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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
カリアライア=イグニスの永遠
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10

「目に、焼きつく」というのは、まさに、こういうことなのかと思う。

瞼を閉じて記憶を探る必要もない。輪郭を描くまでもなく、その相貌が甦る。大した苦労もせずに、いつだって当たり前のように、彼女を思い出すことができた。

それは多分、文字通り、この瞳に彼女の顔が焼き付いているからなのだろう。


―――――あの日の僕は、何から何まで間違っていた。


イリアに酷い言葉を浴びせた僕は、冷や水を浴びたように、はっと我に返った。そして、まとまらない思考のまま、取り繕うこともせずに、彼女の傍から離れてしまったのである。

単純に、少し時間を置いた方がいいと思った。それだけしか考えられなかったとも言える。

僕も彼女も、互いに興奮していて、冷静な話し合いができるような状況ではない。

彼女も「一人になりたい」と言ったきり、うわの空で。話しかけたところで僕の声が聞こえているのかどうかもあやしかった。

だから結局、「また明日来るね」と言い置いて、その場を離れることにしたのだ。返事も、聞かずに。


それが、どういう事態をもたらすのかも分からなかった僕は、あまりに浅はかだったと思う。


後ろ髪を引かれる思いだったけれど、来たときと同じように、窓から外へ飛び出て。

月も星も出ていない暗闇を、鳥の姿で飛びまわった。

真っ黒な波が蠢く大海原に一人、放り出されたような感覚に心許なくなる。けれど、それと同時に、荒れていた心が静まっていくような気もした。

どのくらいの間飛び続けていたのか分からない。が、やがて地上に、ぽかりと浮かび上がる白い光を見つけた。

よくよく目を凝らせば、小さな花が肩を寄せ合うようにして咲いているのが分かる。小高い丘だ。

一瞬、星屑が地面に散らばっているのかと思った。

そんなことを考えた自分が可笑しくて、苦笑しながら降り立てば、その勢いで花びらが舞う。

いっそ幻影的とも言える光景に瞬きすら忘れて見惚れていると、ふと思い出した。


彼女の好きな、白い花。


名前も知らないけれど、素朴で、だけどどこか目を惹く愛らしい花だ。何となくイリアに似ている。

そんなことを考えながら、何気なく、足元の花を手折った。可哀想な気もしたけれど、この花を集めてイリアに渡したらどんな顔をするだろうと想像してみれば、自然と口元が緩んだ。


そうだ。この花を持って、明日の朝、改めて会いに行こう。


酷いことを言ってごめんと謝って、彼女にもう一度話しを聞くのだ。

過去を何度もやり直すことができるなんて有り得ない。だけど、彼女が何か勘違いしている可能性もある。

もっとちゃんと話しを聞けば、事実は全く違うのかもしれない。

例えば、彼女は、いわゆる前世と呼ばれるものを記憶しているだけで、過去に戻っているわけではないとか。

だって、そう考えた方が、ずっと信憑性が高い。

そもそも、全てがただの幻想だということも考えられるけれど。


とにかく、もう一度話しを聞かなければ。


そう思いながら、両手いっぱいになるほど花を摘んだ。

野花だけでは寂しいから、朝になって花屋が開いたら、もっと花をたくさん買い足そう。

彼女は怒っているかもしれないけれど、真摯に頭を下げればきっと許してくれる。

許してくれなかったとしても、それなら、何度でも謝ればいい。


朝日が昇り始めると街へ移動して、抱えきれないほどにたくさんの花を買った。

ついでに、ふらりと街の中を彷徨う。

まだまだ早い時間だというのに、街は既に動き出していて、多くの店が商いを始めていた。

人の姿で、これほどたくさんの人の中を歩くのは本当に久方ぶりのことで、なかなかに緊張したけれど。

すれ違う人々は、時々僕の黒いローブに目をやる程度で、特に何かを言われることもなかった。

どうやら上手く、溶け込んでいるらしい。


今日くらいは、窓からではなく正面玄関から訪ねよう。

そう意気込んでから、少し笑った。

ただ誰かに会いに行くだけなのに、気合いが必要とは。しかし、訪ねる先が貴族の屋敷なので、気を抜くわけにもいかない。

イリアを名指しで訪ねてくる人間はそう多くないはずだから、使用人は訝しげな顔をするだろうけれど、僕にはイリアからもらった書簡がある。


「貴方もたまには、玄関から来ればいいのに」と苦笑していた彼女の顔が過ぎった。

さらさらと一筆したためながら「そもそもカラスは、他の人に見えるのかしら……?」と、独り言のように呟いたイリア。

返事もしない僕を気にも留めずに「私の名前を書いておくから、これさえ持っていれば安心よ」と彼女は微笑んだ。

貴族というのは、実に、手順や仕来りに重きを置く生き物なのだ。

かつては己もそういう世界で生きていたからこそ分かる。

貴族の屋敷を訪ねるときは、知り合いだからといきなり門を叩いたところで中には入れてもらえない。

不審者として追い返されれば良いほうで、場合によっては拘束されることもある。

だからこそ、事前に話しを通しておくか、火急のときはしかるべき人間からの口添えが必要なのである。


「私の、学院時代の友人ってことにしておくわね」


イリアは、どこか楽しそうだった。その顔があまりに無邪気だったのでよく覚えている。

その書状が今、ここにあった。多分、これを使う機会は来ないだろうと思っていたけれど。

だけど、今日だけは、彼女の「友人」として屋敷の門を叩きたかった。

周囲の人間に見せ付けたかったのだ。イリアには味方がいるのだと。

彼女は孤独などではなく、心から信頼できる人間がいて、そして彼女自身も誰かに頼りにされる人間なのだということを。

妹に全てを奪われた人間のままでいてほしくなかった。

でも、それでも。

それでも、イリアを救えないのなら。

いっそのこと、彼女を連れて街を出ようか。


本当は、僕のような「人の世の理」から外れた者がでしゃばるのはよくないし、彼女の人生に関わり過ぎるのも問題があるはずだ。誰かに指摘されたわけではないけれど、多分そうだ。

けれど、もう、見て見ぬ振りをするべきじゃない。


「……奥様の、ご友人、ですか……?」


屋敷を訪ねた僕を初めに対応したのは、ソレイルの専属執事だった。遠くから見かけたことはあったけれど、会話をするのはもちろん、これほど近い距離で対面するのは初めてだ。思っていたよりもずっと若々しい。

彼はあからさまに不審そうな顔をしつつ、差し出した書状を確認する。

すると、少しだけ驚いたような顔をして、そこで待てと告げるなり屋敷の奥へと姿を消した。


玄関ホールに取り残されて、どれくらい待っただろうか。


「お姉さまのご友人というのは、貴方?」


次ぎに現れたのは、イリアの妹だった。

内心、なぜここに? とは思ったのだが、瞬時にイリアが言っていたことを思い出す。

そうだ。彼女は、ソレイルとの子供を授かっているのだった。故に、自分の屋敷には戻らず、この屋敷に留まっているのだろう。

妊娠しているのが妄言ではないことを示すかのように、イリアよりも若干小柄な少女は自分の腹をそっと撫でる。

恐らく無意識の行動だったのだろうが、何となく鼻についた。

何気ない仕草ではあるが、もしもイリアが見ていたならと考えると、切ない気分になる。


「お疑いですか?」


思わず、そう口にしていた僕の顔を、少女はまじまじと見つめた。幼少期から寝付いていることが多かったと聞くけれど、赤の他人からすれば、標準よりも華奢なくらいでやせ細っているというわけではない。

これならむしろ、街で貧しい暮らしを強いられている人間の方がよっぽど衰えているように見えるだろう。


「いいえ。先ほど、お姉さまが書いたという書簡を拝見しました。確かに姉の筆跡ですわ」


姉は自室におりますので、ご案内致します。と、まるでこの屋敷の人間であるかのように振舞う彼女。

そもそも、この屋敷の主でもなければ使用人でもない彼女が客人を招き入れるという違和感に首を捻る。

彼女自身は、その不自然さに気付いてもいないけれど。

前を歩く彼女の背中はあまりに堂々としすぎていて、他人の屋敷に居るという感覚はないようだった。


「……そのお花、お姉さまの為に?」


次代の侯爵のために建てられた屋敷は、広すぎるほどに広い。僕がかつて暮らしていた屋敷とは比べ物にならない。一度訪ねたくらいでは、どこに何があるのか覚えることはできないだろう。

歩きながら周囲を観察していると、前方から遠慮がちな声がかかる。


「ええ。少し……、そうですね。彼女と言い争いをしてしまって」


どうして正直に話そうと思ったのか分からない。けれど、咄嗟に口から零れたのはただの真実だった。言いつくろうことさえできなかった。僕の言葉を聞いて何を思ったのか、前を歩く少女がぴくりと肩を竦ませる。


「……そう、なんですね」


囁くような声は、細く頼りなく、震えていた。


「私、お姉さまと喧嘩なんかしたこと、ないんです。お姉さまはいつだって私に、優しい―――――」


その優しさに乗じて、姉の夫と関係を持ったのかと、思わず声を荒げようとして。


「……けれど、きっとそれは……お姉さまが、ただ我慢をしていただけ……」


お姉さまはいつも、そう。と、シルビアは何かを言いかけて言葉を呑み込んだ。

青褪めて見える横顔は、それでも、己の行いを恥じているようには見えなかった。労わるように両手でお腹を抱える仕草をする彼女には既に、母親としての自覚が生まれているのかもしれない。

自分の子供を、過ちの末に生まれた存在にはしたくないのだろう。


けれど。

そんなのは、あまりに身勝手だ。それに、残酷でもある。


イリアはいつだって、良い姉であり、良い妻であり、良い人間になろうとして、その心を削いでいたというのに。何一つ報われず。何一つ、思い通りにならない。


そんな人生は、あまりに。


「かわいそうだ」


―――――あれほど、愛情に飢えているというのに。あれほど、愛されたがっているというのに。

一番欲しいものが、何をしても手に入らない。


「……今、何か仰いましたか?」

「……」

「?」


駄目だ。こんなのは、駄目だ。

あの子が嫌がったとしても、その手を引いて、ここから連れ出そう。


「……あの、ここです。お姉さまのお部屋は……」


やがて辿り着いたのは、頑丈な外鍵が鈍い光を放つ扉の前で。

初めて、彼女の部屋の扉を見た僕は、ぶるりとその背を震わせた。

扉の外側に鍵をつける意図は、誰かを部屋の中に閉じ込めたいからで。その対象は、この部屋の主であるイリアただ一人だ。

窓から出入りしていた僕は、暢気にも、この鍵の存在を知らずにいた。

そういえば、イリアの生家にも同じようなものがついていなかったか。

言葉を失った僕に、シルビアは気まずそうに視線を彷徨わせる。


「昨晩は……、酷く、取り乱していらっしゃったようで……」


でも、もう鍵は外してあるんです。と言う。

夜中は、何があるか分からないので念のために施錠していたようだが、明け方近くには鍵は外していたはずだと。

実際、扉の高い位置に取り付けられている南京錠は現在、外鍵としての機能を果たしておらず、ただ扉にぶら下がっているだけだった。

その扉の前に立ったシルビアが、慎重に扉を叩く。

カツカツという頼りない音が、静かな廊下に響いた。


「―――――お姉さま? お客様がお見えなのだけれど……」


控えめに声を掛けるが、聞こえていないのか返事はない。

昨晩は随分遅い時間まで2人で話していたから、まだ眠っているのかもしれない。だとすれば、いきなり客人が来たと言われても戸惑うだろう。着替えだってまだかもしれない。

そう思ってシルビアに声を掛けようとしたのだけれど、彼女はそういうことには一切頓着しない性格らしい。気付けば既に、ドアノブに手を伸ばしているところだった。


扉は、あっけないほど簡単に開く。


だけど僕の目には、その扉の動きがやけに鈍く映っていた。

僕の少し前に立っていたシルビアが短い悲鳴を上げて、それに呼応するかのように地面が揺れる。

何事かと思わず足元を見て、己が、先ほどまで胸に抱えていた花束を落としてしまったことに気付いた。

けれど、ただの草花が地面を揺らすはずもない。己が、ふらついてしまっただけだと分かる。


やがて、シルビアが長い、長い、悲鳴を上げて。


再び視線を上げると、開かれた扉の向こう側にイリアを見つけた。

彼女は、こちらに淀んだ眼差しを向けている。白い顔に、長い髪が一房、影を落としていた。

その髪がゆらりと揺れて、僕は初めて、彼女の「宙に浮いた」つま先を見たのだった。


「……いやっ、いやあぁ、お姉さま、お姉さまっ、!!」


腰を抜かしたのか、座り込んで声を上げ続けるシルビアを追い越し、室内に入る。

背後で、人が集まる気配がしていたけれど、そんなことに構ってる暇はない。

イリアを、助けてあげたかった。


苦しそうだ。白い唇は半開きで、今にも何かを訴えかけようとしているのに、このままでは声が出せない。……だって、首が、締まっている。息もできないに違いない。

イリアの首から伸びた長い紐は、天井から下がった照明の鎖に巻きつけられていた。

元々、やけに低い位置に設置された照明だとは思っていたけれど、まさか、こんな風に使われるとは。

誰か予見できただろうか。

早く彼女を下さなければ、照明の装飾が破損するか、彼女の首に巻きついている紐が千切れてしまう。そうなったら、イリアの体は床に落ちて、怪我をするかもしれない。


だから、早く。早く、彼女を助けないと。


急く気持ちに突き動かされるように、イリアに近づく。

それなのに、誰も僕の後に続かない。

一体何をしているのかと振り向けば、座り込んだシルビアの足元に、赤い染みが広がっていて。使用人たちは彼女を取り囲むようにして何事かを叫びながら右往左往している。

医師を呼べ、とか。ソレイル様に伝令を、とか。口々に色んなことを言っているので、はっきりとは聞き取れない。

彼らには、他のことは何一つ目に入らないようだった。

一方シルビアは、顔色を失ったまま自分のお腹を抱えるようにして、ゆっくりと前のめりに倒れこんでいく。

痛みのせいか、もしくは精神的なものからくるのか、意識を保つのが難しいのかもしれない。


囁くように「……おねえさま、おねえさま、」と何度も繰り返される声。

泣いているようにも聞こえたけれど、そんな声さえも周囲の騒音に紛れて消える。

使用人たちに蹴散らされた、白い花の残骸が、虚しく宙に舞った。


あの花を摘んでいるとき、僕は何を考えていただろうか。

彼女はきっと、戸惑いながらも喜ぶと。そんな期待をして。

その間にも、イリアは首を括る準備をしていたのだろうか。


「シルビア様っ、どうかお気を確かに!」


とうとう意識を失ったのか、彼女は幾人かの使用人に抱えられてその場から離れる。

その後を追うように、他の侍女、侍従もいなくなって。

イリアと僕だけが取り残された。


大きな窓から入り込んだ朝日を浴びて、彼女の細い肢体が室内に影を落とす。

誰も、イリアに気付かなかったのだろうか。

いや、気付いていなかったはずはないから。……気付いていて、後回しにされたのだ。

侯爵家の嫡男であるソレイルの子供を宿しているのは他でもないシルビアだ。彼女が優先されるのは、至極、当然と言えた。世間的に見れば。


だけど、だけど。


「イリア」


何度も同じ人生を繰り返していると言った彼女。不幸な末路しか辿れないと嘆いていた。そんな彼女に僕は言った。それはどんな地獄だろうと。イリアは何も答えなかったけれど。


事実、これほどの地獄が、存在する。


手を伸ばすと、宙に浮いたイリアの足に触れることができた。

どうやって彼女を下そうかと考えていたとき、ちょうど、シャンデリアの鎖が派手な音をたてて千切れる。しっかりとした重さを伴って、僕の両腕の中に落ちてきた、イリア。

彼女は、目を開いていて。その姿は、何かに驚いているようでもあったし、或いは何かを見極めようと目を凝らしているかのようにも見えた。

瞳を覗き込めば、僕の顔が映りこむ。

濁った目に、淀んだ顔をした僕の顔が。


「イリア。……もう、誰もいないよ。だから、もう、目を閉じても、大丈夫」


もう、何も見なくてもいいのだと、そう言おうとしたのに喉が震えて、声が上手く出なかった。

イリアは当然、返事をしないし、確かに僕を見ているはずなのに、本当は何も見ていなくて。

誰の目から見ても、彼女が事切れているのは分かっただろう。

それでも、もしかしたら息を吹き返すのではないかという期待をしてしまう。

名前を呼び続けていれば、彼女はやがて瞬きをしてふっと小さく笑うかもしれないと。

そんなに呼ばなくても、聞こえているわよ。と。


だけど、何度呼んでも、彼女が返事をすることはなかった。


だから僕は、当初の予定通り、彼女を連れ出すことにしたのだった。やせ細った華奢な体をシーツに包んで背負い、屋敷を出る。

正面玄関から堂々と外に出たのに、誰からも声を掛けられなかったのは、笑うところだろうか。

確かに何人かの使用人と擦れ違ったのだが、その誰もが忙しそうにしていて、僕に視線をやることさえなかった。

倒れてしまったシルビアのことで頭がいっぱいなのだろう。


僕は、イリアを背負ったまま歩き続け、先ほど通ったばかりの市街地を抜けた。

やがて、山の中に入り、ひたすらに歩き続ける。

女性を一人背負っているとは思えないほどの身軽さで。足が重くなるようなこともなく、疲労感は皆無だった。

その内に陽が傾き、闇が全てを呑み込んで。ちらちらと星が輝きだし、月が僕らを包み込んだとき。

ふいに、泣きそうになって。

でも、どうしても泣けなくて。もどかしい思いに、震える息を呑み込んだ。


「イリア。見て、そろそろ夜明けだ」


どれほど歩いたのか、紺色の空がゆっくりと白み始める。

山の主であるかのように聳える大木の根元に腰を下ろし、彼女を寝かせた。

未だ、ぼんやりと宙を仰いでいる彼女の瞳に、少しだけ顔を出した朝日が映り込んだ。

イリアの横に寝転んで、冷たい彼女の手を握り、その体を抱きしめる。

なぜ、そうしたのか分からなかったけれど。

イリアが、寒そうに見えたのかもしれない。


だけど、体温を持たない僕の手では彼女を温めることなどできるはずがなかった。


「イリア」


また、意味もなく名前を呼んで。少しだけ待つ。返事が聞こえたような気がしたから、もう一度名前を呼んで。無意味なことを繰り返してから、彼女の瞼を閉じた。

柔らかな睫が指先に触れた瞬間、ぽつりと彼女の頬に水滴が落ちる。

雨粒かと、空を確認するけれど、先ほどと変わりなく雲1つない。

自分が涙を流していると気付いたのはそのときだった。


まるで人間みたいだと笑って、そしたら、涙が止まらなくなった。


大抵の人間が、人生で一度くらいは、目を覆いたくなるような、あるいは絶叫を呼ぶような壮絶な苦しみというものを体験する。明日など見えないと、光などどこにもないと思うような経験だ。

それでも、明日はやってくるし、陽は昇る。


生きていれば。


「……イリア、もうすぐ、朝が、くるよ……、」


僕は人形だから、本当は息をしていない。そのはずなのに、息が、できない。


『ライア。私の、黒い鳥』


耳に奥に、エマの声が甦る。


『貴方は私に、幸せを運んできたの』


とても穏やかな顔をして生涯を終えた、その人の声だ。

苦しみばかりを与えられたようなイリアもきっと、いつかはエマのように「幸せだった」と笑って、僕を置いていくのだだろうと思っていた。

そうなることを、願っていたのだ。


こんな結末を、誰が望むだろうか。

イリアの部屋には鍵がかかっていなかったのだ。自ら命を絶とうとしていたのに、既に外されていた外鍵は言うまでもなく、部屋の内側にすら鍵をかけていなかった。

つまりあの扉は、いつでも、誰でも開けられた。

誰にでも、彼女を助けられたのに。


誰にも、彼女を助けられなかった。


誰も、彼女を、助けなかった。


『貴方は、私に、幸せを―――――』



「嘘つき……、君は嘘つきだ。エマ……」


僕が幸せを運んできたなんて、そんなのはただの戯言だ。

僕はやっぱり、凶兆を占う鳥で。凶事を呼ぶ、不幸の鳥でしかない。


「だって、死んでしまった。……イリアは、死んでしまった……っ」


誰かに罵ってほしかった。お前のせいでイリアは死んだのだと。不幸を呼ぶ鳥など、消えてしまえばいいと。

だけど、明るさを取り戻しつつある空の下。僕たちを見ているのは、光を奪われ、力を失った暗い星たちだけだ。

他に見ている者がいるとすれば、それは神だけだろう。


懸命に生きている人間を見捨てるだけの神だ。


長い、長い人生を生きてきて。

これほどに強く、神を憎んだのは初めてだった。


*


こんな風に、彼女と僕は終わった。

―――――終わったはずだ。



けれど、本当は、この出来事はただの始まりでしかなかったのかもしれない。

















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