。

「どうして泣いてるの?」

「……分からないわ、私にも」

「そう」

指で頬を拭えば、確かに泣いている。悲しいわけでもないのに不思議なことだった。


「変だね。僕も、泣きそうだ」


そう言った刹那、カラスは一度だけ強く目を閉ざす。泣くのを堪えているのだと分かった。

「僕たち、泣き虫になったんじゃないの?」と揶揄うような口調で潤んだ瞳を向けてくるから、思わず笑ってしまう。

勢いよく駆け抜ける馬車の上で、二人分の笑い声が騒音に紛れて消えた。


**


どのくらい馬車を走らせたのか、そろそろ休憩を入れないと体も限界だとカラスを見れば「もうちょっとで着くから」とまた、意味深な笑みを浮かべる。

そうして数分後にたどり着いたのは小綺麗な宿屋だった。

泊まるお金がないと言えば、彼は少し驚いたような顔をした後「大丈夫」と頷く。


「イリアは協力者が必要だって言っていたけど、協力者ならもういるんだ」

「……そう、ね。貴方、確かにそんなことを言っていたわ。心当たりがあるって」

「うん」


ついさっき、辻馬車の御者にお礼を述べた後、カラスが胸元から金貨を出したときはさすがに驚いた。金貨に刻まれた見覚えのない印字に首を傾げていると、外国から出稼ぎに来ていたらしい御者が「あっ」と声を上げる。聞いたところによると、とても価値のあるものらしい。

本物かどうか訝しがる男だったが、偽物でもこれだけ繊細な刻印が施されているのであればそれなりに価値はあるだろうとカラスが告げれば、一転、喜色の表情を浮かべて金貨を受け取っていた。


「あの金貨、誰かにもらったの?」

「……ああ、あれ? あれは僕のものだよ。ずっと昔に手に入れたものだし、世界を渡るときになくなってしまうかと思ったんだけど、大丈夫だったみたいだね」

何かあったときの為に、服の中に金貨や銀貨、銅貨を隠しているのだと言う。

「手品師みたいだわ」

呟けば「奇術師のほうがいいかも……」と予想外に生真面目な顔をして返される。

「似たようなものじゃない」

馬車の上でカラスは、胸元から取り出した小さな紙で蝶を折り、飛ばした。

投げられるようにして風に乗った蝶が、翅を動かしたのにはさすがに驚いて声も出なかった。


「―――――ところで、貴方ってどういう存在なのかしら」

誰にも見えていないのかもしれないと思ったこともあったが、実際はそうではないらしい。

確かに、重ねてきた人生のいくつかの場面で共にあったカラスは、夢か幻のような儚い存在だった。

事実として「見えずらい」存在であるのは間違いないだろう。

一方で、私がかつて自ら命を絶った後、カラスが妹と話をしていたことを考えれば。

誰にも見えないというわけでもない。

今だって、御者も宿の受付にいた人も、当たり前にカラスと言葉を交わしている。

首を傾げていれば、自身も考え込むような素振りをした後「そうだね」と一人で頷いた彼が言う。


「僕っていわば、人形と同じだからね。要するにこれまでは単に人形扱いされてただけなんじゃないかな?」

「……ちょっと、意味が分からないわ」

「うーん。例えば、君が今腕に人形を抱えているとする。その場合、僕は君に話しかけることはあっても、人形に直接『元気?』なんて声を掛けることはないじゃない? 人形が視界に入っていても、それと会話をしようなんて思わない。人の形をしていたって、あくまでもただの人形だからね」

「そう、ね。そうかもしれないわ」

「中には人形に声を掛ける人もいるかもしれないけれど。……まぁ、これまでにもそういう人がいなかったわけじゃないし。あまり多くはなけれど」

君だってその内の一人だね。

「……今はもう、ただの人形ではないってことかしら」

「さぁね。それはまさに神のみぞ知るって話だろうけど」

「……、」

「ただの人形だろうと、人間だろうと、どちらにしろずっと君と一緒にいるよ」

約束できるのはそれくらいだと言って、私の手を握るカラス。

温度のない指先にももはや慣れてしまった。だけど、それを寂しいとは思わない。


「それとも、こんな得たいの知れない奴が傍にいるのは嫌?」


卑屈になっている様子ではなく、どこか面白がるような声音で訊いてきたカラスは、子供がするように繋いだ手を軽く揺らした。

じっとこちらを見つめる黒い双眸に、慌てて首を振る。

「まぁ、嫌だって言われても離れていったりしないけど」

そっちの方が怖いかな?と、今度は何を考えているか分からない眼差しをした。

私を見ているようで、見ていない目だ。


「カラス」

「……ん?」

「ずっと、傍にいてほしいわ。そして、ずっと私を見ていてほしい。目を逸らさないで」


すると、一つだけ瞬きをした少年が「ふふ、」と吐息を漏らすように笑う。

黒曜石のような目にいくつもの光が宿った。


「君が望みを口にすると、僕はどうしてこんなに嬉しいんだろう」

「そんなことを言うと、私は我儘ばっかりになってしまうわ」

「……いいよ。もちろんいいに決まってる」


カラスがあまりに晴れ晴れと笑うから、本当に何もかも許されているのだと実感する。

私はずっと、ソレイルの婚約者としてしか生きてこなかった。自制こそが美徳であり、いずれは侯爵となるはずの彼を支えることが人生そのものとなるはずだったのだ。

けれどもう、何者も目指す必要がない。心許ないと思うのも仕方のないことだけれど。

今日からは、新しい自分として生きる。

ソレイルの婚約者としてのイリアは死んだ。覆すことのできない事実であり、真実となる。


「とりあえず、何か食べたいものがあれば言ってほしいな。まずはそこからでしょ」


借りた部屋は広くはなかったけれどベッドが二つあり、浴室まで完備されていた。庶民にはなかなか泊まることのできない部屋だ。

初めて利用するはずなのに、どこか慣れた様子のカラスは、後で必要なものを買いに行こうと言いながら、服の中に隠し持っていたらしい銀貨をテーブルに並べる。どこにそんな枚数を入れていたのか。

そして、ちょっと待っていてと部屋を出ると、すぐに戻ってきて何の飾り気もない衣服を手渡された。

いわゆる市井の女性が当たり前に着ている服である。

「宿の人に交渉して譲ってもらった。古着で悪いんだけど、市井に紛れるにはこういう服のほうがいいから。後、……ちょっと、血の染みを見てるのが僕も辛いから」と。

借りていたローブを脱いで腕に抱えていた私に、気まずそうな視線を向ける。


宿の人が浴槽にお湯を貯めてくれるそうだから汚れを落として、この服を着て。その後は仮眠をとって、目が覚めたら食事をして買い物だねと、実に手際よく予定をたてていく様子を眺めていると、どうしても娼館にいた頃のことが頭を過る。

あれはすでに失くした人生であるが、私という人間の一部であることには違いない。


「……一緒に眠ってくれる?」

「ふふ、寂しいの?」

「ええ、きっと……そうだわ」


考える間もなく口から零れた言葉だった。つと、微笑を消したカラスが「子守唄でも歌ってあげようか?」と首を傾ぐ。

どこかで聞いたようなセリフだと思いながら頷けば、沈黙が下りる。

じっと、その白皙の顔を眺めていると黒い瞳が潤んでいるような気がした。


「カラス?」


見られたくなかったのか、顔を背けた少年は「君は本当に、ここにいるんだね」と呟く。耳を澄ましていなければ聞こえないような声音だった。

思わず本音を漏らしてしまったみたいな。


「貴方こそ、本当にここにいるのね?」


訊いていながら、そうであってほしいと願うような口調になってしまって。慌てて口を閉じる。

どうしても現実味がないのは、互いに同じなのかもしれない。


「これから、少しずつ理解していけばいいと思う。僕たちにはきっと時間が必要だから」


そっと手を重ねて互いの顔を見合う。己を人形と称した彼の顔には、少しの疲れも見えない。長い睫毛の頬に落ちた影が揺れるだけだ。

不確かな存在。今でもすぐに消えてしまいそうだと感じる。

それでも、彼は私の傍にいると言った。離れてはいかないと。


「毎分、毎秒、証明するよ。僕はここにいるって。だから君もちゃんと証明してほしい。ずっと、傍にいるってことを」


とりあえず今は湯あみが先だね。受付に言ってくるよと、部屋を出るカラスの後ろ姿に思わず追いすがって。腕を伸ばしたときに気づく。

―――――痛くない。


「……どうしたの?」

「腕が、痛くないわ」

「? どういう意味? もしかして怪我してるの?」


慌てた様子で室内に戻るカラスに、袖を巻くって腕を見せる。少し緩んだ包帯には血が滲んでいた。

そこには、母が持っていたナイフでできた切り傷があるはずだったけれど。

カラスに包帯を解いてもらえば、そこにあったはずの傷がなくなっていた。縫合の跡もなければ、血が流れた様子もなく、瘡蓋すら見当たらない。


「全部、何も、なかったみたい」


胸に空いていた穴と共に、腕の傷も消えてしまったようだ。

サイオンの手から放たれたナイフに刺されて倒れたことも、母の自害を止めたことも覚えているのに。

「……何だか、怖いわ」

呟けば、眉を寄せて何とも言い難い表情をしたカラスが私の手を握る。

「怖いことじゃないよ。これは、絶対に」

「どうして分かるの?」


「だって、君は生きてるじゃない」


言われて、己の心音を意識してみる。拍動が聞こえるというよりも、胸の奥で臓器が動いているのをはっきりと感じた。


「死んだつもりだったとしても、君は確かにここにいて生きてる。―――――僕も、そう。僕たちは今、生きてる。それはとても幸せなことだよ。怖いことなんて一つもない」

「そう、かしら」


生きていることが、すなわち幸福なのだとは思っていない。でも、何度も死んで蘇った身としては、生きていることがどれだけ幸せなことなのかというのは理解できる。


「それに、傷が消えたって何もなかったことになるわけじゃないでしょ? 心に刻まれた記憶は消えないよ。苦しいことも悲しいことも、経験したもの全部ひっくるめて君なんだ」

「……ええ、そうね」

「それに、忘れたいほどのことでも、どうせ忘れられないと思う」

「……、」

「忘れたいことほど忘れられないものだし」


嬉しいことや楽しいことだけ覚えていることができれば、それが一番かもしれないけど。

でも、僕はそれを望まないよ、とその人は言った。


「かつての苦しみや、悲しみ、怒りをはっきりと覚えているほど今の自分を肯定できる気がするから」






























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