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激しく泣き叫ぶエマは、そのまま悲しみに呑まれて呼吸を止めてしまいそうだった。
実際、そうしてしまった方が楽なのではないかと思うほどに、ぜえぜえと胸を鳴らして泣いている。
もしも今、僕に彼女を抱きしめることのできる両手があったなら。強く強く抱きしめて、そのまま息の根を止めていただろう。
馬鹿なことを考えていると分かっているけれど。
彼女を救うことができるなら、それも悪くないと思っている自分がいる。
―――――そうか。これが「死」というものなのか。
それは、あまりにも漠然とした感覚だった。
普通の状態であれば思いも寄らない考えに至るのは、自分自身が死者であり、死というものを実感したからかもしれない。
これまでのような、生きているか死んでいるか分からないような曖昧な感じではなく。
しっかりと、……という言い方はおかしいかもしればいが、そう。ちゃんと、死んだのが分かる。
魂というものがこの世に存在するのなら、今の自分はそれに近いモノなのだろうか。
だとすれば、いわゆる霊感というものを持つ人間であれば、僕のことが分かるかもしれない。
ふと、そんな考えに至り、もはや茫然自失という感じの彼女に声を掛けようと試みた。
しかし、その刹那。自分には、己の存在を証明するための「手段」がないことに気付く。
泣き叫ぶあまりに声を枯らしてしまった彼女。その姿が、僕にははっきりと見えているというのに。
背中をさすって、大丈夫だと伝えることもできない。
僕はまだここにいるのだと、教えてあげたいのに。
彼女を支える為の腕も、彼女に駆け寄る為の足も、彼女を励ますための声も、何もない。
「ライア……っ! ああ……っそうね、そうね、ここじゃないのね……!」
一瞬、空気が止まったかのような違和感が流れた。彼女が突然そう言って、笑ったのだ。
恐怖を煽るような、すごく歪な笑みだった。
そして彼女は、僕の衣服を抱いたまま部屋から飛び出す。
思いもよらない出来事に、エマを取り囲んでいた使用人の誰1人として上手く反応ができなかった。
やがて、はっと我に返った様子の彼らは慌てて後を追ったけれど、時は既に遅く。
エマは屋敷の門から市場へと続く道に出て、うわ言のように僕の名を呼びながら、どこかへと駆けて行った。
その間、道端で顔見知りの商人ともすれ違ったけれど。
普段のたおやかさからは結びつかない彼女の行動に、あんぐりと口を開けるだけだ。
だから、エマが通りすがりの人間に声をかけるようになるまでには、さほど時間を必要としなかった。
「黒髪に黒目の、少年みたいな、男の子を……、知りませんか……っライアと、カリアライア、イグニスと、言う、男の子を、」
ついさっきまで号泣していたので、未だに呼吸が整っていない。
掠れた声を必死に絞り出して、時々ひくひくとしゃくりあげながら、彼女はそう言った。
声を掛けられた人間は戸惑いながらも首を振るだけだ。
それでもエマは、諦めなかった。
顔面を蒼白にして、足元はおぼつかず、髪を振り乱して。彼女は声を上げ続けた。
やがて辿りついた市場は、僕が仕事帰りによく立ち寄っていた場所で。エマのために、果物を選んだところでもあった。
「奥様! 奥様! お止めください……!」
やっとエマに追いついた使用人が悲鳴のような声を上げて、彼女を止めようとする。
それもそうだ。明らかに貴族と分かる衣服を纏っている女性が、誰彼構わず声を掛けて、縋りつくような格好をしているのだから。
けれど彼女は、止めない。
形振り構わず、体裁など気にも留めず、外聞も何もかも捨て去って。
僕を、僕の名を、呼び続けたのである。
まさか、と思いながら、彼女を見つめ続ける。
このときを覚悟していたつもりだった。己の命が失われる瞬間を。
しかし思えば、僕に必要だったのは、自分が死んでしまうそのときを覚悟するのではなく。
彼女に「覚悟させる」ことだったのではないだろうか。
夫が死ぬ未来を、受け入れさせるべきだったのに。僕は自分のことばかりで、彼女の僕に向ける想いを軽んじたのである。
「どこかにいるはずなんですっ! 誰か、誰か……! 見ていませんか……!!」
このままでは彼女は、おかしくなってしまう。
どうにかしなければ。だって、僕しか彼女を助けられない。
誰か。誰か。僕の声を聞いて。彼女を助けて―――――。
そんな風に、強く、強く念じたそのとき。僕の意識が、ぐんっと何かに引っ張られた。
エマの傍に立っているような感覚で、その周辺の風景を眺めていたのに、景色がぐるりと反転する。
突風に呑み込まれたような激しさだ。
抵抗しようにも何もできない。どこかに連れて行かれる。
そんな気がして、ひたすらにエマの名前を呼び続けていると。
「……かわいそうに。そんな姿になってしまって」
ふと、そんな声が聞こえた。「見回せば」覚えのある室内に「立っている」ことに気付いて。
思わず声を上げそうになったけれど、やっぱり、音を発することはできない。
立っていると思ったのは気のせいで、僕は、あくまでも意識だけで宙を漂っている状態なのだろう。
「肉体を失って、魔力だけが残ったんですね。そこに、意識が植え付けてある……? いや、何でしょう。こんな不可思議な現象は初めて見ました」
ぽつり、ぽつりと、雨粒が落ちるような静けさで医師は語る。
ああ、そうだ。ここは、前に訪れた診療所だと、理解した。
「だけど、私とは波長が合うようですね。君が何を言わんとしているのか、何となく意志のようなものを感じます。―――――だから、そうですね……うん、」
医師は、その柔らかな面差しを少しだけ鋭くして、宙を見つめている。
魔力というのは普通、目に映るものではない。あくまでも「感じる」ものなのだ。
だから、どうやら魔力の塊に成り果ててしまった僕と彼の視線が合っているというのもおかしな話ではあるのだが、それでも、見つめ合っているような気がしてならなかった。
「実体をもたせることはできないけど……、幻覚を見せることならできるかもしれないな……」
椅子に座ってなにやら書付けをしていた様子の彼が、手を止めて、おもむろに立ち上がる。
そして、本棚に並んだ蔵書の中から数冊を選び出し「私は、こういう魔術の専門じゃないから……うまくいかないかもしれないけど」と言った。
その視線は、やはり宙を彷徨い、だけど確実に「こちら」を見ている。
「時間がかかりますよ。専門家にも相談してみなくちゃいけないから」と、不敵に笑う彼に同意した。
それが、どういう意味かもよく分からずに。
藁にも縋る思い、というのはこういうことを言うのだろう。
他に頼れる人はいなかったし、彼なら何とかしてくれるような気もした。
だからこそ、僕の思念は無意識にもこの場所へ飛んできたのだろう。
「きっと、私の前に現れたというのが、答えなんでしょう。運命というものがあるのなら、私たちは互いに導かれたのかもしれません」
医師は独り言のように呟いて、椅子に座ると、分厚い蔵書を開いた。
そこにいてもいいけど、時間がかかるよ。と再び、先ほどと同じようなことを口にする。まぁ、君には時間なんて関係ないかもしれないけど、と。
僕はこのとき。彼の言葉に微かな希望を見出していて。
「希望」というのはその名の通り、これからの人生を明るく照らし出してくれるものだと信じていた。
これで、彼女にも僕の存在を分かってもらえる。彼女と再び、一緒に生きていくことができる。
彼女を、あるいは自分自身を救うことができると、浅はかにもそんなことを考えていたのだ。
*
魔法が完成するのに、どのくらいの時間がかかったのか、僕には分からなかった。
医師があらかじめ断言していた通りに、長い時間がかかったのか。もしくは、想像よりも短かったのか。
確かなのは、ある程度の時間が過ぎ去っていたということで。
医師は相変わらず若々しい外見を保っていたけれど、それでもやはりどこか年を重ねたことが分かる顔つきになっていた。
そして僕は、幻術によって「他人に見える」存在になったのである。
「あくまでも幻術ですよ。だから、君から他人に触れることはできないし、また逆もしかり。君の魔力に『形状』を与えたまでのことです。だから、魔力の弱い人間には「形」として見えません。そもそも、君の存在自体が目に映らないでしょう」
医師いわく、何となく意志を伝えることはできるが、話すことはできないということだった。なぜなら、声を発するための声帯がないからだ。
その一方で、僕が他人の声を聞くことができるのは、耳が機能しているわけではなく、ただ単に相手から発せられる「波長」を感じているだけなのだろうという見解だった。
しかし、正確なことはわからないとも続ける。
矛盾が生じるのは、君が魔力の塊であり、霊魂でもあるからなのだと。
霊魂である部分は、まさしく神の領域なので説明することはできないということだった。
だけど、それでも十分だと思った。
何でも良かったのだ。
これまでの、誰にも認識されない状態よりはマシだ。
肉体を取り戻すことはできずとも、エマに「見て」もらえる。それ以上に何を望むのか、という想いもあった。
見下ろせば、自分の両腕が見える。指を折ることができたし、手を振ることも可能だ。
幻覚だと分かっていても、まるで生き返ったような錯覚を覚えた。
「君が一体、何のためにこの魔法を望むのか。私なりに考えてみました。……まぁ考えるまでもなく、君の奥さんの為だろうというのは察しがつきます。だから、この幻術はあくまでも君の奥さんのための魔法になります。つまり、彼女には問題なく君が見えるだろうということです」
僕の身上調査でもしたのか。
医師は、僕個人のことをとてもよく知っているように見受けられた。それも、この魔法には必要なことなのかもしれない。
医師は、少しだけ呼吸を置いて「覚悟はいいですか?」と訊いてきた。
今度は一体、何の覚悟だろうかと首を傾げるけれど「……君にとって、時間は無限のものかもしれません。だけど私たちにとって、時間というのはあまりに短いのです」と、言い含めるように告げる。
その真意を読み取ろうと、ないはずの「目」を凝らしてみるが。何も伺い知ることはできない。
だから、彼がそのとき、僕と「私たち」をはっきり線引きしていたことに、気付かなかった。
僕はただただエマのことだけを考えていたのだ。
彼女は今、何をしているだろうか。また僕を、捜しているのではないだろうか。あの広い屋敷で暮らすのは寂しいのではないか。
彼女と再会したとして、僕は話すことができないけれど、話しを聞くことはできる。
もしかしたら、それだけで十分かもしれない。
大切なのは、互いの顔が見えることだ。
きっと、そうだ。
そんな風に、必死に自分を納得させて。彼女に会いに行けば、
「……なんで、」と、搾り出すような声でそう言われた。
見慣れた玄関ホールに佇む彼女は、かつて纏っていたドレスよりも随分と地味で簡素なものを着ている。
そのせいか、ひどく顔色が悪く見えた。
しんと静まり返っているので、他に使用人はいないのかと見渡せば、絵画や空の花瓶に布がかけられている。よくよく見れば、天井から釣り下がったシャンデリアにはほこりが被っていた。
おかしな雰囲気だと首を傾げていれば、「どういうことなの……?」と、放心していたエマが呟く。
帰ってきたんだよ、と伝えようとしたけれど、当然、声は出ない。
身振り手振りで伝えようにも、どのような仕草をすれば彼女に理解してもらえるのか検討もつかなかった。
もっと、事前に準備してから会いに来れば良かったと後悔しても遅い。
あきらかに戸惑い、動揺して混乱している様子の彼女が、僕に手を伸ばして。
けれど、その指先はあっさりと僕の体をすり抜けた。
そのとき彼女は両目を見開き、小さな顔いっぱいに驚愕の色を浮かべ。そして、唇をわなわなと震わせて、悲鳴を上げたのだ。
耳を劈くような声というよりも、もっと悲壮感の漂うものだった。
そう、例えば。今目の前で、誰かを失ったかのような。苦しみのあまりに声を上げる、というような感じだったかもしれない。
屋敷全体に響き渡るような声だったと思う。
違和感に気付いたのはこのときで。
屋敷の女主人が悲鳴を上げているというのに、誰1人として確認に来ない。
執事のような役割を果たしていた古株の使用人すら、顔を見せなかった。
もしかしたら、本当に誰もいないのだろうか。いや、それどころか。この屋敷自体が、廃墟のような雰囲気を醸し出している。
エマと2人で、生活の基盤を築いたこの屋敷。あちこちに生けられていた花は、どこにもない。
「……エマっ! 一体、どうしたんだ……!」
一瞬、自分自身が声を上げたのかと思った。けれど、そんなはずはない。
一体、どこから現れたのか、一人の男性が僕たちの間に割って入った。
けれど、その動作から、彼が僕のことを認識していないことに気付く。―――――彼には僕の姿が見えないのだ。
エマは震える声で「あそこに彼が、」と言った。
男は振り返り、彼女が指差した方向をじっと見つめるけれど「……何? あそこに何があるの?」と訝しげに首を傾げるだけだ。
「見えないの? 貴方には、見えないの……?」と、うわ言のように繰り返すエマの華奢な体を、男はそっと抱き寄せた。体格のいい彼の背に、彼女の体がすっぽりと隠れてしまう。
低い声「大丈夫だよ」と囁く声音で言ったのを、遠くで聞いていた。
僕が立っている場所からはよく見えないけれど、彼の手はきっと、彼女の背中を摩っているのだろう。
その慈しむような仕草に、胸の真ん中あたりが苦しくなる。
ここにはないはずの心臓が、悲鳴を上げている。
「私、きっとおかしくなっちゃったのよ。だって、だって、彼がそこに居るような気がするんだもの」
何が起こっているのか、分からない。
「彼が」「彼が」とぼそぼそ呟く彼女に、男が繰り返す。
「……違うよ。あそこには誰もいない。君はただ幻を見ているだけなんだ」と。
だって、彼は死んだじゃないかと。
そうね。そうよねと何度も肯いている様子の彼女が、その細い指を彼の背中に回す。
僕はやはり、それを見ていることしかできなかった。
縋りつくような、エマの細い指。砂になった僕をかき集めて、床を掻き毟っていた指先はすっかり癒えている。かつて、そんなことがあったなんてうそみたいに。
「私、おかしくなっちゃったのかもしれないわ」と、ぽつりと落とされた声が響く。
存在しないはずの鼓膜を震わせて、脳髄に杭を刺すように。
「早くこの屋敷を売り払って、新しい生活を始めよう。そうしたなら、きっと、元の君を取り戻せるから。だから、大丈夫だよ」
優しい優しい声が、彼女に告げる。何の威力もないはずの言葉なのに。僕の心に深く抉っていく。
僕のことを視界から消し去ろうとするみたいに、彼の胸に顔を埋めたエマ。
「もういいじゃないか。君はもう十分苦しんだし、彼も君のこんな姿を見るのは辛いと思う。……だから、いい加減前に進むべきだ。僕もできる限りのことをするし、いつも、傍にいるから……」
僕は立ち竦んだまま。1歩もその場から動けずに、だからどうか彼のことを忘れてほしいと、懇願するかのように囁いた男の声を聞いていた。
そして続けられた「君の夫はもう何年も前に亡くなったんだよ」という言葉に。
僕はやっと現実を思い知ったのだ。
彼女の中ではもう、とっくに僕は。
―――――死んでいたのである。
「そうね。死んだのよね。ライアは、死んだ。私の夫は、死んだのね」
エマの、自分自身に言い聞かせるかのように繰り返される言葉が。
僕から、全てを、奪っていくような気がした。