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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
カリアライア=イグニスの永遠
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5

しかばねですねぇ……いや、違いますね。屍のようなモノ……と言うべきしょうか?」


出会った当初もそう思ったが、時を経て、こんな風に再会しても尚。同じことを感じた。

威厳のある職に就き、物腰は柔らかで口調も丁寧だけれど、何処か軽薄で信用ならない人物に見える。

初めて会ったとき、この男は既に二十代だったはずだ。それから軽く十五年は経過しているので、現在は三十代の半ばを越えていてもおかしくない。それなのに、彼の相貌はとても若々しく映る。


思わず、まじまじと見つめていれば、彼は「聞いてますか?」と軽く首を傾いだ。


「……聞いてます。……だけど、どういう、意味ですか?」


きちんと考えれば、男の言葉を理解することができたのかもしれないと思う。

けれど、頭が上手く働かなかった。

震えを抑えようとして歪んだ声には力がなく、まるで怯えているように聞こえただろう。

実際、僕はどうしようもなく怖かった。


「君のその体……。生きているというよりは死んでいる。だけど、本当に死んでいるわけではなくて、……生きているといえば生きているっていうことですね」


支離滅裂なことを聞かされている。一瞬、彼の胸元を掴み、適当なことを言うなと罵声を浴びせる己を想像した。

でも、そこではっと息を呑む。

僕には右腕がないからだ。現実の僕は声を上げるどころか、椅子に座ったまま、ぴくりと左手を震わせただけだった。

喉を締め付けられたような感覚に、ただ何度も深呼吸繰り返す。

何か飲み物を用意しようかと言う彼に首を振り、震えを誤魔化すように左手をぎゅっと握り締める。

そして、相対する男の、観察するような眼差しから逃れるために診療所の天井を仰いだ。


染みの浮いた天井は古びている。けれど、きちんと清掃しているのが分かった。くもの巣が張っている様子はなく、埃も見えない。

この医師は案外、綺麗好きなのかもしれない。

それから、意味もなく室内を見渡した。

決して広くはない診察室の隅には、小さな本棚が置かれている。並んでいるのは魔術の指南書だ。

昔、彼が自分のことを「魔術にも詳しい医師」だと言っていたのを思い出す。


「ねぇ、君。大丈夫ですか? 私の声は聞こえていますか?」


だから、ここに来ることを選んだ自分は、間違っていない。そのはずである。


「……聞こえています」


しかし、当然ながら彼の言っていることを、額面通りに受け取ることはできない。

―――――もしかしたら、聞き間違いなのだろうか。

そうだ。何かの間違いだ。やはり彼は、おかしなことを言っている。もう1度聞き直すべきかもしれない。

それなのに。


「どうしてですか、」


口から零れたのは、自分でも思いも寄らない言葉だった。無意識だったけれど、声音には非難の色が滲んでいる。


「異常はないと、あのとき……言ったではありませんか」


男はほんの一瞬だけ目を見開き「そうだね」と、深く肯いた。

さらりと零れ落ちた前髪と柔和な表情に、既視感を覚えて息を呑む。それもそのはずである。

父の魔法陣に放り込まれた幼い僕を診察した彼は―――――やはり今と同じような表情をしていた。

どんなに緊迫した状況でも、焦りを感じさせない男だ。

医師という職業柄、そういった度量というのは必要だろう。


「嘘を、ついたのですか」


言葉を発するたびに、体温を失っていく。そんな気がして、首の後ろに氷水をかけられたかのような寒気に、嘔吐感さえ覚える。

だというのに、案外しっかりと話すことができる自分に感心していた。


「それは違います。あのときは確かに、何の異常もありませんでした。少なくとも、私にはそう見えたのです。下した決断にも間違いはなかった、はずです」


かつてこの男は、父の助手を務めたこともあると自慢げに語っていた。

本当にそうなら、父が僕に何をしたのか知っていたのだろうか。

それならばなぜ、何も教えてくれなかったのかという恨み言を口にしようとして。今更、何を言ったところで無駄だと悟る。

実際、僕の肉体は、どうしようもない状況に陥っていて。父の施した魔術の結果が、覆ることはない。


「―――――ただ、その後、定期的に君を診察していたわけではありませんから……。あれから今までの間に、君の体がどんな風に変化したのか私には分からないのです」


申し訳ありません、と頭を下げる彼には事の重大さが理解できていないような気がした。

いや、違う。もしかしたら、深刻すぎる問題に、彼自身戸惑っているのかもしれなかった。

向き合っていると、彼の眼差しが揺れていることに気付く。


「推測だけでものを言うなら……。君の肉体は、とっくの昔に限界を迎えているということです」


無理やり年を重ねてきた。という方がしっくりくるかもしれない。と、医師は僕の頬に触れた。

「成長しないのは、成長することができないからでしょう」

思わずその手から逃れようとしたけれど、「じっとして」と力強い指先が動きを制する。

何を見ているのか分からないが、僕の顔を右に、左に動かして、彼はふっと息を吐いた。


「未だに君が何の問題もなく動くことができるのは、その膨大な魔力のおかげだと思います」


そして、医師は僕の右肩にそっと触れた。壊れ物に触れるような慎重な仕草だ。

するりと手を滑らせて二の腕を軽く掴み、肘から先に何もないことを確認してから眉を寄せる。

右腕を喪失したことは、この診療所を訪れたときに、あらかじめ説明していたことだったけれど。彼も、自分自身で確認する必要があったのだろう。

中身がないから、ちょっとした動きで頼りなく揺れる僕の右袖。それをゆっくりと捲り上げ、目視して。

彼は痛ましげに目を伏せた。


僕に同情しているらしい彼は、何度か口を開いたけれど。

結局、言葉が見つからないのか黙り込んでしまう。


何か解決策はないのかと口にできたのは、長い長い沈黙が続いた後だった。

とっくに、そんなものがあるはずないと分かっていたのに。それでも訊かずにはいられなかったのだ。

案の定、彼は、ぐっと言葉を詰めた後。

ぽつりと「ごめんね」と言った。

苦しそうに吐き出された声音。くだけた口調なのに、先ほどの謝罪とは違って、重々しく響いた。だから、それが全てなのだと悟る。

思わず胸元を押さえて、己の心音を確かめた。手の平から伝わる拍動に、ほっと息を吐く。

少なくとも、今ここに居る自分は生きている。それだけは間違いない。―――――そう、思っていたかった。

だから、あえて明るい声音を意識して「心臓は、動いていますよ」と言ってのける。

すると医師は、どこか戸惑いを隠せない様子で「ふふ、」と乾いた笑みを零した。


そして、「本当に?」と問う。

一瞬、ふざけているのかと思った。だから反論しようとしたけれど、視線の先にあったのは思いも寄らぬほど真剣な顔つきで。

僕は口を開いたまま、息を詰めた。


「それは全部、君の魔力が見せている夢なのかもしれませんよ」


本当の本当は。既に鼓動は止まり、脈もふれず、吸い込む息さえ幻聴であり幻覚であり……、君はもう死んでいるのかもしれません。と告げる医師。

「さっきも言いましたけどね。君は、生きているようで死んでいるんです。―――――でも、完全に死んでいるわけではなく、生きていると言えば生きている……かもしれません」

まるで僕の存在そのものが、夢、幻であるかのように語る。

あまりにも冷徹な言葉であるが、それが真実のような気さえして。

この体が既に、生物としての役目を終えているのなら。ここにあるのは、ただの肉の塊でしかない。


動揺を鎮めるために、深呼吸を繰り返して。

もしかして、そんなことをしても意味がないかもしれないと気付く。

「生きる為」の行い全てが、無駄だということなら、呼吸なんて必要ない。

こんなに苦しいのに。こんなに息が上がるのに。喘ぐ呼吸は、生きている人間そのものだというのに。

全部、気のせいかもしれないということなのか。


生きているのに、死んでいる。死んでいるのに、生きている。


「……っ、どうすれば、僕は、一体、どうすれば、いいんですか……っ」


情けないほどにぶるぶると震える体。これを生きているといわずして、他に何と言うのか。

そう思うのに、目の前の医師は、ただ首を振る。

「……申し訳ないけれど、医師という職業柄。僕は生きている人間しか治療することができないんです」

ひどい言い草だ。だけど、ここで中途半端に優しくすることの残酷さを、彼はよく知っているのだろう。無駄な希望を抱かせないために、はっきりと事実だけを告げる。

よくできた医師は、そうするものなのかと納得するものがあった。


既に気力を失っていた僕には、それ以上追及することもできず。

本当は訊きたいことがたくさんあったはずなのに、形にできないまま、消えていく。


やがて立ち上がった僕を、視線が追いかけてくる。辛らつな言葉を吐いた後だというのに、僕を案じているのが分かった。

『力になる』という言葉さえ口にしなかった彼。


力になれないことを、知っているのだろう。


*

*


己がもしも不老不死だったら。


そう思ったとき、まず、頭を過ぎったのはエマのことだった。

自分が、永遠に生きながらえるとすれば。

もしもそうなったならば、彼女は、必ず自分よりも先にこの世を去る。この世にたった一人取り残される自分を想像して、恐怖に震えた。


―――――そんな自分がまさか、彼女よりも先に逝くかもしれないなんて。想像すらしていなかった。


「……それじゃぁあなたは、ライア。突然、き、消えてしまうかも、しれないって、こと?」


詳細は説明せず、医師に診察してもらうとだけ告げて家を出たとき。

エマは、自分も着いて行くと言ってきかなかった。それを何とか言いくるめて、彼女に留守を頼んだのだった。

そして、診療所から帰った僕が玄関の戸を開けると、彼女はそこに居て。

不安そうに僕を見つめていた。

見るからに疲労の溜まっている様子の彼女に、もしかして何時間もそこで待っていたのかもしれないと思った。

使用人は部屋へ引き上げているのか、傍には誰もおらず、広い玄関ホールにぽつりと佇んでいる。

しばらくは言葉もなく、向き合ったままで。随分と長い間、黙り込んでいた。

静寂の支配する空間で、この世にはたった2人きりしか存在していないような感覚に陥る。

恐らく、それこそが、僕たち2人で築いてきたものなのだ。

どれだけ大勢の使用人と暮らしていようと、どれだけ多くの人と出会おうと、僕たちは他者を受け入れることができない。


お互いの存在だけが、全てだと、自信を持って言える。だからこそ―――――、覚悟が必要だ。


「エマ、ごめんね」


何度も深呼吸を繰り返した僕は、そうしてやっと、真実を告げた。

父の非道な行いから全て、包み隠さずに語って聞かせる。

なるべく分かりやすく話そうと努めた結果、意図せず、幼い子供に語りかけるような口調になった。

彼女は肯いたり、あるいは首を振ったり、理解しているのかそうでないのか分からなかったけれど、ともかく余計な口を挟むことなく最後まで僕の話しを聞いていた。

そして、全てを聞き終わった後。彼女は、はっきりとその目に絶望を映し込んだのだった。


話している途中で何度も言葉に詰まり、彼女には何も聞かせるべきではないのではないかという思いも過ぎった。

腕を失う前と同じく、このまま何も知らずにいれば、やがてはこれまでと変わらない日常に戻っていくことができるのではないかと。

しかし、そんな身勝手なことが許されるわけないと、自分でもよく分かっていた。

彼女には知る権利があり、そして僕には、話す義務がある。


そうしなければ、お互いに「覚悟」できない。来るべき日に備える覚悟が。


「そんな、そんなの、いやよ」


震える声が、ぼんやりと霞んで消える。悲しみに支配されていく彼女に、為す術はない。

丸い輪郭を描く頬に、いくつもの筋ができる。それが涙だと気付くのに少し時間がかかったのは、彼女があまりにも静かに泣くからだった。

しゃくりあげることも、嗚咽をもらすこともなく、涙だけが次々に零れて落ちていく。

助かる方法は? と問う彼女に首を振る僕。これはどうにもならないことなのだと、言い含める。

ずくずくと痛みを覚える胸に、己の言葉が、自分自身を痛めつけているのだと理解した。

思わず、左手で自分の胸元を押さえてから、これもただの錯覚なのだろうかと。嫌なことを考える。


だけど、たとえ肉体が、既に死を迎えていたとしても。

心はまだここにあって、痛みを訴えている。それは紛れもない事実だ。


「私、耐えられない。そんなの、絶対に、耐えられない。ライア、ライア。私、貴方がいないと生きてはいけないの……、生きては、いけない……っ、」


僕の胸元を、小さな手で握り締めた彼女が、とうとうしゃくり上げた。その嘆きが、空気を震わせる。

「ライア、ライア」と何度も僕の名を呼ぶ彼女が、苦しそうでたまらない。

彼女の背を優しく撫でて、ただひたすらに「ごめん」と繰り返すことしかできなかった僕は。慰めの言葉すら、持っていなかった。


―――――それから、どれほどの歳月を一緒に過ごしただろうか。


彼女は毎朝、毎晩怯えていた。

せめて、余命宣告を受けていれば、互いに気持ちの整理ができたかもしれないが。

いつその日が来るのか、予想すらできなかった。


だからこそエマは、「まばたきをした瞬間に、貴方がいなくなってしまうかもしれないと思うと、目を閉じることができない」と言って、夜が来ることを怖がった。

そして、「目覚めたときに、貴方がいなくなっているかもしれないと思うと、目を開くことができない」そう言って、朝を恐れたのだ。


昼間は昼間で、自分の仕事にはほとんど手をつけず、何度も僕の様子を確認しに来る。

僕はなるべく、日常に戻ることを望んだけれど。そもそも、そんなことができるはずもなかった。

僕と彼女の立場が逆でも、僕はきっと、彼女と同じようなことをしたに違いない。

いつだって、互いの姿を確認できるくらいの距離に居て、時々は手を握り合い。時間の許す限り、ただ傍に居て何もせずに過ごした。

このままでは良くないと思うのに。

それ以外に、何をすべきか分からなかった。

幸いにも、僕たちには資産だけはたくさんあって。何もせずとも暮らしていけるだけの余裕があった。

あまりにも怠惰な生活に使用人たちは良い顔をしなかったけれど。様子を見ることにしたのか、それともただ単に戸惑っていたのか、物申すような人間はいなかった。


僕とエマは、陽だまりの中でまどろむような日々を過ごしていたにも関わらず、心だけは、そんな穏やかさとは無縁だったように思う。

夜、ベッドに入ると彼女は僕の体を抱きしめて、震えていた。僕自身も、彼女の背中に手を回して、強く、強く抱きしめるのに、震えはいつまでも止まらず。

怖い、と呟く彼女に、何も言ってやれなかった。


そうして僕は、ある日、彼女の目の前で砂になったのだ。


ソファに並んで座っているときだった。そこには、時間をかけて、ほんの少しだけ冷静さを取り戻した彼女がいて。そろそろ仕事を再開しようかしらと微笑した。

僕は、純粋に嬉しく思った。だから、そうだね。それはいいことだねと肯く。

互いに微笑みを浮かべたまま、お茶でも飲もうかと立ち上がろうとしたそのとき。

視界ががくんと、ぶれた。


「―――――ライアっ、」


僕を見つめる彼女の瞳が、これ以上ないくらいに大きく見開く。


「ぃや、いや……っ、ライア! ライア!!」


どうしたの、と声に出そうとして、言葉にならないことに気づいた。

それどころか、叫んで青褪める彼女を宥める腕すら、ない。指先が、ざらりとした何かに触れた気がして視線を下げれば、砕けて砂礫になる左腕が見えた。

ひゅっと息を呑んだのは、僕だったか。それとも、エマだっただろうか。


「待って……っ、待って、いやっ、いやぁっ、」


ああ。何ということだ。


そう思った気がしたけれど、思考は纏まらない。

僕の名前を呼び続けるエマが、砂になっていく僕を抱きとめようとして、上手くいかずにまた声を上げる。

ソファや、磨きぬかれた床に散る、僕の欠片。

それらは、風に舞いながら四方に飛び散っていった。絶叫しながらも、何が起こったのか正しく理解できていない様子のエマが、両手を伸ばす。

バラバラになった僕を集めようとしているのだ。

はらりと落ちた僕のシャツとズボンを掻き抱き、その周辺に散っている砂礫を両手で掻き集める。そうすれば、再び、元の姿に戻せると思っているかのように。ソファから滑り落ち、両膝をついたまま。何度も、何度も、両手を動かして、かつては僕だったものを集めていた。

その仕草は、幼い子が砂遊びをする姿によく似ている。


「ライア、ライア、どうして……っ、なんで、なんで、どうして……っ、」


やがて、砂を集めても無駄だと気付いた彼女は、僕の衣服を抱えたまま立ち上がる。

その時には、使用人が何事かと部屋に集まりだしていて。

室内に飛び散った砂と、泣き喚く女主人に、明らかに訝しげな視線を送っていた。

誰かが「奥様! 一体、何事ですか……!」と、声をかけたけれど。

エマはひたすらに僕の名前を呼ぶばかりだ。

奥様、奥様、と使用人が声を掛けるのに、彼女には聞こえていないようだった。そして、ただ意味不明の言葉を羅列するだけだ。


「……ライア、ライア、どこ……っ、どこに、いるの……っ、私を騙そうとしているんでしょう?」


そうなんでしょう? と、双眸を赤くしておもむろに左右を振り仰ぐ。


「どこなの!! どこに居るの!! ライア……っ!! ライア―――――!!」


喉がちぎれるのではないかと思うほどの絶叫だった。

彼女に、そんな大声が出せるなんて思ってもみなかった。それほどの声音で、僕を呼んだ。

胸を掻き毟りながら、そうしなければ苦しくてたまらないとでも言うかのように。

エマは何度も、何度も、何度も何度も僕の名前を呼んで。視線を彷徨わせて。本当に、僕を捜していた。

目の前で砕け散った己の夫を、それでも、捜していたのだ。


そして僕は、肉体を失ったにも関わらず。彼女を「見て」いた。

そう。ただ、彼女を見ていたのだ。

顔を真っ赤にして、赤ん坊みたいに大声を上げて泣いている妻に、手を差し伸べることもなく。

再び、がくりと膝から崩れ落ちるようにしゃがみこんだ彼女は、木製の床を掻き毟るようにしながら砂を集めていた。


エマ、エマ。止めて。止めて。


そう思うのに、やはり声を出すことができない。声帯がないのだから当然だ。

「ライア! ライア!」

僕を呼び続けるエマは、爪が折れて、指先に血が滲んでも止めなかった。床板の隙間に詰まってしまった砂の一粒さえも見逃さないと、そんな鬼気迫る表情で。

明らかに錯乱しているその姿は、普段の思慮深い彼女とは全く異なっていた。


見ていられなかった。こんなのは彼女じゃない。彼女は我を失っている。助けてあげなくちゃ。

そう思うのに、止めることもできずに見ていることしかできなかった。


目も耳も失ったはずなのに、僕のこの目は愛する人の絶望を目の当たりにして。その悲鳴を、耳に刻んだ。


本当の人でなしというのは、こんな風に、苦しむ人間を前にして何もしない人間のことを言うのだろう。














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