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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
カリアライア=イグニスの永遠
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7

「……消えて! 消えて! 消えて消えて消えて! いなくなって! いなくなってよぉっ」


泣きながら、そう叫んだ彼女を見て、僕はやっと理解した。

自分が、とんでもない勘違いをしていたことを。

初めはいくら僕のことを拒絶していても、その内にきっと、僕の存在を認めてくれるものだと信じていた。

そしていつかは、言葉はなくとも意志の疎通ができるようになるのではないかと期待していたのだ。

幼い頃から共にあった僕らの間には、それほどの絆があると思い込んでいた。


けれど、それは結局、僕の独りよがりな思い込みで。

エマはずっと、僕の存在を否定し続けた。


それでも、彼女の傍に居続けたのは、ほとんど意地だったのかもしれない。

大丈夫、きっと、大丈夫。彼女は僕をちゃんと認めてくれる。そう言い聞かせることで己を鼓舞していた。

できるだけ彼女の視界に入るところに居て、時々は手を伸ばしてみる。

触れられないと知っていたけれど、そうした。

もしかしたら、彼女も僕と同じように手を伸ばしてくれるのではないかと思ったから。

すると、何度目かに手を伸ばしたとき、それまで僕を無視し続けていた彼女が、突然大声を出した。


僕に向かって「消えて!」と叫んだ。声が枯れるまで繰り返し、何度も、何度も。

いっそ凶悪とも言えるほどの相貌で叫び続けた彼女は、間違いなく僕を憎んでいた。

強い眼差しが、僕をばらばらに砕いてしまうのではないかと思うほどに。


そして、それ以降は、僕に視線を向けることがなくなった。ただの、1度も。

僕のことなんてまるで見えないかのように振舞うその姿には、さすがに堪えた。

とうに肉体など失っていたというのに、再び、指先から消えていくようだった。

実際、僕は、存在していないも同然で。

何を夢見ていたのだろうと、口元が歪んだ。……なぜか、笑えて仕方なかった。


だから、彼女がとうとう、僕と暮らした屋敷を売り払ったときは、失望することさえなかったように思う。

そもそも売却する手配をしていることは既に知っていたので、驚くこともなかった。

ただ、本当に彼女は僕たちの思い出を手放してしまうのだなと、改めてそう感じただけだ。


屋敷を売り払い、家財は1つも持ち出さずに馬車に乗り込んだ彼女は、ただの1度も振り返らず。

未練がましい目をすることもなく、しっかりと前を見据えていた。

その姿には、新しい生活を始めるのだという強い意志が見て取れる。

それはあまりにも冷静で、どこか冷淡でもあった。

僕の知らない彼女を目の当たりにして、知らない間に過ぎ去ってしまった年月のことを考えさせられる。

彼女はこれまで、僕の居ない人生を「きちんと」生きてきたのだろう。


だから、その後エマが、僕の知らない男性と暮らし始めたときも、ただ受け入れることしかできなかった。

そもそも彼女が彼と、どこで出会ったのかさえ、僕は知らない。


僕の知らない時間を、僕の知らない人間と過ごしてきた僕の、妻。


使用人のいない静かな暮らしをしてみたいと、家族だけで生活の基盤を築いていくのだと目を輝かせていた遠い日。

実現することなく消えてしまった泡沫の夢だった―――――、そのはずだったのに。

彼女は、別の男性と実現してしまった。


これからもきっと、エマは、僕の居ない人生を生き抜いていくのだろう。


彼女と「彼」の間には、確かな絆が存在していて、他の誰にも入り込む余地などないと感じた。

見ない振りをしていても僕の存在が不安を煽るのか、時々、幼子のように心許ない顔をするエマ。そんな彼女を、彼が優しく抱きしめる。

彼らは、毎分、毎秒ごとに絆を深めていくようだった。

エマのことが大切だといわんばかりの仕草で両手を広げる彼の姿を見て、僕にできることは何もないと悟る。


彼らがいつか本当の夫婦になり、子供を産み、育て、家族を作っていく姿がはっきりと見えた。

だから僕は、自分が不要な存在と成り果ててしまったのだと思い知ったのだ。


そうして、エマから離れる決心をした。


―――――彼女の願い通り、彼女の前から消えた。


僕がいなくなってほっとしただろう彼女の顔が目に浮かぶ。

あの灰茶の瞳を安堵で揺らして、そして小さく小さく息を吐き出すのだろう。

いなくなってくれて良かったと、そんな風に言うかもしれない。

だから、どうしようもなく泣きたくなったけれど、涙が零れることもなく。叫びだしたくなったけど、絶叫などできるはずもなく。


実体を持たない身軽な体で、まず、国を出た。


1度だけ、僕に魔術をかけてくれた医師の下を訪ねてみたけれど、診療所は既にもぬけの殻で。

どうやら数年前から重病を患っていたらしいことを噂で聞いた。もしかしたら、もう既に亡くなっているかもしれないということも。

僕に魔術をかけるために尽力を尽くしてくれた彼。


僕は彼に、別れの言葉を言うこともできなかった。


*

*


そして、あちこちへと移って、途方もなく長い時間を独りきりで過ごすこととなった。

実体を持たないのでどこかに住居を構える必要もなく、生活費もいらない。食事も取らなくていいので、本当にただ彷徨っているだけだった。

色んな国を訪ねて、様々な街を彷徨い、大勢の人間とすれ違った。

その中には、僕を見て反応を示す人間もいたけれど。一様に、幽霊でも見たかのような顔をしていた。

あからさまに、僕のことを幽霊と呼んだ人もいて、要するに、僕の姿は誰の目にもはっきりと見えなかったようだ。

医師の魔術が失敗しかのか。それとも、そもそもそういう魔術だったのか。

答えを得る術はないけれど、いつしかそういったことも気にならなくなった。

それほど、僕の姿が誰の目にも留まらなくなったのだ。


年月を重ねる毎に、僕を「見る」人間が減っていく。


それは単純に、魔力を持つ人間の数が減ったことを示していた。

僕や、あるいは父のように膨大な魔力を持つ人間というのはほとんど存在しなくなり。

いつの間にか、魔術師という職業も廃れつつあった。しかし、だからと言って完全に無くなることもなく。

魔術師は専門職として存在し続け、ごくごく限られた特別な人間にだけ許されたものになった。


その内に、僕の姿は誰にも見えなくなるのだろうかと。

諦念にも似た考えに支配されながら、それと同時に郷愁の念に駆られたのはいつだったか。

頭の中を過ぎるのは、幼い頃の記憶。

エマと過ごした日々のことだった。

もう父親の顔も思い出せなくなって、生まれ育った屋敷のカーテンの色さえ曖昧だというのに。

彼女が飾った、名前も知らない花々の凜とした姿が思い起こされた。


会いたかった。どうしようもなく。

また拒絶されるかもしれないし、もう彼女には、僕の姿が見えないかもしれない。

それでも、どうしても顔を見て。

声を掛けたかった。


一言。たった一言でいいから、伝えたいことがあったのだ。

言葉にできないから、当然伝わらないはずだけれど。それでも、言いたいことがあった。



「……ああ、来て、くれたのね」


風に乗って、飛ばされて。そして辿り着いたのは、彼女が「彼」と暮らしているはずの家だった。

今でも変わらず、そこに住んでいるんだな。と何とも言えない想いがこみ上げる。

当時、見たときよりも随分古びて、嗅覚があるわけでもないのに「家族」の臭いがした。

それはつまり、彼らがそこで生活を営んできた証だ。

家の中を歩き回って観察してみれば、幾つかある部屋のひとつは子供部屋だったらしく、けれど既にその役目を終えているのが分かった。放り出されたおもちゃや、本棚の童話集には使い込んだ跡が見える。

静まり返った室内は、寂寞せきばくよりも安らぎを呼ぶ。

いかにも老夫婦が、ゆったりと暮らしていることが分かる様相だった。


彼女は、寝室に居て。


広いベッドの上で、ゆるゆるとうたた寝をしていた。

「彼」は買い物にでも出ているのか、彼女は1人きりだった。

ベッドの脇に立って見下ろせば、彼女がふと目を開く。

皺だらけの顔に、下がった瞼の奥の瞳が少しだけ光を灯した。僕の愛した灰茶の瞳だ。

ベッドサイドのテーブルには、彼女の常備薬らしきものが置かれている。

何かの病を患っているようだった。

―――――重い病なのだろうかと。そんな不安が過ぎって呆然としていれば、彼女は、ふわりと笑んだ。


「ライア。貴方、どこに行ってたの?」と。


その、あまりにも自然な様子に一瞬、混乱する。話しかけても意味などないと分かっているのに、唇が彼女の名前を呼ぶ。


『エマ』


すると、彼女は心底嬉しそうに微笑んで。

「おかえりなさい」と、言った。そして、


「貴方にどうしても、言いたいことがあって。だから、神様にお願いしたのよ。貴方を、連れてきてくださいって。もしかしたら、間に合わないかもしれないと思ったのだけれど。願いを聞き入れてくださったのね」と、こちらに手を伸ばしてくる。


僕は、彼女の手を握り返すこともできないのに、1歩だけ距離を詰めた。

触れることのかなわない2つの手が、宙に彷徨う。

それでも彼女はお構いなしだった。まるで、僕の手に触れているかのような仕草で、そっと指先を丸める。


「ねぇ、覚えてる? 私たちが結婚したときのこと。……結婚式なんて性に合わないからって、屋敷のお庭で小さなパーティーを開いたの」


懐かしそうに目を細める彼女に、ただ肯いた。それを見て満足そうに吐息を漏らした彼女が続ける。

あの日は確か、とても天気が良かったと。青い紗幕を引いたような、薄い色の空を覚えていると。

春先の空は、こんなにも心地がいいものだと、あのとき初めて知ったと笑う。

招待客はあまり多くなかった。

学院に通っていたときの友人と、社交界での付き合いがある貴族が数名。それもあまり高位の貴族ではなかったから、気を遣う必要もなかった。

だから僕たちは、ただ昼食を共にするかのような心持ちで時を過ごすことができたと思う。


あの日は、どの瞬間を切り取っても幸福だったと、自信を持って言える。


「そうだ。あの日、私たち変な贈り物をもらったわね」


エマは双眸を細めて遠くを見た。

学院時代の友人が、小さな箱を持ってきてエマに手渡したのだ。


「中には、黒檀でできた鳥が入っていたわ。……そう、黒い鳥ね」


僕の育った国では黒い鳥は、不幸を呼ぶと言われている。だけど、結婚式の贈り物にそれを選ぶ人間は多い。結婚式のときに手渡される黒い鳥だけは、違う意味を持つからだ。

昔は、鳥籠に入れられた本物の鳥を渡していたようだが、黒い鳥が絶滅してしまったので、いつしか作り物の鳥を渡すようになった。


「小さな不幸を呼ぶことで、大きな不幸を避ける。そういう意味を持つんだって、貴方が教えてくれた。……ふふっ、そういうことには疎そうなのに。一体、どこで聞いたのかしら」


聞いたのではなく、自分で調べたのだ。

普通の結婚式というのは、どういうものなのだろうかと。彼女にも、そういう「普通」を体験してほしいと願って文献を漁ったりした。今思えば、調べたりせずとも誰かに聞けばよかったのだ。その方がずっと楽だったのに、僕は自分で調べることに意義を感じていた。

彼女のために何かをすることが、嬉しかっただけで。ただの自己満足に過ぎない。


「この国の風習は、変わっているわねぇ」


エマはもう1度小さな笑みを落として、


「それに、当たらなかったわ。小さな不幸はやってこなかった。私は結婚するよりも前から、ただ幸せなだけで。小さな不幸なんか、何1つなかったわ。……だからなのかしらね……、貴方を、失うことになったのは……」


はぁと、息を零した彼女はどこか苦しそうだった。

僕に伸ばした手とは反対の手で、掛け布の上から自分の胸を押さえている。


「ね、ライア」


枕に頭を預けたままの彼女が、じっと僕を見上げた。

その顔を覗き込めば、瞳の中に僕の顔が見える。それほどに強い眼差しで、こちらを見つめてくる。


「私の生まれたところではね、黒い鳥は、幸福と不幸を同時に運んでくると言われているのよ」


黒い鳥は、ある日突然、窓辺に現れるのだという。

そして、人間のように言葉を話し、1つだけ質問をするらしい。その上で、正しい答えを口にした者には幸福を。そうでない者には不幸を運んでくるのだと、彼女は語った。


「ライア。私を拾ってくれたときのことを覚えているでしょう? 貴方は私に聞いてきたのよ」

『……、』

「これから一緒に暮らす?って」


私はそれに、はいと答えた。……きっと、正しい答えを口にしたのよ。


エマは囁くように言って、ぽつりと一粒だけ涙を落とす。


「……ライア。私の、黒い鳥」


「貴方は私に、幸せを運んできたの」


そして、静かに目を閉じた。


「私、幸せだった……。貴方を失って、生きてはいけないと思ったけれど。だけど、貴方は私に幸福を運んできてくれたから。……その幸福は消えることなく、ずっとずっと私と共にあった」

『エマ、』


「だから、だから……、ごめんなさい」

『エマ、』

「私、幸せだったの。貴方を失っても、幸せに生きることが、できた」


「妻になり、母になり、家族を得て、独りではなくなった。……貴方のいない人生を、幸福に生きてきた。ごめんなさい、ライア」


「私、とても幸せだった―――――」


もう一度瞼を開いて、僕の顔を覗きこむように、うるんだ目をこちらに向けた後。

彼女は何度か瞬きを繰り返して、再び、静かに瞼を閉じた。

沈黙と静寂を、顔の上に載せたみたいな。そんな、これ以上ないほどに、穏やかな表情をしていた。

幸福そうな顔が、これまでの彼女の人生を物語っているようだった。


幸せで、幸せで、だから思い残すことは何もない。これで満足だと、ここで人生を終えても何の悔いもないと、そう言っているかのように小さく小さく吐息を零して。

息を、止めた。


僕は彼女を見下ろして、突っ立ったまま何の反応もできずに。ただ、見ていた。

この何十年もの間、会いたくて会いたくて仕方なかったはずの人なのに。

僕は、ここに来たことを後悔し始めていた。

運良く、愛する人の最期を看取ることができて。2人きりの時間を過ごすことができたというのに。

それさえも、まるで悪夢でも見ているかのように思えて。


『……寂しかった』


もう聞こえていないはずなのに、両手で口元を抑える。罪を告白しているかのような気分だった。

彼女に、どうしても伝えたかったのは。

独りで生きていても意味などないということ。今でも、エマを大切に想っているということ。

それなのに、言いたいことは1つも伝えられなかった。


『僕は、とても、寂しかった』


エマのいない人生を送ることになろうとは、少しも想像していなかった。当たり前のように傍に居て、当たり前のように一緒に生きていくのだとうと思っていた。そんな風に感じていた頃のことをよく思い出した。


そして、手に入れることのできなかった幸福な人生のことを考えては、なぜこんなことになったのだろうかと、何もかもを憎んだ。

どうにもできないのに、どうにかしたくて。だけど、何の方法もなくて。


『君のいない人生に、何の意味もない。君がいなければ、僕は、ちっとも、幸せじゃない』


僕のいない人生を幸せに生きてしまったと、罪悪感を抱いたらしい彼女。

きっと僕に、許しを求めていた。

それなのに、何の言葉も与えられなかった。

彼女も、僕と同じだったらいいと、どこかでそう思ってしまった自分に失望する。

僕がいなくて寂しかったと、そう言って欲しかった。貴方がいなければ、幸せじゃないと。


彼女の不幸を願ったことはない。

それでも、彼女に、君が幸せでよかったとは言えなかった。―――――どうしても。


『エマ』



『いかないで』



『いかないで』



置いて、いかないで。












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