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確かに、カラスの声を聞いたような気がしたのに。
私はどこか、真っ暗な場所へ落ちていった。今度こそ「終わり」なのかと安堵するも、意識が途切れることはない。明らかに、これまで何度も経験したような「死ぬ」という感覚ではなかった。
不思議に思って、逆らうことのできない「何らかの意思」に身を任せていると、やがて、それが始まる。
まるで「彼」の人生を追体験しているかのようだった。
始まりは、あの日。私が、自ら命を絶った日である。
自分自身は、己の首に紐を巻き付けて、椅子から飛び降りたところまでしか覚えていない。
一瞬白く染まった世界が暗転して、終わり。死んでしまったのだから、当然だ。
けれど、私がいなくなったところで、世界そのものが消滅するわけではない。他の人間の人生は続いていくし、時間が止まることもない。
それは、ごく当たり前のことである。が、これまでの私は、自分が死んだ後に何が起こったかなんて深く考えたことはなかった。ソレイルとシルビアの行く末だって、あくまでも自分が想像できる範囲で、空想していたに過ぎない。きっと幸福に暮らすのだろうと思っていたし、実際、そうだったに違いない。
だからだろうか。彼ら以外のことについては、想像さえしなかった。
例えば、すでに呼吸を止めていた私の遺体を見つけたのは、誰なのか―――――。
もしも、誰かが見つけてくれたとすれば、使用人だろうというのは考えるまでもなく検討がつく。私の部屋を訪れる人間なんて、それくらいだからだ。
けれど、私の予想はいともあっさりと覆された。
つまり、私の遺体を見つけたのは、予想だにしない人物だったのである。
カラス、だ。
厳密にいえば、シルビアもその場に居合わせていたけれど。彼女は悲鳴を上げるばかりで、私の顔をはっきりと確認したわけではない。ただ、そこが姉の部屋であるという事実と、その前の晩に揉め事があったという状況から、死んでいるのは姉に違いないと判断したのだ。
両目を強く閉ざして、大きな声で喚く妹。
原因が自分にあると知っているからこそ、直視できなかったのか。
何事かと集まってきた使用人たちも、錯乱している様子のシルビアに気を取られて、私のことなんて目に入っていないようだった。
死して尚。誰にも顧みられない。
もう随分前の出来事だというのに、この虚しさを、どうしても拭い去ることができない。
結局、喧噪の中で私を救おうと動いてくれたのは、カラスだけだった。もっとも、私は既に息絶えていたし、彼自身もそれに気づいていたはずだけれど。
それでも、その人は、首を括っていた私に手を伸ばした。
「イリア」と確かに、でも消え入りそうなほどに儚く、私の名を呼んだカラス。苦しそうで、やっと吐き出すことができたとでもいわんばかりの声に、切なさが灯る。
もう手遅れだと分かっているのに、焦燥感さえ滲んでいたかもしれない。
とても辛そうに見えた。
でも、彼がそんな風に私を呼ぶなんて、不思議で仕方なかった。
いつの間にか、室内はしんと静まり、私とカラスだけが取り残されている。要するに、使用人たちは皆、自死した人間などもはや尊ぶべき存在ではないと判断したらしい。死んだとはいえ、未だ女主人であるはずの私を放置して、シルビアのお腹の子を守ることを優先したのだから。
もしも、カラスがここに来ていなければ。
私はずっと、吊るされたままだったのだろうかと、詮無いことを考える。
やがて、カラスの腕の中に下ろされた己の肢体は。手の平まで血の気を失い、頬には赤黒い血管が浮いていた。どう見ても、生きてはいない。生気を失った双眸が、宙を仰いでいる。
その様は、どこまでも奇妙だった。
生気なくだらりと横たわる、人形にそっくりな自分の死体を、外側から眺めているのも妙だったし、そもそも、自分を抱えているのがカラスだというのが、異様だとしか思えなかった。
そのカラスは、腕の中の私をじっと見据えて、何度も瞬きを繰り返す。
黒く長い睫毛には涙が滲み、口元は頼りなく震えていた。大きく歪んだ表情は、癇癪を起す前の幼子のように、怒りと戸惑いと、悲しみと苦しみと、様々な感情に揺れている。
馬鹿な私にも、彼が本当に嘆いているのだと分かった。ごく当たり前のことのように、私の死を悲しんでいる。
とはいえ、彼が、私の死を嘆くなんて。
だってカラスは、私が命を絶つ直前、言い放ったのだ。
どのような罪を犯せば、こんな地獄に堕とされるのかと。
ここが地獄なら、君は一体どんな罪を犯したんだろうねと。
記憶に刻まれた、その言葉。
カラスの、冷たく、淡々とした言葉に、打ちのめされたのは言うまでもない。
永遠に続くかと思われる窮愁に行き場を失っていた私は、反論することもできず、その言葉を受け入れるしかなかった。もはや、正気を失っていたのかもしれない。
だけど、己の首に縄を巻き付けてもなお、冷静なつもりだったし、椅子から飛び降りた瞬間ですら、間違ったことをしたとは思っていなかった。
カラスの言う通り、何らかの罪によって罰を受けているのだとすれば、救われることなどない。
そして、そういう人生しか選べない私にはもう、生きている価値などないと感じた。
けれど。
本当にそうだったのだろうか。
どんな罪だったとしても、こんな風に死ななければならないほどのものだったのだろうか。
それに結局、この先に待っていたのも地獄でしかなかったではないか。
「……イリア、」
―――――どのくらい、部屋の中に留まっていたのか。カラスは、ぽつりと私の名を呼んだ。
遺体に、声をかけたらしい。もちろん、返事はない。
静けさが、より深まる。
いつまで経っても誰かが来る様子はなく、やがてカラスは、私の遺体をシーツに包み、大切そうに背負った。そして、そのまま部屋から出る。
そのとき、カラスの足元に、白い花が散らばっていることにに気づいた。大小、さまざまな種類の花々。その中には、私が気に入っていた野花もあった。
そういえば、彼がこの部屋を訪れたとき、両腕に花束を抱えていたような。
使用人や、ましてソレイルが用意してくれたはずはないので、カラスが持ってきてくれたものなのだろう。窓からではなく、きっと正面玄関から、客人として屋敷を訪れたはずの彼。
手土産が必要だとでも思ったのだろうか。
だとすれば、こんな状況だというのに、くすぐったいような、微笑ましいような想いがする。
あるいは、深読みするなら。謝罪の意味もあったのだろうか。
昨晩、穏やかとは言い難い別れをした私たちだから、仲直りしようと思ってくれたのかもしれない。
彼は、間に合うことなく、私もこの大きな花束を受け取ることができなかったけれど。
あの花を受け取っていたら、何かが違っていたのだろうか。
「行こう、イリア。もう、君は自由だ……」
カラスはそのまま、誰にも見咎められることなく屋敷を出た。歩みを止めず、ひたすら前を見て足を動かし続ける。
行き場などないはずなのに、一体どこへ行くのだろう。
カラスはともかく、ただの死体でしかない私には、もう居場所などないというのに。
あるとすれば棺桶の中だけだ。
わかっているはずなのに、彼はそれでも、私を背負ったまま歩き続けた。
そうして、市街地を抜け、山の中に入り。長く長く、歩いて。
薄闇を飾るように小さな星々が輝き始めた頃、彼は、ゆっくりとした動作で私を下した。
人間を一人、背負って歩き続けてきたとは思えないほど、軽々しくやってのける。
「イリア。見て、そろそろ夜明けだ」
物言わぬ、白い顔をした女に、優しく語り掛ける様は滑稽であり、あまりに狂気じみていた。
だからなのか。
ただ、悲しい。
その内にカラスは、頬を濡らして泣き始め。最後は何と言っているか分からないほどに支離滅裂なことを口にしながら、小さな子供のように声を上げた。
私を助けることができなかったと悔やんでいるようだった。
その、ばらばらに砕けた悲鳴の中に「一緒に、いきたい」という言葉を確かに聞いて。
どうしてそこまで、と。私まで、声を上げて泣きたくなる。
カラス。
カラス。
貴方は悪くないのだ。何一つ、悪くない。私が自分で決めたことなのだから。
貴方にはどうせ、私を助けることなどできやしなかった。卑屈になっているのではなく、それが、私の定めだったと知っている。だからどうか、泣かないで。
そんな風に声をかけてあげたかったのだけれど、私の言葉など届かない。
その内に、彼の声が枯れてきて。なのに、今度は声もなくはらはらと涙をこぼし続ける。自分でも、泣いているとは思っていないのかもしれない。私の、冷え切った体を抱きしめて、温めることができないかと苦心しているように……見えた。
なんて悲しい。なんて、寂しい。でもそれは、私じゃない。私は既に終わったから。
カラス。貴方はどうしてそんなに悲しむの。どうして、私なんかのために涙を零すの。
カラス、カラス。もう、やめて。
やめて。
私はもう、死んだのだから。
**
正直言えば、彼はすぐに諦めると思った。
誰もがそうであるように、例えば大切な人を亡くしたとしてもやがては立ち直り、新しい人生を歩いていくのだと。カラスが、もしも人間ではないとしても。
けれど、そうではなかった。
彼はこの後も、ずっと、ずっと長い間、私を捜し続けたのだ。
そのあまりにも長すぎる人生を語るには、とても一言では足りない。元々彼は、常人では考えられないほどの果てしなく長い時間を独りで生きてきたようである。
まるで、私自身のようだった。
しかし、根本的に違っているのも、よく理解している。
何度も何度も繰り返し、同じ時間を送ってきた私と。
長い長い時間を、生きてきた彼。
そんな彼は、私と最後に言葉を交わしたとき、こんなことを言っていた。
『君ってもしかして、自分だけが、不幸なんだって思っているんじゃない―――――?』
あのときは、ただ理不尽に責められているような気がしたし、実際、これほどの不幸を負っているのは自分だけだと思っていた。
だけど。
あの言葉の真意は、まさに彼が口にした言葉の通りだったのだ。
私の地獄は、私だけのものだけれど。彼もまた、彼だけの地獄に居た。そういうことだ。
そんな彼の数奇な人生を、私はただ、見続ける。あたかも夢を見ているかのように、私を捜し続けるカラスの人生を、傍観者のように眺めてきたのだ。
時を変え、場所を変え。世界を越えて、私という人間だけを追い求める彼を。
私は、言うなれば、創造した物語を紙に書きだす作者のようでもあった。
文章を読み込むかのように、「イリア」を失ってからの彼の人生を、知る。
それは多分、孤独との闘いでもあったかもしれない。
死んだ人間の姿を捜し続けるその姿は、もはや正気の沙汰ではないと言えた。けれど、ある意味、とても正気だとも感じた。
なぜなら、人は、孤独には耐えられないものだから。
そうして。
いくつも重なり、複雑に絡み合った世界線の先に、
―――――あの雨の日が、あった。
路地裏に転がる、屍のような私。
投げ出された手の平に、雨粒が落ちてくる。その冷たい感触が心地良いのは体が熱を持っているからだろう。
黒く濁った空と、激しい雨に遮られる視界。ひどく覚えのある光景に、懐かしささえ過る。
そうだ。私は、一度、これと全く同じ光景を見た。浴槽で、溺れたあのときである。
当時は、記憶が曖昧で何が起こったのかはっきりと思い出せなかったけれど。今なら、分かる。
カラスはこのときやっと、私を見つけたのだ。
ずっとずっと長い間、探し続けてきた「イリア」を。
だから彼はこう言った。私の耳元で、
『やっと、見つけた』と。
喜びよりもずっと、悲しみが増さる哀切の滲む声に胸が震える。暗闇の中で、カラスの表情がよく見えなかったし、何よりも意識が朦朧としていたので、彼の顔がずっと思い出せなかった。
今までは。
「やっと、」と噛み締めるようにもう一度、呟いた彼。
この人は、こんな顔で、こんな声で、こんな風に私を見つめていたのだ。
そしてカラスは、道端に放り出されていた私を抱き上げて、いかにも大切そうに、腕で包み込んだ。
生まれたばかりの赤ん坊を抱えるみたいに、慎重に。宝物をそっと、指で拾い上げるように。
優しい仕草に、何とも言い難い感情に支配される。
その瞬間、私は確かに「自分の体」に呼ばれた。
大気に溶け込んでいた意識が、魂となり、路上に転がっていたかつての自分へと引き込まれる。
するりと、生身の肉体に入り込む感触がして。
見上げれば、泣き出しそうなカラスの顔がすぐそばにあった。瞬きをすれば、視線がぶつかる。
私を見つめる黒い瞳が、惑うようにゆらゆらと揺れた。
己は、久しく感じていなかった死の予感と共にあり、今にも消え入りそうな命を、必死でつなぎ留める。伝えなければならないことがあるから。
「……私を、さがした……?」
と、声にすれば、カラスは少しだけ目を瞠って、ただ深く頷く。本当は、聞くまでもなく、彼が私を捜し続けてきたことを知っていた。
その執着を、その執念を、その深すぎる想いを、何と呼ぶのか分からない。
私だって、かつてはカラスのことを捜していたことがあったけれど、どうしても見つけられずに、いつしか諦めてしまった。捜して、捜して、捜し続けて、それでもどこにも居ないと知ったとき、途端に襲う孤独感に耐えられなかったのだ。
何よりも、ソレイル以外の人間に心を寄せることを、恐れていたのかもしれない。
「でも、貴方は見つけたのね……。私を、見つけた」
私と違って、カラスは諦めなかった。それは彼が強かったからではない。そのくらいもう気づいている。寂しくて、悲しくて、苦しくて、どうしようもなくて。耐えられなくて、求めずにいられなかったのだと。人というのは、もともとそんな風に作られているのかもしれない。
私を見つめるカラスの黒い瞳が、月の光を取り込んだ雨粒を映し出す。うるうると輝いて、今にも落ちてきそうだ。儚くて、美しい。
「……ねぇ、カラス。知っている? 意味があったのよ。……愛されないのにも意味があった」
幼い頃、両親はなぜ、私を抱きしめてくれないのだろうと思っていた。妹だけが大切にされることを不思議に思っていたし、ただただ悲しかった。唯一、自分のものだと胸を張って言えるのが婚約者だったけれど、その人は、私に見向きもしなかった。
ずっと長い間、理由を知ることができなかったから、苦しくて仕方なかった。
けれど。
母ではない人を想い続ける父、敬愛すべき姫君の娘に心を捧げた母、婚約者の妹に恋をしたソレイル。
愛されない理由を当てはめてみると、何となく彼らの気持ちも分かる。……ような気がした。
「でも、もういい」
そんなことはもう、いい。そう、いいのだ。だって。
「だって、貴方」
「私を、」
「愛しているのね」
そう言って、微笑もうとしたけれど、失敗した。抑えきれないほどの胸の痛みに、くしゃりと顔がゆがむ。想いを返されることがないと知りながら、それでも私を捜し続けたカラス。
いつだって彼は、そうだった。
―――――いつかのときは、娼館で死にかけていた私を世話し、薬を飲ませてくれたことがあった。高額なはずの薬を何度も持ってきてくれて。だけど、何の見返りも求めず。ついに、アルフレッドを連れてきたのだ。
結局、助かることはなかったし、あのときも温かさとは無縁の場所で息絶えたけれど。
本当は、独りなどではなかったことを、知っている。
カラスはずっと傍にいて、私を見ていたのだ。
窓ガラスの向こう側から、そっと。
「イリア……っ、イリアっ、」
だから、それで良かった。カラスが傍にいるなら、それだけで、他には何もいらなかったのだから。
「……イリア、……待って」
私を抱きしめるカラスの指が、皮膚に食い込む。肉体から離れようとしている魂を逃すまいと、縋り付いてくる。けれど、もう終わりが近づいていると分かる。
貴方を抱きしめてあげたい。でも、もう力が出ない。
眠りに落ちる瞬間と同じように、ふっと、どこかへ落ちていく感覚がして。
命を終えたのだと、分かった。
それなのに、私の意識は消えることなく、再び、辺りの空気と混ざり合う。
そして、これまでと同じく、カラスを「見て」いた。
「どうしたら、君を助けられる……?」
激しさを増した雨音にかき消されてしまうほどに小さな声だった。ほとんどうめき声に近かったかもしれない。だというのに、絶叫しているようにも聞こえた。そのくらい、苦痛に満ちていたのだ。
「どうしたら君は、生きていてくれるんだ……」
事実、彼は泣いていた。私の体を抱きしめて、ぶるぶると全身を震わせながら。
「……イリア、僕はどうすればいい? どうすれば、君を助けられる……? 教えてくれ、」
「どうか、僕を、助けて」
「、君を、助けられるように」
震える声は、耳を澄まさなければ聞こえないほどに心もとないというのに、確かに、叫んでいる。
でも、違う。カラス。……それは、違う。
私はもう、誰かに助けてもらいたいとは思わない。救いが欲しいわけでもない。
それは、諦めてしまったからではない。私は、知ったのだ。これでいいと、理解した。
カラスの、あまりに長すぎる生を見てきて、やっと理解したのだ。
私はもうずっと前から、救われていた。
それに。
私は漸く、ソレイルの手を離すことを選ぶことができたのだ。シルビアを彼に託し、彼らが共に生きる未来を望んだ。
引き裂かれるような痛みはあったけれど、その選択は正しかったと胸を張って言える。
いや、仮に間違っていたとしても、私はやはり同じ道を選ぶに違いない。
もしも再び、あの茶会の日に戻されるとしても。私はもうソレイルの傍にいることを望まないし、彼とシルビアの幸福を願う。……強がりなんかではなく、真実、そう思っている。
何度も、何度も、同じ時間を繰り返してきたからこそ。そう、思えるのだ。
だから。
今度は、私が、カラスを助ける。貴方がそれを望むのなら。
そして、次があるとすれば、そういう人生を送りたい。与えられるから、与えるのではなく。
ただ、与えることのできる人間になりたい。
カラス。私の、黒い鳥―――――。
私、貴方と一緒に生きたい。
一緒に、生きてみたい。