13
それから僕は、すぐに次の世界へ渡った。
魔法陣が、不可思議な模様を描いたまま光の粒となり、弾けて消える。暗闇の中で、その様がはっきりと見えた。目を閉じているのにも関わらず、不思議なことだ。
そんなことを考えていたら、足元に何かが落ちてくる。
ぱた、ぱた、ぱた。
ゆっくりと瞼を上げれば、つま先が水溜りを踏んでいるのが分かった。
頭上から落ちてくる無数の水滴が、水面で潰れては消えていく。
雨が降っているのか。
知らず内に落胆している自分に気付いて、溜息が漏れた。
イリアと出会った「あの日」ではない。
もしもあの日だったら、僕は鳥の姿をしているはずだし、空を飛んでいなければならない。それに、どこかから歌声が聴こえてくるはずだ。
でも、どれ1つとして該当しない。
ここはどうやら路地裏のようであるし、初めて見た場所だ。
近くに食事のできる店でもあるのか、残飯が散乱しているし、異臭も鼻をつく。
雨が降っていることもあって野犬や野良猫はいないようだが、手足のない奇妙な虫が地面を這いまわっていた。
今度も、イリアが存在しない世界なのだろうか。
ふと頭を過ぎった考えに、足を踏み出すことができなくなる。身動きすら拒んでいるような情けない心情が、どうしようもなく嗤えた。
どうにかしてイリアを捜し出したいと思うのに。
胸の底に巣食う不安が僕を、臆病にする。
また、彼女がいなかったらどうしよう。また、彼女を失ったらどうしよう。
また、たった独り、取り残されたなら―――――?
起きてもいないことを考えてたじろいでしまうのは馬鹿みたいだけど、有り得ないことではない。
だから、何度も深呼吸を繰り返して、平静を装った。そうやって己に暗示をかけるのだ。
きっと、大丈夫。今度こそ、大丈夫。大丈夫。大丈夫。
僕は、大丈夫。
震える足を叱咤して、やっと一歩踏み出した。
するとそのとき、視界の端に奇妙なものが映り込んだ。
真っ黒な塊である。
とうとう僕にも、この世のものではない何かが見えるようになったのか。
驚嘆するというよりも、変に納得するものがあって目を離すことができなくなった。
じっと見つめていれば、その黒い塊から妙な音が響く。
「……う、」
呻き声だと気付くのに、時間は必要なかった。
雨足が強くなり、よくよく耳を澄ましていないと聴こえないほどの小さな声だが、はっきりと人間が発したものだと分かる。
近づいてみれば、地面に投げ出された両腕も見えた。
思わず周囲を観察してみたけれど、他には誰もいない。
そもそも今は一体、何時頃なのだろうか。
雨が降っているせいで薄暗い。しかし、完全な暗闇というわけではないので、夜ではないのかもしれない。
ともかく、路地裏とはいえ、静寂に支配されているところをみれば、人間が活動するような時間帯でないのは確かだ。
「―――――、て」
そんな時間に、こんな場所で転がっている人間など普通ではない。自分でそうしたとは思えないので、誰かに捨て置かれたのだろう。よほどの事情があるのだろうと踏んだ。
一体、何があったのかと、近づきかけて。
呻き声が、明瞭な言葉となって僕の耳に響く。
「た、すけて、」
単純に、知っている声だと思った。
顔なんて確認するまでもない。たった一言が、僕の胸を打つ。まるで、心臓を金槌で叩かれたみたいに。
途端に、はくはくと唇が宙を噛んで、舌が絡まる。上手く言葉が出てこなかった。
沈黙の隙間を縫うように雨音が響いて、僕の鼓膜を震わせる。
どのくらいの時間だったか分からないけれど、たった一言を口にするのが、ひどく難しかった。
「―――――いいよ」
やがて、己の唇から零れ落ちた言葉はあまりにも簡潔で。
心が追いつくよりも先に、声が出てしまった感じだった。
それでも、足が、腕が、指先が勝手に動いて、彼女の丸まった背中を抱きしめる。
びくりと震えた肩がどこか懐かしくて。何があったのか、あざの浮いた細い首筋に息が詰まった。
痩せすぎて細くなった顎とひび割れた唇。暗いまなざしはどこを見ているのか、ゆらぐように宙を彷徨う。
既視感を覚えたのは、娼館で共に過ごした彼女とあまりに似通っていたからかもしれない。
けれど「あの彼女」はもう既に、この世の人ではなく。
そもそも「この世界」に「あの彼女」は存在しない。
悲しいのか、もしくは「彼女と同じ顔をした、別の彼女」との再会に胸を震わせればいいのか。
「……カ、ラス……?」
一瞬、聞き間違いかと思うほどの小さな声。
そんな儚い声が、世界を一変させる。
どこまでも続く深遠の闇に、ぽつりと明かりが灯ったようだった。
目を凝らしていても見失いそうなほどに、小さな光だけれど、世界中を照らし出すような威力を伴う。
ただ、名前を呼ばれただけ。たった、それだけなのに。
「カラス、」
聴こえなかったと思ったのか、今度は、はっきりと名を呼ばれて。
不思議な色を湛えた瞳が、じっと僕の顔を見据えた。
自分を抱えているのが誰なのか、はっきりと理解しているように思える。
「……やっと、見つけた、」
やがて、そんなことを口にしたのは、一体、どちらだっただろうか。
僕が言ったのか。彼女が、そう言ったのか。捜していたのは誰で、見つけたのは誰だったのだろう。
今にも折れてしまいそうな肢体を、強く抱きしめる。潰してしまわないように気をつけたつもりだったけれど、案の定、苦しそうな声を出したイリアは、吐息共に「……私を、さがした……?」と訊いてきた。
僕はただ肯いて、彼女の様子を観察する。
落ち窪んだ目の淵が、異常なほどに黒く染まっていた。
それを何と呼ぶのか知っている。
―――――どうして。
それは、死に際の人間が見せる特有の色で。いわゆる、死相と呼ばれるものだった。
イリアは既に、死の淵に立っている。
さすがに、どこがどう悪いという診断を下すことはできないけれど。
僕の鼻は、あまりにも敏感に死の臭いを嗅ぎ取り、この目は、鮮明に死の色を映し出す。
「私は、貴方を捜した……」
僕が返事をしないことに焦れたのか、彼女は懸命に話し出した。
「捜して、捜して、それでも駄目で……いつも、貴方はどこにもいなくて……それで、捜すのをやめたの……。だって、寂しくて、怖くて、悲しくて……どうしようも、なかったから、」
ぜえぜえと異音の混じる声が、僕を詰るように告げる。
彼女の気持ちが、痛いほどに分かった。僕もそうだったから。
本当は何処にも存在しないというのに、世界中を捜し回って、イリアの幻影を追いかけた。
その苦しみを、その悲しみを、他の誰が理解できるというのか。
いっそのこと、捜すのを止めてしまえれば、どれほどに良かっただろう。
「でも、貴方は見つけたのね……。私を、見つけた」
うん、うん、と相槌を打つ。
声を出してしまえば、言葉ではなく嗚咽が漏れてしまう。
泣いているわけでもないのに、なぜか、そう思った。
「ねぇ……カラス」
知っている? と彼女が耳元で問う。
瀕死の状態で息も絶え絶えだというのに、その指が、僕のローブを強く握った。
血の滲んだ指先。伸びた爪はがたがたで、手入れができるような環境にいなかったことを物語っている。
「意味が、あったのよ。愛されないの、に、も……」
何を言わんとしているか分からない。唐突に切り出された話には、何の脈絡もなかった。
けれど彼女は、いかにも今の今まで僕たちが愛について語り合っていたかのように言葉を紡ぐ。
「だから、私は、誰にも愛されたことが、ない……。愛されない、理由が、あるから……」
「これから先も、きっと、そうだって……思ってた……」
違う。と否定しようとして口を開いたのに、それを制するように彼女は双眸を細めた。
太陽なんて見えないのに、眩しそうな顔をして続ける。
「でも、もういい、」
と、彼女は1つだけ呼吸を置いて、僕の顔を見つめた。
その大きな瞳に雨粒が落ちて、水底に沈んだ宝石のように柔く光を放つ。
「だって、貴方」
「私を、」
「愛しているのね」
雨足が強くなって、地面を打つ音が激しさを増した。
空は先ほどまでよりも一層暗くなり、僕らの間に深い影を落とす。よくよく顔を見なければ互いの表情すら読み取ることができない。
そっと顔を寄せてみれば、頬に吐息がかかった。
イリアは人相が変わってしまうほどに瘦せこけているというのに、どこも変わっていないように見える。
尊厳を踏みにじられてもなお、誰にも奪うことのできない美しさが、そこにはあったのだ。
「まって、イリア……、」
今、この瞬間なら。この目がただのガラス玉に戻ったとしても構わない。
完全に光を奪われても笑っていられるだろう。
他には何も覚えていたくないから、イリアの顔だけをこの目に刻んで。これから先、彼女だけを思い出すのだ。
そうできたなら、永遠に続いていく時間の中、僕はいつでも夢を見られる。
昼間でも君の夢を見るから。
僕はもう、君を、捜さなくて済む。
「……まって……、待って、待って、」
「カラ、ス……」
「まだ、まだ待って……、待って…っ、イリア、イリア……っ」
あと数分、いや、数秒だけでも良い。もう少し、もう少しだけ、生きていて。
そう願うのに、彼女は死んでいく。
「ごめんなさい、カラス……」
彼女は僕の耳元で深く、深く息を吸い込んだ。
終わりが近づいているのだと、分かる。
それなのに僕は、馬鹿みたいに「まって」と繰り返した。もはや、叶いもしない願いだと分かっているのに。
「くす、り……せっかく、もってきてくれたのに、わた、し、……もう、だめみたい……」
「な、に……?」
「でも、わたし、あなたがいればよかったの……ほんとうよ、―――――カラ、ス……」
ぼろりと、瞳から剥がれ落ちるように涙が零れた。重力に逆らうことができず、次から次へと落ちていく。
いや、もしくは。頬を滑る、ただの雨粒だったかもしれない。
イリアの命が失われていくと同時に、雨の量も増えていくようだった。
ぱしん、と世界が割れるような閃光の後、遠くの方で雷鳴が響く。
「イリア、」
聞き間違いかと思った。
だから、僕は泣きながらもあっけに取られたような顔をして、彼女の次の言葉を待った。
何を、言った?
今、何を。
聞き出そうとして口を開いた。
けれど、イリアはいつの間にか、息を止めていたのだ。
僕を見つめる視線はそのまま、今にも何か話しだしそうな顔をして。光を失った双眸には、深い闇が映り込んでいる。
「イリア、今、何て言ったの?」
―――――くすり……? 薬というのはつまり……。
「覚えていたの?」
あの閉ざされた小さな世界のことを。娼館で過ごした、あまりにも短い時間のことを。
もう手の施しようがないほどに弱っていた彼女に、何度か薬を飲ませたことを覚えている。
高額な薬は、手に入れるのに苦労した。命を延ばすことができるわけでもないのに、イリアが少しでもよく眠れるといいと思って。
あのときの彼女とは別人であるはずなのに。
今わの際に、夢でも見ていたのだろうか。
それにしても。
「ひどい」
酷い。今更になってそんなことを言うなんて。
僕に、返事をさせることなく逝ってしまうなんて。
また、僕を置き去りにして。
「ころして、」
もう、いっそのこと、誰か終わらせて。首を刎ねてくれていいし、心臓に剣を突き立ててくれてもいい。
そうしてくれれば楽になるはずだ。けれど、
「……死にたくない……、」
ひっ、と無様に漏れた嗚咽を、都合よく雷鳴がかき消してくれる。
だって、もしも本当に死んでしまったなら、もう2度とイリアを捜し出すことはできない。
だから、どうしても死ぬわけにはいかない。
死ぬことができないから、生きるしかない。
それなのに、生きていくのが、怖い。
力を失ったイリアを抱えなおす。その痩せた肢体から体温が失われていくのを見ているしかない。
やっと見つけたのに。それなのに。彼女は死んだ。
「どうしたら、君を助けられる……? どうしたら君は、生きていてくれるんだ……」
子供みたいにしゃくり上げて、自分が、声を上げて泣いていることに気付く。
冷え切ったイリアの手を、己の頬に重ねる。
その体を抱えているのは僕のはずなのに、なぜか、抱きしめられている気がした。
―――――貴方、私を、愛しているのね。
あれほど、愛情に飢えて、誰かに愛されることを切望していたイリアが。誰も信じられず、猜疑心と警戒心に満ちていた彼女が。そう告げたときは、自分が愛されていると、確信していた。
けれど、僕がイリアに向ける感情は、そんな美しい言葉では片付けられるものではないと知っている。
この執着はきっと、醜くて目を背けたくなるほどにおぞましく、狂おしいもので、穏やかさとは無縁だ。
助けると言っておきながら、与えられるものは無いに等しく。
それどころか、本当に助けが必要なのは僕の方で。
むしろ、望みだけは増えていく。
死なないで。
生きていて。
傍にいて。
離れていかないで。
泣かないで、笑っていて、幸せでいて。
君は僕に、何も望んだりはしないのに。