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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
終わりの終わり。
57/64

3

初めは粗末な馬車だと思ったけれど、乗り慣れてくれば見晴らしの良さに少しだけ気分が上がったのが分かる。先ほどまでの悪寒が嘘のように、今度は、自覚するほど頬が熱い。


緋色に濃紺、紫に薄紅色と様々な色が溶け合っている朝焼けにはうっすらと帯状の雲が浮いている。単純に美しく、目が醒めるような心地になった。きっとこれは、私たちの行く末を暗示しているのだと、知らず内に唇が緩やかな半円を描く。

「前を向く」というのは、こういうことなのだろう。

向かう先に希望があると信じられるから、顔を上げることができる。そしてそれは、こんなにも眩い。


天上から降り注ぐ容赦ない光が街全体を明るく染め抜き、それが合図だとでもいうように、あちらの家、こちらの家の窓が勢いよく開け放たれていく。そこから顔を出した住人たちは互いの目があえば、それとなく会釈をしたり、挨拶を交わしている様子だ。室内の空気を入れ替えるついでに交流を図っているらしい。

そのまま、後ろに向かって流れていく景色を見るともなしに眺めていると、やがて市場に差しかかった。果物や野菜、日用雑貨などを品出ししている様子の商人たちが忙しなく動き回り、何があったのか時々、大声で笑い合っている。


いつの間にか、街全体が朝を迎え、目覚めていた。


いかにも喧噪に満ちた賑やかそうな空間で、活気あふれた雰囲気だ。

常に静寂と共にある伯爵邸との、あまりの違いに面喰う。日常生活では音をたてないことがマナーで、声をたてて笑わないことが決まりだ。足音をたてずに歩き、動作はなるべくゆっくりと指先まで意識して、あくまでも品良く。そういう風に生きてきた。

けれどだからといって、どちらが良いのか優劣をつけるつもりはないし、そもそも比べる必要もない。

ただ「違うだけ」なのだから。

誰もが皆、己の世界で必死に生きている。

不安に苛まれ、この世の悲壮を全て背負っているかのような苦痛と共にあった人生で、初めてそう思う。


土砂降りの中で逃げ惑った夜、人攫いに腕を掴まれたあの日。売り払われ、光の届かない場所で足掻き、もがいて、もうどうしようもないと悟った瞬間。いつでも死を覚悟しながら、それでも簡単に終わらせることはできなくて。

『どうして、私だけ』―――――何度も繰り返し、頭の中を過った言葉だけれど。

あの日々が今は、随分、遠い。


「……イリア?」


優しい声に顔を上げれば、握っていたカラスの手が少しだけ強張る。心配されているのだと分かって、何でもないと首を振った。

「そんな顔をして、大丈夫なんて説得力がないってことに気づいてる?」

微苦笑を浮かべた彼の細い指が私の顔を撫でる。輪郭を確かめるように触れた後、さっきまではどことなく楽しそうだったのに、と言われてしまっては、カラスには隠し事もできないような気がした。


「まぁ、いいか。時間ならある。分かり合うのに十分すぎるほどの時間を、僕たちは一緒に過ごすんだよ」


楽しそうに笑うその姿に既視感以上の何かを覚えるのは、過去に出会ったいつかのカラスと重ね合わせているからだろうか。

「ふふ、また……そんな顔をして……」

それはきっと、鼻先が触れそうなほどの距離で私の目を覗き込むこの人も同じで。眦を細めて穏やかな雰囲気を醸し出しているが、うまく言い表せない哀切も滲ませている。

私の中に、私の知らない「私」を見ているのだ。

この感覚は私達だけが共有できるもので、この先ずっと抱えていくものでもある。

過ぎ去ってしまった時間や、失ったものを再び取り戻すなんて術なんて、本当はどこにもない。だから、振り払うことができない感情を持て余したまま、生きていくしかない。


できるのは、新しく積み重ねていくことだけ。


「……ところで、この馬車はどこに向かっているの?」

御者に行先を告げたのはカラスだったけれど、どこへ向かっているのか教えてくれなかった。『僕に任せて』とやけに自信たっぷりに言うものだからついお任せしてしまった。


「まぁ……、行けば分かるよ」


そもそも、カラスはどこからどこまで理解しているのだろうか。

私の人生について、いや、私とシルビアの生い立ちや両親との複雑な関係まで把握しているのだろうか。きちんと説明すべきなのかと逡巡していれば、


「大丈夫だよ」と声がかかる。そんなに緊張しなくてもと朗らかに笑う顔に首を傾ぐ。いつもと同じ笑み、でも決定的に何かが違う笑み。

―――――彼は、こんなに感情豊かだっただろうか。

温度の感じられない皮膚と、柔和な笑みを張り付けたかのような顔は相変わらず人形じみている。その存在自体の印象は薄く、恐らくほとんどの人間は彼がここにいることに気づいていない。

だけれど、先ほどは確かに、御者と言葉を交わし「会話」をしていた。

どこまでも不可思議だ。

鳥になったり猫になったり、あるいは少年だったり。到底、人とは思えないし、人ではないと断言できる。一方でひどく人間じみている。


「イリア、あのね。……頑張れば何でもできるわけじゃない。だから、いくら頑張ったところで一途な想いが通じるわけじゃない。努力すれば必ず夢がかなうというわけでもない。現実は、もっと厳しくて残酷だから」

「……ええ、そうね」

十分すぎるほどに、思い知らされた。

「でもだからこそ、誰のことも気にかけず、誰にも気にかけてもらえない……なんてことがあれば生きてはいけない。必要なんだよ。生きるっていうのは、そういうことなんだ」


誰かを気にして、誰かに気にされて、夢を見て、希望を抱き。そうして現実を乗り越えていく。


「誰かを気にして、……気にされて……」


心臓をぎゅっと掴まれた感覚に呼吸が浅くなる。

そうか、私は誰にも気にされなかったから生きてこられなかったのか。


「違うよ?」

「……え?」

「気づけなかっただけなんだ」

「え、」

「知らなかっただけなんだ」

「……、」

「きっとそれだけなんだ。でも、それはとても重要なことだったんだろうね」



「イリア。僕以外にも、いたんだよ」




「君を気にかけていた人は、いたんだ」



**


それまで揚々と街中を駆けていた二頭の馬はやがて、ある場所で脚を止めた。街とは違い、寂然としているそこはどこか空気が張り詰めている。あまりにも覚えがある。

あれほど馬車を走らせたというのに―――――、

「どうして?」

己の唇が震えているのは、知らされずとも分かった。

いつの間にか、マチス伯爵邸のすぐ側に来ていたのだ。伯爵邸の目の前というわけではなく、あくまでも近すぎず、遠すぎない位置ではあるが。間違えるはずなどない。

貴族の屋敷らしく荘厳すぎるほどに立派な外観は目に痛いほどの白亜。等間隔に並んだ窓のガラスは磨き抜かれていて、陽の光を余すことなく集めている。これぞ貴族の屋敷だという存在感には圧倒されそうだ。

普段、遠出などしないし、乗り慣れている箱型の馬車からは外の様子がよく見えない。それに、学園に通う以外でどこかへ出かけたことなんて数えるほどしかなかった。そのせいで、己の生家だというのに、こんなに近づくまで気づけなかったのだろう。

何度も繰り返し、人生をやり直してきたというのに。

こんな風に、私はこれまでも、あまりに多くのことを見逃してきたに違いない。


「そんなに深刻そうな顔をしなくても大丈夫だよ、イリア」

何度も何度も、言い聞かせるように『大丈夫』を繰り返すカラスの顔を見る。

柔らかく細められた眦にそっと息を吐いた。


あくまでも静かに辻馬車から降りて、意味などないけれど、まるでどこかの間者のように息を潜める。

さすがに表門のほうに近づけばさすがに誰かに気づかれる可能性があると踏んだのか、そちらは避けて、厩舎が置かれている方―――――屋敷の裏側に向かう。

「辻馬車だとさすがにここまで来るのはまずいかなって思ったんだけど、使用人たちも使うことがあるし、恐らく今は、屋敷の中がばたばたしているだろうから誰にも見られていないよ。だから安心して」

「……いいえ、そうではなく」


誰も見ていないとはいえ声を張ることはできないし、足音をたてないように慎重に歩く。

「私はここにはもう二度と帰ってこないつもりだったわ」

「だろうね。もちろん分かっていたよ」

「……なら、なぜ」


「必要なことだからだよ」


くるりと体を反転させて、猫に変化したカラスがちょっとここで待っていてと示したのは、我が家の敷地を囲む鉄柵の外側だった。黒い毛に覆われた小さな体を滑らせて、柵の下にできた細い隙間から敷地内に侵入するカラス。その後ろ姿を見送る。

柵に沿って、背の低い木が等間隔に植えられているので裏庭の全貌を把握することはできないが、目測するには難しいほどに広大であることは分かる。遠くに見える噴水のところでカラスの姿は完全に見えなくなり、取り残されたような気分になった。


昨日まで柵の向こう側にいたことを思うと、どこか奇妙でもある。

しゃがみ込んで、なるべく体を小さくすれば、おのずと思い起こされるのは幼き頃のこと。

目の前に生い茂る緑の間に映り込むのは、私がシルビアに命を救われた厩舎で。あの瞬間の出来事が、遠い日に見た夢のように淡く滲んで消えていく。


この伯爵邸の敷地内が、人生の全てだった。とても広くて、とても狭い。


瞬きをする度に、これまでに経験してきたあらゆる場面が瞼の裏に映し出される。その一つ一つが、昇華されていくようで。

人間というのは、こんな風に過去の出来事を忘れ去って、新しく思い出を重ねていく生き物なのだ。

私もきっと、そうなる。けど、

「……、忘れられるのかしら……?」

息もできないほどの苦しみを。


洋服にローブを重ねているからかひどく熱い。何となく額を拭えば、汗が浮いていた。もしかしたら熱が出ているのかもしれない。

そんなことを思いながら立ち上がれば、じゃり、と砂を踏む足音と猫の甲高い泣き声が響いた。


「……お嬢様、」


よく知った声が耳に届く。低く掠れた、しわがれた聞き馴染んだ声だ。

まさか、と刮目したまま後ずさりする。


―――――見つかった!


逃げなければと踵を返そうとすれば「にゃおん」という愛らしい鳴き声が。呼び止められたのだと分かって、声の主を見れば、首を傾いだ小さな猫がお座りしてこちらを見ている。

思慮深い眼差しを注がれて、焦る心が凪いでいった。

カラスがここにいるということは、これは決して不測の事態ではないということだ。

意を決して、ほんの数歩先でこちらに近づくのを止めて留まっている人物に視線を向ける。目があえば、その人は唇を戦慄かせた。


細く息を吐き出すように口にした「本当に? 生きて……、」いたのかという言葉は最後まで続かない。普段からはっきりと物を言うこの人にしては珍しかった。そんな私の心情を知ってか知らずか、年老いた家令の落ちくぼんだ目が小さく光を灯す。その光が何と呼ばれるものか見極めようとしたけれど、一度強く閉ざされた瞼の向こうから再び現れた双眸には、いつものごとく深い影が落ちるだけだった。

私を見て、安堵したのか。それとも不信感を募らせたのか。推し量ることなどできるはずもなく。


ともかく、わざわざ声に出して私が生きていることを確認するというのは、既にシルビアが屋敷に戻っていることを示している。何があったのか聞かされたはずだ。

ソレイルも一緒だろうか?―――――きっと、一緒だろう。


「……この猫が、屋敷の中に侵入してきて……。私の足に纏わりつくのです。追い出そうとしましたし、何度もお前に構っている暇はないと言ったのですが。私の目を真っすぐに見上げる、この小さな顔を見ていると……、無視していい存在ではないような気がして……」


悪いことをしているわけでもないだろうに声を潜めたモリスは、言い訳じみた口調でこちらを窺う。

ひどく、変な気分だ。

父の後ろに付き従うこの家令は、いつもどこか冷徹な眼差しをしていた。抑揚のない声で指示を出し、大勢の使用人たちを纏め上げる姿は、カラスよりもずっと機械人形じみていたと思う。

冴えた雰囲気は他人を拒絶しているようであり、気軽に声を掛けることなどできやしない。

実際、屋敷の中を忙しなく動き回る彼には息をく暇もなかったことだろう。


わたくしは他人よりも直感に優れているほうだと自負しております。だから、ここに来られた。そして、貴女様を見つけることができました」


惑うように差し出された右手が、足元に向かって広がったローブに触れそうになる。思わず後退したのは、自己防衛だったかもしれない。


「……わたし、私、は、……死んだのよ。貴方が見ているのは、亡霊だわ」

胸を刺されて、死んだのよ。言葉にすれば、その事実が重くのしかかる。私はもう、この世にいない。

イリア=イル=マチスは死んだ。

まばらに生えた草の上に置き去りにされた哀れな死体。それが私だ。


何処にいたのか、植木の一つから小鳥が、チチと小さく鳴いて飛び立つ。柔らかく吹き抜ける風の音が耳に痛かった。家令の足元に座り込んだカラスはただ、そのガラス玉のような澄んだ瞳で事の成り行きを見守っているだけだ。私の視線を追うように黒猫に視線を落とした男が、深く息を吐く。

かつて何度も耳にした音に反応して、勝手に身が竦んだ。

父や母、あるいは侍女や侍従が、呑み込むこともできずに吐き出した溜息とよく似ている。

やがて顔を上げたモリスは、私の全身を観察するような鋭い眼差しで見つめた後、右手で自分の片眼鏡に触れた。少しだけ角度を調整したのか、眼鏡にはめ込まれたガラスが太陽の光を反射する。

「すっかり目の悪くなった私に旦那様がくださったものです。……しかし、目が悪くとも真実を見抜くことはできます。ここで」

皺ひとつない黒い上着の胸元を差し、心なしか姿勢を正した老齢の男は、ふと空を見上げた。

その目が、遠ざかっていく小鳥の黒い影を追っている。

「私にとってもっとも大切なのは、マチス伯爵です。先代からそうであり、代替わりしようと、私の信念が変わることはありません。だから、ずっと旦那様の心情を慮って参りました。あの方の意思が、私の意思でもあるからです」


聡明なこの人は、私が一体、何をしようとしているのかよく理解しているのだろう。

胸の奥に秘めたもう一つの眼で、他人とは違う視点で物事を見つめている。

そうだ。あのときもそうだった。―――――母が自らの首に刃を突き立てたとき。母に危害を加えたのが私だと信じて疑わない父が振り上げた拳を止めてくれたのが、マージであり、そしてこの家令だった。


時間が戻る前のことである。だからこの人は当然、あんなことがあったとは知らない。母は今も、生きている。


「イリア様の婚約が、我が家にもたらすものの大きさは、一言で説明できるようなものではありません」

身分違いともいえるほど、爵位に大きな隔たりのある侯爵家との婚約だ。良くも悪くも、我が家にもたらされるものは大きい。何度もやり直してきた人生の中で、嫌と言うほど思い知らされた。

「旦那様とて、両手話でこの婚約を喜んだわけではないのです。決して、こちらからは断ることのできない婚約の打診に……、あの方とて、多少は動揺しておられた」

「……、」

思い出話に花を咲かせるように目を細めた家令が再び、私の顔を捉えた。

「しかし、幼い貴女にはさぞ、残酷なことだったでしょう」

「……え、」

慈しむような眼差しを向けられて瞠目する。そんな顔は、今まで一度も見たことがない。

「その苦しみを理解していながら、私は貴方を救わなかった。手を差し伸べることもしなかった。助けるべきではないと信じていたのです。貴女が一人でやり遂げることに意味があると、そう思っていた」


何の話をしているのか、もはや理解の範疇を越えている。言葉を失うと共に、呼吸を忘れていたのをカラスの「にあ」という鳴き声が教えてくれた。


「結論から述べると、私にはきっと、貴女を助けることができたでしょう。何事もシルビア様を優先されるご両親のせいで孤独だった貴女に、優しく声を掛ける機会はいくらでもあったのです。それでも私は、私自身の意思で、助けなかった。それが正しいと信じていたから」


「だから、私は……、そう。じいは今、貴女という人を失くしました……」


幻なら、何を語っても構わないでしょうと、モリスは小さく微笑む。歪んだ唇が、泣くのをこらえているようだった。けれど、


そんなの意味ないわ……!


幼い頃の私が、頭の中で叫んでいる。

落ちた涙の跡で文字が滲んでしまった語学の書物を、暖炉に放り込んだあの頃。ぱちぱちと音をたてて燃え上がる炎に安堵した。

どんなときも毅然と顔を上げ、微笑む。それが貴族の子女としてのあるべき姿だから。そう教えこまれては、できないことに苦しむ姿など誰にも見られたくはなかった。

そもそも、侯爵家嫡男の婚約者になってしまえば「できない」なんてことはあってはならない。

いっそのこと癇癪を起して泣き叫ぶことができたなら少しは気分が晴れたのだろうけど、多分それは、悲鳴を聞いてくれる人がいてこそ成り立つもので。

誰もいない場所で、いくら泣いたって救ってくれる人などいやしない。

立ち竦んだまま、燃やした蔵書を再び手に入れるための算段をしている己がどうしようもなく滑稽だった。


他には誰もいない部屋。何時間籠っていても、誰一人として様子を見に来ない。孤独というのが何なのか、きっと誰よりも早く知っていた。


―――――だけど、それはもう過去のこと。あの頃の私を救うことなどもう、できない。


「ソレイル様は大怪我をしておられますが、貴女を置き去りにしてきたと悔やんでおいでです。アルフレッドが、すぐにでも貴女を迎えに行こうとしていましたが……、状況が状況です。国が関わっている以上、下手に動くべきではないとの旦那様からのお達しがございました。貴女はもう、死んだものと……思えと……。そう、判断なされたようです」


遺体を確認することもなく捨て置かれた事実に、胸が痛まないわけではない。しかし、私がもし父の立場であったならきっと、同じ判断を下しただろう。生きているか死んでいるか分からない人間の為に、他の人間を危険に晒すことはできない。かの地を踏んだ途端、急襲される可能性だってある。


「けれど、アルフレッドならば、いつかきっと貴女を捜し出すでしょう。義理堅い男です。貴女に忠誠を誓っている。貴女の遺体をその手で葬るまで、死んだとは思わないでしょう。―――――だからこそ、くさびとなる人間が必要だ。あの男が、間違っても、真実に触れることのないように見張る人間が」


こう見えても、私は、やり手なのです。貴女の死を、間違いのないものにしてみせましょう。


「アルフレッドだけでなく、旦那様や奥様、シルビア様……、侯爵家の方々も含めて。貴女が死んだと信じるように……、私が責任をもって手配いたしましょう」


目尻をそっと細めて、彼が胸元から差し出したのは懐中時計だった。

昔、私がソレイルの婚約者と定められるよりもずっと前。彼のことを「じい」と呼んでいた頃。

秘密を打ち明けるようにそっと、懐中時計の秘密を教えてくれた。早くに亡くした父親から受け継いだものだと。


「どうぞ、これをお持ちください。本当は金銭を工面できればいいのですが……、私には自由にできるお金がありません。この時計さほど高額ではありませんが、安くもありません。売れば、数日の宿代くらいにはなるでしょう」


首を振る私の手を取り「なりません。貴女は今、遠慮などしてはならないのです。死者ならば、今はそれらしく振る舞って、口を閉ざしてください。お願いです……」囁くように、まるで正論を口にしているかのような強さで呟く。


「私にできるのはもう、これくらいしか、……、……、」


モリスは言葉を失くしたのか何度も唇を開いては閉じ、結局、祈るようにこう続けた。



「―――――イリア様。お嬢様」


「……わたくしの姫様。どうか、」




「……、どうか、お幸せに」


















もう二度と会えないから。

許されなくてもいい。


どうかその幸せだけは、祈らせてください。


どうか。

どうか。

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