8
エマを失ってからの人生は、それこそ抜け殻のような毎日で。
と、言っても、もはや時間の感覚さえ薄れていたので、どのくらいの時を独りで過ごしてきたのか分からない。
気付けばいつの間にか、僕のことを「見る」ことのできる人間が、完全にいなくなっていた。
これまでは、数こそ少ないものの通りすがりの人間と目が合うこともあったのだけれど。
いつしか、そんなことも無くなっていたのだ。それはつまり、魔力を有する人間自体の消失を意味していたように思う。
魔法を使える人間も、もうどこにもいないのかもしれない。
魔術師という職業もかろうじて現存してはいたものの、奇術師と変わりない扱いになっていた。魔法が使えるなどと口にするのは、夢見がちな子供だけ。大人が口にしようものなら鼻で笑われる。
世界は、そういう風に変化していた。
時代は移り変わり、魔力の塊である僕と「世界」の間に大きな隔たりができていく。
僕自身はもう、どこにも存在していないのかもしれないと。そんな気すら起こる。
僕が見ている風景も、聞いている音も、本当は何もかもが幻で、長い長い夢を見ているのかもしれない。きっと、そうだ。
そうでなければ、僕は一体「何」になってしまったのだろう。
―――――そんなことを考えていたときだ。
「それ」を見つけたのは。
とある国の、とある大都市で、雑踏の中をふらふら風に乗って揺れていたとき、何となく呼ばれた気がして裏路地に入った。
誰かに呼ばれるなんて、そんなことあるはずがないと分かっていたのだが、それでも、確かめてみるのも悪くないと思った。そのくらいの時間はあったから。
薄暗い路地は、ゴミが散乱していて、清潔さとは無縁のような場所だった。
暗がりに目を凝らせば、そこは爛々と輝く2つの目がある。
黄色い双眸を見つめていれば、小さく「みゃあ」と鳴いた。
長いしっぽをゆらゆらと揺らし、まるで着いて来いと言わんばかりの仕草に、思わず後を追う。
人間には僕のことが認識できないというのに、動物はやはり五感が優れているらしい。
前々から、犬や猫なんかは僕を視認しているような素振りを見せることがあった。魔力を持っているわけではなさそうなので、ただ単に気配に敏感なだけかもしれない。
そもそも僕のことを「人間」として認識しているかどうかも怪しい。
もしかしたら、彼らの目には、ただ奇怪な光のようなものと映っているのかも。
多分、後者なのだろうと何となく思った。
健康的とは言えない痩せた猫の後を追いながら、どこかへ導かれているのだと感じる。
何度も振り返りながら、僕がちゃんとついてきているか確認するのには、きっと何か意味があるはずだ。
やがて辿り着いたのは、古びた扉の前で。
来た道を数歩だけ戻って、その建物の全貌を確認すると、扉の横に小さな立て看板があることに気付く。
ペイントされた文字は、すっかり風化してしまい読み取ることができない。
看板を立てている意味などないのではないかと思うほどに、ぼろぼろで、触れれば崩れてしまうのではないかというほどだった。
その看板の前で立ち尽くしていると、ぎいっと蝶番の軋む音が響く。
そちらに視線を向ければ、開かれた扉から、老婆が半分だけ顔を出していた。
「……客かね」
しわがれた声が、光の差し込まない湿った路地に響く。
肯くことができなかったのは、そこが何かの店だというのは分かるのに、何が売られているのか全く分からなかったからだ。老朽化して、今にも倒壊しそうな建物からは何も判別できない。
ふと、ここまで導いてくれた猫のことが気になって視線を彷徨わせるも、どこかへ行ってしまったようで影も形もなかった。
「ああ、またあいつか。あれにも困ったもんだねぇ。誰でも彼でも連れてきて」
やれやれと首を振った老婦人は大仰に息を吐いた。
そして「せっかくだから、中でも覗いていったらどうだね? しがない人形店だけど……、興味はないかい?」と問う。
そこで初めて、彼女が、僕のことを「見ている」ことに気付いた。
僕が呼吸をしていたなら、はっと息を呑む音が響いただろう。それほどに衝撃を受けていたのだ。
しかし、目線で返事を促してくる老婆は「そんな間抜け面してどうしたんだい?」と首を傾げるだけだ。
声を発することのできない僕は、まさしく返事に窮している状態だったけれど。
彼女は不思議そうな顔をしながらも、「まぁ、いいか。さあさあ入った入った」と続けながら、僕が店の中に入れるように扉を大きく開く。
彼女が、自身の有する魔力に気付いているのか分からない。
そもそも彼女の目に、僕はどのように映っているのか。
疑問に思いつつも、やはり魔力を保有する人間はまだいたのだとどこかほっとするような心地になったのも事実だ。
「興味のない人間にはつまらないものかもしれないけどねぇ」
一方、この店の主人らしきご婦人は何の戸惑いもなく、当たり前のように話しかけてくる。
その様子から、もしかしたら僕のことが普通の人間みたいにはっきりと見ているのかもしれないと思った。幽霊のようなぼんやりとしたものではなく。
気になったけれど、それを確認する術を持たなかった。
ただ。感覚もないのに、己の唇が何かを伝えようと、はくはくと空気を噛む。
老婦人のことなど気にせずに、そのまま立ち去ることもできたのだけれど。なぜかそんな気分にもなれず、誘われるがままに、店の中に入った。
魔力を持つ人間に出会ったのが久しぶりだったからかもしれない。自分で思っていたよりも、他人との交流に飢えていたのだ。
それに、彼女が販売しているものに俄然、興味が湧いた。
薄暗い店内は、外観と同じように清潔感があるとは言い難く。
板張りの床には、ところどころに穴が空いている。
小さな子供ならまだしも、成人男性ほどの体格だと慎重に歩かなければ、きっと床が抜けてしまうだろう。
でも、この店主くらいなら大丈夫かもしれない。
己には重さがないので関係のないことなのだけれど、思えば、こういう風に考え事をすること自体があまりに久々で。
少しずつ、霞がかっていた頭の中がすっきりと整理されていくような感覚だった。
「新しいものはあまり置いていないんだよ」
狭い店内を先に歩く老婆が、つと振り返る。
どうやら陶器人形を専門に扱う店らしく、大小様々な大きさの人形が、棚や椅子の上に無造作に置かれていた。
それでも、値が張りそうなものは、個別のケースに納められて大切に扱われているのが分かる。
ガラスで作られたケースは、どこから光を集めているのか、鈍い輝きを放っていた。
中には、等身大のものまであって、よくよく観察しなければ本物の人間が飾られていると勘違いしてしまいそうだ。それほどに精巧に作られている。
髪や目の色も、一つとして同じものはなく。どれも、少しずつ表情が違っている。……ような気がして。
ずっと眺めていれば話しだすのではないかと、命を持たない無機物に魅了されそうになったときに、
―――――それが、目に入った。
部屋の中心にたった一つだけともされたランプの淡い光が、白い肌を赤く照らし出す。まるで上気しているようにも見えた。生気のない顔に、幽霊でも立っているのかと怯んだのはほんの一瞬で。
近づけば、それが人形であることが分かる。
瞼に生え揃った黒い睫と、その奥に見える黒い虹彩。
真っ直ぐに通った鼻筋と、健康的とは言えないくすんだ色をした唇。
風もないのに、前髪がはらりと揺れた。ガラスケースの向こう側で、呼吸でもしているかのように「彼」は淡く微笑んでいる。
その顔に既視感を覚えて、ぐらりと世界が歪む。……その人形は、僕に、それほどの打撃を与えた。
ああ、知っている。確かにこの顔を、知っている。
当然だ。
かつて、鏡を覗き込めば当たり前のようにそこに存在していた、―――――己の顔なのだから。
「ああ、それか。とても美しい人形だろう。本当はからくり人形らしいんだけどねぇ、とっくの昔に壊れちまったみたいだ。修理すればいいんだろうけど、こんなに繊細そうな人形を分解するわけにもいかないしねぇ、そのままにしてるんだけど」
僕の視線を追ったのか、老婆が静かな声で語りかけてくる。当然、返事はできない。
だけど、そのしわがれた声は、どこかへ飛んでいってしまいそうな僕の思考を現実に戻してくれた。
ガラスには、背後に立っている老人のしわくちゃな顔は映っている。
けれど、僕の姿は映してくれない。代わりに、埃で白く濁ったガラスの向こうから僕を見つめ返すのは、黒髪の人形だ。
自分が記憶している顔よりも、幾つか年を重ねているような気がする。
「作者も不明なんだけれどねぇ。丁寧な『手』だろう。作り手が丹精こめて作ったのがよく分かる」
黙り込んでいる僕を不審には思わないのか、それでも店主は感嘆の息を漏らして続けた。
「普通、こういう人形には名前がついているものなんだけれどね。この人形には名前がないんだ。ただ、ほら、そこに刺繍があるのが見えるかい?」
店主が指差した方向に目を向けると、人形が着ている黒い服に金色の糸で何かの文字が刻まれているのが分かった。本当は服の内側に施されている刺繍なのだけれど、それが見えるように、裾を少しだけ捲ってピンで留めているようだ。
「年代ものだからねぇ。糸がところどころ切れてしまって。かろうじて幾つかの文字が読み取れるだけなんだ。しかもこの文字はねぇ、今よりもずぅっと昔に使っていた表記だものだから、読めるのが私みたいな老人だけなのさ」
仕方なく、見えている文字だけを繋いでこう呼んでいるのだと言った。
「カ……、ラ、ス。ね? そう読めるだろう? いや、あんたみたいにお若い人には分からないか」
ひひっ、と奇妙な笑い方をした老人の声に、また、頭を殴られたような衝撃を受ける。
僕に声が出せたなら、きっと声を上げて泣いていただろう。
人形が纏っていたのは、僕の、仕事着で。
つまり、魔術師として仕事をしていた頃の、僕のローブだったのだ。
かつてはしっかりと「カリアライア=イグニス」という刺繍が施されていたのを覚えている。
だからこれは、僕のもので間違いない。
だとすれば、これは……、この人形の作家は、エマだ。
他の誰かが、わざわざ僕のローブを人形に着せるとは考えにくい。そもそも、ローブが入っている棚の場所はエマしか知らなかったのだから。
彼女は、僕たちの暮らした屋敷からは何も持ち出していない。……そのはずだった。
旅立つ日の彼女の手荷物は恐ろしいほどに少なくて。まるで2、3日旅行にでも出かけるような身軽さだったのを覚えている。
実際、彼女があのとき持っていたのは数日分だけの衣類だったに違いない。
それと一緒に、僕のローブを持ち出したのか。
そして、それを、僕に似せた人形に着せたのか。
「そういや、あんたに似てるね。そうだ。これも何かの縁だろう。持って行くかい?」
突然そう問われて、思わず振り返って店主の顔を見つめると。
「ああ。お代のことなら気にする必要はない。……こういうことは、頻繁ではないんだが。ときどきあるんだよ」
「人形が、持ち主を選ぶんだ」
と、まるで少女のようにふわりと笑んだ。優しい優しい顔つきだった。
返事もしない僕に、同意を得たと思ったのだろう。
「けど、これほど大きいものを運ぶには荷台が必要だね。ちょっと待ってな」と、店の奥に消える。
その丸まった、小さな背を見送っていれば、本当に人形が僕を呼んだような気がして。
もう1度、僕によく似た人形に向き直った。
僕を模して作られたはずの人形なのに、当時、エマと一緒に過ごしていた頃より少しだけ年嵩に見える。
それは彼女が、大人になった僕を想像しようとして、上手くいかなかったからではないかと考えられた。
奇しくも永遠の時を得てしまった僕は、年を取らないから。
彼女にも、二十歳前後の僕しか、思い描けなかったのだろう。
青年というよりは、少年時代を抜け出せずにいる子供のような顔つきをしていて、あどけなさが残る目元は一層幼く。彼女の目に映った僕は、こんな顔をしていたのかと、妙に納得するものがあった。
指を伸ばせば、ガラス越しの「僕」が瞬きをしたような気がして。
あっ、と思った瞬間。
あまりにも強い力に、引き寄せられる。
人形の方に引っ張られたので思わず身構えたのは、ガラスにぶつかると思ったからだ。条件反射というやつである。けれど、実体を持たないのでぶつかるはずもない。
人形を覆っているケースをするりとすり抜けて、もう一つの自分の顔が目前に迫った。
そして次の瞬間には、僕は、瞬きをしていた。
そう、瞬きを。
手の平をかざせば、何かにぶち当たる。それが、今まで目の前にあったガラスの壁だと分かる。
一つ違うのは、ガラスの外側にいるのではなく、ガラスの内側にいるということで。
要するに僕は、人形の中に吸い込まれてしまったようだった。
店主は、この人形のことを壊れたからくり人形だと言っていたが、本当は違う。
魔力を持つ人間が少なくなっているからか、こういう人形に関する情報を得る機会もなかったのだろう。
エマの作り出す人形の動力は、彼女の「魔力」だ。
もう、彼女の魔力は消失しているようだけれど。
魔力の塊であるらしい僕は、この人形の動力と成り得る。
ガラスに伸ばした己の指はつまり、間違いなく人形のものであるはずなのに、人間のものと寸分違わない。
関節が球体になっているわけでもない。人間の指、そのものだ。
指を曲げれば、小さく関節が鳴り、覚えのある感覚に息を呑む。
その刹那、自分の呼吸音がガラスケースの中で響いていることに気付き、こくりと喉が鳴った。
胸に手を当てれば、そこから伝わってくる鼓動。どくどくと脈打っているのは血管ではない。人形の体を動かす為の仕掛けだ。
人形師だけに伝承されるという人形作りの秘術は、決して口外されることがなかったので、僕もこの人形がどのように作られているかは知らない。
しかし、この人形が―――――、人智を超えたものであることくらいは分かる。
エマがこういう事態を想定していたのかどうかも判断できないし、彼女はただ僕に似せた人形を作り出しただけなのかもしれない。
それでも、彼女が僕のために、この人形を遺したのは間違いないような気がした。
彼女はやはり、肉体を消失した僕が、この世界のどこかにいるのではないかと信じていたのだ。
砂礫となった僕を捜しだそうと、街中を駆けずり回っていた彼女の姿が鮮明に思い起こされた。
あの後、この人形を製作したのだろうか。
「エマ、」
唇から零れ落ちた声は、少しだけかすれてたけれど。それでも、あまりに馴染みのある音で。
自分が、その音を覚えていたことが不思議だった。
「エマ」
何を言うべきかよく分からず、ただ何度も、かつて己の妻だった人の名を呼ぶ。
彼女が今、ここにいないことが寂しい。はっきりとそう感じた。もしもエマがここにいるなら、何を言葉にすべきか分かるのに。
そうして僕は、ガラスケースの扉を押し開いて。
新たな肉体と共に、世界へ踏み出したのだった。
1歩目は感覚が掴めず転倒しそうになったけれど、何とか持ち直して、2歩目ではしっかりと地面を踏んだ。3歩、4歩と前に進み、仮初めでしかないはずのこの体が、ちゃんと肉体としての機能を果たしていることにほっと息が漏れる。
油断すると足首に絡もうとする長いローブをつま先で払いながら、僕は歩いた。
人形をくれると言った店主の厚意に甘えることにして、黙って店を出る。
彼女はいなくなった客に驚き、礼を欠いた奴だと罵るかもしれない。それでも結局は、「やれやれ」と笑うような気がした。
だって、人形が持ち主を選んだのだから。それも、仕方ないと。
*
*
素材があれば、それを魔術で変容させることは容易い。
だから僕は、人形の体を動物に変化させたり、あるいは子供のような風貌にして遊んでいた。
魔力のほとんどは、体を動かす為に使われるらしく、使える魔術がそれくらいだったからかもしれない。
大きな魔力を必要とする攻撃魔法の類は使えなくなっていたのである。
しかし、そんなことは些事でしかなく。
長い間、他人に認識されない存在としてこの世にのさばっていた僕は、普通の人間と同様の存在に成り得たことに、ある意味、とても満足していた。
自由に動かすことのできる体があるというのは、それだけで充足感をもたらしたのだ。
あまりにも長い時間失っていたものを得たからこそ、その感動はひとしおで。
頬が風を切る感触は、きっと経験した者にしか分からないだろう。目に見えないものだというのに、確かに触れることができる。
誰もがきっと、生まれながらに知っているだろう風の「触り心地」
それを忘れていたことに気付かされて。そして、改めて心を震わせる。
僕はまるで、この世に生まれたばかりの赤ん坊だった。
目に見えるもの、耳に響くもの、指先で触れるもの、何もかもが新しく。僕の世界はつまり、一新されたのだ。―――――そう思った。
エマがくれたこの体で、何でもできる。
胸に抱いたものは「希望」と呼ばれるものだった。それと共に湧き上がる高揚感は、僕を少し、おかしくする。笑えて仕方なかった。
何もかもを失ったというのに、たった1つ得ただけで、人生はこうも変わるのかと。
そんな頃だ。彼女に、出会ったのは。
僕は間違いなく驕っていたし、己の境遇に酔ってもいた。他の人間とは違う存在なのだと、思い上がっていたのかもしれない。
窓に嵌められた格子の向こうから、鳥の姿を模した僕を見上げたその姿に言い知れない喜悦を感じた。
彼女が、僕に、助けを求めているのだと思い込んだのだ。
だからこそ、彼女よりも一段上のところから、彼女を見下げ、手を差し伸べようとした。
『助けてやってもいい』という感覚で。
今となっては、彼女が何を求め、何を果たそうとしていたのか分からない。僕が手を貸して良かったのかどうかも。
それでも、あの頃の僕は本当に、彼女の助けになるつもりだった。
だから、言ったのだ。
「―――――君を、助けてあげるよ?」
あまりに長い人生に、退屈していたというのもある。
何の目的もなく、ただ生かされているだけの人生に、意味を持たせたかったのかもしれない。
暇つぶしもかねていたと思う。
だけど、あの言葉に嘘はなかった。
「ねぇ、お姫様。君を助けてあげるよ?」
僕は、彼女に誓った。
誓ったのに。