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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
これが、本当の最後なら。
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21

凶事なら既に起こっていると答えたのは、今よりもずっと前の人生だ。

だけど、その「凶事」に関しての始まりがいつだったのか、実は自分でもよく分かっていない。

繰り返す人生の始まりはいつだって、ソレイルとシルビアを引き合わせた茶会だった。

だから私は、こう思っていた。


全ての始まりは、あの茶会なのだと。


それこそ、マリアンヌの言葉通り、人生に避けようのない出来事が発生するのだとすれば、あの茶会はその1つに数えられるだろう。茶会を開いた時点で、己が同じ時間を何度も繰り返す特異な人間だと知らない私は、どうしても彼らを引き合わせてしまうのだから。

つまり、2人の出会いは必然であり、それこそ運命だったのだと言える。

運命は変えられないということを、思い知った瞬間でもあった。


「―――――イリア様?」


今にも部屋から出ようとしていたマリアンヌがこちらへ戻って来る。

扉を開けていたので、その向こうから我が家の侍女も顔を出していた。マリアンヌが連れて来たと思われる従僕の姿も見える。


「……あ、いいえ、いいえ、大丈夫です」


ただ名前を呼ばれただけだけれど、彼女の顔を見れば心配されているのがよく分かる。

首を振りつつも、既にベッドから片足が出ている状態だった。『行かなければ』という焦燥に促された上での行いだ。

「……一体、どうなさったのです?」と問われるけれど、だんだんと早くなっていく鼓動に平静を失う。

うわ言のように大丈夫と繰り返し、転がるようにしてベッドから落ちた。

「お嬢様!」

助けようとするマリアンヌよりも早く、侍女が慌てた様子で部屋の中に入ってくる。

膝をつき、助け起こしてくれる彼女に縋りながら「……シルビアは?」と、口にしていた。

私付きの侍女ではあるけれど、必要以上の会話をしたことがない。だからこそ、まるで私が意味不明の言語を口にしたかのような顔をしている。妹の居場所を聞いているだけだと言うのに、ただその名を口にしただけでは意図が伝わらないのだ。

もう1度、同じ質問を繰り返そうとして、口の中がからからに干からびていることに気付く。


『ここが地獄なら。君が罰を受けているというのなら。君は一体どんな罪を犯したんだろうね?』


頭の中にカラスの声が響いた。

繰り返したところで上手くいかない人生に、もしかしたら、時間が戻ることには何の意味もないのではないかと結論付けていた私。そんな考えに一石を投じたのは彼だった。

そして、あのときの私はこう思っていたのだ。


―――――幸せになりたかった。愛する人と共に過ごす人生を夢見た。それはつまり、運命によって引き合わされた2人を引き裂くことと同義だった。


誰かの不幸を願ったこと。それこそが、この地獄の始まりではないかと、思い込んだ。

しかしそれは、繰り返す人生に絶望し、混乱した頭で、自分なりに推測したに過ぎない。


『なぜ、君だけにそんなことが起こるんだろうね?』

『なぜ、君だけが同じ時間を繰り返すんだろうね?』


重なるように響く、幻の声に追い詰められていく。


「シルビアは、今、どこに居るの?」


ここ数日、ずっとベッドから出られなかったので、足に上手く力が入らない。

「……シルビア様ですか?」至近距離で見上げた若い侍女は、はっきりと眉を顰めた。

続けて、「わたくしは何も存じ上げません」と首を振るその肩が、少し強張る。

もしかしたら、私とシルビアが接触しないように、何か言い含められているのかもしれない。握り締めた彼女の腕は明らかに緊張しているようだった。


「イリア様、本当に、大丈夫ですの?」


侍女に支えられてようやく真っ直ぐに立つことができた私の顔を、マリアンヌが覗き込んでくる。

動揺を悟られまいと、反射的に顔を背けるけれど、そうした方がずっと不自然であることに気付いた。

平静を取り繕うことすら難しい。


「……マリアンヌ様、」

「?」

「回避することのできない……いいえ、回避してはならない運命を、回避してしまったならば。一体、どうなるのでしょうか?」


答えが帰って来ることを期待していたわけではない。実際、マリアンヌは訳が分からないというような顔をして首を傾いでいた。ついさっき「宿命」というものの本質を語ったというのに、彼女の中では、なかったことになっている。それは、人智を超えた、私たちのような只人には理解できないような存在の思惑があったのかもしれない。


そういう存在のことを人はきっと、神と呼ぶのだろう。


だとすれば、私は恐らく、神の意思に背いたのだ。

ああ、そうだ。だからこそ地獄に堕とされたのかもしれない。

運命をねじ曲げた。その代償を負っているのだとすれば。


「……申し訳ありません、マリアンヌ様。私、行かなければ、」


非礼と承知の上で、マリアンヌの体をそっと押し退ける。

「……イリア様?」

私を追いかけるように半歩だけ前へ進み出た彼女だったけれど、只事ではない雰囲気に呑まれてしまったのかその場で立ち止まった。

事情を話すことができないせいで、彼女の不審を煽っている。そうと分かっているのに、私の名を呼んでくれるその声に振り返ることはできない。

歯を食いしばらなければ崩れ落ちそうになる。

だけど、1歩、2歩と、足の裏で絨毯の感触を確かめるごとに、しっかりと歩くことができるようになった。

奮起しているからなのか、もしくは、私の意志など関係ないのかもしれない。


入口のところで待機していたマリアンヌの侍従に声をかけ、彼と入れ替わるようにして部屋を出る。送りの馬車の用意ができたら、彼らには我が家の使用人が声を掛けるだろう。

扉が閉まる刹那、もう1度私の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、やはり振り返らなかった。


「……シルビアは、外出しているのね?」


私と一緒に廊下へ出て来た侍女に問えば、彼女は、ほんの一瞬だけ私から視線を外す。恐らく、何と言い訳するか考えていたのだろう。けれど結局、その何気ない仕草が、私に答えを与えてくれることとなった。

何度も経験していることではあるが、血の気が引く感覚というのは、慣れるものではない。

指先が、すっと体温を失い、心臓が脈を打つ速度を上げる。肉体がおかしなことになっていると分かるのに、成す術もなく、どうしよう、どうしようと思っている内に後頭部がざっと音をたてるのだ。


「お嬢様?」


訝しげな侍女はそのままに、廊下を進む。

今日はそもそも来客があると分かっていたので、部屋着とは言え、見苦しくはないはずだ。

外出するときに着るものとは明らかに質が違うけれど、それでも、貴族の子女が纏うものであるから、それなりに値の張るものであることには変わりない。

こういうときは、己の平凡な顔が役に立つ。

マリアンヌのような派手な顔つきで、いかにも貴族と分かる女性であれば、この服が外出用でないことは一目瞭然だ。だから、人目につくことになる。

だけど、私の場合は違う。

例えこのまま街中に出たとしても、服装について指をさされることなどない。

この服は、地味だけれど外出着として十分な役割を果たしてくれるだろう。

煌びやかな世界に身を置いているのにも関わらず、ぱっとしない相貌がいつだって劣等感を刺激してきたけれど。

今だけは、それも悪くないと思える。

息を吐き出せば、引き摺られるように自嘲交じりの笑みも零れた。


「お嬢様、どちらへ行かれるのですか?」

「……シルビアのところよ」

「シルビア様、の?」

「ええ」


追わなければ、という想いだけが、私を突き動かしていた。

行き先なら、多分、知っている。あの子がどこに居るのか、私はもう、分かっている。


「……お嬢様!」


ただ只管に前だけ見据えて廊下を進む私の後ろを歩く侍女が声を上げた。無視することもできたけれど、切羽詰ったような声音が気になって、思わず振り返る。

階段を降りようとしていたので、不自然な体勢のまま後ろに立っている彼女を見やれば、その後ろから侍従が現れた。

息が上がっているところを見れば、走って追いかけてきたのだろう。

侍女の顔が、少年と呼ぶに相応しい幼げな顔つきの侍従に向いているので、私もそちらに視線を移す。

発言の許可を得たと判断したらしい侍従が、ぐっと息を呑んで声を発した。

恐らく、穏やかとは言えない表情をしているだろう私に、怯んでいるのかもしれない。


「お、お嬢様、ソレイル様がお見えです。随分前から、客間でお待ちでした」


事前に知らされていた時間よりも、ずっと早い。

しかし、侯爵子息であり、私の婚約者である彼は別室で待機する必要などないはずだ。マリアンヌが来ていることを知っていたのか、単に、来客があるからと遠慮していたのか。

ともかく、私に気を遣ってくれたのは確かだ。

来客中であろうとも、彼なら、入室しても誰かに咎められることなどない。


「いかがなさいますか?」と問われるが、返事をする前に、足が勝手に動き出す。


―――――舞台は整った。

けれど、光の当たる場所に立つことができるのは選ばれた人間だけだ。

彼らはそれぞれに役目を負い、物語を終焉へと導かなければならない。

私は、そんな彼らを、舞台の上に立たせる役を与えられたのだ。だからこそ、演者になることはできないのだろう。


「ソレイル様は、剣を、お持ちかしら」


玄関ホールへと続く階段を降りるのを止め踵を返した私の後を、侍女と侍従が戸惑いながらも着いてくる。

ぽつりと呟いた声を拾った人間はいなかった。


*

*


「説明して欲しいのだが、」


水に浮かんだ氷に青空を映したなら、こういう色をしているのかもしれない。

ソレイルの目を見て、ふとそんなことを思った。

狭い空間にたった2人きりだからこそ、そんな詮無いことを考えてしまうのかもしれない。

こうなるように仕向けたのは自分だというのに、完全に戸惑っている。


がくん、と視界がぶれて、私たちを乗せた馬車がやっと進みだしたことを知った。


「君はまだ病み上がりだろう。外出なんかして大丈夫なのか?」


問われて、そっと肯く。大丈夫とは言い難かったけれど、大丈夫ではないともまた、言い辛かった。

それを察したかのように、彼は「大丈夫には見えないが、」と眉を寄せる。

思わず視線を逸らしてしまったのは、彼の眼差しを受け止める余裕がなかったからだ。つまり、彼の言葉を肯定したわけでも、否定したわけでもない。

こういう状況だからなのか、それとも元々の性質なのか、ひどく曖昧な返事になってしまったと思う。

己の心境を他人に伝えるというのは、ひどく難しい。

私の場合は、特にそうだった。


これまでずっと、感情の起伏を悟られまいと、波立つ心を磨り潰してきたのだ。でこぼこの土を、足で踏みつけて均すみたいに。


それでも、今現在の私たちは、互いの困惑をしっかりと読み取っていた。

彼はもしかしたら私以上に戸惑っているかもしれない。

事の次第を理解している私でさえ、これほどに動揺しているのだから。


「先ほども申し上げましたが、どうしても行かなければならない場所があるのです。ソレイル様には、せっかく屋敷まで足を運んでいただいたのに、申し訳ないことですが……、」

「……いや、」


それは構わないと首を振ったソレイルは、一瞬も逸らすことなく私の顔を見ていた。

私の心の底を覗き込もうとするかのように。


進みだしたのはつい先ほどだというのに、もはや暴走していると思えるほどの速度で走る馬車の中、私たちは横並びに座っている。

車輪が、がらがらと激しい音をたてているので、互いに声を張らなければ何を言っているのか分からない。

そのため、必然的に顔を寄せて話しをすることになった。

これほどに近い距離で話しをするのは、幼い頃以来かもしれないと思う。

あの頃だって、互いに口数が多いとはいえなかったけれど、それでも笑い合うことだってあったのだ。

今はもう遠い昔のことである。

茶会以降の時間を何度も繰り返しているからこそ、尚更に遠い。


「熱があるんじゃないか? 顔色が悪いし、震えている」


ソレイルは、そっと私の肩を撫でた。壊れ物でも触るかのような優しい仕草だ。

近過ぎる距離のため、顔のパーツはよく見える。通常は、遠めに見ているよりも表情は読み取りにくいはずだ。それでも、彼の感情が分かりすぎるほどに分かるのは、一緒に過ごしてきた時間の長さのせいか。

第三者からすれば、彼はやはり、何を考えているか分からない人間に見えるのだろう。


「……ソレイル様、私のお願いを聞いていただきたいのです」


彼の手は私の肩を滑り、背中を撫でる。まるで、いつもそうしているかのように少しの躊躇いもない。


「君はさっきからそればっかりだな。しかし、何をして欲しいのか明確には話さない。

それでは、私も何をすればいいのか分からないし、君の願いを聞き入れることが正しいのかも判断できない」


はっきりとした物言いではあったけれど、拒絶されているわけではないと感じる。

その目が、私だけを見つめて。その耳が、私の声を聞き逃すまいとしている。斜めに傾けた顔からは、優しささえ滲み出ているようだった。

見詰め合っていれば、心が通じているのだと勘違いしそうになる。

実際、思い上がりも甚だしいと言ったところか。重ねてきた人生の、幾人もの「自分」が警告を発しているのだから。

けれど、何度人生を重ねたところで、人間の本質は変わらないようだ。

私はいつも、彼を信じようとする。

それがどれ程に愚かなことなのか、既に思い知っているというのに、同じ過ちを繰り返す。


「……イリア……?」

「ソレイル様は、ただ1つのことだけ守ってくだされば、それでいいのです」

「……1つのこと?」

「はい」


背中に回されていた彼の手を取り、握り締める。ごつごつとしている手の平から、騎士になるために、彼がどれほどの鍛錬をしてきたのかを伺い知ることができる。

何も今初めて彼と手を繋いだわけではない。舞踏会ではいつも彼の婚約者として出席していたから、手と手を合わせて踊ったこともある。

それなのに、私は、彼の手の平をよく知らなかった。

彼だって何の努力もせずにいたわけではない。未来の侯爵家を背負うため、私と同じく研鑽を積んできたのだと改めて思い知る。

今更になって、そう実感するのは、私がいつも自分のことしか考えていなかったからだ。


彼の横に並び立つ私は、いつだって気を張っていた。だって、考える必要があったのだ。

彼の隣に相応しい人間であるか、私は他人からどう見えているのか、淑女として立ち振る舞いに問題はないか。


―――――私は、いつも、自分のことしか考えていなかった。


「これから、何が起こったとしても、必ず、私の妹を守ってくださいませ」

「……妹? シルビアを、か?」


大きな手の平を全部包み込むことができないから、指先だけを握り締める格好になる。

いつにない私の行いに驚きの色を見せつつも、反射なのか何なのか、彼は私の手を握り返してくれた。


「一体、何が起きるというんだ。君は、一体、何をしようとしている?」


馬車が一層、大きく揺れて、2人の体がふわりと座席から飛び上がる。体を支えきれずに、椅子から滑り落ちそうになった私を、彼がその腕で受け止めてくれた。「危ないな」という彼の声が頬にかかる。

余りに近い距離に、触れ合った皮膚がじりじりと痛む気がした。

かつては夫婦として共に生活をしたこともある。子供を授かったことだってあった。

だけど、物理的な距離と、心の距離はまた別のものである。肉体が傍にあるからといって、その心まで近づくわけではない。


今だって同じようなものだけれど―――――。

けれど、いつもよりは少しだけ、心が近づいたような気がしている。


今日、見舞いと称して我が家に訪れた彼は、花束を用意していた。

それだけなら、型どおりの行いだと気にも留めなかったかもしれない。見舞いに花を用意するのは珍しいことではないし、むしろ、手ぶらでは非礼に当たる。彼も、礼に倣っただけなのだろうと深く考えなかったはずだ。彼は紳士であるから、好意など抱いていなくとも、礼儀を欠くことはないのだと。


だけど、彼が選んだのは、白い花だった。


大小、種類の違う様々な花を寄り集めたような花束だったけれど、花屋で購入したのか、いかにも値の張る花弁の大きなものも交じっていた。

それはまるで、彩り鮮やかな花々の中から、白い花だけを抜き取ってかき集めたようだった。

本来なら、故人に捧げるような花だ。

縁起がいいとは言えない。それこそ無礼だと罵られても文句は言えなかっただろう。

けれど、相手が私であるなら別である。


ただの1度も口にしたことはないのに、彼はきちんと知っていたのだ。

私の好きな色を……、好きな、花を。


「―――――ソレイル様は、本日、我が家へ何しにいらっしゃったのですか?」

「……何?、あ、いや、君の見舞いだが……?」


突然話しを変えたにも関わらず、彼は律儀に返事をしてくれる。


「ええ、そうですね。それは分かっております。それに……、大変有り難いことだとも、思っております。けれど、それだけではないのでは?」

「……、」


怪我をしたと手紙を出した。しばらく学院を休むとも伝えた。場合によっては、婚姻破棄もあり得るのだろうと、遠回しではあったけれど彼には分かるように伝えたつもりだ。

だけど、返事はなかった。彼は、何も言ってはくれなかったのだ。

それが急に、見舞いに来るという。

それはつまり、手紙にしたためるよりも、直接伝えなければならない何かがあったからではないだろうか。

ただ単に、顔を見に来たのだというのは、説得力に欠ける。


「……何も、心配する必要はないと、」


再び、大きく揺れた馬車の中で、彼の声はひどく聞き取りにくかった。彼もそれを察したのだろう。

1つだけ呼吸を置いて、


「何も案ずる必要はないと、君に伝えたかった」と告げた。


「君は、怪我をした理由も、何をそんなに案じているのかも手紙の中では何1つ語ってはいなかったが……、最近の君を見ていれば、何か悩んでいたのは分かっていた。だからこそ、きちんと顔を見て伝えたかったんだ」


一言一言、言葉を置くように、あるいは噛み締めるように語った。


「―――――っ、」


心が震えるというのは、きっとこういうことを言うのだろう。

心臓の奥の、本来なら何もない場所にある、目にすることのできない何かが音をたてて揺れる。


「……君の怪我は、何か深い事情があるんだろう。それは君が、話しても良いと思えるときに教えてくれたらいい。急かしたりはしたくない。それに、」

「……、」


「時間なら、この先、いくらでもあるのだから」


滲んでいく視界の向こう側にソレイルの顔が見えた。

目を閉じなければ、泣いてしまう。そう思うのに、瞬きをすることさえできない。

その言葉を、彼が口にするとは思わなかった。それは、私自身が、何度も言い聞かせてきたものだ。


『これから先、いくらでも時間はある。だから、大丈夫。私たちは、いつか、寄り添って生きていけるようになる』


何度も、何度も、呟いた。それを、覚えている。


「その言葉が、聞けただけで、」


十分です、というのは声にならなかったけれど、何を言ったのか彼には分かったはずだ。

はっと、目を見開いたソレイルは「どうして、そんなことを言うんだ」と呟いた。


「……まるで、これが最後みたいだ。そんな風に聞こえる」


たった1つの出来事で、何もかもを帳消しにできるわけではない。

私は、彼の知らない人生を生きてきた。その度に、絶望を味わった。それらを全て帳消しにすることなどできない。だって、そういった経験の積み重ねが「現在の私」を形作っているのだから。


だからこそ、私は、もう「私」を否定したくない。


「ソレイル様、私のことを少しでも大切だと思ってくださるのなら、私の願いを叶えては下さいませんか」

「イリア、」

「これは、シルビアの為に用意された舞台なのです。だから、私は大丈夫。大丈夫、です。けれど、あの子には貴方様が必要なのですわ。あの子には、ソレイル様、貴方しかいないのです。だから、どうか、どうかお願いです。あの子を、救ってあげてくださいませんか」

「イリア、君は一体何を言っているんだ。それでは、何も分からない。私は、何1つ理解できていない。こんな状態で、ただ君の望む通りに動くことなど不可能だ……!」


「……いいえ。いいえ、大丈夫です。ソレイル様は分かっているはずです。何をすべきか、」


彼の胸の真ん中に人差し指を当てる。


「貴方様の、その魂が、知っているはずなのです」


虚をつかれたような顔をしたソレイルが何度か瞬きを繰り返し、私の指を払った。そして、すぐさま、腕を掴まれる。


「どういうことなんだ、イリア。君は一体、何をしようとしている……!」

「……ソレイル様」


どうか約束して下さいと繰り返した言葉が、車輪の騒音に紛れて消えた。


「どうかしている! 君の言っていることは何か、おかしい。君が、君ではないように思える。イリア、君は一体、どうしてしまったんだ」


強く掴まれた腕に鋭い痛みが走る。そういえば、傷を負っていたのだった。

思わず彼の手を払い、痛みを逃すために相貌をくしゃりと歪める。そうしていれば、痛みに耐えられるような気がしたのだ。


本当は、この手を掴んでいてほしかった。


暴れても罵声を浴びせても、絶対に離さないと誓ってほしかった。この身がどれほどに穢れていようとも、抱き締めてくれるその手さえあれば、それだけで良かったのだから。


「私は、イリア=イル=マチスです」


人格いうものが、生まれ持ったものと、その後の経験の蓄積により形成されるのならば。

私はきっと、彼の知っている「イリア」ではないのだろう。


彼だけを見てきた。彼だけがほしかった。彼以外には、何も必要なかった。本当はそうなのに、かつての私は色んなものを欲しがった。

両親からの愛情も、その内の1つなのかもしれない。

それに、侯爵家の人間として相応しい自分になれるように努力してきたのは、社交界認められたかったからだ。ソレイルの両親にだって気に入られたかったし、この婚約に異議を唱える人間を見返したいという想いもあったのだ。


「イリアは、そんな目で私を見たりしない」


閉じていた目を開けば、ソレイルは「彼女を、どこにやったんだ」と言った。

震える声に、確かに哀切のようなものが滲んでいて。私は寸の間、声を失った。

それではまるで、ソレイルが、私のことを捜しているように思える。

もうここには存在していないはずの私を。同じ時間を繰り返す前までの私を。つまり―――――、


茶会の前までの、私を。


咄嗟に、「私は、私でしかありませんし、私は初めからここに居ます」と答えるけれど、彼は懐疑的な眼差しを向けたままだった。

だから、彼の手を再び握り締める。ぴくりと震えた彼は、それでも私の手を払ったりはしなかった。

そして、囁くように呟く。


「さっき君は言ったね?」

「……え?」

「私が、君のことを少しでも大切に思っているなら願いをかなえて欲しいと……」

「はい」

「大切に、決まっているだろう。君は、私の婚約者だ」

「……ええ、そうです。……そうですわね」


それは、願いを叶えてくれるということなのだろうか。

はぁ、と息を吐き出して、逸る気持ちを落ち着かせようと呼吸を置く。

相変わらず、車輪の音と馬が土を蹴る音が響いているというのに、静まり返っているような錯覚に陥る。

「イリア?」私の名を呼んだ、彼の声音とその雰囲気から、不安を察することができた。


「シルビアのことで、ソレイル様に話さなければならないことがあります」


他には誰も居ないというのに声を潜める。上手く聞き取れなかったのか、ソレイルは顔を寄せてきた。

だから、彼の肩に顔を埋めるようにして話しをする。


「……シルビアのこと?」

「ええ。あの子の生まれと、あの子の両親についてですわ」

「何?」


いきなり何を言い出すのかと、存外に告げられているようなソレイルの声を耳にする。

自分のやっていることが正しいことかはわからない。だけど、間違ってもいないと思っている。

それでも気分が塞いでいくのは、他人の秘密を暴露するということには罪悪感が伴うものだからだろう。

いたたまれないような気分になって、そっと、窓から外の様子を伺う。


見慣れない景色に、街からは、随分離れたところまで来たのが分かった。


御者に行き先を告げたのは、当然、私である。

とにかく最速で向かうように厳命すれば、馬の手綱を握っていたその人物は、僅かに目を瞠った。

そして、目的地までの道順を言葉少なに説明してくれたのだった。


距離的には街の中を通った方が近い。けれど、街の中で馬車を暴走させるわけにはいかない。だから、安全な速度で街を通るよりも、迂回して、馬の脚を速めた方がいいだろうと。


その言葉だけを聞いていれば、仕事熱心な御者だと関心したかもしれない。

けれど彼は、帽子の下の相貌に僅かな好奇心を滲ませていた。

口にはしなかったが、「一体、何の用事でそんな場所に」と訊きたくてたまらなかったことだろう。


私たちは、そんな場所に向かっている。


「……どういう意味なんだ」


ソレイルの低い声が耳朶を打った。

窓の外から視線を戻せば、彼の射抜くような眼差しにぶつかる。


「―――――シルビアは、命を狙われているのです」


結論としては、そうだ。

あの子は何者かに命を狙われている。それは、茶葉に薬を混ぜていた母のことではない。あれは、全くの個人的感情からくるものだったと思う。


マリアンヌが言っていた運命論を信じるのであれば。

私がこれまでの人生で回避してしまった「宿命」というのは、つまり。

最初の人生で、シルビアが遭遇した悲劇のことではないだろうか。

2度目以降の人生では、私は、シルビアはあの悲劇で命を落とさないようにするために立ち回っていた。結果として、あの子は無事にその後の生を歩むことになったのだけれど。

結局は、病に冒されることとなった。

それ以降の人生では、どうだろうか。


いつの間にか、私が手を尽くさなくとも、あの子が強盗に襲われるような事態は発生しなくなっていた。


全ては茶会の日に始まった―――――?

いいえ、違う。繰り返しの始まる時点がそこだっただけだ。だから、私は勘違いをしたのだ。

この繰り返しの起点は、あの穏やかな昼下がりではない。


全ての始まりは。

あの夏、あの「運命の日」

シルビアが強盗に襲われて、死んでしまった日なのではないだろうか。


運命は、導く。

全ては、あの日に還る。


シルビアが、初めて死んでしまった、あの日に。




























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