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「貴方はいつまで経っても変わらないわねぇ。まるで子供のような顔をして」
異変に気付くきっかけは、本当に些細なことだった。
果物が食べたいと言っていたエマのために、市場へ寄ったときのこと。露店の女主人が顔をしかめながら、そんなこを言って来たのだ。
「……そうですか?」と首を傾げれば「そうよ、そうよ」と、1人でしきりに肯いている。
そこは、僕が普段からよく足を運ぶところで。いつの間にか、常連と呼ばれるようになっていたほどには、通っていた自覚がある。
初めは、見るからに貴族である僕に遠慮がちだった彼らも、何度も顔を合わせている内に慣れしまったらしい。気まずかった頃が嘘のように、笑顔を見せる。
今や、露店の商人たちとは大抵が顔見知りで、用事がなくとも一言二言くらいは軽口を交わす仲だ。
そんな日常に落とされた、悪気のない言葉が、僕の目を開かせるきっかけとなった。
「何年も前から同じ顔してるわよ」と笑った店主。
僕の顔は、あまりに童顔すぎると指で頬をつついてきた。そして、そんな容貌だと奥様が大変でしょう? とからかうように言う。
女はいつまでも若くいたいものなのに、旦那様がそんなにお若いんじゃね。と。
「奥様も随分可愛らしいお人だけど、貴方には負けるわねぇ」
笑い声の滲んだ言葉が、耳の奥で大きく反響した。そして、全身が1度だけ、大きく震える。
いつもと同じ軽口のはずなのに。どこか違うように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……ちょっと、どうしたの急に。顔色が悪いわ」
僕の顔を覗きこんできた店主が心配そうに眉を寄せる。その視線をかわすように顔を逸らして、だけど、声だけは平静を装った。
どくどくと脈を刻む胸を押さえて、必死に笑みを作る。自分がどんな言葉を口にしたのか、相手が何と答えたのかすら覚えていない。
それでも、何とか別れの挨拶を口にして、その場を離れた。
ふらつく体を支えるために、地面を踏みしめるように1歩ずつ慎重に歩く。けれど、その内に耐えられなくなって駆け出した。
市場の近くに停めていた馬車に乗り込み、勢いを増していく心臓の音に、何度も深呼吸を繰り返す。
貴方はいつまで経っても変わらないという言葉が、頭の中で何度も甦った。
「……そんな馬鹿なことがあるはずない」
自分に言い聞かせるように呟いた声が頼りなく震える。指先は色を失い、冬でもないのにかじかんでいるような気がした。座席に深く腰を落として背中を丸め、自分の体を抱きしめる。そうしなければ、今にも倒れこんでしまいそうだった。
馬車を動かしてもいいのかと確認する御者の声が聞こえていたけれど、返事もできない。
頭の中に甦る幼少期の記憶。
そう。父に何だか分からない魔法をかけられた日のことだ。
硬く閉ざされた部屋の中にびっちりと書き込まれた魔術を発動するための呪文と記号。その一部が、今でも目に焼きついている。
忘れようとしても忘れられなかったそれ。
父との間に起こった忌々しい出来事だったから、一刻も早く忘れたかったのだけれど。
ずっと、忘れることができずにいた。
ゆえに、ここ数年は。
父の発動させようとしていた魔術が、一体何だったのかを突き止めることに時間を費やしていた。
研究に没頭する僕を、エマは案じていたはずだ。何十冊も蔵書を持ち込んで、自室に篭る僕に、いい顔はしなかった。それでも、研究を止めるように言わなかったのは、気遣ってくれたからかもしれない。
自分で言うのも何だが、鬼気迫るものがあったのだろう。
日を追うごとに解明されていく、父の魔法陣。―――――不吉な予感に、僕は震えた。
それでも安心していられたのは、父の魔術は、失敗したという確信があったからだ。
父の魔法を受けたはずの僕自身に、何の変化も見られない。それこそが、失敗の証明だと思っていた。
魔法を受けた当初は、確かに身動きできず、肉体に奇妙な模様が浮いていたけれど。その後、一度もそいうことは起こっていない。むしろ、風邪を引くことすらなく。健康そのものだった。
―――――だが、市場で受け取ったたった一言が。
僕の確信を、揺らがせる。
成功していたのだろうか……。その疑問が、頭の中を支配していく。
人よりも幼い容姿。本当はもっと伸びていいはずの身長も、低いままだった。体格や身長は遺伝によるところが大きいから、両親や祖父母のことを考えれば、僕だけが異質だと言える。
そのことを冷静に考えれば。
父の魔術を受けた僕の身体には、確実に、変化が起きていることになる。
何も変化しないという、変化……。
思えば、父ほどの魔術師であれば、成功する確立の方が高いのではないか。
だとすれば、僕は。
「……何て、ことだ。何て、何て、何てことを、してくれたんだ……っ」
叫びだしたい衝動を必死に押さえ込む。吐き出したい言葉を、必死に呑み込んだ。
口から吐き出されることのなかった言葉の塊が、大きな鉛となって喉を塞いだように思えて苦しい。
がくがくと唇を震わせながら、強く目を閉じる。そうすると、否応なしに父の魔法陣が思い起こされた。
父が、あのとき発動させようとしていたのは―――――、「不老不死」の魔法だ。
はっきりとした確証を得たのは、そんなに前のことではない。
とある著名な魔術師の研究を手伝ったときに、たまたま、国が保管する蔵書を目にする機会があった。
そこには、あまりに複雑すぎるゆえに未完となってしまった魔術や、手を出してはならないと言われる禁術などが記載されていた。
常人には目にすることさえないだろう機密扱いの蔵書に記されていた呪文の一部。
未完であるからこそ、一部しか書かれていないわけだが。
その呪文を、記号を、僕は知っていた。
脳裏に刻まれた、父の魔法陣。そこに描かれていた呪文と同じだったのだ。
数年に渡る自分自身の研究と、父が使っていた書斎に残されていた書物、そして、機密扱いの蔵書に描かれていた記号。
それらから複合的に判断して、父が「不老不死」に関する魔術を完成させようとしていたのは間違いない。
机上の空論と呼ばれていた不死の魔術。そして、実現可能ではあるが禁術扱いだった不老の魔術。それらを掛け合わせ、不可能と言われていた魔術を完成させたのだ。
そして、息子を実験台にしたのだという事実に辿り着く。
それが分かったとき、初めは、鼻で笑った。稀代の魔術師とは言え、馬鹿なこをすると。余裕綽々に嘲笑うことだってできたのだ。―――――息子を実験台にしてまで成し遂げたい研究だったのに、失敗したのだと。声を上げて笑うことすら、できたのに。
「父上、貴方は、」
本当に、僕を愛していなかったのですね。と、搾り出すように呟いた声が、走り始めた馬車の騒音に紛れて消えた。
*
「おかえりなさい」
屋敷に戻ると、エマが笑顔で出迎えてくれる。
いつもと変わらず、優しげに細められた目尻。柔らかな弧を描く唇。小ぶりだけれど低すぎない鼻筋。
その顔をしっかりと見つめて、そっと息を吐き出した。
彼女の灰茶の瞳が、僕の顔を映しこんでいる。たったそれだけのことに安堵したのだ。
当然ながら、彼女の様子はいつもと変わりなく。
頬に唇を寄せれば、くすぐったそうに小さく笑い声を上げる。
父と暮らしていた頃、屋敷の中は何となく薄暗いものだと感じていたけれど、彼女が来てからは、その雰囲気さえも一変した。
幼く孤独な少女のためにと、使用人たちが屋敷の中に花を飾るようになったのである。それに気付いたエマは、成長すると自分で花を選ぶようになり、花瓶なども拘って揃えるようになった。
些細な変化だが、意外にも全体に与える影響は大きい。室内に花が飾ってあるだけで、明かりが1つ増えたような気がした。
もしかしたら、彼女の存在そのものが、明かりの1つだったのかもしれない。
そして、僕とエマが結婚してからはまた、少しだけ変化があった。
屋敷のそこここで笑い声が響くようになったのだ。
普段は口を閉ざして職務に従事している使用人たちも、エマと何事かを楽しそうに話しこんでいることがある。学院に入る前にあった、どこか気の張った関係も、いつの間にか払拭されていたのだった。
結婚したからと言って、何か特別なことをしたわけではない。間取りを変えたわけでもないし、新しい家具を揃えたわけでもない。
それなのに、廊下を風が吹き抜けるような爽やかさに包まれて。
住んでいる人間が、建物に影響を与えるなど。そんなことあるはずがないと分かるのに、そう思えてしまうから不思議だった。
「ライア? どうしたの?」
上手く取り繕えていたか分からないけれど、普段と変わらない自分を装う。
彼女に「ただいま」を言って、彼女と向かい合って食事を取り、一日の出来事を報告し合い、時々声を上げて笑う。会話が途切れるとそれぞれに入浴を済ませた。そして、再びしばらくの間談笑して、寝室に入る。
いつもと何ら変わらない流れだった。
「ライア?」
ベッドに腰掛けて、部屋の入口付近に立ち竦んでいる僕を心配そうに見上げるエマ。
彼女が屋敷に来た頃は、僕の方が体格も大きく、身長も高かったことを思い出す。特に彼女は、同世代の子供たちよりもだいぶ小柄だったから、僕とはだいぶ体格差があった。
「ライア?」怪訝そうに首を傾げる彼女に1歩、2歩と近づいて、その頬に触れる。
座ったままの彼女は、僕を見上げるような格好になった。
室内のぼんやりとした明かりを取り込んできらきらと輝く目が美しい。
「君は、昔よりもだいぶ大きくなったね」
今では彼女の方が若干身長が高い。
だから必然的に、彼女が僕を見上げる場面は少なくなった。
けれど、彼女は特別大柄なわけではない。むしろ、平均よりも小柄なほどだ。そんな女性の平均値の更に下をいく僕。
これまでは笑っていられた。からかわれても、いつかは大きくなると冗談でかわせるくらいに。
「そう、ね? ……なぁに? 今更」
ふふ、と吐息を零すように笑う彼女が、僕の腕を掴んだ。互いに両手を差し出して握り合う。
エマの手の平から伝わってくる体温に、細く息を吐き出した。
いつもなら、彼女と手を繋ぐだけで、不安なんかどこかへいってしまう。……そのはずなのに。
「エマ、僕はね、家族が欲しいんだ」
握り込んだ彼女の指先が、ぴくりと動く。はっと目を見開いた表情のままエマは「ええ」と肯き、そして、至極嬉しそうな顔をした。
「そんなこと、ずっと前から知っているわ」と。
確かに僕たちは誓い合った。子供がたくさんいる、賑やかな家庭を作ろうと。
自分たち自身が、家族を失っているからかもしれない。家庭を築き、子供を育て、楽しく暮らす。そんな当たり前の未来を誓っただけなのに、まるで渇望しているような飢えを感じた。
幸福というものを形にするなら、きっと、彼女と過ごしてきた日々そのもののことを言うのだろう。
これから先、何年経っても色褪せることはない。いつか忘れてしまうような何でもないような出来事すら、愛しく思える。
―――――だから、握り締めたこの手を離すことなんてできない。
「ライア。私たちはきっと、素晴らしい家庭を築くことができるわ」
はにかんだように笑う彼女を抱き寄せる。
心臓が、妙な動きをしていることを悟られたくはなかったけれど、そうせずにはいられなかった。「どうして、緊張しているの?」と囁くエマ。少し笑っているような優しい声。いつだって、僕を支えてきてくれた声である。
それなのに今は、どうしようもなく心が揺れて、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
震える指で彼女の肩を撫でる。この不安に、気付かれたくなかった。
だけど、その一方で、もしも気付いてくれたなら正直に全てを打ち明けようとも思っていたのだ。
「疲れてるのね」
僕を労わるような優しい声に、言葉を返すことができない。どこまでも意気地なしの僕は、ただ小さく息を呑んで、強く瞳を閉ざしたのである。
今、口を開けば、きっと泣いてしまうだろうという確信があった。
僕は多分、分かっていたのだ。
神はきっと、僕たちに子供を授けては下さらないだろう。
人間が子供を産み育てることの理由が、子孫繁栄のためなら。この血を絶やさず、受け継がせ、残していくことに意味があるのなら。僕には、そんなこと必要ないはずだから。
だって、僕の推論が正しいなら。
この血が絶えることはない。僕は、死なない。不老不死というのは、多分、そういうことなのだ。
「……もう、眠った方がいいわ」という妻の声を聞きながら、2人でベッドに入った。繋いだ指先はそのままに、しばらく何も言わないままに見つめあって。互いに言葉を探しているのだということが分かる。
普段とは違う僕の様子に、彼女は戸惑っているようだったけれど、結局、見守ることに決めたようだ。
これがいわゆる母性というものなのか。
子供のとき、僕は彼女の父であり兄であり、或いは人生の先輩でもあったけれど。成長と共に、精神年齢が逆転してしまったのだろうか。
もしくは、僕なら何があっても大丈夫だと、そう思ってくれているのだろうか。
実際、今まではいつだってそうだったから。大抵のことは何とでもなった。
これが常であれば、僕だって彼女と同じことを思っただろう。―――――きっと、大丈夫だと。
うぬぼれはなく事実として、僕にはそれだけの地位と財力と、才能があったのだ。
けれど、僕らの想像を超えて。解決することのできない問題というのが、この世には存在するらしい。
その1つが、僕という存在なのかもしれない。
父の魔法陣はとうの昔に消え失せ、僕の身に刻まれた呪文は血肉に解けた。つまり、父の描いた「正しい魔法陣」を描くことができない。だから、この魔法を解く方法はない。
反問の呪文を、僕は知らないのだ。それに、父の魔法を打ち破ることのできる魔術師は、そうそういない。
つまり、皮肉にも。この魔法は、父の死によって完成したのだ。
彼の死によって、この魔法を解く鍵は永久に闇の中へと葬られた。要するに、この魔法は永遠となったわけである。それこそが、父の目指していたものではないか。
永遠の生。終わらない、命。
「子守唄でも、歌ってあげようか?」
一向に眠ろうとしない僕に痺れを切らしたのか、ひっそりとした声音で彼女が問う。きっと、冗談のつもりだったのだろう。
だけど僕が肯いたから、エマは少しだけ驚いたような顔をして。ほんの数秒だけ苦笑を浮かべると、僕の背中に腕を回して歌い始めた。
あまり聴き覚えのない旋律だ。
何度か彼女に歌ってもらったことはあるけれど、この国で昔から歌い継がれている子守唄とは少し違う。
それでも、懐かしいような気がするから不思議だった。
どこか遠い場所から、この地へ辿り着いたエマ。彼女の生い立ちについて、根掘り葉掘り訊いたことはないけれど。もしかしたら、僕が想像しているよりも、ずっと遠くから来たのかもしれない。
明日起きたら訊いてみようか。でも、今更かもしれないと、いつの間にか途切れていた歌声に目を開ける。鼻先が触れるほどの距離に居る彼女は、小さく寝息をたてていた。
穏やかなその顔に、切なさのようなものを覚えて。吐き出した息が、震えて消えた。
彼女はいつか、僕を置いて死んでしまうのだろうか。
そして、僕はたった一人、残されるのだろうか。
耐えられない。そんなの、絶対に。