4
不老不死になってしまったかもしれないという懸念は、今にも僕を暗闇の中に引きずり込もうとしていた。
危ない兆候だと感じつつも、塞ぎこむ日々が続く。
そんな僕を、エマはひどく案じているようだった。けれど、何も訊き出せないことが分かっていたのか、ただ見守ることに徹していたようだ。
「―――――父君のことは残念だったとは思うけどね。俺に話せることは、そう多くないよ」
そんなどうしようもない日々に終止符を打つべく僕が訪ねたのは、かつて父の死を知らせに来た軍人のところだった。
下位貴族の次男だという彼は、爵位を継ぐ必要がなかったので軍属となったのだと言う。
しかし、軍人として生きる覚悟を決めていたわけではなく、他に選択肢がなかったから、そうなってしまっただけだと笑った。
いずれは戦地に向かうことがあっても、命を落とすようなことにはならないだろうと高をくくっていたのだと。
ひどく楽観的だとは思ったが、そういう人間もいるのかもしれないと、妙に納得するものがあった。
そんな僕の心情を察したのか、彼は皺の刻まれた目元を和ませる。
「何も考えていないとは、よく言われる」と。
実際、そうなのかもしれない。事前の連絡もなく突然現れた僕を、あの人の息子だというだけで歓迎してくれたのだから。
「大きくなったなぁ」なんて、どこか懐かしむような顔をして室内へと招いてくれたのが、ひどく印象的だった。
僕が成長した分、彼自身も最後に会ったときより随分、年老いた気がする。
足を負傷して退役したのだというその人は、歩くくらいだったら杖は必要ないのだと言いつつ、ゆっくりとした動作で椅子に腰かけた。
見るからに、いかにも頑丈そうな彼。座っていると健康そのものにしか見えない。
ぼんやりと、彼の仕草を追っていると「……いかんいかん。すぐに話しが逸れてしまうな」と、息を吐く。
「実はね。誰にも言っていないこともあるんだ」
男は1人暮らしなのか、家の中はしんと静まり返っていた。
僕が招かれた客間のようなところ以外にも幾つか部屋があるようだけれど、物音はしない。人影もなく、1人で暮らすには十分すぎるほどの広さの家は、どこかひっそりとしていた。
室内を見回していた僕に、男は「報奨だよ」と笑う。長く従軍すると、家を与えられることもあるそうだ。
「それでね、ご父君……いや、お父さんのことだけど」
なぜ、言い直したのか分からない。だけど、特に意味はないのかもしれなかった。
「……は、い」
ぎこちなく肯いた僕をさして気に留めることもなく、男は語る。
父の最期については分からないことも多いのだと。
「戦死というのは、ちょっと違うんだ」
「―――――え?」
突然の告白に面食らい、言葉を失う。
男の顔をまじまじと見つめれば、「すまない」と頭を下げられた。
何に対する謝罪なのか、真意が掴めず黙り込む。すると「戦死した、と嘘を吐いたから」と続けた。
「君にお父さんの死を知らせたとき……、俺は、嘘を吐きたかったわけじゃない。だが、本当の死因については、いわゆる国家機密のようなものかもしれなかったから、あえて口にはしなかった」
「……」
沈黙の落ちた室内に、男の深い溜息が響く。
「お父さんは……。国からの依頼で、何かの研究をしていたようなんだ。その内容までは知らないがね。戦場にまで分厚い魔術書を持ち歩いて。難しい顔をして、ペンを握っていた」
「……そう、なんですか……」
父が研究熱心だったというのは周囲の人間から聞いていたので、そういうこともあるだろうと感じた。
ただ、戦場ですら、ペンを置かなかったという父の姿を想像するには至らない。
まるで、御伽噺でも聞いているような、現実味のない話のようにも思えた。
それほどに、父の存在が、遠かったのだ。
「あれは確か……、君のお父さんが亡くなる前日だったかな。話しがあると言われた」
男は、何度か瞬きを繰り返して、ふと、1つだけ呼吸を置いた。
窓の外に走らせた視線が、どこか遠くを見ているような気がする。当時のことを思い出しているのだろうか。
「今まで人間が成し遂げることのできなかった、未知の領域に足を踏み入れるのだと、そんなことを話していたのを覚えている。俺には、その言葉の意味すら分からなかったが。ひどく嬉しそうだったよ」
戦場の片隅で、ひっそりと耳打ちされたのだと語った。
父はよほど彼のことを信頼していたのだろうか。研究の内容こそ話さなかったようだが、その心情はあけすけだったらしい。
表情の乏しい父から喜びの感情を読み取るのは、なかなか難しいことだと思う。
「―――――君は、お父さんが、何の魔術を研究していたのか知っているのか?」
窺うようにこちらへ戻された視線。いかつい表情をしているが、切れ長の目を縁取る睫は案外長い。
「……予想は、ついています。だけど、確信が持てなくて」
「そうか。だから、ここに来たのか」
肯いた彼は、再び、僕の顔から視線を外した。
てっきり、父の研究について追及されるかと思ったのに、それ以上、何も訊かれることはなく。
そして、しばらくの沈黙の後に彼は言った。
「君に……、君のお父さんの死を知らせたときのことを忘れることができなかったよ」
静かな声だ。だけど、どこか震えているような寂しげな声で。思わず、胸を辺りを押さえてしまう。
自分の胸が痛んだわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
眉間に皺を寄せた彼が、苦しそうだったから。つられてしまったのかもしれない。
「誰かの死を、家族に知らせるのは初めてだったんだ。軍人だったら、そういうことは何度か経験するものだがね。ああいうのは……、誰でもそうだとは思うが、苦手でね」
「……ええ、そうでしょうね」
「ああ」
彼と同じような経験はないが、言っていることは理解できるような気がした。
誰かの絶望を目の当たりにして平然としていられる人間は少ない。
「だが、君には俺が知らせるべきだと思っていた。それが、俺に課せられた責任だったからだ」
「責任?」
「ああ。彼の死を見届けた人間としての責任だ」
ぴくりと、指先が震える。心構えをしてきたつもりだったけれど、冷静でいるのは難しい。
対面で座っている彼にも、恐らく僕の緊張が伝わっているのだろう。2人の間に流れていた空気が密度を濃くして、酸素を奪う。互いに、少しだけ息が上がっているようだ。
僕が最も知りたかったことの、核心に迫っている。漠然とそう思った。
「あの日は、朝から雨が降っていた。俺たちがいたのは激戦区ではなかったが、それでも、平穏無事に過ごしていられるような場所ではなかったんだ。目を閉じると、敵の陣営から飛んでくる火の玉を思い出すよ。
雨なんて物ともせずに、地面を赤く染めていた。
あれも魔術の1つだったんだろうけど……空中を泳いでいるように見える不思議な火だった」
まぁ、今はそんな話し、どうでもいいか。と、彼は咳払いをする。
「軍の本拠地は別のところに構えていて、俺たちは野営をしていたんだ。何日も外で寝泊りして、あのときが一番、疲れていたかな。何人かの見張りを残して、俺たちは疲れを取るために仮眠をとっていた。―――――そこに、君のお父さんが現れたんだ」
1人だけ呼び出されて、野営地から少し離れた場所まで連れて行かれた。鬱蒼とした深い森の奥には明かりの1つさえ灯っておらず、手探りで歩かなければならないほどだったと静かに語る。
そして、案内されたのは「洞窟だったんだ」と、彼は囁いた。
今まさに、父が、彼の前を歩いているかのような。そんな臨場感がある。
粟立った皮膚を擦りつけながら、男の顔を見上げた。同じように座っているというのに、彼の目線は、僕よりもずっと高い位置にある。
「暗闇に浮かび上がるように、びっしりと刻まれた魔法陣が異様だった。俺には、あれが何の意味を持つのかさえ分からないし、この先もきっと理解できないだろう。一体、いつの間にあんなものを用意していたのか……、」
美しかったよ。と、ぽつりと零された本音。
そうだ。確かに、彼の言う通り。父の魔法陣は、大胆で豪華な絵画のようだった。僕がもしも、父の魔法陣を遠くから眺めることがあったなら、同じことを思ったのだろう。数学者が、数式に魅入られるように。魔術師だって、完成された魔法陣に心を奪われるものなのだ。
「完成した魔法を見届けて欲しいといわれた。証人が必要だからと。ペテンなどではないと、誰かに証言してもらわなければならないと言っていた。それほどに、とんでもない魔法だと」
言葉を切った男は、小さく息を呑んだようだった。男らしい喉仏が上下するのを見届ける。
「長い、長い、呪文だった。俺はそれを、少し離れたところから見ていたんだ。決して、陣の上に乗ってはならないと言われたから」
1つ瞬きをすれば、床に描かれた魔法陣の上に投げ飛ばされたそのときを思い出す。
僕には、逃げ出すという選択肢などなかった。無理やり押し込まれた部屋の中、恐怖に震えて叫び声を上げたのだ。
泣き叫んだところで扉は開かず。その向こう側から響く呪文が、まさしく呪いのように響いていた。
あのときのことを思い出す度、指が、震える。
「強い光の向こう側に、君の父君を見たのが最後だった。俺は思わず、彼の手を掴もうとして……。恐らく、彼も俺の方に手を伸ばしていたんだと思う」
「手を、」
「ああ。……まるで、助けを求めたように見えた」
「……助けを……?」
掠れた声で相槌を打つ僕に、いちいち律儀に答えてくれる男は、まるで痛ましいものでも見るかのような顔をしていた。
「きっと、彼にとっても予想外のことが起きたんだろう。俺はあのとき思ったよ。―――――魔法は、失敗したんだと―――――」
全ての音が消えてしまったかと思うほどの静寂が訪れる。
目の前で、当時の出来事を語る男の唇は、きちんと音を紡いでいるようだった。ただ、僕の耳がきちんと音を聞き取ることができないだけで。
脳がきちんと機能していない。そんな感覚だった。男の発する言葉を理解するのに、ひどく時間を要する。
ごくりと唾を飲み込んだ音が、やけに大きく聞こえた。
「君のお父さんは、砂になって消えた」
最後の最後に、指先が触れたのだと彼は言う。ざらりと、砂の塊を掴んだような感触がしたと。
「……どこかに、……どこかに、転移したのでは……?」
自分の唇が情けないほどに震えていると、分かる。それどころか、きっと、色を失って青褪めているはずだ。ふと視線を落とせば、膝の上で拳を作っている手は、抑えることもできないほどに震えていた。
喉がしまって、声を発するのに苦労する。
「違うよ。それは、違うと、核心している。それは恐らく、彼の最期を目にした人間にしか分からないだろうと思うけど。……君のお父さんは、確かに、俺の目の前で死んだ」
砂になって、溶けて、消えたんだ。
そう言った男の声が、掠れて潰れる。まるで、苦しくてたまらないとでも言うかのように。
そして、「助け、られなかった……」と、ぽつりと零した。
その声には、どこか重みのようなものが感じられて。
彼は、そのことをずっと気に病んでいたのだろうかと思った。
思わず「貴方は何も、悪くありません」と告げれば、男は何度か瞬きを繰り返し、静かに頭を垂れる。
「誰かの死を、見届けるのは、初めてではなかった。あの後も、仲間が何人も死んだ。……だが、遺品の1つも持ち帰ることができなかったのは、君のお父さんだけだ」
せめて、遺骨だけでも家に返してやりたかった。と続ける彼に、いっそ大げさなほどに首を振る。
そして、何かを言いかけて。だけど、頭の中が真っ白で、言葉が浮かんでこない。
そんな僕の心情を、察しているのか、そうでないのか。
父の最期を看取ったという男は、つと顔を上げて、僕の顔を見つめる。
そして「お父さんに、似ているな」と、弱々しく微笑したのだった。厳つい顔には、似合わない表情だ。
もしかしたら、父を懐かしんでいるのかもしれない。
父と僕が似ているだなんて、そんなの気のせいだ。髪と目の色こそ同じだけれど、顔立ちそのものは別物である。それでも、彼は、僕の中に父の姿を見たのだろう。
ならば、教えてほしい。
僕の中に存在する父は、何か語ってはいないだろうか。
僕に何か伝えようとしてはいないだろうか。
教えてほしい。
僕は、どうすればいいのか。
*
*
それから僕が、何をしたかというと。―――――端的に言えば、何もしていない。
いかにも平然とした顔を装って、これまでと変わらない生活を送っていただけだ。
自分は魔術師としての仕事を請け負い、エマも人形師としての依頼を受けて。それぞれに仕事をこなし、一緒に食事をして、どうということもない話しに笑い合い、一緒に眠る。
傍からみれば、どこにでもいるありふれた夫婦に見えただろう。
それは、ささやかな幸福に追い縋るような毎日だった。
そういう何でもない日々を、失いたくなくて。怖くて、恐ろしくて。僕は、とても重要な問題を棚上げしてしまった。
エマに全てを話すべきだと、頭の中で警鐘が鳴っていたにも関わらず。
―――――けれど、変化は、ある日突然訪れる。僕の意志など関係なく。
久しぶりに公園でも散歩しようと、2人で屋敷を出たその日。穏やかな昼下がりにそれは起こったのだ。
僕たちが2人で向かった公園は屋敷のすぐ傍にあり、貴賎なく利用できる憩いの場でもあった。その為、普段から多くの人で賑わっている。
小さな子供がはしゃぎ声を上げても気にする人間はいないし、それどころか走り回っても何ら問題がないので、大抵が家族連れだ。他にも、恋人同士らしき男女が寄り添うようにして歩いていたり、友人同士が数人で談笑している姿も見受けられる。
何となしに眺めていても、心が凪いでいくような光景だった。
視線を移せば、誰が手入れしているのか知らないが、大きな噴水を囲むように美しく整えられた広い庭園が広がっている。それは、いつまで見ていても飽きることがない。
季節の花々が、その時々で色とりどりに咲き誇るその姿は、圧倒されるものがあった。
その中を、僕たちは並んで歩く。
園内をゆっくりと回り、ぽつりぽつりと何でもない言葉を交わした。
陽射しは強すぎず、また、弱すぎず。僕たちを包み込むような柔らかな光が心地良い。
軽く絡めた2人の指先は、それでもどこか力強くて、ちょっとやそっとでは離れないような気がした。
「ライア?」
時々、何でもないのに僕を呼ぶエマの声。首を傾げれば、彼女は、ただ微笑を浮かべる。何か言いたいことがあるのか、そうではないのか。僕には判断できない。
それでも、エマの横顔は、何だか穏やかだった。
いつだったか、寝室で落ち込んでいるような態度をとってしまった僕のことを彼女も覚えているのだろう。
エマはあれから、注意深く、僕を観察しているようだった。その目は、どこか突き刺すような鋭さを伴っていて。何だか居心地が悪かった。
心配してくれているのだと、気づいているけれど。自分の置かれている状況について上手く説明できる自信がない。
やがて、近くの教会から昼時を知らせる鐘の音が鳴り響いた。
「少し休憩しましょうか」という彼女に肯き、近くのベンチに並んで腰掛ける。エマは、手に提げていた籠の中から、使用人が用意してくれた軽食を取り出した。
果物や、薄い肉を挟んだパンや、飲み物だ。
その様子を眺めていると、彼女は柔らかく笑んで果物を掴む。そして、その白い指先でナイフを器用に扱い、果物の皮を剥いていった。
人形師という仕事がら、彼女は手先が器用だ。それでも、果物の皮を剥く為に練習していたことを知っている。
最近の彼女の口癖は「もっと小さな家に住みたい」というもので。いつか一緒に屋敷を出ようと、そんなことを言う。そこでは使用人など雇わずに、家族だけで暮らすのだと。
貴族位である僕たちがそんな風に暮らすのは、体面的な問題もあり、難しいかもしれないが。
僕自身は、そもそも貴族としての矜持など持ち合わせていなかったので、彼女の提案は悪くないかもしれないと思うようになった。
そんな僕を後押しするように、彼女は今、料理を覚えようとしている。
自ら進んで屋敷の厨房に入り、料理人に教えを乞うた。
いつか2人きりで暮らすなら、何でも自分たちでしなくてはならないのだと真剣な眼差しをして。
幸せだった。本当に、どうしようもなく、幸せだった。
だから、全てを話すなら今だと思った。今を逃せば、次はないと覚悟を決めて口を開く。
その瞬間だった。
「―――――ライア、」
彼女が、奇妙な声音で僕を呼ぶ。
息を呑みこみながら、言葉を吐き出したかのような。どこか息苦しそうな声だったと思う。
「……ライア! ライア!!」
叫び声が、すぐ傍から聞こえる。一体、何事かとエマの方を見て、その唇がわなわなと震えていることに気付いた。そして、彼女の視線が見据えるものに、僕もはっと息を呑んだ。
「……これは、……なに、なんで、」
呟いたのが自分だと分からないほどに動揺していた。叫びださなかったのが不思議なくらいだ。
―――――右手の指先が、ぱらぱらと崩れていく。
エマが、僕の右ひじ辺りを掴んだ。そして、もう一方の手で、僕の崩れゆく指をつなぎとめようと宙を掴んでいる。その細い指から、さらさらと零れていく砂のようなもの。
それが、僕の指を形作っていた「何か」だと気付くのに時間はかからなかった。
「嫌……、嫌、一体何なの、何なの……!」
混乱しているのは、エマも僕も同じだ。半ば呆然としている僕とは違って、彼女は、咄嗟に僕の欠片を拾い集めようとしている。それが何なのかも、よく分からずに。
やがて、右の手の平が、ざらりと砕けて。腕が、ばきんと音をたてた。
そのとき、殊更大きな音で息を呑んだエマが、口を大きく開く。
多分、叫ぶのだと思った。
周囲には、たくさんの人がいて。彼らは誰も、僕の身に起こった出来事に気付いていない。密着する僕とエマは、見ようによっては、品のない恋人同士そのものだっただろう。
思わず、左手で彼女の口を押さえていた。彼女の方が身長は高いけれど、性別のせいか、手は僕の方が大きい。彼女の唇を塞ぐには、片手で十分だ。
大きく目を見開いたエマが、僕の顔を見る。驚愕と混乱と、恐怖と。色んな感情がないまぜになった目をしていた。
「さけばないで、」
幼い子供のように頼りない声が漏れる。
瞬きすら忘れてしまったのか、乾いた彼女の目。その虹彩に、僕の顔が映りこんでいた。
「お願い、さけばないで」
震えた声が、穏やかな空気に霧散する。エマの顔は、だんだん色を失い、小刻みに震えているのが分かった。押さえつけた唇が、もがくように小さく動いている。
いや、違う。震えているのは、己だ。柔らかな木漏れ日が降り注いでいるというのに、どうしようもなく寒い。
もしかしたら、失った右腕から血が流れているのかもしれないと思った。
けれど、そうではないことは自分自身が、よく理解していた。
突然、右腕を失ったというのに。
痛みがない。というよりも、そもそも痛覚なんてものがあったのか疑わしいと思えるほどに、何も感じないのだ。麻痺しているというよりも、初めから、右腕なんてなかったかのように感じる。
それほどに、腕を失ったことに、―――――違和感がない。
「……っ」
エマの口元を押さえたまま、彼女と睫が触れるほどの距離感で見つめ合う。すると、彼女の喉が大きく痙攣するのが分かった。あまりに強く押さえつけていたために、呼吸ができなくなっているのだ。
慌てて、手を離せば、彼女はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら息を吸った。それでもなかなか呼吸が整わないようで、咳き込みながら胸を押さえている。
「ご、ごめん、エマ……!」
ベンチに倒れこみそうになっている彼女を支えようと手を伸ばして、はっと息を呑んだ。
そこに、彼女を支えるはずの腕がない。
思わず、左手で己の右袖を掴んだ。意識していたわけではないが、その動作は、自分の腕がどこまで失くなってしまったのか確認するためのものだった。
苦しそうに何度も呼吸を繰り返す彼女を前にして、僕は、失った右腕に気を取られていたのである。
もう少しで、彼女の息の根を止めてしまうところだったかもしれないのに。
「―――――なん、で?」
そう口にしたのは、僕とエマの、どちらだっただろうか。
やがて、彼女は顔を上げて、ぼろりと涙を零した。咳き込んだことによる、生理的な涙なのか。それとも、感情が高ぶっているのか。もしくは、両方なのかもしれない。
エマは、真っ白な顔を大きく歪めて「どうして?」と呟いた。
『どうして、こんなことをするのか』『どうして、こんなことになったのか』『どうして』『どうして』
そんな声が聞こえてくるようだ。
ぐらぐらと揺れる眼差しが、何かを見極めようと、僕を見つめている。
そして彼女は、震える指で僕の頬をなぞった。かさついた指先は、誤魔化すこともできないほどに震えている。思わず、その手を掴もうとして。
また、右手がないことを思い知らされる。
「どこにいっちゃったの……?貴方の右手は、どこ?」と、身じろぎした僕の右袖を掴んだエマ。
だけど、そこにあるはずのものは、無い。
「何かの魔術? 私を驚かそうとしているの? からかっているだけなのよね?」
揺れる瞳孔が、涙に滲む。そうでしょう? と同意を求める声は、もう既に答えを知っているかのようで。
僕を見つめるその顔には、はっきりと恐怖の色が滲んでいた。
目の前で、誰かの腕が消えてしまえば、動揺するのも当然だろう。ましてや、それが夫であれば。平然としていられる人間などいないはずだ。
「ライア……っ」
呟くように囁かれた声には戸惑いと、恐怖と、縋るような切迫感があった。
そして次の瞬間には、勢い良く立ち上がり「だ、だれか……っ」と、助けを求めようとする。そんな彼女に飛びつくように抱きついた。左腕を、彼女の腹部らへんに巻き付けて。
ほとんど力づくで、彼女をベンチに引き戻す。
それでも抵抗しようともがく彼女を、強く、強く抱きしめた。
失った右腕の代わりに上半身を強く押し付けて、自分と同じくらいの体格である女性の動きを封じる。
誰に、どんな助けを求めようとしているのか。
そうやって助けを求められた人間は、僕を、一体どのような目で見つめるのか。
単純に、怖いと思った。腕を失っても、血液さえ流れない僕が、他の人間にどのように映るのかを想像して。
半ば、倒れこんだような格好になったエマが、至近距離で僕の顔を見つめる。
信じられないものを見るかのようなその顔に、今の僕を見れば、大抵の人が同じような表情をするだろうと思った。僕だって、自分自身に起こった出来事を信じることができないでいる。
耳の後ろがどくどくと音をたててうるさい。何の音かと、確かめようとして、それが拍動の音だと気付く。
「―――――何か、知っているの?」
エマがそう訊いて来たのは、どれくらい時間が経過した頃だっただろうか。
「ねぇ、ライア。どうしてそうなったのか、何か、知っているの?」
いくらか自分を取り戻した様子の彼女が、先ほどまでとは違った声音で問いを重ねる。
ふと、足元に転がった果物の残骸が目に飛び込んできた。僕かエマのどちらかが踏み潰したのだろう。
赤い果肉が、飛び散っている。
耳の奥で、かの退役軍人の言葉が甦った。
『君の父君は、砂になって消えた』
―――――砂になって、溶けて、消えたんだ。