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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
これが、本当の最後なら。
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11

食堂で、ソレイルやサイオンに別れを告げてシルビアと連れ立って歩く。

私たち二人が一緒に居ること自体が珍しいのだろう。広くもない廊下で、すれ違った生徒たちが私たちの顔を確認する為にわざわざ振り返るほどだ。

その度に何度、「似てない」という言葉を耳にしただろうか。

半歩後ろを歩くシルビアの、こちらを窺うような視線が周囲の好奇心を誘うのだろう。

「呼び出し?」なんて言葉を聞こえるのだから、もはや笑うしかない。

学院内で妹を呼び出す意味が分からない。言いたいことがあれば、人気のないところで話をするに決まっている。それにうってつけなのは、屋敷に他ならない。

学院内で、シルビアを呼び出して叱責するほど馬鹿な人間ではないと、どうして誰も気付いてくれないのだろう。


いや、違う。

確かにこれまでの私は、そういう人間だった。嫉妬深く醜い、甲高い声で周囲を牽制する嫌な女だったのだ。

そう、あの日。

屋敷の庭でお茶会を開いたあの日までは――――-。


「あ、あの。お姉さま、ごめんなさい」


ひっそりと呟くシルビアの謝罪に「……何に対する謝罪なの?」と問う。それでも足は止めなかった。

「勝手に、食堂に行ったりして……」

その言葉に、噴出すのを堪える。

今まで散々、ソレイルと一緒に昼食を共にしていながら、何を言っているのだろうか。


「気にしないでシルビア。私も、気にしてないわ」


誰の目から見ても、優しい姉に映ればいいと思った。だから、慎重にゆっくりと笑みを浮かべる。

口元は朗らかに、目線は剣を含まず、声音は少し低く落として。口調は抑揚と余韻を忘れずに。

指先に熱を込めて、妹の髪に触れる。「本当よ?」と、幼い子に言い聞かせるようにゆっくりと頭を撫でる。愛しいのだ。きっと、そうだ。私は妹を愛している。

ほっと息を吐いて小さく微笑むシルビアに、なぜか胸が絞られるような哀切が過ぎった。

私のことを信頼しきっている。そう見えるのは気のせいではないだろう。

それならばなぜ、それほどに信頼しているはずの姉を裏切るのか。


まだ、訪れてもいない未来に、憎しみさえ覚える。

そうだ。そもそも私は、そういう人間だった。憎しみや恨みを隠すことの出来ない醜い人間だったのだ。


銀色の髪が指に纏わりつく気がして、そっと払った。

シルビアはそっと瞼を伏せたまま、嬉しそうに笑みを浮かべている。

そんな妹を見下ろす私は、どんな顔をしているのだろうか。

うまく演じられているといい。優しい姉を。完璧な淑女を。

嫉妬に溺れることもなく聖母のような微笑を湛えて、妹を、家族を愛するような人間になれたなら。


「さぁ、シルビア。もうすぐ授業が始まるわ。ここでお別れね」


廊下を曲がってすぐのところでそう言えば「はい」と肯いたシルビアがきれいに礼をとって私の顔を見上げた。誇らしげに胸を張っているようにも見えるその姿に笑みを返す。

シルビアは、数ヶ月前とは比べ物にならないほど「貴族の子女らしさ」というものを身に着けている。

華奢な背中がリズムを踏むように去っていくのを見送って、ほんの少しだけ目を閉じた。

胸の内側に渦巻くどろどろとした感情を、ここで捨て去ってしまえたらいいのに。


かつての人生で、出奔する為に妹を教育した日々を思い出す。

『私、今まで、自分がもう死んでいるような気がしていたの』そう言って儚く笑った私の妹。

学ぶことができて嬉しいと言っていた。その言葉通り、教えたことを全て吸収して貪欲に知識を得ていったのを覚えている。

隣に並んで、分厚い蔵書をなぞりながら微笑みあったあの日々が、ふと甦った。

幾つもの人生で、初めてシルビアと寄り添ったと言える。

幸せで、だけど、どうしようもなく苦しい日々だった。


私が捨てなければならない全てのものを、妹に分け与えなければならない虚しさを。

どうやって言葉にすればいいだろう。


血の滲むほどの努力をしてきたと言えるのに、その全てが、何の役にもたたなかった。

ただ、妹に与えるためだけの知識となったのだ。


知識と教養だけが自分を支える全てになると知っていて、ただひたすらに己を磨いてきたのに、その一つさえ生かすことができなかった。

外交のためにと学んだ外国語をシルビアに教えながら、諸外国の貴人と対等に渡り歩く自分を夢見ていたことを思い出す。

ソレイルの妻として、決してでしゃばらず。だけど、守られるだけの存在にはなってはならないと言い聞かせて。せめて彼の手助けになればいいと考えていた。

強い女性を妻へと望む彼のために、そういう人間にならなければと努力してきたのだ。

そんな風に、積み上げてきた毎日の全てを……妹に捧げた。

その虚しさを、その悔しさを、その憤りを、どんな風に表現すればいいのか分からない。

費やした時間の全てが無駄だとは思いたくなかった。

だから、その為にも妹へ何もかもを譲ったのだ。


『君は、馬鹿だね。本当に愚かだ』


階段を降りようと足を踏み出したとき、ふと耳の奥に甦る声。

聞き覚えのない声だ。

いつ、誰が、何の為に言った言葉なのか。今生ではない。それは分かる。

そんな風に意識を巡らせたからか、爪先が階段の滑り止めに引っ掛かった。

あっ、と思ったときは既に遅く、


―――――落ちる!


体を支えるために伸ばした左手が手すりを掴めずに宙をかいた。

心臓が一つだけ大きな音をたてて停止する。

しかし、そのとき。


「危ない!」


誰かが後ろから腕を掴んだ。

上半身を背後の誰かに預けるような格好で、階段の中腹で留まる。

足を半分投げ出したような、無様な格好だ。

「……も、申し訳、ありません」

どくどくと激しく音をたてる心臓を服の上から押さえつける。

けれど今は、安堵している場合でもない。

先ほどの声音から、私を支えてくれた相手が男性だと分かっていたので、素早く周囲を見回す。

誰にも見られていなかったことにほっと息を吐きながら、お腹のあたりに回されている腕に手を添えた。


「……もう、大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


失礼だとは承知しているがこんな体勢を誰かに見られるのは良くない。身を捩るようにしてそっと離れる。

二段ほどゆっくり階段を降りた後、改めて礼を言うために振り返れば、そこには意外な人物が居た。


「あれ……、君はソレイルの」


頭を下げる途中で固まってしまった私に、彼は驚きを隠すこともなく呟く。

見覚えのある赤銅色の髪。

ソレイルとは旧知の仲であるはずだ。……そうだ、私はこの顔をよく知っている。

学院内ではいつもソレイルの隣に居た。卒業した後も、彼と一緒の騎士団に所属して同僚となるはずの人物だ。

婚約者である私とも、妻となった私とも何度か顔を合わせたけれど記憶に残るほどの会話をした覚えはない。

彼はいつも、私を観察するように眺めていた。

決して好意的ではない眼差しで、何か言いたげに。だけど、一度も言葉にすることはなかったはずだ。


「……」

「……」


互いに無言のまま見つめあう。幸い、授業が始まってしまったようで、他に人気はないし誰かが来る様子もなかった。

ふわりと揺れる赤い髪がなぜか懐かしさに直結していて、既に終えてしまった幾つもの人生を思い出す。

今、触れることのできる距離に居るこの人とは、さほど関わりを持ったことがなかった。

これまでの、どの人生でもそうだ。

それはきっと、彼自身が私と関わることを良しとしなかったからだろう。

けれど、いつのときもシルビアとは親交を深めていたように思う。あくまでもソレイルの友人として。


―――――ああ、そうだ。

あれは私とソレイルの結婚式の日。

私には褒め言葉一つくれなかったのに、シルビアに賛辞を与えたのはこの人だった。

花嫁の手前、シルビアを褒めることのできなかったソレイルの代わりに、そうしたのだと思った。

銀色の髪に花飾りをつけたあの子に『まるでお姫様みたいだ』と。

私の目の前で、何の悪びれもなく言ってのけたのだ。

きっと、私を傷つけたという認識さえなかっただろう。彼にとってはその程度のことだったのだ。


「……助けてくださって、本当に、有難うございます」


ただ只管に見詰め合っていたところで、何か進展があるわけでもない。

薄く笑みを浮かべたまま視線を下げる。恥らっているように見えればいいと思った。

何かを言われる前にと、そのまま踵を返そうとすれば「ちょ、ちょっと待って」と声がかかる。

たった二人きりの踊り場に声が響く。そうなればさすがに聞こえなかった振りはできない。

躊躇う心を叱咤して振り返れば、


「どこか体調が悪いんじゃない?」


と、予想もしていなかった言葉を掛けられる。

その表情は、本当に私のことを案じているように見えた。……そんなはずはないのに。

「いいえ、大丈夫です」

首を振りつつ否定してみたものの、他人に指摘されれば本当に気分が悪いように思えてくる。

吐き出した息が熱を持っているように思えた。

どことなく視界の隅からかすみ始めて、双眸を細めれば途端に世界が色を失っていく。

帳が落ちていくように、ゆっくりと暗闇が訪れた。


『可哀想に、こんな姿になってまで、ソレイルを信じているんだね』


幻覚を見ている。

それが分かっているのでぱちぱちと瞬きを繰り返せば、闇を払うどころか、等間隔で縦に並ぶ鉄の棒が見えた。途端に、湿った空気が周囲を覆う。重い空気が喉を塞いだ。

ひび割れた石の壁、カビとヘドロのこべりついた床、何か分からない悪臭。

遠くで誰かが呻き声をあげ、一体何を打っているのかカンカンと耳につく金属音。

次々に甦る風景と臭い。その全てに覚えがあった。


ああ、そうだ。これは牢獄だ。


ぼんやりとした意識のまま見るともなしに視線を上げれば、鉄格子の向こう側に、私を見下ろす誰かが立っていた。

その男は、倒れこんでいる私を見下すように、じっとこちらを見据えている。


『アイツは来ないよ。残念だけど、本当に、来ないんだ』


―――――これは、最初の人生の記憶だ。


『可哀想だけど、これが現実だよ』


言い聞かせるように放たれた言葉が、つぶてのように降って来る。

痛い、痛い、痛い。

皮膚が裂けるように痛む。

わざわざ手を下すこともなく、私はもう死ぬ。それほどの痛手を負っている。

それなのに、なぜ、わざわざ止めを刺そうとするのか。


『馬鹿だね。君は本当に愚かだ。……どんなに抗ったところで、運命には逆らえるはずもないのに』


光の届かない牢獄で、いつもはよく磨いた硬貨のように輝いていたはずの彼の髪が鈍くくすんで見える。

その目に、どんな感情が宿っているのか、私にはもう何も分からなかった。

声を出すこともできないし、意識も混濁している。

終わりが近づいているのだと自分でもよく分かっていた。

だからこそ、最期の最期に顔を合わせるのは「彼」であって欲しかったのに。

彼は……ソレイルは私に背を向けたまま、一度もこちらを振り返らなかった。

叫ぶ妻の声を、無視し続けたのだ。

その背中を覚えている。

伸ばした指が届かなかったことも。


『彼と、彼女は、お互いに運命と出会ったんだよ。いや、出会ってしまったんだよ。

それは、己の意志とは関係ない。決して抗うことができないからこその「運命」なのだから』


だから、君がやったことは全て……何もかも無駄なんだ。


そう告げた声音には、どこか慈悲のようなものが溢れていたかもしれない。

大して顔を合わせたこともなかったと思っているのに、こうやって、わざわざ獄に繋がれた私に会いに来たのだ。それに、何か意味を見出そうとするのは、やはり私が愚かだからなのだろうか。

『諦めて、死んだほうがいい』

ぼそりと投げつけられた言葉に首を傾げる間もなく、私の意識は分断された。

ただ単に気絶したのか、それとも、


彼の言葉通り、死んだのだろうか―――――?


「……イリア嬢?」


いつの間にか、息の届くほどの距離まで近づいていた少年に顔を覗き込まれる。

今はそう。あの牢獄ではない。

成人に達していた彼は、ここには居ないのだ。

わななく唇が何かを言葉にしようとしたけれど、喉が塞がれてしまったように浅い息が続くだけだ。

力を抜けば崩れ落ちてしまいそうで、全身から血液が抜けていくような感覚に陥る。


怖い。


はっきりとそれを自覚した。

なぜ今になって、彼が私の目の前に現れるのか。

それは、前の人生でも前の前の人生でも良かったはずだ。だけど、彼は一度として私と関わりを持とうとはしなかった。例外はただ一度きり。

牢獄での邂逅だけだ。それも、初めの人生でのことだった。

己の最期を覚えていなかった。そのはずだったのに、今この瞬間にはっきりと思い出すことも酷く恐ろしいことのように思えた。


何かが変わり始めている。

そんな気がした。


向かい合っている私たちの視線が絡み合う。

「本当に君、大丈夫?顔が真っ青だ……」

優しく伸ばされた指が頬に触れる寸前で、一歩、二歩と後退した。

これまでの人生で、ただの一度もこんな接触はなかったのだ。

ふらりと揺らいだ右足の踵が滑る。


あのとき、『諦めて、死んだ方がいい』

そう言ったこの人は、笑っていた。


「イリア嬢?」


倒れそうになったけれど、かろうじて転倒することもなく。

私は彼の顔をまともに見ることもできないまま、その場を去った。

拭い去ることのできない悪寒に全身を震わせたまま、現実世界の向こう側に忘れ去りたい過去が広がる。


彼は、微笑を浮かべたまま泣いていた。そして、言ったのだ。


『ごめんね』と、そう言ったのだ。


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