19
胸が裂けたのではないかと思うほどの痛みに、立っていることもままならず、蹲った。
私の嗚咽だけが響いて、他には何も聞こえない。何1つ。誰かの呼吸音や、衣擦れの音さえしなかった。
「……お姉さま?」
そんな無音の世界に、ぽつりと浮かび上がるように落とされた声。
初めは気のせいかと思ったけれど、「お姉さま」と、確かにその愛らしい声が聞こえる。
顔を上げれば、いつからそこに居たのか、開け放った扉の向こうにシルビアが立っていた。
「お姉さま、どうしたの」
許可も得ずに勝手に扉を開けたのか、それとも、誰かの気配に気付いた侍女が廊下を確認しようとしたのか。
ともかく、いつの間にか、妹はそこに居て今にも部屋の中に入ろうとしている。
「シルビア、中へ入るんじゃない。部屋に戻っていなさい」
父が、恐らくシルビアには一度も見せたことのないような厳しい表情で告げた。
きっとシルビアは怯えるだろうと思ったけれど、そんなことはなく、ただ不思議そうに首を傾いで私を見ている。両親から、叱責などされたことはないだろうし、何をしてもせいぜいが苦言を呈されるくらいだったろう彼女は、まさか自分が怒りの対象になるとは微塵も思っていない様子だった。
そして父の言葉を無視して、惑うこともなく部屋の中へ入ってくる。
父とは言え伯爵家当主であるその人の言葉を気にも留めることなく、当たり前のように聞き流した。
貴族の子女には有り得ないことだが、シルビアに限っては、そうではないらしい。
「シルビア、いけませんよ」という母の言葉も大した効果はなかった。
シルビアは、他には目もくれず、真っ直ぐ私に向かって歩いてくる。
広い部屋の窓側に座り込んでいる私を見下ろしていた。
既に陽は落ちて、外から入り込んでくるのは月と星の弱々しい光だけだ。こんな日ではあるが、夜空は澄み切るほどに晴れ渡り、雲ひとつない。
「―――――近づくんじゃない」
先ほどまでよりも低い声で命を下す父は、シルビアではなく、私を見ている。
近づいてくるのはシルビアの方だというのに、その言葉はあの子に向けられたものではない。
美しくて儚く、触れれば壊れる。
だから、私のような人間が、近づくのは許されないとでも言っているのだろうか。
ひくりと音をたてた喉元が、何度も同じような音をたてて、どうにかなってしまったのかと両手で己の首を強く握り締める。
それが、嗚咽というものだと、気付いた。
どうしてそんなことを言うの、と訊きたかったけれど、言葉にならない。
すると、
「どうして?」
シルビアがしゃがみこんで、父を見上げた。
私の目の前に座り込んだから、結い上げていない銀色の髪が目の前で柔らかく揺れている。
「どうして、いけないの? お父様。だって、お姉さま、泣いてるじゃない」
「シルビア、いいから離れなさい。だいたい、どうしてこの部屋に来たんだ」
「今日はお医者様の診察の日よ。忘れてしまったの? 部屋で看てもらっていたのだけど、モリスが医師を呼びに来たの。ご病気かと思ったんだけど、怪我をしたって言っていたから……」
「……そうか、分かった。様子を見に来たのか」
「ええ、そうよ」
「お前は優しい子だな」
「でも、どうして?」
「何がだ」
「どうして、お姉さまを早く診せないの? 医師、さっきからずっと廊下で待っているのよ」
「……」
「本当は、私よりも先に診せてあげるべきだったわ。ねえ、どうしてなの? お父様」
「シルビア、」
膝を折ったまま、にじり寄るように私との距離を詰める妹が、おもむろに手を伸ばす。
「触るな!」「触らないで……!」
父と私は、ほとんど同時に声を張り上げていた。
だけどシルビアはやっぱり、少しも躊躇う様子なく、私の肩に腕を回す。
身をよじるけれど、脆弱とは思えないほどの力で上半身を拘束された。
優しくて、だけど抵抗を許さないほどの、強さだ。
怪我を負った腕に力が入らなくなっているのだと気付く。
「どうして? どうしてなの? お父様。
お母様も、どうして? どうして、何もしないの? だって、お姉さま泣いてるじゃない。それに、怪我してる。血が、いっぱい出てるわ。どうして? 何でこのままにしておくの? どうして、こんなところに座らせているの?」
どうして、どうしてと子供のように繰り返しているけれど、不審の色が混じっている。
「唇からも血が……、もしかして、誰かに殴られたの? ねぇ、お姉さま。一体、どうしたの?」
父も母も返事をしない。難しい顔で黙り込んだまま、シルビアを見つめている。
そんな彼らに、埒が明かないと思ったのだろう。今度は私の顔を覗き込むようにして、妹は首を傾げた。
「シルビア、」
「……なぁに?」
名を呼べば、紫色の目を柔らかく細める。猫の子でも眺めているような、朗らかな目だ。私を安心させるように、あえてそんな顔をしているのかもしれない。
けれど、それがシルビアの元々の気質でもあった。
愛され、守られ、大事に育てられてきたからこそ、同じように、愛し、守り、大事にすることができるのかもしれない。
何の打算もなく、何の報いも期待せず。
いつだって、この妹は何の迷いもなく手を伸ばすのだ。繰り返し、重ねてきた人生で、シルビアは何度もそうしてきた。
初めは、そう。厩舎での出来事だった。
あのたった一瞬の出来事が、私のその後を決めたと言っていい。
妹を大切にしたいと決意した日でもあった。
あのとき―――――、馬の脚が目前に迫ったとき、私の傍には侍女が居て、その後ろには侍従も居たと記憶している。彼らは、通りかかったシルビアよりもずっと近い位置に居た。
だけど、躓いた私に驚いた馬が嘶き脚を上げたその時、助けようと動いたのはシルビアだけだったのだ。
私に何かあれば、侍女も侍従もただでは済まない。それは、貴族に仕えている者全てが覚悟をしているはずのことである。
そうと知っていても、あの瞬間、彼らは咄嗟に判断を下したのだ。
―――――私のことは助けられないと。
ある程度の経験を積んだ者であれば、同じ決断をするかもしれない。己が巻き込まれる可能性があるのなら、それを回避しようとするのは不思議なことではない。
そしてそれは間違っていないと、私にだって分かっている。
シルビアがあのとき、何の迷いもなく前へ進み出たのは、ただ単に幼かったからで、正しい状況判断ができなかったからだ。
実際、馬丁が手綱を引いたから助かったのであって、シルビアが私を助け出したわけではない。
それでも、この子はいつだって、手を伸ばすことを止めないのだ。
いつかの人生で、娼館に入れられた私を捜しだそうとしていた妹。
屋敷から出奔して、何年もの時が過ぎていた。その間ずっと、私のことを捜しだそうとしていたのだと、アルに聞かされた。
侯爵家に引き取られてからも、その献身には目を瞠るものがあったと思う。
既に死に掛けていた私にはもう、正常な判断は下せず、その優しさすら無用なものと感じていたけれど。
時々、妹の優しい手の平を思い出すことがあるのだ。
夜中にふと目覚めたとき、妹はベッドの傍に居て、編み物をしていた。目が合えば、微笑み、熱が高いから心配でと囁くように言う。
優しい声音が、母親の姿と重なった。
私には、そんな風に声を掛ける人ではなかったというのに、そこに母が座っているような気がしたのだ。当の本人は最期の最期まで会いに来ることすらなかったというのに。
血を分けた父と母は、いつだって早々に私を見限り、見捨てる。
それなのに、半分だけ血の繋がっている妹は、私を諦めたりはしないのだ。
娼婦に落とされた私のみすぼらしい姿にも、眉を顰めなかったのは妹だけで。
迷うことなく手を伸ばそうとしたあの子を制したのは、ソレイルだった。
「シルビア、シルビア、私……っ、貴女が大切よ」
「ええ、知っているわ」
恋敵だからと言って、大切にしない理由にはならないとカラスに説明したことがある。
今でもその気持ちは変わっていない。
「だけど私、貴女の大切にしていた茶葉の入った瓶を、持ち出したの」
「……そう、なの?」
私を抱きしめるように座り込んでいる妹の手が、私の背中を撫でる。優しく、優しく、何度も、繰り返し。
「どうして?」というシルビアの声に、非難の色はない。
単純に、ただ疑問に思っているようだ。
母の葬儀で、私はそんなことをする人間じゃないと声を上げた妹。全身を震わせて叫んでいた。青褪めた唇が紡ぐのは、私を信じるという言葉だけで。本気で、私の無実を信じているようだった。
「イリア、止めなさい」
しゃくりあげる私の告白に待ったをかけたのは、母だ。
妹の肩越しに、ベッドから抜け出そうとして、掛け布を横に払っている姿が見える。
こちらへ来ようとしているのだろうか。そんな母に手を貸しながら、父が「イリア、シルビアから離れるんだ」と強い口調で言った。
私が妹の部屋から茶葉を持ち出したことも、知っているのかもしれない。
言葉もなく、両親が手を取り合う姿を呆然と眺める。
彼らの間にあるものが何なのか、今の私にはよく分からない。母が命を絶つまでは、愛情によって結ばれた2人なのだと信じて疑わなかった。
そして私も、きっとこんな2人になるのだと、夢想していたのだ。
「お姉さま、どうして? どうして、私のものを持ち出したの?」
両親のことは気にも留めずに、シルビアが問う。母が言葉にもならない声を上げた。
「―――――だって、ずるい」
己でも全く予期していなかった言葉が漏れる。
「だって、どうして? どうして、どうして……っ、シルビアなの? どうしていつも、シルビアだけなの?」
両親に愛されるのも、ソレイルに選ばれるのも、幸福を掴むことができるのも。
どうしていつも、シルビアだけなのか。
そして、
「お姉さま?」
最後の最後まで、私のことを諦めないのもまた、この妹だけなのだ。
自分自身ですら、諦めを覚える人生だというのに。妹はいつだって、その純粋さと神聖さすら伴う心で、私を救い上げようとする。
確かに裏切られたこともあった。ソレイルの子を身籠り、顔色を失くしていたシルビア。その姿だって忘れていない。
だけど、それ以上に、私に手を伸ばし続ける妹。
何度も繰り返し、同じ時間を重ねて、その度に、手を伸ばそうとする。
そして私は、そんな妹を何度も繰り返し、失ってきたのだ。
『私、お姉さまの妹で良かった』と、そう言われたのはもうずっと遠い昔のことで。
それを口にしたのは、今目の前に居るこの子じゃない。
「いい加減にしてちょうだい! イリア!」
声を張り上げた母が、私の腕を掴む。
だけど、それを「いい加減にするのは、お母様だわ!」と、シルビアが制した。
その激しい物言いに、母が怯む。きっと、シルビアに抵抗されたことさえ初めてだっただろう。
「お姉さま、泣いてるじゃない……っ、」
その顔を見れば、シルビアも涙を零していた。
「どうして、誰も助けてあげないの……っ!!」
優しいシルビア。私の可愛い妹。
それなのに、この子は私の一番大切なものを奪っていく。
愛したい。愛したい。私は、この子を愛するべきだと分かっている。だって、たった1人の妹なのだ。
手に手を取り合うことができたなら、きっと、素晴らしい人生になっただろう。
母が、震える指を引き剥がすようにして、そっと私の腕を離した。
「……シルビア、私、貴女を大切にするつもりだったわ」
「姉さま?」
「ずっと、そうするつもりだった」
「どうしたの?」
「だけど、できない」
シルビアの小さな顔に両手を添える。血に濡れた右手が、妹の顔を赤く汚した。
「私、……っ、貴女を、愛せない」
母が死の間際に吐き出した本音を思い出す。私をただの1度も愛せなかったと言いながら、そのことがまるで大罪であるかのように血を吐き出した。
愛すべき娘を前にして、愛することのできなかった母のことを思う。
抱きしめるべき娘を前にして、手を伸ばすことのできなかった母を、思う―――――。
多分、私も同じなのだ。
「ごめんなさい、シルビア……っ、ごめんなさい、私、貴女を、愛せない」
喉が、ひくりと大きく音をたてる。
「私……っ、貴女を、愛せない―――――っ」
目と目を合わせて、その言葉を吐き出したそのとき、喉の奥を血の塊に塞がれたような気がした。
私に親愛を与えようとして、全て奪っていく貴女。
シルビアの紫色の瞳に浮かんだ光の粒が、はらはらと頬を滑る。いつだって美しいその瞳が、悲しそうに揺らいだ。引き結んだ唇が、小さく震えている。
自分の頬に添えられた私の手を、上からその小さな手で包み込み、そっと呟く。
空気に溶けてしまいそうなほど、頼りない声音で。
「知ってるわ」
ずっと前から、知っているわ。と。